第四章・銀の指と黒の鍵 ‐Ⅳ‐
朝日の差し込む議場には、不安げな顔をした首脳陣が、肩を寄せ合っていた。
城仕えの者達は、昨日のうちに、城外へ退避させた。今この城に残っているのは、この議場に集った者たちのみである。
「この方円内には、魔術結界を敷いています。皆さんは、ここから出ないでください。」
セインは、議場に参集した首脳陣に境界線を示すと、厳然と言い渡した。
「……竜騎士長、なぜ、騎士団と竜騎士団を城の外に配備したのだ?」
アルノーは、怯え顔で居竦んでいる首脳陣を代表するように、訝しげに手を挙げた。
「黒竜は、単独でここに現れるでしょう。それでも、混乱に乗じて、別働隊が来ないとも限りません。ですので、備えとして外部に配備しました。」
「陛下の守りが、手薄ではないかね?」
淡々と答えるセインに対し、アルノーは、畳みかけるように問いを重ねた。
「黒竜の標的は、あくまでも僕です。陛下にも、結界の中に留まっていただきます。魔術に通暁したゲイルズ卿と、ドラチェーザのスライ殿の協力の下に編み上げた結界ですから、そうそう破れはしません。また、状況に応じて、補強していただく手筈になっております。陛下の傍には、リクター殿も控えておりますし、問題はないかと。」
「自慢じゃないが、守り抜くのは得意だ。安心してもらっていいですよ、グィノット卿。」
セインの言葉を受けて、金色の鎧に身を包んだリクターが、頼もしげに胸を拳で叩いた。
「アルノーや、お前さん、心配性じゃのう。いいから、黙って見物しとれ。双子竜の決闘なぞ、そう見られるもんでもないぞ。」
問答が長くなると見たのか、ゲイルズは、のんびりと揶揄するような声を上げた。
「……ゲイルズ卿、貴兄には、危機感がまったくありませんな。この一戦に、国の命運が掛かっておるのですがね。」
アルノーは、大きなため息を零すと、頭痛でも堪えるかのように眉間を抑えた。
さしもの国務大臣も、自由に過ぎる妖怪じみた最長老には、調子を狂わされるらしい。
「そんなもん、そこに並んどる臆病者どもが十分持っとるじゃろ。……セイン、ほれ。」
ゲイルズは、アルノーの歯切れの悪い皮肉をさらりと聞き流すと、大事そうに抱えていた包みを、セインに手渡した。
セインは、渡された布包みを、するりと解いた。
「……僕の牙、ですか?」
包みの中からは、まるで眩い雪原を思わせる、優美な双剣が姿を現した。
竜の末裔である以上、セインも、密かに成年の儀式を行った。竜の力を解放し、半人半竜の形態となり、牙を採集するのだ。そうすることで、力の暴走を抑えることが出来る。
儀式を経てようやく、竜の末裔は成人として認められ、自在に力を揮うことが許されるようになるのだ。
「そうじゃ。あの時から、ずっと預かっとったでな。これがあれば、なんとかしのげるじゃろ。」
「ありがとうございます。これで、ようやく条件は五分ですね。」
セインは、双剣を腰に佩くと、腕を慣らすように静かに鞘走らせた。
金属特有の無機質さを持たぬ白刃は、陽光を受けて、研ぎ澄まされた氷のように、澄んだ煌めきを見せている。初めて握ったというのに、まるで長年使い込んでいると錯覚するほどに手に馴染んだ。
セインは、ひとしきり感覚をたしかめ終えると、双剣を翻して鞘に戻した。
「……セイン、お前たちの死を以て、終わらせるな。」
レオンは、玉座から立ち上がると、壇上を降り、セインの前に立った。
「これは、王命だ。良いな?」
レオンは、セインを安心させるように肩に手を置くと、柔らかな笑みを浮かべた。
「はい。謹んで、王命を拝受いたします。」
レオンから立ち上る温かな燈火の色は、彼の慈愛の深さなのだろう。
セインは、じんわりと温もりを感じた胸に手を当てると、深々と腰を折った。
「……兄さんも、昔は陛下のように笑っていたんですよ。僕は、竜騎士としてこの国に降りかかる災厄を払い、弟として、必ず、兄を取り戻します。」
セインは顔を上げると、窓の外に目を向けた。澄み渡る晩夏の青空はどこまでも高く、希望にさえ、届きそうに見えた。
「クロス卿、お……私も、微力ながら援護する。貴殿が以前言っていた違和感について色々当たってみたが、まだ確証はない。それでも、もうすこしで分かりそうなのだ。」
「お心遣い、ありがとうございます。スライ殿。僕は……ひとりでは、ありませんね。こんなにも、心強いことはありません。」
セインは、瞑目して、塞き上げる感情を飲み込んだ。
ガイルはなぜ、あんなにも憎しみに囚われてしまっているのだろうか。
あの昏い柘榴石の瞳に、もう一度、問わねばならない。
「……ゲイルズ卿、スライ殿、結界の強化を。上から来ます!」
にわかに、強い力が大気を駆け抜けた。
セインは、かっと目を見開くと、大声を張り上げた。
セインの号令と共に、天窓で微笑む聖母が、胸の裂けるような悲鳴を上げた。
終末の喇叭が聖母を砕き、群臣が審判を恐れるように慌てて身を竦める中、スライとゲイルズは、速やかに術式を展開した。
聖母の涙のように降り注ぐ硝子の雨は、人々の頭上に落ちるよりも前に、二重の光壁に灼かれて、燐光へと変わる。
静寂の中に谺する強き翼の羽ばたきに、群臣は、おそるおそる天を仰いだ。
砕け散った天蓋の向こうで、漆黒の竜は、太陽を背に堂々たる翼をはためかせ、居並ぶ者達を睥睨していた。
「兄さん……。」
セインは、決然と、上空で待つガイルを見上げた。
「来い、セイン。終わらせよう、すべて。なにもかも、な。」
ガイルの昏い柘榴石の瞳は、たったひとり、セインだけを見据えている。
「ええ。……もう、終わりにしましょう、兄さん。」
セインは、低く呟くと、深く息を吸い込んだ。背中の骨が、皮膚が、軋みながら隆起する。セインは、身震いをするように、静かに翼を開いた。
本能のままに、優しく大地を蹴る。雪白の翼を羽ばたかせ、セインは、風のように軽やかに虚空を駆け昇った。
「セイン、お前は騙されている。奴らのしたことを思い出せ。」
向かい合ったガイルは、セインの情に訴えかけるように、震える声を吐き出した。
「忘れてなんかいないと、言ったでしょう。……彼らは、僕らからすべてを奪った。忘れようが、ないじゃありませんか。」
セインは、涙を堪えながら、頑なに首を横に振った。
あの日の地獄を、忘れはしない。誰もが冷たくなっていく恐怖を、灰燼に帰した故郷を、忘れたりなどはしない。
「ならば、共に来い。今からでも、遅くはない。」
ガイルは、縋るように、セインに手を伸ばした。
「……お断りします。僕は、あの日を忘れないからこそ、ここにいるんです。」
セインは、確乎たる意志で、伸ばされたガイルの手を振り払った。
「……いいだろう。滅びがお前の望みなら、共に冥府に落ちてやる!」
ガイルは、悲しげに低く呟くと、背負った大剣を、音もなく抜いた。掲げられた黒刃が、鈍く昏い輝きを放つ。
刹那、ガイルは、掌で大剣を翻すと、迷いのない突きを放った。
颶風の如き一撃は、躊躇いなくセインの心臓を狙っている。
セインは、間一髪のところで凶刃を躱すと、舞うように身を返してガイルの背後を取った。そのまま勢いに任せ、ガイルの背に上段蹴りを叩き込む。
ガイルは、そのまま後方へ弾き飛ばされたが、壁に激突するよりも前に、羽ばたき一つで態勢を立て直した。
「……なぜ、剣を抜かない。」
振り返ったガイルは、不愉快そうに唸ると、セインを睨み据えた。
「さて、どうしてでしょうね?」
セインは、ガイルを煽るように、わざとらしく首を傾げてみせた。
理由など、語るまでもないことだ。
「……下らん。」
ガイルは、吐き捨てるように呟くと、大きく翼を羽ばたかせて一気に間合いを詰めた。
風と渾然一体となったガイルは、下段に構えた大剣を力強く振り上げる。
セインは咄嗟に、その一撃を、鞘に納めたままの双剣で、受け止めた。痺れる腕に気合を込めて押し返そうとしたが、わずかに、ガイルの力が上回った。
セインは、ついに堪え切れず、体勢を崩してしまった。
「甘い!」
ガイルはすかさず、返す刀を振り下ろす。
セインはなんとか身をよじって避けようとしたが、半瞬、遅かった。
膂力の限りに振り下ろされたガイルの大剣は、セインの頬を掠め、切っ先が、眼鏡の丁番を砕いていった。
まるで写し鏡のように、二人の両頬を、同時に血が伝う。
セインは、一旦間合いを空けると、壊れた眼鏡を懐に仕舞いこんだ。
「邪魔なものがなくなって、視界もすっきりしただろう?」
ガイルは無造作に頬の血を拭うと、嘲るような笑い声を上げた。
「僕は、この能力の加減が出来ないんですよ。兄さんなら、きっと奥まで視えてしまう。」
セインは、苦しみを吐き出すように呟くと、ガイルから視線を逸らした。己に課していた戒めを解き、眼鏡もない今、兄を直視すればどうなるか、自分でも解らない。
「なんの問題がある? お前が読み終わるより前に、終わらせるだけだ!」
ガイルは、セインの不安を鼻で笑うと、颯のように攻勢に転じた。
セインは、顔を上げると、迫りくる黒風を、しっかりと両の目で捉えた。
今や、ガイルの思考は、己のそれと同じように、はっきりと読み取れる。
セインは双剣を鞘走らせると、ガイルの猛攻を、眉ひとつ動かさず的確に受け流していった。
上段、下段、突くと見せて剣を返し、右方から――。
刃を交える音のみが、二人の間で、幾度も交わされた。
まるで舞い踊るかのように、黒白の双子は、人々の頭上で、一進一退の攻防を繰り返す。美しいほどの凄絶な剣戟に、誰もが息を呑んだ。
剣の腕は、ほぼ互角、というところだろう。
速さでは、セインが上回っているが、ガイルの一太刀は、受けるだけで、腕が痺れるほどに重い。次の動きが読めたところで、防ぎ続けるだけでは、いずれ、押し負けてしまうだろう。
かといって、魔術の打ち合いや、どちらかが竜の力を解放しようものなら、足元にいる人々の安全を保障出来ない。
埋み火のようにじりじりと、焦りが広がっていく。ガイルの剣を機械のように冷徹にいなしながらも、セインは、徐々に追い詰められていった。
「所詮、お前の覚悟などその程度か!」
セインの剣筋の微妙な変化に、ガイルは、畳みかけるように攻勢を強めた。
掲げられた大剣が、膂力の限りに振り下ろされる。
唸りを上げて迫る漆黒の大剣を、セインはあえて、右の一刀のみで受け止めてみせた。
「僕を侮るのは、兄さんの悪い癖ですよ!」
セインは、丹田に力を籠め、裂帛の気合でガイルの大剣を押し返した。
セインの気迫に、ガイルが、一瞬だけ、たじろぐように動きを止めた。
ようやく作ったわずかな間隙を、逃すわけにはいかない。
セインは、左の剣をくるりと返すと、束の方で、ガイルの脇腹をしたたかに突き上げた。
鈍い痛みが、セインの全身を駆け巡る。
ガイルの身体が、衝撃でわずかに傾いだ。
セインは、歯を食いしばりながら素早く双剣を納刀すると、全霊を乗せた掌底の一撃を、ガイルの鳩尾に正確に叩き込んだ。
「がっ……!」
セインの渾身の一撃を受けて、ガイルは、勢いよく弾き飛ばされた。翼を翻す余力もなく、轟音と共に、後方の壁に激突する。翼をへし折られた黒き竜は、為す術なく地に墜ちた。
今の一撃で、ガイルはしばらく立ち上がれないだろう。
それは、自分も同じことだ。
砕けた翼に、もう飛ぶ力などない。セインは、半ば墜落するように、ガイルの傍に降り立った。
セインは、血反吐を吐きながら、辛うじて、両の足で地面を踏みしめた。
「……セ……イン……。」
倒れ伏したガイルは、苦しげに弟の名を呼びながら、這いずるように懸命に己の剣に手を伸ばしている。
セインは、自分の傍に落ちていたガイルの大剣を拾い上げると、兄の手の届かないところに放り投げた。
「兄さん、十八年の間、なにがあったんですか?」
セインは、静かな声で問いかけながら、ガイルの昏い瞳を覗き込んだ。
閉ざされていた門が開くように、ガイルの記憶が、セインの意識になだれ込んでくる。
数多の想念の欠片が、まるで走馬灯のように、セインの裡を駆け抜けていった。
廃墟の街で、セインを探して彷徨ったときの、胸の裂けるような不安――。
父の親友の顔を見たときの、崩れ落ちるような安心感――。
唯一生き延びた弟さえも、人間の手によって奪われたことへの怒りと憎しみ――。
三年前の叙任式で垣間見た、晴れがましいセインの姿――。
――復讐の旅路で、幾度も廻った疑問。
セインが、その想念の底へと潜ろうとした刹那、青い閃光が、セインをガイルの意識から弾き出した。
「いったい、なにが……? 兄さん?」
前触れなく現実へと叩き出され、セインは慌てて、兄に呼びかけた。
ガイルは、答える代りに、虚ろな目でセインを見やると、壁を背に、よろよろと立ち上がった。
ガイルの柘榴石の瞳は、もはやセインの姿さえ、映してはいない。
まるでぽっかりと空いた木の洞のような光のない目に、セインは、氷の手で心臓を掴まれたかのように、身を震わせた。
ガイルは、瞠目するセインに目もくれず、夢遊病患者のように、ふらふらと剣を求めて歩を進めていく。
その身体には、うっすらと、青い光の糸が、幾重にも絡みついていた。
鮮やかな青い光に、セインは、思わず息を呑んだ。
――この青を、自分は知っている。あの夜に視た、ガイルにはないはずの色だ。
「クロス卿! 貴殿の兄君は、何者かに操られていただけだ! その糸の源を断て!」
光壁の向こうから、スライが吼えるように叫んだ。
セインは、その声に弾かれたように、ガイルに絡みつく糸の先を辿った。
「これは……。」
ガイルの胸元に、見たこともない歪な魔術式が浮かび上がっていた。複雑に絡み合うように広がる奇怪な魔術式は、ガイルの身体の奥深くから湧き出している。
それは、まるで暗がりから無理やり引きずり出されたかのように、ガイルの胸元で、苦しげにのたうちまわっていた。
セインは、双剣に魔力を込めると、抜きの一閃で、寸分過たず魔術式のみを切り裂いた。
薄紫の光に灼かれ、菌糸のように絡みついていた糸は、朽ちるように、ガイルの身体からぼろぼろとはがれていく。その残骸は地に落ちることなく、青い燐光を残し、幻のように虚空へと消えていった。
すべての糸が消え失せた途端、ガイルの身体は、力を失ったようにぐらりと傾いだ。
セインは、咄嗟に双剣を放り捨てると、兄の身体を抱きとめた。
弱々しくはあるが、ガイルの呼吸に、乱れはない。心臓も、しっかりと脈を打っている。
「良かった……。」
目を閉じた穏やかな顔は、子供のころに見た、懐かしい兄の顔だった。
崩れ落ちるような安堵が、セインの胸に満ちていく。
セインは、意識のないガイルを、優しく抱きしめた。
「大丈夫か、セイン! 兄貴も無事か?」
事態の収束を見て、リクターが、鎧を鳴らしながら大股で駆け寄ってきた。
「ええ……。」
セインは、涙を堪えながら、こくんと頷いた。
リクターにとっては、ガイルは、ハーネストに牙を剥いた敵以外の何者でもなかったはずだ。それなのに、本気で心配してくれているリクターの気持ちが、ただただ嬉しかった。
「意識が戻る頃には、呪縛も解けているだろう。……であるからして、心配は無用だ。」
リクターの巨躯の後ろからひょっこりと顔を出したスライは、ガイルの顔をしげしげと眺めると、愁眉を開いた。
「セイン、王命を違えずによく戦った。彼を、部屋で休ませてやるがいい。怪我の手当は……どうやら不要のようだな。」
レオンは、健闘を讃えるように、セインの髪をぐしゃぐしゃと撫でまわすと、二人の顔を見て、小さな笑みを零した。
セインは、自分の頬を撫でて、ようやく、傷が癒えていたことに気が付いた。
「はい。……ありがとうございます。」
セインは、精一杯の謝辞を述べると、ガイルの長躯を、しっかりと抱え上げた。まだ怯えと混乱の拭えぬ群臣と王に向けて、セインは、深々と頭を垂れた。
これで、ここでやり残したことは、もうなにもない。
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