第四章・銀の指と黒の鍵 ‐Ⅱ‐
時間は、止めようにも、浮雲のように流れていく。夏の終わりの空は、明日の事など知らぬ気に、からりと澄み渡っていた。
ガイルとの約束の日まで、あと一日。今頃、ハーネストの首脳陣は、明日の黒竜襲来に備えて、議場に集まっていることだろう。セインの席には、代理としてルークが着いている。本来ならば、セインはその場に足を運ぶべきではない。
それでも、今を逃せば、もう機会は訪れないだろう。
セインは、固い決意を胸に、議場の扉を押し開いた。
会議の時間までまだ猶予があるというのに、一席を除いて、すでに席は埋まっていた。
休養しているはずの竜騎士長の登場にざわめく首脳陣を黙殺して、セインは、真っ直ぐに玉座の前へと進み出た。
「セイン、休んでいろと言ったであろう。」
玉座の上から、たしなめるようなレオンの低い声が響く。
「申し訳ありません、陛下。ですが、どうしても必要な事です。」
セインは、深々と頭を垂れると、毅然として壇上の王を見据えた。
「……お前は、それで良いのだな?」
レオンは、セインの覚悟をたしかめるように、言葉すくなに問うた。
「はい。」
わずかに震える王の声に、セインは、迷いなく頷いた。
「何事かね、竜騎士長。傷は存外浅かったと聞いておるが、卿は、明日に備えて休んでいるべきであろう。黒竜は、わざわざ卿を指名して一騎打ちを仕掛けてくるのだ。黒竜が相手とあっては、いかな卿でも、万全を欠けば厳しかろう。」
アルノーの目には、今のセインの行動は、無益なものに映るのだろう。
彼は訝しげに眉を跳ね上げると、鷹のように鋭い眼差しで、セインの真意を探るようにこちらを見やった。
「ご心配いただきありがとうございます、グィノット卿。ですが、この場を借りて、ひとつだけ、皆さんにお話ししなければならないことがあるのです。」
胡乱気なアルノーの視線をさらりと流して、セインは静かに、一歩前へ歩み出た。
「議場に乗り込んでくるほどだ。余程、重要な話なのであろうな?」
アルノーは、芝居がかった動きで姿勢を正すと、嫌味がましくセインに問うた。
「ええ。」
この期に及んで、引き返すつもりはない。
セインは、アルノーの問いに、はっきりと頷いてみせた。
「陛下、宜しいですか?」
セインは、確認するように、壇上の王を仰いだ。
「お前が決めたのなら、構わぬ。セイン、皆に語って聞かせよ。」
セインの揺るがぬ意志を見定めたのか、レオンは、重々しく裁可を下した。
「ご存じない方もおられるかも知れませんが、今から十八年前、僕は、燃え盛る戦場のはずれで、陛下に救われてこの国へやってきました。……祖国を、家族を、あなた方人間に奪われて。」
セインの静かな独白に、議場はどよめきに包まれた。皆が皆、互いに顔を突き合わせて、ざわざわと語り合っている。
「もうお分かりかと思いますが、僕は……。人間では、ありません。双子竜の一翼である、紫眼の白竜。それが僕です。……あの黒竜は、生き別れた、僕の双子の兄です。」
セインの平板な声は、議場を席巻したざわめきを掻き消した。
「……この国に、否! この世界に、貴様のような化け物の居場所などないわ!」
水を打ったような静けさを破るように、法務大臣の怒号が響き渡った。
ギルバートは、椅子を蹴倒して、セインの面前に躍り出る。
セインは、無言で、けたたましい跫音を響かせながら息巻く法務大臣を視た。
どす黒い憎悪と、正義に燃える赫怒の赤が、揺らぐ煙のように、彼の全身から立ち上っている。
「大方、兄と共謀してこの国を滅ぼそうという腹なのだろうが、そうはいかぬ! 即刻出ていくがいい! でなくば、この手で、正義の鉄槌を下してやる!」
ギルバートは、腰に佩いた剣を抜き放つと、セインの喉元にぴたりと剣を突きつけた。
セインは、眉根を寄せると、怒りに燃えるギルバートの顔を見据えた。
彼の憎悪は、彼が信じる正義を基としている。そこに、悪意がある訳ではないのだ。ギルバートは、揺るぎない正しさの中で、セインに剣を突きつけている。
自分も、立場が逆であったなら、そうするかも知れない。セインは、彼の正義の発露を、咎める気には、なれなかった。
「そんなつもりなんて、ありませんよ。」
セインは、ただ、彼を宥めるように、静かに首を横に振った。
「口ではなんとでも言えよう。陛下は、騙されておいでなのだ。貴様という化け物に。」
ギルバートは、微動だにしないセインに、一瞬たじろぐように目を見開いたが、果敢にも、剣を持つ手に力を込めた。
「化け物、ですか……。正直聞き飽きましたが、たしかに……そうかも、知れませんね。」
セインは自嘲的に呟くと、突き付けられた刃を掴み、軽く力を込めた。
金属の、軋む嫌な音は、すぐに止んだ。鋼の剣は、セインの掌の上で、まるでガラス細工のように、冷たい音を立てて儚く砕け散った。
「な……!」
ギルバートは、何が起きたのか飲み込めないといった面持ちで、己の手に残った剣の柄と、セインの手から零れ落ちる刃の残骸を、交互に見つめていた。
「あ……ああ……! あ、わ、ああ……!」
ようやく事態を飲み込めたのか、ギルバートは、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
ギルバートは、握りしめていた剣の残骸を放り捨てると、ほうほうの体で、アルノーの背後に逃げ込んだ。そこに、先程までの威勢は、微塵も残ってはいない。
「出て行けとおっしゃるなら、そうしましょう。黒竜の脅威を払ったらすぐにでも、ね。」
セインは、アルノーの後ろで震えているギルバートに一瞥をくれると、静かに会議場を見回した。
「黒竜に抗し得るのは、対を為す白竜の僕だけです。僕からすべてを奪ったのは、たしかに人間ですが、僕を救ってくれたのもまた、この国の人々です。僕は今こそ、その恩に報いたい。……ですので、どうか、それまではご猶予を。」
セインは、胸に手を当て、深く一礼した。
「……このままでは会議も始められないでしょうから、僕は、ここで失礼いたします。……ルーク、あとは頼みましたよ。」
セインは、去り際に、唖然とした顔で事の成り行きを見守っていたルークに声を掛けた。
「待ってください、セイン様! セイン様!」
ルークの悲痛な呼び声に応じることなく、セインは足早に踵を返した。
議場に集まった者達の大半は、青く凍えた恐怖の色で塗り潰されている。
これ以上は、彼らの怯えた色に、耐えられそうにない。この胸を引き裂くような痛みは、幸せだった十八年に対する、決別の証なのだ。
セインは、一度も振り返ることなく、議場を後にした。
セインの背中が遠くへと消えた後も、議場は、静まる気配を見せることはなかった。
どの声も、どの口も、彼のことを悪しざまに罵る音しか発しない。聞いているだけで、心が逆立つような、棘のある言葉が、円卓を埋めつくしていた。
あの人が、いったいなにをしたというのだろう。あの人の言葉を、彼らは聞いていなかったのだろうか。
聞くに堪えない雑言の雨が、容赦なくルークの心を叩きのめした。あの人は、この国のために戦おうとしている。たったひとりの家族を敵に回しても、人々を守ろうと、足掻いているのだ。それなのにどうして、人ではないというただそれだけの理由で、こうまで口汚く罵ることが出来るのだろう。
一番苦しいのは、あの人自身だというのに――。
ルークは、こみ上げる怒りを蹴倒して、セインの後を追うべく立ち上がろうとした。
その肩を、大きな手が、押し留めるようにがっちりと掴んだ。
「……今は、そっとしといてやれ。」
ルークが振り返ると、リクターは、険しい顔で、首を横に振った。
「ですが……。」
「お……私も、アゲンスト卿と同意見だ。クロス卿は、紫眼の白竜であるが故に、魔具で抑制していても、皆の心中の恐怖や嫌悪感が、視えてしまう。今、この場に連れ戻すのは、彼にとっては酷なことだ。」
諦めきれずに食い下がるルークに、スライも、翻意を促すように眉根を寄せた。
なにも視えない自分でさえ、ここにいるのが苦しいくらいだ。彼らの声に出さないものさえ視えてしまうのなら、あの人は、きっと深く傷付いているだろう。
それでもルークは、あんなに悲しんでいるあの人を、ひとりきりにしておきたくはなかった。
ルークは、藁にも縋る思いで、玉座のレオンを仰ぎ見た。王は、陰りを帯びた紅蓮の瞳でさんざめく議場を見つめたまま、身じろぎ一つしないでいる。
「そなたは、セインの正体を知って、どう思う?」
「……竜の末裔は、怖いです。でも……。セイン様は、誰よりも民を思う、僕が一番尊敬する騎士です。僕をここまで導いて下さった、恩人なんです。」
短く問う王に、ルークは、正直に、己の心情を吐露した。
もし、彼に出会うことがなければ、きっと、夢もなにもかも自分には届かないものだと諦めて、手を伸ばすことさえ出来なかっただろう。
竜騎士となる前も、竜騎士になってからも、あの大きな背中が、優しい手が、ずっと自分を導いてくれたのだ。
「あれが、人でなくても、お前にずっと嘘をつき続けていたとしても、変わらぬか?」
レオンは、苦しげに揺れる紅蓮の瞳を、ルークに向けた。震える細い声が、その心中の痛みを物語っている。
王は、すべてを知っていたのだ。知っていて、あの人に手を差し伸べたのだ。
「はい。僕は、セイン様を信じています。それに、あの方は、ずっと……お辛かったはずです。今ひとりにしては、いけない気がします。」
ルークは、王の瞳を正面から見据えると、力強く頷いてみせた。
たとえあの人が、ずっと自分を欺いていたのだとしても、苦しかったのは、あの人自身だろう。自分を導いてくれた、あの大きな背中に、偽りなどありはしない。
彼が何者であろうとも、今の自分があるのは、他ならぬ彼のおかげなのだ。あの人がひとりで苦しまなければならない理由なんて、絶対にありはしない。
「……ならば、連れ戻すがいい。たしかに、あれには酷なことだ。だが、我々が、越えねばならぬ壁でもある。」
ルークの揺るがない声に、王は眉の力を緩めると、王杖で扉を差した。
「ありがとうございます!」
ルークは、勢いよく立ち上がると、深々と一礼をして、転がるように廊下に飛び出した。
王が指し示した道には、光が差している。ここから拓かれるものも、必ずあるはずだ。なにもせずに、この道を閉ざしてはいけない。
ルークは、悪意の渦巻く議場に背を向けると、迷いなく廊下を駆け抜けた。
ガラス越しの青い空は、長い廊下に、光の道を描いていた。ルークは、脇目も振らずに、一直線に進んでいく。
あの人のことだ。きっと、誰にも会わないように、自室へ戻るだろう。まだ、そんなに遠くへは行っていないはずだ。もしかしたら、途中で追いつけるかも知れない。
ルークは、荒くなる呼吸を気にも留めず、足掻くように前に進んだ。
「セイン様!」
廊下を曲がった先に、見慣れた白い長外套を纏った人影を見つけ、ルークは声を張り上げた。
茫然と空を見上げるかの人は、ルークの声に驚いたように、身を固くした。いつものように、明るい声で答えてはくれない。彼は、その場から逃げることもなく、かといって、こちらを振り返ろうともしなかった。
ルークは、たまらず、セインの傍に駆け寄った。
「……どうして、追って来たんですか?」
セインは、窓の向こうを見つめたまま、昏い声でルークに問いかけた。
「……セイン様がおひとりで悲しんでいたら、嫌だなと思ったんです。」
ルークは、隠すことなく、想いのままを口にした。
「平気ですよ。あの程度は、慣れていますから。ただ、あの場に、僕は不要だと判断しただけのことです。」
セインは、こちらを顧みることなく、静かに首を横に振った。
慣れている、という彼の諦めたような言葉が、ルークの胸に深く突き刺さる。
「……どうして! どうして、セイン様が慣れなきゃならないんですか! あんなの、許して良いことじゃないでしょう!」
この人に、なんの罪があるというのだろう。
ルークは、抑えきれず、セインの腕をぎゅっと掴んだ。
「……ありがとう、ルーク。君は、本当に優しい子ですね。僕の代わりに、怒ってくれている。でもね、オルドビス卿が言ったことは、ほとんど事実ですよ。」
セインの弱々しい声は、深い悲しみに揺れていた。ようやくこちらに向けられた彼の顔は、まるで、幽鬼と見紛うほどに蒼ざめていた。
「君は、変わらずにいてくれるようですから、すこしだけ、昔話をしましょう。」
セインは、口元に力のない笑みを浮かべると、再び、窓の外に視線を移した。
「竜禍、という伝承を、知っていますね?」
「はい。神への敬意を忘れた人類に怒った神が、竜をこの世界に使わし、世界を一度滅ぼしかけた、あの伝承ですよね。」
かつて人類は、長い時の果てに神の恩寵を忘れ、享楽に耽り、放埓な生を謳歌するようになっていた。神は慎みと信仰を失った人類に怒り、その鉄槌として、竜を世界に放った。かくして世界は炎に包まれ、悪徳の世は更新された――。
その時、神を忘れずにいた善なる人々のみが、神の御手によりその災いから守られ、現在の人類の祖となったという。聖典の一節に語られる、古い伝承だ。
昔話、というよりは、どちらかといえば神話の類である。
ルークは、セインの意図が上手く読み取れず、首を捻った。
「そうです。その時、地上で戦いを繰り広げたのが、青竜と双子竜だったそうです。その双子の片割れは、僕と同じ紫眼の白竜だったと伝えられています。結果的に、青竜の勝利で戦いは終わり、双子竜は青竜に恭順を誓った。それ以来、白竜の目は青くなり、紫眼を持つ者は現れない……その筈でした。」
セインは、深い溜息を零すと、静かにルークの方に顔を向けた。眼鏡の向こう側で、薄紫の瞳は、陽光を受けて、昏い影を落としている。
この人は、ずっと、ひとりきりで苦しみを抱えて来たのだろうか。
「ですから僕は、皆が言うとおり……」
「セイン様、それは違います! 仮に、世界を滅ぼしかけた白竜と同じだとしても、セイン様は、他者を守ることに必死になれる方です。絶対に……。絶対に、化け物なんかではありません!」
ルークは、セインの言葉を掻き消すように、声の限りに叫んだ。
この人は、こんなにも傷付けられてきたのに、誰を恨むでもなく、まっすぐと歩いてきたのだ。他者を慈しみ、守るために剣を取ったこの人に、そんな形容は似つかわしくない。
これまでの道程を、自分自身を、否定して欲しくはない。
セインは、普段は聞かないようなルークの大声に、打たれたように目を見開いた。薄紫の双眸は、綯い交ぜになった感情に揺れている。
「……そうじゃ。もっと言ってやれ、ちびっこいの。こんな尻に殻の付いたひよっこなんぞ、化け物になれるほど大きくもない。思い上がるのも大概にしろと、な。」
追い打ちをかけるように、戛然と、杖の音が響く。老爺のしわがれた声が、二人の耳を揺さぶった。
二人が声の方を振り返ると、そこには、いつの間にか、白いローブに身を包んだ小柄な老人が立っていた。
「ゲイルズ卿……。」
忽然と姿を現した老爺に、セインは唖然として彼の名を呼んだ。
ハーネスト王三代に仕え、宰相の重責にある老人は、杖を鳴らしながら、渋い顔でセインに歩み寄った。
「甘っちょろいひよっこのお前さんなんぞ、背伸びしたって化け物にはなれんわい。」
ゲイルズは、掌で器用に杖を返すと、杖先でセインの脇腹をしたたかに小突いた。
「ちょっと! なにするんですか、ゲイルズ卿。痛い、痛いですって。」
「ほぉれ、か弱い老人にちょっと突かれた程度で音を上げる。そんなんで化け物になんぞなれるか、この愚か者が。いい加減、分を弁えんか。」
セインの抗議の声など無視して、ゲイルズは、皮肉交じりにセインをなじりながら、繰り返し執拗に杖先で彼を突き続けた。
「分かりました! 僕が悪かったです。……昔からしつこいですね、あなたは。」
止むことのない攻撃に、セインが降参するように両手を上げると、ゲイルズは、ようやく納得したように杖を下ろした。
「お前さんも、すぐにうじうじする癖は変わらんのう。白竜なんじゃし、もっとしゃんとしたもんに育つと思うておったわい。」
ゲイルズは、背伸びしてセインの顔をずいと見上げると、深い皺をより深くして、にっかりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「期待を裏切ってすみませんねえ。」
セインは、小突きまわされた脇腹をさすりながら、珍しく、子供のように拗ねた声を上げた。
「まあ、雛鳥なんぞ期待通りには育たんし、どーでもいいわい。そんなことより、お前さんたち、そろそろ議場に戻らんと時間になるじゃろう。……まさか、尻尾を巻いて逃げるつもりじゃなかろうな?」
ゲイルズは、飽きたとでもいうように踵を返すと、大きく伸びをした。
二人の足音が己について来ていないことに気付くや、ゲイルズは、梟のようにぐるりと頭を巡らせた。帽子の下に長く伸びた蓬髪の間で、灰色の目が、ぎらりと光る。
ルークは、ゲイルズに加勢するように、セインをじっと見つめた。
「……分かりました。戻りましょう。ルーク、君も、同伴してくださいね。」
セインは、どこか気の抜けたような溜息をこぼすと、困り顔で、ルークの方を見やった。
「もちろんです!」
セインの薄紫の瞳に、先程までの悲しみの影はもうない。
ルークは、弾むように、二つ返事で頷いた。
「ほれ、お前さんら、さっさと来んか。」
飄々とした老人は、いつの間にやら、遠くで手招きをしている。
ルークとセインは、ゲイルズの自由さに呆れたように顔を見合わせると、足早に、小柄な老爺の背を追いかけた。
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