第四章・銀の指と黒の鍵 ‐Ⅰ‐

「――以上。刑務長官スライ・フォン・ガイスト、定期巡察の報告とさせていただきます。王の敷いた法は、正しく守られておりますゆえ、ご心配には及ばぬかと。」


 スライは、理路整然と任務の報告を済ませると、玉座の王を仰ぎ見た。


「うむ。長旅、ご苦労であった。」


 玉座の王は、紅蓮の瞳を満足そうに細めながら、臣下に労いの言葉をかける。


「身に余るお言葉です。……では、陛下。お……私は、これで失礼させていただきます。」


 陛下は、お忙しい身の上だ。用が済んだなら、速やかに下がるのが、臣下としての礼だろう。


 スライは、恭しく頭を垂れると、静かに踵を返した。


「ところで、スライよ。そなた、これから時間は空いているか?」


 意外なことに、王は、下がろうとするスライの背を呼び止めた。


 いったい、なんの御用向きなのだろうか。


「空いてはおりますが、如何なさいましたか?」


 スライは、訝しく思いながらも、足を止めてレオンの方を顧みた。


「……セインのことは、聞き及んでおるか?」


 レオンは、声を落としてスライに問いかけた。


「噂程度ですが、一通りは。穏やかな方だと思っておりましたが、単騎駆けとは、なかなかに無茶をなさる。」


 城詰めの者たちの中に、今や竜騎士長の雄姿を語らぬ者はいないほどだ。


 今まで軟弱だと謗られてきた青年が、たったひとりで雨降りしきる敵の真っただ中に斬り込み、あまつさえ竜の末裔の大半を打ち倒したというのだから、噂をするなと言う方が難しいだろう。


 スライも、帰城してここに来るまで、数日前に起きた英雄譚を、すれ違う人、すれ違う人から、耳にたこが出来るほどに聞かされていた。


 竜を狩る者として生まれた自分でさえ、黒竜と対峙して、無事でいられる自信はない。彼が生きて帰って来られたのは、よほどに運が良かったのだろう。


「あれは、放っておくと自分の命さえ顧みないのだ。怪我人だというのに、昨日も城の中を歩き回っていてな。良ければ、また無茶をせぬように見張ってやってはもらえまいか?」


 レオンは、心配そうに眉根を寄せると、悩ましげに懇請した。


「は。王の命とあらば。」


 竜騎士長のことは知ってはいるが、特別、彼と親しい間柄ではない。彼の見張りをさせるなら、もっと他に適任者がいるのではないだろうか。


 スライは、内心では疑問に思いながらも、二つ返事で王命を拝受した。


「感謝する。そなたならば、あれも無茶はするまいよ。」


「勿体なきお言葉です。スライ・フォン・ガイスト、謹んで王命を受け、これより竜騎士長殿監視の任に就きます。……それでは、これにて失礼をば。」


 スライは、再び深く頭を垂れると、速やかに国王の間を後にした。





 竜騎士長の私室は、竜騎士団の屯所の最上階にある。


 スライは、返す足で、セインの私室の前までやって来た。竜騎士団の屯所など、法務省職員の自分が、そうそう訪れる機会はない。


 スライは、扉に掲げられたプレートを確認すると、慎重に扉を叩いた。


「クロス卿、おられるか? お……私は、スライ・フォン・ガイストだ。王命により、貴殿の監視に来た。」


「……どうぞ。開いていますよ。」


 スライの呼びかけに、部屋の主はすぐに返事をよこした。


「では、失礼する。」


 スライは、律儀に声を掛けると、銀製のドアノブを回した。


 開いた扉の隙間から、王城でついぞ嗅いだことのない馨りが、ふわりと鼻先を掠める。それは、今までスライが、一度も嗅いだことのない、強い魔力の匂いだった。


 王は、このために、わざわざ自分を指名したのか。


 スライは、セインの顔を見て、ようやく王の意図を理解した。


「……傷の具合は、如何だろうか。」


 スライは、息を呑むと、気付かぬ素振りでセインに問いかけた。


「出血の割には浅かったようですし、リクター殿がすぐに運んで下さったお蔭で、まあなんとか。スライ殿も巡察でお疲れでしょうに、わざわざすみませんね。」


 旅装を解かぬままのスライの姿に、セインは、申し訳なさそうに肩を竦めた。


 その朗らかな笑みは、スライの知るいつもの彼と、なんら変わりはない。


 変わったのは、彼が纏う空気そのものだった。


「気にされるな。お……私も、半分休息のようなものだ。」


 スライは首を横に振ると、ありふれた言葉を返した。


「いやあ、陛下直々に監視をつけられるなんて、僕もよっぽど信用がないようですねえ。」


 セインは、大袈裟に乾いた笑い声をあげると、困ったようにぼりぼりと頭を掻いた。


「陛下は、ご心配なさっておいでなのだ。先程も、貴殿が、すぐに無茶をするとぼやいておられた。」


「騎士失格ですね、僕は。……ああ、どうぞお掛け下さい。良かったらお茶をどうぞ。友人が、良い茶葉を送ってくれましてね。」


 セインは、すこし悲しげに眉根を寄せると、スライに紅茶を注いでくれた。紅茶の渋みの中に、甘やかな花の馨りが漂っている。


 セインは、ベッドに腰を下ろすと、紅茶の馨りを楽しむように、湯気を静かに吸い込んだ。


 スライは、勧められるままに、椅子に腰を下ろした。面前に置かれたカップは、飲まれる瞬間を、今か今かと待っている。


「……これは、俺……私自身の興味で聞くのだが、黒竜は、どういう男なのだろうか?」


 スライは、紅茶を一口啜ると、それとなくセインに問いかけた。


「うーん。これと言って、なにも分かりませんね。接触したのは、ほんのわずかな時間でしたから。」


 セインは、思い返すように天を仰いだが、さっぱりだというように首を横に振った。


「では、質問を変えさせてもらおう。……貴殿の兄君は、どのような人物だろうか?」


 まわりくどい言い回しは、どうにも性に合わない。攻めるならば、直線に勝るものはないだろう。


「……話が随分と飛びますねえ。」


 スライの内心の動揺など知らぬげに、セインは、とぼけたように紅茶を啜った。


「いや、同じ話だ、クロス卿。今の貴殿からは、竜の末裔の匂いがする。竜の末裔で銀の髪を持つのは、白竜のみ。双子竜は、必ず黒竜が先に生まれる。また、同時に何組も出現するという例はない。ゆえに、黒竜は、貴殿の兄君ということになるだろう。」


 スライは、首を横に振ると、滾々と、感じたままに理由を説明した。


「なるほど。一応、理解は出来ました。それで、仮に僕が白竜だったとして、ドラチェーヅァの貴方は、どうなさるおつもりですか?」


 眼鏡の隙間から、澄み切った薄紫の瞳が、真意を探るように、スライをじっと見据えている。


 スライは、真正面から、鋭く光るセインの瞳をしっかりと捉えた。


 鏡のように他者の心を映す紫眼を前に、多くの言葉はいらないだろう。


「別に、なにもしない。お……私がドラチェーザとして狩るのは、悪為す竜だけだ。」。


 竜の末裔とて、人間と同じように、心を持ち、道を選びとっていくものだ。正しい道を歩むのならば、たとえ何者であろうとも、普通の人間と変わりはしない。


「……普通の人間と変わりませんか、僕は。」


 スライの言外の声に、セインは、どこか嬉しそうに、控えめな笑みを浮かべた。


「貴殿は、竜の末裔としても特異な存在ではあるだろうが、お……私からすれば、それは別に問題ではない。」


「初めて言われましたね。普通だ、なんて。もしそうだったら、どんなに良かったか。」


 セインは、悲しげに呟くと、ようやく肩の力を抜いた。


 神話の時代において、黒竜と紫眼の白竜の双子竜は、竜の末裔を束ねる青竜と戦ったとされている。きっと、故国での暮らしは、楽なものではなかっただろう。


「兄君と対峙して、辛かったのではないか? クロス卿。」


 スライは、セインの内心を慮るように、優しく問いかけた。


 自分にも兄がいるが、もしも兄が敵として目の前に現れたらと思うと、想像するだけで、胸が潰れてしまいそうだ。


「まあ、感動の再会、とはいきませんでしたね。」


 セインは、暗い顔で、ティーカップに視線を落とした。


「兄君は、どういう人だったのだ?」


 その心中の痛みは、想像を絶するものなのだろう。


 スライは、セインを慰めるように、問いを重ねた。問題の解決にはならなくとも、誰かに胸の裡を打ち明ければ、すこしは、胸の傷は和らぐかも知れない。


「……僕の知るガイル兄さんは、強くて、優しい人でした。」


 セインは、悲しげに溜息を零すと、訥々と語り始めた。


「人の痛みに敏感な人でしたから、いじめられた小さな子なんかが、こっそり兄さんを頼ってくることもありましたね。どんな相手にでも立ち向かえる、勇敢で、眩しいくらいに真っ直ぐな人で、僕は、そんな兄さんの弟であることが誇らしかった。」


 兄のことを語るセインの顔は、今にも泣き出してしまいそうにさえ見えた。


「そんな御仁が、なぜ襲撃など……。」


 セインの話を聞く限りでは、ガイル・クロスという男が、襲撃事件を起こすような人物だとは、とても思えなかった。


 十八年の歳月が人を変えることもあるとはいえ、本質というものは、そうそう変わるものではない。仮に憎しみに囚われているにせよ、無辜の民を殺して回るような真似が、彼に出来るのだろうか。


「分かりません。ただ……。兄さんは、本気でハーネストを滅ぼすつもりは、なかったのだと思います。」


 スライの疑念に、セインは力なく首を横に振った。


「その気があれば、あの夜にすべて終わっていただろう。闇夜で、黒竜に敵う者はない。」


 黒竜は、闇と一体化して姿を隠すことが出来る。自身はおろか、周囲の者さえ、闇の中に溶かしてしまえるのだ。


 雨雲に遮られ、月明かりさえないあの夜ならば、その能力を最大限に利用することが出来ただろう。自身にとって最良の状況で襲撃を実行に移しながら、あえて好機を見逃したということは、黒竜にその気がなかったことの裏返しだろう。


「ええ。闇に紛れてしまえば、今の僕にだって兄さんを見つけるのは難しい。なのに、兄さんは、わざわざ僕の前に姿を現した。その上、味方を三人斬り捨てています。」


「味方を?」


 スライは、初めて聞く話に、我が耳を疑った。そんな事実があれば、噂好きの城詰めの者達の口の端にも上りそうなものである。


「報告書上では、僕が倒したことになっていますがね。……詳しくはこちらを。」


 セインは、眼鏡のブリッジを押し上げると、傍らに置いていた書類の束をスライに差し出した。


 スライは、促されるままに、書類に目を通した。


 特務局のまとめた襲撃事件の報告書には、あちこちに朱線が引かれ、たくさんの書き込みがなされている。


 その中には、あの夜のセインの足取りも、書き足されていた。


 線を辿れば、セインは、城の正門から大通りに入り、しばらく行ったところで、脇道に逸れている。路地裏には、竜の末裔の遺体の発見場所として、七つのバツ印が書かれていた。その中央に大きな丸印があるのは、セインがここで、リクターに救出されたからだろうか。


「……たしかにこれなら、三人を斬ったのは黒竜、と考えるのが妥当だろうな。力、武具、場所から考察するに、可能性としては、一番高いと思われる。しかし、理由が分からない。」


 特務局の報告書と、セインの書き込みを合わせれば、セインは、中央教会前広場に到達する前に、黒竜に倒されていることになる。


 到達さえしていない彼に、敵を斬り伏せるのは不可能だ。特務局が、仮にセインの手によるものと記したのは、遺体の損傷が、致命傷以外にはない点が、セインが倒した者たちと共通していたからだろう。


 それらを加味して考えれば、教会前で竜の末裔を倒したのが、黒竜であるのは明白だ。


 事実が明らかであるのに反して、肝心の黒竜の真意は、闇の底に沈みこんだようにまったく見えなかった。ただでさえ少数での襲撃であったにも関わらず、自ら戦力を削ぐような真似をするような理由が、黒竜にあったのだろうか。


 考えれば考えるほど、想像力は砕けていく。スライは、知恵熱の出そうな頭を捻り、答えを求めて宙を仰いだ。


「これは、あくまでも僕の、希望的観測なんですがね。」


 考えあぐねたスライの耳に、セインの遠慮がちな声が響いた。


「なんだろうか?」


 スライは、組んだ腕を解き、セインの方を顧みた。


「中央教会の辺りには、民家が集中しています。教会附属の修道院には、孤児院もありますし、あの辺りは、ノルヴァニールでも特に子供が多い地域なんですよ。たとえ兄さんが人間を憎んでいたとしても、幼子を手に掛けようとするのだけは、見過ごせなかったのではないかな、と。」


 希望を見出そうとするセインの薄紫の瞳は、幼き日の兄の面影を映すかのように揺れていた。


「出発点だったにも関わらず、教会周辺の被害がすくなかったのがその証左、というところだろうか。貴殿は、兄君を信じているのだな。」


 スライは書類を脇に置くと、明るさを取り戻したセインに、微笑みを返した。


「ええ。……たったひとりの兄ですから。それにね、あの時、ちょっと違和感があったんですよ。……兄さんにはない色が、視えたような気がして。」


 セインは、あの日を思い出すかのように眉根を寄せると、ちいさな疑念の声を漏らした。


「色、か。竜の末裔としての力を抑えていたとしても、多少は感知するものがあるのだろう? ゆえに、貴殿はいつも眼鏡を掛けている。違うだろうか?」


 今までドラチェーザである自分が、彼の正体に気が付かなかったということは、セインはずっと、自らを強力な封印状態においていたのだろう。


 紫眼の白竜に関しては、竜を狩る一族に生まれついたスライさえ、伝承以上のことは分からない。しかしながら、その特異能力を魔眼の一種と捉えれば、彼の眼鏡も、能力を抑えるための魔具の一種であるはずだ。


 自らに枷を掛けた状態でも常に眼鏡を掛けていたということは、伝承に違わず、その能力は、相当に強力なものなのだろう。相手が彼の半身である黒竜であれば、あの夜でも、なにかしら感知していてもおかしくはない。


「おっしゃるとおりです。でも、なんの確証もない、僕の感覚的なものですよ。」


 セインは頷くと、困惑気味に視線を落とした。


「それでも、だ。貴殿の違和感、やはりいささか気になる。」


 スライは、ずいと身を乗り出して、セインの鼻先に指を突きだした。


「ほんのささいなことですし、僕自身、記憶が曖昧なんですよ。今となっては、本当に視えたのかも怪しいです。……それでも、気になりますか?」


 セインはおずおずと顔を上げると、スライの青灰色の瞳を覗き込んだ。


「ああ、気になる。これは、ドラチェーザとしての勘、とでも思ってくれて構わない。こちらの方でも、色々調べてみよう。状況の分析は特務局の十八番だろうが、竜の末裔のことであれば、お……私の専門分野だ。なにかしら、役に立てるかも知れん。」


 スライは、不安げに揺れる薄紫の瞳を支えるように、力強く頷いてみせた。


「……ありがとうございます。いけませんね。最近、誰かに頼ってばかりです。」


 セインは、礼を述べると、口惜しそうに唇を噛んだ。


「たしかに貴殿の自力で成し遂げようとする意志は、美徳ではある。しかし、時には頼ることも覚えるべきであると、お……私は考える。ゆえに、気にする必要はない。」


 スライは立ち上がると、セインの肩にそっと手を置いた。


 この両肩に背負った荷は、さぞや重たいことだろう。すこしくらい、他人に委ねてしまっても良いのだ。


 セインは、驚いたように、薄紫の瞳を瞬かせた。


「さて、陛下から承った監視任務は、これで完了したものと考える。傷はもう治っているのだろうが、魔力の急速な増加は、身体に負担が掛かるものだ。よく休まれよ。」


 自分の想いは、きっと、彼に届いたのだろう。


 スライは、念を押すように、セインに微笑みかけた。なにも、ひとりで立ち向かう必要はないのだ。ここには、彼を支える者が、大勢いるのだから。


「ありがとうございます。この国のドラチェーザが、貴方のような人で良かった。」


 穏やかに弧を描くセインの双眸には、安らいだように柔らかな光が燈っていた。


 その光は、きっと、彼の道を拓くだろう。


 スライは、軽く会釈をして、静かに彼に別れを告げた。


 人気のまばらな廊下を歩きながら、スライは思考を巡らせていた。


 セインの言葉を聞く限り、ガイル・クロスという男が、ただ人間への報復のためだけに動いているとは、どうしても思えない。彼には、彼なりの、もっと別の動機があるのかも知れない。


「それとも……。やはり、クロス卿の視たという色に、意味があるのか……?」


 その意味を解き明かすには、心を視るという紫眼の白竜の能力について、今一度、調べ直す必要がある。幼少期より力を抑えていた当人よりは、先人の記録を辿った方が、より輪郭ははっきりするだろう。


 古い伝承は、抽象的に過ぎる。聖句を辿っても、答えには手が届かないだろう。それならば、王城の図書館よりは、先祖から受け継いだ文献を、紐解いた方が早そうだ。なにせ、竜を狩る使命を与えられた先祖たちが、竜の末裔というものに対して細かく記録をつけてきたものなのだ。


 伝承に語られる紫眼の白竜ではなく、歴史にその軌跡を残した原初の竜の記録が、そこに残っていればいい。


 最悪の場合に備えて、兄にあたりを取っておくべきだろうか。どうも、自分は、隠された真実を究明する、ということには向いていない。頭脳労働は、スライの不得手とすることの一つだった。


 それでも、大見得を切った以上は、成し遂げなければならないだろう。もしその意味するところに辿り着けたなら、事態は思わぬ方向に転がり始めるかも知れないのだ。


 スライは、毅然として前を向くと、自室に向けて迷いなく歩き始めた。

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