第四章・銀の指と黒の鍵 ‐Ⅲ‐

 教会の鐘の音が、静まり返った街に、夜の訪いを告げる。


 明日には、すべてが終わるだろう。


 十八年もの長い間、ひとりきりにさせてしまった弟を、人間の手から取り戻す。


 もし、それが叶わなければ、もろともに果てるのみだ。そうすれば、人としての生を強いられてきたセインに、せめて正しき終わりを与えてやれる。


「セイン……。必ず、お前を救い出してみせる。」


 ガイルは、彼方に見える王城の明かりを睨み据えながら、ぐっと拳を握りしめた。


 兄である自分を敵に回しても、誰にも同じ思いをさせたくないと言った薄紫の双眸は、狂信者のように、頑なだった。


「あの日の苦しみを……俺は忘れない。」


 十八年前のあの日、地獄を見た。


 不落を謳った帝国の都は、人間の手によって、ことごとく焼き尽くされた。


 街を覆う死臭、燃えあがる炎の赤、絶望と狂乱の声――。十八年経って尚、すべてが脳裏にこびりついて離れない。


 追い立てる兵士の殺意に満ちた剣を掻い潜り、助けを乞う声に耳を塞ぎ、ガイルは地獄を駆け抜けた。


 いつの間にかはぐれてしまった弟を探して、瓦礫の街を、あてどなく彷徨った。家にこもりがちだったセインは、街中の地理に詳しくない。ただでさえ、他人の目を怖がる奴だ。ひとりきりでは、不安で、不安で、壊れてしまうだろう。


 今や、あいつが心を許せるのは、兄である自分しかいないのだ。早く見つけてやらなければ、どこかで、泣いているかもしれない。


 いつしか足は棒になり、声は枯れ果て、空腹で意識が朦朧としても、ガイルは、諦めることなく歩き続けた。


 あのとき、自分がいったいどれくらいの間、セインを探し回っていたのか、今となっては、分からない。


 ガイルが次に見たのは、心配そうに自分を覗き込む、父の親友の顔だった。厳めしい男の優しい視線に、ガイルは、ようやく地獄から抜け出せたのだと安堵した。


 帝国騎士団の副団長を務める雷竜、ガレッド・ヴァルドルグは、町はずれで倒れていたガイルを見つけ、保護してくれたのだという。


 野営用のテントに寝かされたまま、ガレッドから、色々な話を聞かされた。ガイルの父は、最期まで帝国騎士団の長として、誇り高く戦い抜いて逝ったこと。皇帝は、人間に弑され、帝国は滅び去ったこと。ガレッドがガイルを保護してから、既に数日が過ぎていたこと――。


 行方知れずのセインが、人間に連れ去られた可能性があることを聞かされた瞬間、ガイルは、迸る怒りのままに、飛び出そうとした。それでも、無理を強いてきた身体は言うことを聞かず、テントから出る前に、足が縺れてしまった。


 地べたに這いつくばったままのガイルの瞳から零れ落ちた涙は、自分から、唯一生き残った家族さえ奪っていった人間への憎しみと、弟を助けてやれなかった自分の弱さへの怒りだった。自分がもっと強ければ、セインに、辛い思いをさせたりなどしなかった。まだ自分が力の弱い子供であるということが、悔しくてたまらなかった。


 それでも、自分が生きているということは、どこかで、セインもまた、生きているということだ。


 いつか、必ず救い出してみせる。たとえ、どんな手を使おうとも。


 ガイルは、涙を拭い、固い決意を示すように、己の力で立ち上がった。


 トリスタンの戦線から引き上げてきたガレッドの下には、生き残った竜の末裔たちが集まっていた。彼は、やがて有志を募ると、瓦礫となった帝都を離れ、報復の旅に出た。


 ある時は旅芸人の一座として、ある時は商人のキャラバンとして、ガイルは、セインを探しながら、世界中を放浪した。


 あてどない復讐の旅路の中で、ガイルはガレッドから剣技を学び、着々と力を蓄えていった。いつか必ず、弟を、人間の毒手から救い出す。ただ、それだけのために。


 ガイルも成年を迎えたころから、ガレッドが指揮する部隊に加わり、戦陣に立つようになった。


 年を重ねるごとに、祖国を、家族を、たったひとり生き残った弟さえも自分から奪い去った人間への憎しみは、澱のように募っていった。


 報復の旅の中で、命乞いをする人間を、何人手に掛けたことだろう。行く先々で、剣を向けた相手は、立ち向かってくる者の方がすくなかった。


 ――あの日の自分と、今、自分が奪うこの命は、どう違うのだろうか。


 剣を振り下ろすたび、そんな疑問が浮かんだ。


 自分は、怒りを向けるべき相手を、取り違えているのではないか。


 漣のように、その疑念は、何度もガイルの胸をざわめかせた。それでも、一度剣を握れば、それは幻のように闇に埋もれて消えていった。


 まるで機械のように淡々と、血と泥に塗れた日々を、ガイルは積み重ねた。幾度重ねても、復讐の炎は消えることなく、心だけが凍えていくようだった。


 セインが見つかったとの知らせを受けた時には、あの日から、十五年が過ぎ去っていた。帝国と国境を接していたハーネスト王国で、新たに竜騎士長に就任する男は、セイン・クロスと名乗る、銀髪紫眼の青年だという。


 あの日、ガイルは、居てもたってもいられず、密かに群衆に紛れて、叙任式後の挨拶を、遠目に見に行ったのだ。


「……あれは、この広場だったな。」


 ガイルは、過ぎ去った日に想いを馳せるように、閑散とした教会前広場を見渡した。





 三年前の、良く晴れた午後。


 青空の下で、大勢の祝福を受けながら、堂々と宣誓する銀髪の青年の姿が、そこにはあった。


 長い銀糸の髪をなびかせ、真っ直ぐと前を見据える青年は、すらりとした長躯に、英気を漲らせている。晴れがましい騎士の姿は、子供の頃に憧れた、父の姿によく似ていた。


 成長して、姿が変わっていたとしても、眼鏡の下の薄紫の瞳は、幼い頃のまま、どこか悲しげな色を残していた。


 十五年もの間、セインは、人間の中で、己を殺して生きてきたのだろうか。


 あの愁いを帯びた瞳は、どれだけの苦界を、映してきたのだろうか。


 次々と押し寄せる感情の荒波が、ガイルの意識を押し流す。目の眩むような輝かしいセインの姿は、その影にある苦悩を、ひた隠しにしているように痛々しく見えた。


「……ガイル、止めよ。」


 たまらず飛び出そうとしたガイルの手を、ごつごつした男の手が、後ろからぐっと掴んだ。密かに抜け出してきたはずなのに、ガレッドは、なにかを察して追ってきていたのだろう。


「今は、無駄だ。あの子は、人間に感化され過ぎている。」


 抗うように腕を引くガイルの耳元で、雷霆にも似た低い声が囁いた。


「だが……!」


 ガイルは、真っ直ぐとセインを見据えたまま、引く腕に力を込めた。


 骨が軋むほどの力で抑えられた程度で、諦められるものか。いっそ、自分の手をへし折って、ガレッドを振り切ることさえ考えた。


「焦るな。良く見ろ。誰ひとり、彼が何者かなど、知らぬのだ。今飛び出しても、あの子を救えない。……分かるな?」


 ガレッドの宥めるような静かな声が、ガイルを辛うじて押し留めた。


 ガイルは、彼の言葉に導かれるように、周囲をぐるりと見渡した。


 集まった民衆は、老いも若きも、新しい竜騎士長を歓迎するように、きらきらと目を輝かせている。そこに、ガイルの知っている、怯えた目をしている人間は、ひとりとしていなかった。


 彼らの瞳が示す残酷な答えに、ガイルは血が滲むほどに強く唇を噛みしめた。


 セインは、あくまでも人間として、あの場所に立っているのだ。そうでなければ、竜の末裔にさえ恐れ忌まれたセインが、人間たちから喝采をもって迎えられよう筈もない。


 セインが、どうして人間として振る舞っているのか、ガイルには理解出来なかった。強いられているのか、自らそう望んでいるのか、知る術はない。


 たったひとつだけ理解出来たのは、どちらにせよ、今すぐに弟を取り戻すことは不可能だという、無情な結論だけだった。


 人間に囚われたセインの心に回った毒を除くには、時間が必要だ。それなりの手順を踏まなければ、真にセインを救うことなど、出来やしないだろう。


 ガイルは、苦杯を飲み下し、煌びやかな雑踏に背を向けた。





 それから三年かけて、ガイルは周到な準備をした。


 十八年前の大戦をなぞるように、淡々と、小国を潰して回った。


 セインが受けた十八年の屈辱を思えば、この程度の報復など、生ぬるいほどだ。命乞いをする人間の声を耳にしても、自分でも驚くほど、心は動かなくなっていた。


 夜陰に紛れて、ハーネストの同盟国を襲撃し、目的はハーネストの攻略にあるのだと、その影には、他ならぬ自分がいるのだと、セインにあえて勘付かせるように立ち回った。


 多くの犠牲を積み上げて、ガイルはようやく、この因縁の地に舞い戻った。


 ――始まりは、三年前にセインを見つけた、この場所こそが相応しい。


 ガイルは、わずかな手勢と共に闇に潜み、王都に張り巡らされた防衛網を掻い潜った。夜の闇が街を覆い、雨雲が雫を零した時、ガイルは、静かに戦端を切った。


 目的は、殺戮ではなく、混乱だった。


 闇に閉ざされた王都で騒動を起こせば、勘の良いセインは、必ず、この騒乱の中心に、自分がいることに気が付くだろう。きっと、たったひとりで駆け出してくるに違いない。


 ガイルの指示を無視して、幼子に手を出そうとした部下は、その場で処断した。すべてを殺しつくし、ハーネストを滅ぼすのであれば、必要な人手ではあっただろう。しかし、騒ぎを起こしてセインをおびき出すのに、指示に従わない者は、邪魔でしかなかった。


 ガイルの目論見通り、雨降りしきる闇夜の中を、セインは、たったひとりで王都に姿を現した。ただひとつ誤算があったとすれば、セインを追ってきた人間がいた、ということだけだろう。


 もし、頬に傷のあるあの男の邪魔さえなければ、今頃、とっくに目的を果たせていただろう。


 だが、それももう、過ぎたことだ。明日には、すべてに決着がつくのだから。


「……待っていろ、セイン。」


 ガイルは、明かりの落ちた王城に背を向けると、静かに闇に身を委ねた。

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