第八章 クジラの本を探す

 歩くこと数分。ついに図書館にたどり着いた。図書館は相当な大きさで、まるでオペラハウスのような、荘厳な印象を受けた。一体どれくらいの量の本があるのだろう。目当てのクジラの本も見付かりそうだと、期待が高まった。

 図書館内の時計を見る。現在時刻はお昼の二時を回ろうとしていた。この後、絵を描くことも考えると、あまり時間はなさそうだ。早く参考になる本を見付けないと。

「よし、お姉さんに本のありかを聞いてみるか」

 絵描きさんが嬉しそうに受付のお姉さんのもとに駆け寄った。なるほどね。芸術家はキレイな女性に弱いんだ。

 ――ふと行きの列車での出来事を思い出す。

 ――なるほどね。僕にもその気はある。

「お姉さん。クジラの写真が載っている本を探しているんだけど、心当たりあるかな?」

 少し照れながらもかっこ付けた絵描きさんは、お姉さんにそっとウインクした。はいはい。

「お姉さん、ごめんね。この人、キレイなお姉さん見るとこうなっちゃうんだ」

「おいこら! あんまりそういうことは本人の目の前で言うもんじゃないぞ?」

 ポカッと殴る振りをする絵描きさんに向けたお姉さんの瞳は楽しそうだった。ごめんなさい。図書館は静かにするところなのに。少し僕らは反省しようか。

 そんな僕達を見るに見かねて、お姉さんがそっと、話を本題に戻す。

「クジラの写真が載っている本、ありますよ」

「本当ですか! 図鑑とかですかね?」

「ええ。図鑑、雑誌、あと絵本とか。僕はクジラの何を調べにきたのかしら?」

「学校の宿題なんです。先生に、クジラの絵を描くようにって言われていて」

「あらまあ! そんな宿題を。そういえば、前にも君みたいな子が探していた気がするわ」

 お姉さんが、何かを思い出し、懐かしむように話した。そうなのか。クジラの絵を宿題に出すのって、やっぱり珍しいことなのかもしれない。そしてその子も、同じようにクジラの絵を描きにここを訪れていたのか。

「お姉さん、その子が見た本を、僕も見たいです」

「わかりました。では、こちらへ」

 お姉さんに案内されてやってきた場所には、あらゆる動物にまつわる本がたくさん並んでいた。クジラを探す。意外にもすぐにクジラの本が並ぶ場所が見付かった。思った以上に多くの書物があるようだ。その中でお姉さんは、一冊の本を取り出した。

「これね。ミイとクジラ」

「え?」

 ミイって、もしかして。僕はふとミイを見る。呑気な顔で見上げてくるその顔は、絵本の表紙の猫とそっくりだった。

「実は、この子もミイっていうんです」

「あら、すごい偶然じゃない。ミイという名前に、クジラ」

 お姉さんが目を細くして笑う。そうか、僕がミイに出会ったのは、偶然ではないのかもしれない。ミイはクジラを描きそうな僕を見付けて、レストランにきたのかもしれない。

「しかしすごいな。ミイは君がクジラを描くってわかっていたんじゃないか?」

「そんなバカな! でもそうなのかも。じゃなきゃ、僕にミイって名前を付けさせないさ」

 ――何故、ミイは僕に「ミイ」って名前を付けさせたんだろう。何かに気付いてほしいような。そんな気がしてならない。

「では失礼します。どうぞ、ごゆっくり。宿題が無事に終わることを祈っているわ」

 一礼すると踵を返し、受付へと戻っていった。ありがとう、お姉さん。この本を見て描き上げなければ。一気に僕はクジラを描き上げたくなった。

 不思議なこともあるもんだと呟く絵描きさんをよそに、絵本を開く。思った以上に精巧に描かれたクジラは、海にはいなかった。

「なるほどね。このクジラは、川にいるのか」

 その絵本の挿絵には、大きな橋の掛かった川の水面を、一生懸命に泳ぐクジラの姿があった。まるで大海原を泳ぐようなその姿は、描きたいと思う光景であった。

「お、いい本が見付かったみたいだね」

 絵描きさんは自分の目的の本が見付かったようで、数冊の本を脇に抱えていた。蝶や鳥の図鑑のようなものだった。

「さて、君はクジラをどう描くつもりなんだ」

 絵描きさんは問いかける。僕は、素直に感じたことを口にした。

「クジラは普通、海にいる生き物です。僕はフランクフルトに来るまではそう思っていました。ここに来れば何かしらの資料があるだろうってくらいの気持ちでいたんです。でも、この本を見てわかりました。たしかにクジラはフランクフルトにいる。それも川に」

「なるほどね。じゃあ君はこの本のクジラのように、自由に泳がせてやりたいんだな」

「はい。そんなクジラがもう少しいたって、いいと思ったんです」

「そしたら、舞台はこのマイン川だな」

「うん。太陽の光を纏った水面の上で泳がせるんだ」

「わかった。じゃあ、君にはこれをあげよう」

 そう言い絵描きさんは、絵の道具を入れたバッグから、クレヨンを取り出した。少し使い込まれているが、赤や黄、青などの色が鮮やかなのは見てわかる。

「少し使ってしまったが、まだ全色残っている。二十四色もあれば、思い描く絵は描けるんじゃないかな」

「ありがとうお兄さん。僕、色鉛筆しか持ってなかったから助かったよ。会ったばかりの僕に、こんなによくしてくれるなんて」

「いや、いいんだよ。学校の宿題でクジラの絵が出たからって理由で、はるばるここまでやってくるなんてすごいなって思ってね。そんなに大事な宿題なのかい?」

 絵描きさんはごもっともな疑問を投げ掛けた。ここまでお金と時間を掛けて絵を描きに来るなんて。僕もそう思う。でも。

「うん。僕はクジラの絵をどうしても描き切らないといけないんだ。先生と、お母さんに約束したんだ」

 絵描きさんの目をしっかりと見つめる。その態度から僕のたしかな決意を感じ取ったのか、絵描きさんはこれ以上この話題には触れなかった。

 ――そう。僕はこの理由がなければ、クジラを描こうとは思わなかった。お母さんが許してくれなければフランクフルトにも来なかったし、こうやって絵描きさんとも出会えなかった。ミイとも出会えなかった。こうやって今も隣に寄り添うミイを見てわかった。やっぱり、僕より前に、僕に似た人とミイは出会っている。ミイはその人が来るのをきっと待っていたんだ。ミイはおそらく僕をその人と勘違いした。だから僕がその人の代わりに、この川でクジラを描き切って、ミイに見せてやるんだ。

 ――よし。胸に、灯した決意を強く刻んだ。

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