第三章・暗夜の星を掴む ‐Ⅲ‐

 つかつかと歩を進める王の姿を見るや、眠たげな顔の竜騎士たちは、大慌てて道を空けた。朝から竜騎士団宿舎内で、王とすれ違うなど、滅多にあることではない。もしも、昨晩の事件がなければ、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていただろう。


「なあ、レオン。本当に、俺がついて行っても大丈夫なのか?」


 リクターは、早足で進むレオンに、そっと耳打ちをした。


 偶然とはいえ、セインが十八年間隠し通してきた事実を、自分は知ってしまったのだ。心身共に深く傷付いている今、セインはきっと、自分の顔を見たくはないだろう。


「構わん。あやつも、現実と向き合わねばならないのだ。」


 リクターの心配など知らぬげに、レオンは、真っ直ぐと前を見据えたまま、短く答えた。


 いつになく厳しいレオンの横顔は、王というよりは、弟の成長を見守る兄のそれに近い。


 リクターは、あえて、それ以上の追及を止めた。セインのことを一番気にかけているのは、レオンに他ならない。彼には彼なりの、兄分としての想いがあるのだろう。


 こうだと心に決めた時のレオンに、翻意を促すのは難しい。自分とて、レオンの気持ちが、まったく理解出来ない訳ではない。


 セインをそっとしておけば、傷を開くことはないだろう。だが、それは、一時的な逃避だ。厳しいかも知れないが、このままでは、セインは、前に進めない。


 それでも、性急に過ぎるのではないか。繊細なセインにとって、今、自分の顔を見ることは、かえって毒になる可能性もあるだろう。


 リクターが揺らぐ思いを留めるように口を噤むと、それきり、二人の会話は、ぷつりと途絶えてしまった。


 気まずい沈黙を引きずったまま、二人は階段を登り、宿舎の最上階へと至る。


 セインの部屋の手前まで来たところで、リクターは、重たい足を止めた。


「どうした? リクター。」


 レオンは、隣で響いていた跫音が途絶えたことを訝るように、こちらを顧みた。


「……お前はよ、あいつがそうだと知っていて、育てたのか?」


 リクターは、頬の傷を引っ掻きながら、言葉を選んだ。


 セインの顔を見る前に、これだけは、どうしてもレオンの口から聞いておきたかった。


「ああ、そうだ。そして、それに向き合わずして、未来は拓かれない。」


 レオンは、揺るぎのない声で、はっきりと断言した。


 彼の紅蓮の瞳には、苦難さえねじ伏せるほどの力強さが宿っている。


 芯が定まっているなら、それでいい。友が、我が王が選んだ道なら、支えていくのが自分の役割だ。


 リクターが腹を決めて頷くと、レオンは、なにも言わずに扉を叩いた。


 その口元が、わずかに緩んでいるのは、リクターの頷きへの答えだろう。


 しばらく待ってみても、室内からの反応はない。


 やはり、セインは今、人と話せるような状態ではないのではないか。


 気を揉むリクターをよそに、レオンは、無遠慮に扉を押し開いた。


「陛下……リクター殿……。」


 セインは、レオンに続いて扉を潜ったリクターの顔を見るや、驚いたように身を固くした。


 その顔に、いつもの柔和な笑みはない。薄紫の双眸は、眼鏡の向こう側で、逃げ道でも探すかのように宙を泳いでいた。


「……封を解いたのか、セイン。」


 レオンは、セインの様子に構うことなく、机に転がった魔石に目を向けた。


 その声は穏やかだが、リクターの耳には、どこか悲しげに響いた。


「はい。度重なる独断専行、いかなる責めとて、負う覚悟は出来ております。」


 セインは、わなわなと肩を震わせながら、深々と頭を垂れた。


 今すぐ、首を落としてくれと言わんばかりの勢いに、リクターは息を呑んだ。


「……もうよい。お前を止められぬことは、分かっておった。……よく、帰ってきた。」


 重苦しい沈黙を打ち払うように、レオンはセインの肩に手を置くと、すこし困ったように微笑んだ。


「陛下……。ありがとうございます。」


 セインは顔を上げると、ひどく申し訳なさそうに目を伏せた。


 リクターは、ほっと胸を撫で下ろすと、レオンの後ろから、そっと顔を出した。


「お前、寝てなくて平気なのかよ。つか、髪。どうしたんだ?」


 セインをあまり刺激しないように、あくまで自然に、声を掛ける。


「平気……ですよ。封さえなければ、あれくらいは、問題ありません。髪は……。まあ、僕の悪あがき、ですかね。」


 セインは、ぎこちなく答えると、リクターの視線から逃れるように下を向いた。


「そういや髪からも、魔力って放出されるんだったっけか。……俺には、あんまり関係ねえから、忘れてたわ。」


 当たり障りのない会話、というのは、ここまで難しいものだっただろうか。


 リクターは、困り果てて、頬の傷を引っ掻いた。


 まるで、セインのぎこちなさが移ってしまったかのように、上手く言葉が続かない。


「わずかな差……ですけどね。黒竜を相手にするのですから、出来るだけ、無駄は省かなければなりません。」


 セインは、会話に応じはするが、頑なに下を向いたままだった。まるで、リクターに怯えているかのように、ちらりともこちらを見ようともしない。


「……おい、セイン、こっちを見ろ。」


 このままでは、らちが明かない。


 リクターは、深く息を吐くと、強引にセインの真正面に回り込んだ。子供に説教をするときのように、彼の両肩を、がっちりと押さえる。


 リクターの大きな手に揺すられて、セインは、おそるおそる顔を上げた。


「俺は、簡単に掌を返す男に見えるか?」


 リクターは、セインの両目をしっかり見据えると、真っ向から問うた。


 セインが、人々の平和のために剣を取ったことを、自分は知っている。たとえ、彼が何者であろうと、そのことに変わりはない。


「……いいえ。僕の知るリクター殿は、そんな方ではありませんね。」


 セインは、ゆっくりと頭を振ると、どこか申し訳なさそうに眦を下げた。


「だろ? まあ、正直驚きはしたがな。だが、お前は、お前だろ。平和主義で、竜騎士長のくせに戦が嫌いで、誰よりも民の平穏を望んでいるような男だ。白竜だろうがなんだろうが、なんも変わらねえよ。」


 リクターは、景気よくにっかりと笑うと、乱暴にセインの頭を撫でた。


「ありがとうございます、リクター殿。すこし、ほっとしました。」


 セインは、ぐしゃぐしゃになった髪のまま、安堵したように表情を緩めた。


「なら、もちっと明るい顔しろや。あと、包帯変えねえとな。セイン、そこ座れ。」


 リクターは、セインを励ますように軽く小突くと、鏡台の前に置かれた丸椅子を指差した。


「必要ないと思いますよ?」


 口ではそんなことを言いながらも、セインは、素直に椅子に腰かけた。


「見ねえと分からんだろ。それに、血が滲んでる。そのままっつーのは、衛生上良くないぜ。」


 いくら竜の末裔といえども、昨日の今日で治るような傷ではない。それに、セインのことだ。やせ我慢をしているということもあり得る。


 リクターは、有無を言わせず、するすると包帯を外していった。


 血の滲んだ包帯の下から現れた白皙の肌には、大きな傷口が残っている。しかし、すでに出血は止まり、傷口は、新しい肉で塞がりつつあった。


「僕って、こんなに丈夫だったんですねえ。」


 セインは、改めて自分の傷口を見ると、驚きが過ぎたのか、急にくつくつと声を立てて笑い始めた。


「竜の末裔ってすげえな。俺も丈夫な自覚はあるが、腹ぶち抜かれたら、さすがに一か月は寝込むぜ。」


 リクターは、驚異的な回復を見せているセインの傷口を前に、目を瞬かせた。


 自分も、体質的に魔術を一切使えない代わり、常人よりはいくらか頑健に出来ている。傷の治りも、普通の体質の人間と比べると、ずっと早い方だ。


 それでも、セインの傷の治りの速さは、リクターの度肝を抜いた。


「リクター殿も大概だとは思いますが……。まあ、僕は、単独でも第一位階ですからね。竜の末裔でも、普通は、もっと遅いはずですよ。」


 セインはすこし困惑気味に答えると、念のためにと巻かれた真新しい包帯越しに、そっと傷を撫でた。


 セインの言葉に妙な引っ掛かりを感じて、リクターは、鳩のように首を捻った。


「……どうかしましたか?」


 つられたように、セインも、不思議そうに首を傾げる。


 奇妙な沈黙が、二人の間を駆け抜けた。


「……お前たち、なにを睨み競などしておるのだ?」


 水を打ったような静けさに、それまでなにかを求めて棚を眺めていたレオンが、くるりと二人の方を振り返った。


 互いに顔を見合わせたまま、鏡写しのように首を捻っている二人に、レオンは、訝しげに声を掛ける。


「なあ、レオン。俺の記憶が、たしかならよ。白竜って、単独なら第二位階じゃなかったか?」


 不可解なものを見たような顔をする友に、リクターは、自身の疑念を問うてみた。


 士官学校時代のわずかな記憶によれば、黒竜と白竜は、二人揃えば青竜と並んで第一位階になるが、単独では青竜に及ばず、第二位階になるのではなかっただろうか。


 遠い昔のことだから、記憶違いということも考えられるが、こんなことなら、座学もきっちり聞いておくべきだった。


「もし、セインの目が青ければ、だがな。」


 レオンは、くすりと笑うと、セインの方へ視線を移した。


「……どう見ても青じゃねえな。」


 レオンの言葉をたしかめるように、リクターは、セインの瞳をしげしげと覗き込んだ。


 念入りに角度を変えながら何度も見たが、セインの色素の薄い虹彩は、色付いた水晶のように、澄んだ菫色をしている。


 今までじっくりと眺めたことはなかったが、輝石のように煌めく薄紫色は、吸い込まれてしまいそうな危うさを孕んでいる。


「正確には、僕は、紫眼の白竜です。」


 セインは、リクターの好奇の目に耐えられなかったのか、そっと目を伏せた。


「目の色で違うっつーなら、なんかあるのか? ビームが出るとかよ。」


 リクターは、今度は梟のように、さらに首を捻った。


 目の色で位階が変わるというからには、なにかしら、隠された能力があるのだろう。


「ビームは出ませんけど、相手の心を視ることは出来ますよ。」


 セインは、リクターの言葉に半ば笑いながら、さらりと恐ろしいことを口にした。


「じゃあなにか? 今も俺の心は、筒抜けなのか? ちと恥ずかしいぞ、おじさん。」


 リクターは、思わず自分の胸元を、さっと両手で覆った。


 やましいことは特にないが、視られているのだと思うと、なんだか妙に落ち着かない。


「今は、はっきりとは視えていませんよ。僕の眼鏡は、そういう類の力を、抑えるためのものですから。」


 セインは、リクターの滑稽な姿に相好を崩すと、眼鏡のブリッジを押し上げた。


「あまり、良い能力ではないからな。」


「まー、俺だったら嫌だわな。考えてることが分かれば戦闘には有利だろうけどよ、知りたくもねえ相手さんの腹の底が見えちまうと思うとな。」


 リクターは、いつの間にか背後に立っていたレオンの方を顧みると、ぼりぼりと頬の傷を掻いた。


 リクターが、レオンに手を引かれた銀髪の少年に初めて会ったときの彼の眼差しは、今でも深く記憶に残っている。


 どこか遠くを見つめる薄紫の瞳は、子供らしくない凍えた色をしていた。


 あの時は、戦禍が、年端もいかない子供に深い悲しみと諦念を抱かせたのだと、哀れに思っていた。


 今になってみれば、七つの少年は、すでに善意の裏側に隠されたどろどろした悪意に、何度となく打ちのめされていたのだろう。


「あまり、気分の良いものではありませんよ。皆が、リクター殿のように、裏表のない人であれば、また違ったのかも知れませんが。」


 セインは、力なく笑うと、静かに目を細めた。


 その瞳は、いったい、なにを視てきたのだろうか。


 他人の裏側に秘めた悪意を理解しながら、憎しみに呑まれず、人を愛し、どこか寂しげに微笑むセインの在り様は、ある種の奇跡なのかも知れない。


「リクターなど、視ずとも分かるだろう? これほどまでに単純な男は、そうはおらぬ。」


「単純で悪かったな。」


 レオンの揶揄するような声に、リクターは、むっとして腕を組んだ。


「なに、お前の単純さは美徳だ。夏の空のようにからりと澄んだ男が、我が友であることを、私は誇りに思っている。」


 レオンは、ちいさな笑みを浮かべると、リクターの背を軽く叩いた。


「おいおい、おだてても何も良いことねえぞ?」


 リクターは、むず痒いような居心地の悪さに、頬の長い刀傷を引っ掻いた。


 レオンとは、長い付き合いだ。幼児の頃からだから、かれこれ三十年近くになる。気の置けない仲ではあるが、正面から褒めそやされたことなど、今まであっただろうか。


「なにを言う。良いことは、もうあった。」


 レオンは、珍しく愉快そうに声を立てて笑うと、意味ありげに、ちらとセインの方に視線を流した。


「さて、リクター。そこを退くがよい。私は、セインの髪を切らねばならぬ。」


 ひとしきり笑った後、レオンは、仕切り直すようにリクターの肩に手を置いた。


 どこから引っ張り出してきたのやら、いつの間にか、レオンの手には、鋏と櫛が握られている。


 リクターは、言われるままに、場所を空け渡した。


「僕が士官学校に入る前は、よく切っていただいておりましたね。」


「ずいぶんと大きくなったものだ。」


 レオンは、年の離れた弟を慈しむように、セインの髪に優しく櫛を入れる。


 軽快な鋏の音が響く中、リクターは、昨夜のことを思い起こしていた。


「……なーんでお前の兄貴は、わざわざ仕切り直すような真似をしたんだろうな?」


 ベッドの脇にどっかりと腰を下ろして、リクターは、ふと浮かんだ疑問を口にした。


「あのままの僕では、兄さんとは、満足に戦えませんでした。兄さんには、それが分かっていたのでしょう。」


 セインは、今にも泣きだしそうな顔で、ぽつりと答えた。


「お前の兄貴、大剣を軽く扱っているように見えたが、ありゃ相当な手練れだ。あんな得物、修練もなしに扱えるようなもんじゃねえ。」


 リクターが黒竜と接触したのは、ほんのわずかな時間だが、同じ剣を振るう者として、これだけは断言出来る。


 彼が背負っていたのは、かなり大振りの両手剣だった。竜の末裔の膂力もあるのだろうが、あれを自在に操るには、それなりの修練が必要だ。


 それを片手で抜刀し、セインを差し穿つまでに、一秒と掛かってはいなかった。あの身のこなしは、一昼夜で修得出来るようなものではない。


「僕たちの父は、位階の低い緑竜の身でありながら、帝国騎士団の長にまで上り詰めた人でした。兄さんは、そんな父から才覚を受け継いでいましたから。修練を積んでいれば、黒竜である兄さんと、対等に打ち合える相手はすくないでしょうね。」


「自分と対を為すお前が万全であれば、退屈はしねえ、か。まあ、剣士としてはな、分かるんだよ。純粋に、剣技だけを競うっつうんならよ。だが、黒竜にとっちゃ、お前を殺すのは、自分を殺すのと同じことだろ。」


 黒竜と白竜は、双子でしか生まれえない特殊な竜だ。竜の末裔の中でも、二人揃えば、唯一、皇帝である青竜と同格の第一位階に位置づけられるが、二人で一人という致命的な弱点を持っている。


 どちらか一方が傷を負えば、連鎖的に、もう一方も同様の傷を負う。その性質上、セインを殺すということは、黒竜にとっては自分を殺すことと同義になる。


「命を賭してまで戦っているというのに、わざわざ好機を見過ごすというのは、たしかにおかしなことだな。」


 レオンは、一旦鋏を動かす手を休めると、考え込むように眉根を寄せた。


「あの時なら、セインだけじゃなく、俺も殺せたはずだ。ハーネストを落とすなら、これ以上の一手はないだろ。」


 なにせ、武装をしていたにせよ、弱ったセインを庇っていた自分には、十分過ぎるほどの隙があったのだ。なおさら、首を獲りにいかない理由が分からない。


「……もし僕であれば、二人とも確実に仕留めていますね。同格の相手に、回復の機会を与えるなんて、あり得ないことです。」


 セインは、昏い嘆息を零すと、静かに目を伏せた。


「だろ? お前の兄貴、本当はこの国を攻め落とす気がなかったんじゃねえのか?」


「兄さんの目的は、他にあった、と。」


 リクターの言葉に、鏡越しにこちらを見やるセインの瞳が、一縷の希望に縋るように煌めいた。


「まあ、俺の勘だがよ。」


 リクターは、お茶を濁すように、ちいさく付け足した。


 あまり、期待を持たせるのも酷だ。


「やはり、兄さんには、再び、問わねばなりませんね。」


 セインは、鏡を見つめると、低く呟いた。


 鏡の向こう側に、兄の面影を見ているのだろうか。


「一週間後、と言っていたそうだな。」


 レオンは、鋏を置いて、セインの襟足を丁寧に払った。


「はい。……僕の知っている兄さんは、約束を違えるようなことはしません。」


「ならば、万全の状態で迎えてやるがいい。」


 すっかりと整えられた銀髪を、レオンは、わさわさとかき回すように撫でた。


「……ありがとうございます、陛下。」


 セインは、レオンにされるままに任せ、くしゃくしゃになった髪のまま、口元に笑みを浮かべた。


「ぶつかって、初めて分かることもあるぜ。他人とだってそうだ。兄弟なら、なおさらだろ? 正面から向き合えば、道はいくらだってある。」


「そうですね。僕は、今までずっと、そうして来なかった。自分とさえ、向き合っていなかったのでしょう。でも、それも今日でおしまいです。」


 セインは立ち上がると、気合を入れるように、自分の頬を両手で張った。


「恐れているだけでは、なにも変わりません。それを、僕はリクター殿から教わりましたからね。兄さんとも、他の人々とも、僕は分かり合いたいです。」


 振り返ったセインの顔に、もはや怯えの色はなかった。


 セインは、力強く、前を見据えている。明るさを取り戻した薄紫の双眸は、その先に新たな希望を見出したかのようだった。

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