第三章・暗夜の星を掴む ‐Ⅱ‐

 閉じた瞼に光を感じて、セインは、ゆっくりと目を開いた。


 目の前に広がっていたのは、見慣れた天井だった。


 小鳥の囀りが、耳に心地良い。いつもと変わらぬ目覚めの光景が、そこにはあった。


「……あれは、悪い夢だったんでしょうか。」


 カーテンの隙間から漏れる陽光は、嘘みたいに穏やかだ。


 セインは、ぼんやりとした頭で、そうだと良いと思った。


 ノルヴァニールを襲った災厄も、兄との再会も、決裂も、全部夢だったら、どんなに良いだろう。


「っ……。」


 身体を起こそうとすると、脳髄を貫く鋭い痛みが、セインの儚い望みを打ち砕いた。


 セインは、そっと布団を捲ると、己の身体を茫然と眺め下ろした。腹部に巻きつけられた包帯には、セインを嘲笑うように、血が滲んでいる。


 傷口が、身じろぎひとつするだけで疼く。まるで、むき出しになった神経を、ゆっくりと鋸で引かれているような感覚だった。


 ただ起き上がるだけで、全身に、じっとりと、嫌な汗をかいていた。セインは、額の汗を拭うと、歯を食いしばりながら、辛うじてベッドから這い出した。


 一歩足を踏み出すごとに、現実が、軋みながらセインの心を深く抉っていく。痛みは、信じたくなかった事実を、無慈悲なまでに鮮烈に、セインの意識に刻みつけた。


 襲撃事件の影に黒竜がいると分かった時から、覚悟は、していたつもりだった。


 一般的な竜の末裔と違って、黒竜は、同時に何人も存在することはない。単独で、この世に現れることもない。黒竜は、白竜との双子でしか産まれない、特異な存在だ。


 人間になりたいと希ったところで、神が、その祈りを聞き届けてくれることはない。自分の痛切な声が、虚しく黙に響くだけだ。


 生まれついた性質は、どう足掻いても、覆せはしない。そして、いつか、偽りは、白日の下にさらされる日が来るだろう。


 十八年間、セインが、それに怯えない日など、あっただろうか。


 ひた隠しにしようとも、自分が、白竜であることは、揺るぎのない事実だった。


 黒竜といえは、この世にたったひとりの、自分の双子の兄以外の、何者でもない。人違い、ということは、絶対に起こりえないことだ。


 黒竜が人間に報復するというのならば、兄とは、敵として再会することになる。それは、抗いようのない現実となった。


 十八年ぶりに再会したガイルの柘榴石のような瞳は、底冷えする闇夜のように凍えていた。そこに、セインの知る、屈託なく笑う優しい兄の面影は、どこにもなかった。


 あの凍てついた視線を思い出すだけで、セインの胸は、悲鳴を上げるように軋んだ。


 十八年の歳月は、あそこまで、穏やかな兄を変えてしまうものなのだろうか。ガイルは、今まで、その目でなにを視て来たのだろうか。


「……人間のふり、か。」


 セインは、鏡の中の己を、じっと見つめた。


 腰まで伸びた長い銀髪の下に、幽鬼じみた蒼い顔をぶら下げた、弱々しい男が立っている。生気のない虚ろな薄紫の双眸は、為すべきことを問いかけるように、こちらをじっと見つめていた。


 十八年前、はぐれてしまった兄を守るためには、生き延びなければならなかった。双子の竜にとって、片割れは、文字通りの半身なのだ。


 セインは、生き延びるために、レオンの手を取った。生きてさえいれば、いずれ、兄を見つけることも出来るだろう。そうすれば、もう、ひとりぼっちではない。幼かったセインは、ただ兄のために、人間として生きる道を選んだ。


 その末路が、この姿だ。セインの腹を穿ったために、自身も傷を負ったガイルは、おそらくもう、万全な状態に戻っているだろう。


 竜の末裔としての力を封じ、ずっと己を偽ってきた自分には、そんな力はない。このまま、約束の日が訪れたとしたら、一方的な破滅の道へと墜ちるだろう。


 セインは、自嘲的な嘆息を零すと、壁に掛けた短剣を手に取った。


「いつまでもこうしている訳には、いかなかったんですよね、きっと。」


 セインは、鏡台の前に置かれていた丸椅子に腰かけると、静かに短剣を鞘走らせた。


 陽光を受けて、鍛えられた鋼が、冷たい輝きを返す。


 このまま、人として生きていければ、どんなに良かっただろう。


 ハーネストで暮らした十八年の歳月が、セインの脳裡を、走馬灯のように駆け巡った。苦労もあったが、大勢の人に囲まれ過ごした日々は、どこを切り取っても、代えがたい温もりに満ちていた。


 故郷にいては、絶対に、訪れえない時間だっただろう。


 遥か昔、双子の竜は、後に帝国を築くことになる青竜に、反逆したという逸話がある。それゆえに、帝国において、双子竜は、不吉な存在であるとされてきた。


 それでも、もしもセインの瞳が青ければ、問題は、あまりなかっただろう。白竜の青い瞳は、青竜たる皇帝への、帰順の証と言われてきたからだ。


 しかし、セインの瞳は、薄紫色をしていた。薄紫の瞳を持つ白竜は、青竜に戦いを挑んだ者以来、現れなくなった筈であるにも関わらず。


 かつて皇帝に反逆した双子竜と同じ眼を持つ子供が、よりにもよって、帝国騎士団長の子として生まれたのだ。自分が産声を上げた時のことなど知る由もないが、巷を騒がせたであろうことは、想像に難くない。


 きっと、目を開いた我が子を見て、優しいあの母さえも、ぞっとしたことだろう。


 ガイルとセインは、災厄の子として蔑まれ、嫌な思いをすることも多かった。両親は、二人を慮って、市街地から離れた丘の上に家を建てた。


 両親が建てた丘の上の家は、セインにとって、生きる世界のすべてだった。


 父は帰るたびに、ほうぼうで見繕った本を、セインに与えてくれた。他愛のないお伽噺に始まり、帝国の歴史、剣術の指南書、魔術、人間や、他の種族について書かれた本など、内容は多岐に及んだ。


 それは、セインに与えられた、唯一の救いだった。


 本の中に広がる世界は、幼いセインには、自由で、遠い星のように輝いて見えた。人々は優しく、お互いを助け合い、時には、脅威に敢然と立ち向かっていく。


 読書は、セインに外の世界に対する強い憧れと同時に、深い諦念をも抱かせた。


 友達、仲間、そういったものに、きっと、自分は出会えないだろう。家族以外の人に、受け入れてもらうことなど、出来はしない。災厄をもたらす者、化け物と呼ばわれる自分には、望むべくもないことなのだ。


 ずっと、そう思っていた。それが真実で、当然のことだと思っていた。存在するだけで忌まれる自分は、そうあるべきだとさえ、信じ込んでいた。


 それでも、レオンの手を取ったあの日から、セインの世界は、まったく違うものになっていった。


 人間として過ごすうち、無二の友を得た。信頼出来る仲間にも、巡り合えた。


 災厄をもたらす者と謗られ、化け物と恐れられることもなく、人の目を気にして隠れる必要もなかった。そんな自由で、あたりまえのようなことさえ、本来ならば、ありえない夢だったのだろう。


 人間として生きてきた十八年は、セインにとっては、お伽噺のような幸せな時間だった。


 それでも、なにかをひとつ得るには、なにかをひとつ、手放さなければならない。


 彼らを守り、兄を救うには、こうするしかないのだ。たとえ、もう二度と、この幸せに、触れることが出来なくなろうとも。


 セインは、決意を胸に、短剣を掲げた。


 祈るように、目を閉じた。意識を、心の奥底に集中する。短剣を握るセインの手から溢れた薄紫の淡い光が、揺らめくように、短剣を包んでいく。


 光の揺らめきが収まったのを肌で感じ、セインは、静かに瞼を上げた。


 セインは、魔力を帯びた短剣で、一息に、己の左足首を切り裂いた。


 鋭い痛みが、脳天まで突き抜ける。


 セインは、痛みを噛み殺しながら、傷口から、ちいさな薄紫の魔石を取り除いた。


 痛みに耐え、血が流れるのも厭わずに、セインは、尚も短剣を己に突き立てた。右足首、左腕、右腕、と、順繰りに、埋め込まれていた魔石を抉り出していく。


 ひとつ魔石を除くごとに、痛みは和らぎ、身体が軽くなっていくのが分かった。


 セインは、長い銀髪を掻きあげると、首の後ろを長く抉るように裂いた。


 深い傷口に指を差し込み、首の付け根に埋め込んであった一番大きな魔石を取り除いたころには、既に、両足首の傷は、痕さえ残さずにふさがっていた。


 両腕の痛みも、首筋の痛みも、腹部の痛みさえも、緩やかに収まっていく。


 すべての傷が癒えたころには、セインの左上膊部に、薄紫の紋章が浮かび上がっていた。竜が月と太陽と戯れるような紋章は、己が、本当は何者であるかを示すものだ。


 セインは、嘆くように、己の紋章を指でなぞった。これを見るのは、一体いつぶりだろうか。


「兄さんと戦うなら、こっちも、ですかね。」


 セインは、名残惜しげに、自分の長い銀髪を束ねると、根元からばっさりと切り落とした。頭を左右に振ると、主から離された細い銀糸が、羽根のようにふわりと宙を舞った。


「髪が短いのなんて、子供の時以来ですかね。」


 頭が、異様に軽かった。セインは、たしかめるように、己の首筋に手を伸ばした。


「こうしてみると、兄さんによく似てますね。」


 セインは、鏡に映る自分に向けて苦笑を零した


 髪の色も、目の色も、浮かべる表情さえも対照的だというのに、やはり、血は争えない。


 思えば、この世に産まれ落ちるよりも前から、ガイルとは、ずっと一緒だったのだ。


 それが、今や、敵として相対している。自分にとって、ここまで苦しい相手が、かつていただろうか。


 すこしでも言葉を交わせば、きっと、ガイルならば解ってくれる。あの夜、己を貫いた刃を見るまでは、ずっと、そう信じて疑わなかった。本当は、今でも一縷の希望を、捨てきれずにいる。


 ガイルは、去り際に、一週間待つ、と言っていた。きっと、誠実な兄は約束通り、ここに現れるに違いない。


 たった一人の兄に、自分は刃を向ける事が出来るのだろうか。いや、きっと、自分は、最後まで躊躇うのだろう。


 黒竜と白竜は、お互いがいなければ存在することが出来ない特殊な存在だ。普通の兄弟より、ずっと強い繋がりがある。だからこそ、ガイルなら、解ってくれると思っていた。


 それも、今や叶わぬ夢と消えてしまった。


 セインは、自分の血に塗れた短剣を、じっと見つめた。


 今この場で、セインが喉を突けば、ガイルも道連れになるだろう。終わらせるのは、簡単なことだ。


 しかし、それは、兄に対する侮辱に他ならない。


「僕はね、諦めが悪いんですよ。」


 セインは、誰にともなく呟くと、抉り出した魔石と共に、短剣を机上に置いた。


 この国のためにも、兄のためにも、自分は戦わなくてはならない。


 あの昏い瞳に、もう一度、問わなければならないのだ。

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