第三章・暗夜の星を掴む ‐Ⅰ‐

 降りしきる雨が、混乱を静かに縁どっていた。

 王城の裏庭には、城下の異変に気付いた人々が、雨のことさえ忘れ、すこしでも状況を知ろうと群がっている。

 そこから、ひとりの青年が、銀糸の髪を靡かせて走り去ったことに気が付いた者は、ただひとりを除いて、誰もいなかった。

「セイン様……。」

 青年が走り去った方向を見つめ、ルークは、悔やみながら彼の名を呼んだ。

 あの人は、行ってしまった。たったひとりで、竜の末裔の攻勢激しいノルヴァニールを救うために、駆け出してしまった。

 今となっては、もはや追うことも叶わない。あの人は、自分に背中を預けて行ったのだから。その信頼を、自分が裏切る訳にはいかなかった。

 重苦しい狂騒に包まれた人波は、小柄なルークを、容赦なく押し流す。

 ルークは、身をよじりながら、懸命に辺りを見回した。

「リクター様! リクター様!」

 竜騎士団を任された以上は、騎士団との連携を図るべきだ。

 ルークの呼び声は、虚しく喧噪に吸い込まれていく。何度声を張り上げてみても、人並み外れた巨躯を誇る騎士は、一向に姿を現してはくれなかった。

 もしかすると、この凶報を聞いて、彼はもう、王の許へ向かっているのではないだろうか。

 ルークは、圧し潰されながらも、やっとのことで人ごみから抜け出すと、広い王城の中を、わき目も振らずに駆け抜けた。

 体力では、きっと自分は、この城の誰よりも劣るだろう。

 それでも、自分が今こうして竜騎士となれたのは、あの人が、自分さえ気付いていなかった魔術の才を見出してくれたからだ。

 何度も、何度も、足が縺れそうになる。そのたびに、ルークは、今は遠い背に手を伸ばすように、身体をぐっと前に傾けた。

 竜騎士となってからも、自分を常に導いてくれたのは、あの大きな背中だった。あの人の危機を前にして、この足を止めるなんてことは出来ない。

 既に息は上がり、心臓は、裏返りそうなほどに脈打っている。全身を駆け巡る血が、内側から身体を焼くかのように熱かった。

 それでも、ルークは、足掻くように走り続けた。

 城下は今ごろ、どうなってしまっているのだろうか。父母は、無事だろうか。

 ひとりで行ってしまったあの人は、帰ってくるのだろうか。

 彼の背中を、自分は、どうして止められなかったのだろう――。

 塞き上げる後悔と、与えられた信頼が、辛うじてルークの身体を前へと進ませていた。




「失礼いたします! 竜騎士団第一部隊長ルーク・タイルフォンです!」

 ルークは、ようやく辿り着いた壮麗な扉を、返事も待たずに押し開いた。半ば倒れ込むようにして、国王の間に転がり込む。

 すでに武装を整えた王と騎士長が、驚いたように闖入者を見やった。

「ノルヴァニール市街地に……りゅ、竜の末裔が……! セイン様……セイン様が……」

 ルークは、床に這いつくばったまま、荒い呼吸の間を縫って、無理やり声を押し出した。

 ここまで走り続けたせいで、噎せこんでしまって、上手く喋れない。

「落ち着けルーク……。セインが見つからねえのか?」

 リクターは、ルークに歩み寄ると、労わるように、背中を優しく擦ってくれた。

「セイン様が……おひとりで……城下へ……。」

 ルークは、縺れる舌で、なんとか言葉を紡いだ。

「……おい、ルーク、俺の聞き間違いだよな?」

 ルークの短い言葉に、リクターが驚愕したように目を見開いた。いつもは揺るがない力強い彼の声が、わずかに震えている。

「セイン様は……城下へ向かわれました。様子を探るだけだと……おっしゃられて……たった……おひとりで……! 申し訳ございません……! 僕は……僕には、お止めすることが出来ませんでした……!」

 ルークは、声を振り絞ると、力なく拳を床に叩きつけた。

 水を打ったような静けさの中、リクターが息を呑む音だけが、虚しく耳朶を打つ。

「ルーク・タイルフォン。今だけ、お前に竜騎士団ならびに騎士団の指揮権を委任する。急ぎ聖者の槍を起動し、城内の全騎士を集めて守備を固めよ。」

 玉座から、レオンの冷徹な声が降り注ぐ。

 ルークは、弾かれたように、壇上の王を仰ぎ見た。

 紅蓮の甲冑に身を包んだ王は、凍てつくような厳しさで、二人の騎士を見下ろしている。

「なに言ってんだレオン! 俺は、ここにいるだろうが!」

 信じがたい王の号令に、リクターの抗議の声が轟いた。

 竜騎士長が不在の今、全軍の指揮を取るべき人は、リクターをおいて他にはいない。この金色の鎧を纏った騎士長を差し置いて、格下の自分に全権を委任するとは、どういうことなのだろうか。

 ルークは、呆気にとられたまま、王の言葉の続きを待った。

「リクター。お前は、城下へ向かえ。」

 レオンは、烈火の如くに吠え立てるリクターとは対照的に、冷厳な声で指示を下す。

「おいおいおいおい! マジでなに考えてやがるんだ、お前? 俺までここを離れたら、もし奴らがここに来ちまったとき、誰がお前の盾になるんだよ! お前が死んじまったら、この国は終わりだ! 分かってんのか!」

 リクターは、さらに声を大きくしながら、猛然とレオンを睨み据えた。

 王には、まだ後嗣はいない。レオンの死は、ハーネストの王統の終焉と同義なのだ。いくら、レオンがセインを弟のように大切に思っているにせよ、優先するべき順序を間違っている。セインを探しに行かせるのなら、リクターではなく、ここで這いつくばっている自分の方が、まだ筋は通るだろう。

「案ずるな。おそらく、敵はここまでは来ない。聖者の槍もある。セインなら、防ぎきるだろう。それにな。私とて、只人の身ではない。この国の未来のために、力を揮わずして何とする?」

 レオンは、玉座から立ち上がると、獲物を狩る獅子のように獰悪な笑みを浮かべた。炎を司る紅蓮の王は、友を安堵させるかのように、傍らに置いた巨槍を、軽々と構えてみせる。

「んなこた分かってるんだよ! お前が神皇七士だってことも、槍を持たせれば右に出る者がいないってことも! だがよ……!」

 リクターは、王の意思を揺るがすように、懸命に食い下がった。

 いかに、神皇七士が、神から委ねられた強大な力を秘めていようと、押し寄せる竜の末裔を、無傷で退けられるほどではないだろう。

 臣下の悲痛な訴えにも、レオンは、頑なに首を横に振った。

「私は、お前のことを信頼している。だからこそ、お前にセインを探し出してきて欲しいのだ。お前にしか、任せられぬ。……リクター。私を、信じてはもらえぬか?」

 レオンは、壇上から降りると、リクターの肩にそっと手を置いた。

 王の紅蓮の瞳には、崩しようのない強固な意志が燈っている。

「……だー! 分かった! 行ってやる! 行ってやるよ! お前は、いつもそうだ! こうと決めたら聞きやしねえ!」

 リクターは、レオンの手を振り払うと、半ば自棄になったように友の頼みを飲み込んだ。

「……苦労を掛けるな。」

 レオンは、申し訳なさそうに、静かに手を下ろした。

「セインもそうだ! ったく、いらんとこばっかり似やがって……。」

 リクターは、荒ぶる熊のように吠え立てながらも、金色の鎧をがちゃがちゃと鳴らして、足早に去っていった。

 ルークは、二人のやりとりに圧倒されたまま、茫然と、金色の騎士の背を見送った。

「ルーク。そろそろ、呼吸も落ち着いたろう。急ぎ、聖者の槍を起動せよ。それが、セインの助けになる。そなたも、務めを果たすがいい。」

 レオンは、へたりこんだままのルークを助け起こすと、優しく背を押してくれた。

 どこか嘆きの色を帯びた紅蓮の瞳は、ルークを励ますように、慈しみ深く微笑んでいる。

「はい! ありがとうございます、陛下。」

 ルークは、深々と一礼すると、決然と駆け出した。

 今は、あの人を止めることが出来なかった自分を、責めている場合ではない。あの人に、王に、与えられた信頼に、答えるべき時なのだ。

 ルークは、恐れを切り捨てて、前を向いた。

 ごうごうとなる雨音は、後悔を洗い流すかのようだった。




「……ひどい有様だな。」

 災厄に呑まれた王都の姿に、リクターは、思わず口元を覆った。

 雨水に交じって、噎せ返るような血臭が立ち込めている。穏やかだったはずの街は、絶望に踏み荒らされていた。

 逃げ惑う人の流れに逆らって、リクターは、大路を抜けていく。

 きっと、セインは、この流れの反対側にいるはずだ。竜の末裔を追っているのなら、逃げる人々と、同じ方向へ行く筈はない。

 リクターは、降りしきる雨をはねのけるように、がむしゃらに前へ進んだ。

「くそっ……。あいつ、どこにいやがるんだ……。」

 進めども僥倖の見えない暗闇に、リクターは苛々と悪態をついた。

 ある朝、悪夢について語ったセインの顔が思い出される。ただの夢だと言いながら、力なく微笑んだ彼は、水底よりも蒼い顔をしていた。

 その惨劇に身を置いて、セインが、平静でいられる筈がない。

 幼くして戦禍ですべてを失ったからこそ、人々の平安を強く願うあの男には、己の肢体を引き裂かれるよりも辛いはずだ。

 こんなところに、セインを長居させたくはない。幼い頃から、ずっと見守ってきたのだ。彼がどう感じるかは、痛いほどによく分かる。

 それに、城に残してきたレオンのことも気がかりだった。強がってみせていたが、内心では不安であるはずだ。

 ――早く、セインを連れて城に戻ろう。

 リクターの想いに反して、あの人目を引く長い銀髪の青年は、影さえも見当たらない。刻一刻と、焦りばかりが募っていく。

 気が付けば、逃げる民衆からは遠く離れ、辺りにはもう、誰もいない。ただ、道端に、物言わぬ亡骸が、取り残されているだけだ。

 リクターは、焦燥感に焼き切れそうな神経を尖らせて、暗闇に目を凝らした。

 篠突く雨が、嘲笑うように視界を遮る。もはや、一寸先さえ、よく見えなかった。

 この辺りにはもう、いないのだろうか。

 リクターが、諦めて踵を返しかけた時だった。

「……十八年前……俺たちに……忘れたとは言わせんぞ!」

 雨音を穿つように、瞋恚に猛る男の唸り声が、闇を切り裂いた。

 深い憎しみにまみれたその声音に、リクターは、驚いて辺りを見回した。

 低く昏い声は、朗らかに笑うセインとは、双極にある。

 それなのにリクターの足を止めたのは、それが、セインの声かと思うほどに、酷似していたからだ。

「……した! ……誰も戻ってはこない!」

 雨の隙間からわずかに聞こえた声は、今度こそ、間違いなくセインの声だった。

 この路地裏に、セインはいる――。

 リクターは足音を潜め、注意深く路地に忍び寄った。

 漏れ聞こえてくる二人の声は、雨音にかき消されて、はっきりとは聞き取れない。

 今分かるのは、セインと何者かが、言い争っているということだけだ。

 ここで様子を伺うべきかとも思ったが、このままでは、らちが明かない。

 リクターは、腹を括って、路地に躍り出た。

 刹那、黒衣の男が、背負った大剣を閃かせた。

「……にい……さん……?」

 リクターが声を上げる間もなく、雨に煌めく漆黒の大剣が、セインの腹を貫いていた。

「いいだろう……。邪魔をするというのであれば、殺す。たとえ、俺が死そうとも、な。」

 剣を引き抜いた男は、力なく膝をついているセインを睥睨すると、冷たく、宣言した。

「セイン!」

 リクターは、なりふり構わず、セインと男の間に駆け込んだ。

 短く切り揃えられた黒髪の下で、昏い光を放つ柘榴石の瞳が、闖入者を値踏みするかのように細められた。

「ああ、セインの友人か? ……弟が、世話になっている。」

 男は、セインを庇うように立つリクターに向けて、口元に、わざとらしい笑みを張り付けた。

「弟、だと?」

「そうだ。なあ、セイン? どうやらご友人は、信じたくないらしい。教えてやったらどうだ? ハーネストを襲撃した黒竜は、血を分けた、自分の実の兄だと。」

 黒竜は、嘲るように、リクターの背後でうずくまっているセインに語りかけた。

 黒竜の弟であるならば、セインは――。

 リクターは、当惑したまま、ゆっくりとセインの方を顧みた。

 セインは、俯いたまま、頑なに、顔を上げようとはしない。

 鈍色の夜に、雨だれの音だけが、虚しく響いた。

「……まあいい。お前にとって、一番恐ろしいことだろうからな。俺にも、兄として、お前を思う情はある。……一週間だ。人間のふりをしたままのお前を斬るのは容易いが、それではつまらん。お前を殺せば、俺も、運命を共にするのだ。最期に、この兄に死闘ぐらい手向けてくれてもいいだろう?」

 黒竜は、興が褪めたとでもいうかのように大剣を鞘に納めると、闇に溶けるように姿をくらませた。

 黒竜のいたはずの場所には、おびただしい流血の跡だけが残っている。

 どんなに辺りを見回しても、黒竜の気配は、もうどこにもなかった。

「セイン、大丈夫か? 出血がひでえ……。」

 リクターは、セインの背にそっと手を回すと、優しく抱え上げた。

「リクター殿……。僕は……僕、は……。」

 セインは、もはや抵抗する力もないのか、うわ言のように呟きながら、焦点の合わない薄紫の瞳でこちらを見ている。

「……今は喋るな。傷に障るだろ。」

 リクターは、それだけ言うと、遠くにある城を見上げた。

 今のセインに、自分はなんと声をかけたらいいのだろうか。

 レオンは、すべてを知った上で、彼を育てていたのだろうか。

 リクターの脳裡に、いくつもの疑念が浮かんだ。

 だが、今はただ、城に戻ろう。一刻も早く手当をしなければ、この傷では、死んでしまってもおかしくはない。

 リクターはそれきり口を噤み、ただ一直線に、王城へと駆けた。

 雨音は、嘆きの声のように、傷付いた街に降り注いでいた。

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