第六章 名前をつけないといけないね

 大きな噴水の向こうに広がる鮮やかな建物の通りを抜けると、様々な食べ物が並ぶマルクト広場に出た。絵描きさんに会うまでに嗅いだあの食欲をそそる香ばしいパンの匂いも、そこらじゅうから漂ってくる。

「えーっと、私のおススメはね、もう少し歩いたところにある。結構穴場でね」

 どうやら、おススメを教えてくれるようだ。

 うん、きっと美味しいソーセージの盛り合わせだろうな。じゅうじゅうに焼かれたソーセージの香りを思い出しながら、すでによだれが口の中にたまっているのがわかる。

 先導する絵描きさんに付いていく。まるで弟子のようではないか。少し得意気になって歩みを進めた。到着するまでの間、クジラの絵について考えることにした。

 クジラは、海にいると思う。もし、いたとしたら、どんな風にいるんだろう。クジラの大きさがどれくらいかなとか、どのくらいの深さで泳いでいるのかなとか、海ってどれくらい深いのかなとか。まだまだわからないことが多い。

 さっきの絵描きさんの絵も、噴水がメインだとは思うけど、背景の建物もしっかり描いていた。描くとしても、たとえば、海の色、空の色、クジラと泳ぐ魚の色。クジラだけを描けばいいわけじゃない。クジラの絵を描くということは、そのクジラがいる風景すべてを切り取ったように描くということだ。

 うん、図書館に行ったら、どんな背景の上にクジラを乗せるかも考えなきゃ。あとは色合い。メインのクジラはやっぱり、堂々と塗りたくりたい。

「ふむ、着いたぞ」

「やったあ!」

 一気にクジラがすっ飛んだ。心が躍る。まずは腹ごしらえをしないとね。腹が減っては描くものも描けない。

 連れられ店内に入る。白い壁にいくつかのレンガが埋め込まれており、黒い丸テーブルに赤い椅子と、意外とキレイな印象だった。辺りは色んな言葉がざわざわと飛び交っている。皆がソーセージを食べていたので、この店は間違いないと確信した。ソーセージの焼けた香ばしい香りと、付け添えのポテトの油の匂いが食欲をそそる。

「いらっしゃいませ、あら、お久しぶりですね」

 すっかり店員と顔馴染みらしい。絵描きさんは少し照れた顔で、「あ、うん」って答えた。なるほどね。ふーん。甘酸っぱい感じ。そういう感情、僕知っているよ。僕の表情に気付いた絵描きさんはエヘンと咳払いをして整える。

「えっとね、私がいつも食べているソーセージを、私とこの子の分で二本かな。うん、今日はとっても天気がよくてね、私はあの噴水の近くで絵を描いていたんだよ。 見るかい? あ、えーっと、この子はね、フランクフルトから二時間くらい離れた場所からわざわざおいでくださったんだ」

 ――気持ちはわかるけど、話を少し詰め込み過ぎではないだろうか。

 きょとんとした後にとびっきりの笑顔を見せた店員さんは、

「ふふ。お元気そうで何よりです。ところで、その猫ちゃんは何を食べるんですか?」

 と聞いてきた。

 猫ちゃんとはどういうことだ。まるで近くにいるかのような。そんな話ぶりではないか。

「え? 僕は猫なんて連れてきてないですよ」

「あれ? でも足元に白い猫ちゃんがいますよ」

 ――本当だ。全然気付かなかった。

 足元で猫がゴロゴロと転がっている。いつから付いてきていたんだろう。ずいぶんと人懐っこい猫だと感じた。白いふさふさの毛が足に触った。とても柔らかい感触である。

「うーん、とりあえず、ソーセージもう一つ」と絵描きさんが注文したので思わず、「え! ソーセージ食べるのかな」という疑問が湧いた。どぎまぎする僕は慌てて絵描きさんの方を見たが、彼も相応に困っていた。

「はい、ではご用意しますね」

 とりあえず近くの席に座った。四人掛けの椅子に二人と一匹。どことなくソワソワしている二人をよそに、その一匹は堂々と居座っていた。

 

「いただきまーす!」

 僕と絵描きさん、二人が同時にソーセージを頬張った。うーん、すっごい美味しい! パリッとはじけ、口の中に肉汁の旨味が溢れてくる。やはりソーセージは美味しいと実感した。もう少しこの余韻を味わっていたいところだが、僕らが抱える重大な問題について議論することにした。

「お兄さん」

「うん? 何だ? もっとソーセージ食べたいか?」

「違うよ。猫の話!」本当は食べたい気持ちをぐっと抑える。おかわりは、この話を終えてから。そういえば、敬語がすっかり取れてしまっている気がする。まあいいか。

「あー、まあ、そうだね」

 二人が一匹を同時に見つめた。白い毛をふさふささせながら、とろんとした目で僕らを見つめてくる。瞳はエメラルドグリーンのような、透き通ったキレイな色。あまり見ない猫である。この子は女の子だろうか。僕の知識では、オスとメスの違いはよくわからない。

「この猫って、飼い猫かなあ」

「あー、どうだろうね。ふむ、飼い猫だったら不味いよなあ」

 二人同時にため息をつく。迷子の猫かな。てか、泥棒したって思われたらどうしよう。

「よしよし、ソーセージ食べるかい?」

 絵描きさんが猫にソーセージを差し出した。顔の前にグイっと押し付けられるそれに興味は示さなかった。

「うーん、違うようだね」

「そうだね。困ったなあ」

 絵描きさんは、そのソーセージをそのまま自分の口に運んだ。その間も猫はソーセージに興味なし。うーん、どうやら、ソーセージの匂いに釣られて入ってきたわけではなさそうだ。どうして入ってきたんだろう。でも、おなかは空いているのかもしれない。

「もしかして、ミルクかなあ、あまり小さい猫ではないけれど」

「ふむ、そうだね、ちょっと頼んでくる」

 温かいミルクはないか店員に尋ねたら、すぐに温かいミルクがやってきた。状況を察してくれたようで、飲みやすそうな器に入れてくれている。

 とりあえず、絵描きさんは再び猫の前に置いた。今度は先ほどとは違い、少し興味を示したような表情が伺えた。

「さーて、飲んでごらん。……あ」

 絵描きさんが不意に何かを思い出したような顔をした。言葉が詰まった理由。僕もちょうど思っていたところだったんだよね。

「名前!」

「そう! 名前!」

 ……そう。この猫をどうやって呼ぶのか問題だ。

「でもどうしようね、もしかしたら飼い猫かもしれないし」

 口にはしたものの、もし飼い猫なら、呼ばれ慣れた名前があるだろう。それとは別の名前を付けられても、戸惑うかもしれない。

「でもさ、名前で呼ばれないのって、やっぱり寂しいよね」

「ふむ、私もそう思う」とりあえず、一度断りを入れてみる。

「ごめんな。すでに名があったら申し訳ないが、私達も不便な状況を打開したい」

 絵描きさんはそっと猫に告げる。とくに不満はなさそうだった。

 よって、僕らだけの名前を付けてあげることにした。さて、お気に召すだろうか。


 数々の名前がこのテーブルでは飛び交った。

「シュレムはどうだろう」

 いたずら好き。ありかもしれない。

「アンジュ」

 え? 何だっけ? 聞き覚えのない言葉だった。

「えーっと、フランス語で天使という意味だよ」

「なるほど、フランス語かあ。わかるのかなあ」

 名前のラリーは続く。

「えーっと、あとはフリーデンとか。猫の自由さをそのまま名前にしたいね」

 なるほど。猫の印象を名前にするのはよいかもしれない。一方の猫は暇そうにしている。もうすぐ昼寝でもしそうな顔だ。このままだとこの子の名前は「ツァイト」になってしまう!

「みいやああ」

 耐えられなくなったようで、ついに猫が大あくびを一つ放った。「ミイ」という音がやけに頭に残る。あ、いいかも。少し引っ掛かった言葉を告げる。

「ミイはどうかなあ」

「ミイ?」

「うん。今のあくびから取ってみた」

「ふむ。なるほど、ナイスアイデアだね」

「みやああああ」

 よし。満場一致。これから猫の名前は晴れて「ミイ」となった。

 ミイを見る。名前を呼ばれたことで、ふさふさの尻尾を揺すりながら、少し嬉しそうな顔をしていた。もしかすると、飼い猫じゃないかもしれない。はじめて付けられた名前が僕によるものだという事実に感慨を覚えた。

 時計を見る。さて、そろそろ図書館へ行く頃合いになってきたが。ミイはどうすればいいだろう。とりあえず、今のところは離れる気はしない。僕らと一緒に図書館まで付いてくる気なのだろうか。図書館散策はどうしようかと考えあぐねていると、

「うん、ミイを連れて図書館へ行こう!」

 と絵描きさんが切り出した。

「いいのかなあ。図書館って、厳重に本を保管するイメージがあるから、動物なんて入れちゃいけないって思っていたよ」

 図書館には重要な書物がたくさんあるだろう。今は大人しいが、いざ図書館に入った途端に暴れ回られて書物をびりびりにされては困る。監督責任を問われても、僕と絵描きさんが押し付けあうだろう。

「まあそうだよね。でも、最近の図書館はすごいぞ。自分の身から離れさせないようにすれば、どんな動物でも連れていける」

 え? そうなの? 猫以外だと、たとえばトラとかライオンとか……。何でも連れていけるのは不味いと思う。それは言い過ぎだ。

「うん。今のは言い過ぎた。ちゃんと司書さんに聞いてみるから」

 やっぱり。絵描きさんなりのジョークだったようだ。まあ、ミイなら大丈夫だろう。小さいからきっと邪魔にはならないだろうし。頼むから大人しくしていてくれ、と心の中で祈った。

「ところで、今のジョーク、面白かった?」

 そう言われ、僕は少し困った顔を絵描きさんに向けた。

「ごめん、今のなかったことにして……」

 やはり、絵描きさんは真面目なのだ。ポリポリと頭を恥ずかしそうに掻く絵描きさんに、僕はとびっきりの笑顔を向けた。

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