第二章・報復の狼煙 ‐Ⅳ‐

 いつもなら穏やかな眠りについているはずの街は、人々の悲鳴で溢れていた。

 連なる家並みは崩れ、噎せ返るような血の臭いが、雨に濡れそぼつ夜を包みこんでいる。

 瓦礫にまみれた大通りは、我先にと逃げ惑う人々でごった返していた。

 泣き叫ぶ赤子を抱えた母親を、歩くのもままならない老爺を、助ける人はない。誰もかれもが、己の身を守るのに必死だった。

 恐怖に我を忘れた群衆の足元で、踏みつけられた物言わぬ躯たちは、生気を失った虚ろな目で、セインをじっと見つめていた。二度と光を映すことのない瞳は、恐怖に見開かれたまま、静止している。

 いつか見た地獄の似姿に、セインは、足元から崩れ落ちそうなほどの眩暈を覚えた。

 自意識過剰な心臓は、うるさいほどに早鐘を打っている。胃液は逆流し、セインの喉の奥を焼いていた。もっと早く辿り着いていれば、救えたはずの命が、暗がりで雨水に沈んでいる。

 いずれ、この日が来ると、解っていたはずだった。それなのに、結局、自分はそれをどうすることも出来なかったのだ。

 この惨状は、自分の力が、足りなかったせいで生み出されたものだ。それでも、ここで立ちすくんでいる訳にはいかない。

 セインは、己に鞭を打つと、毅然として前を向いた。

 逃げ惑う人々の群は、一群の黒い波となっている。その流れをさかのぼれば、元凶に辿り着けるはずだ。

 セインは、人の流れを掻き分けながら、慎重に進んでいった。

 雨水に交じって広がる血潮が、歩くたび跳ね返って、セインの白い長外套に、不気味な赤い染みを残していく。

 セインは、降りしきる雨の隙間から、深い闇に目を走らせた。

「早く……探し出さなくては……。」

 暗闇は、なにも答えてはくれない。

 元凶を止められなければ、犠牲者ばかりが増えていく。そうなれば、この街だけではなく、ハーネストそのものの存亡すら危ういだろう。

 押し寄せる無力感に、セインは、何度となく膝を折りそうになった。

 セインは、そのたびに唇を噛みしめて前を向いた。焦る気持ちを懸命に押し殺し、神経を研ぎ澄ませて、周囲を探っていく。

 セインをあざ笑うかのように、にわかに強くなった雨脚が、視界さえも奪っていく。篠突く雨に、自分の指先さえ、見失ってしまいそうだ。

 このまま混乱の中を無理にさかのぼるよりは、脇道から進んだ方が早いかも知れない。

 セインは、大通りの人波から抜け出して、一番近くの路地に入った。

 人の流れから察するに、元凶は、恐らく街の中心部だ。横から回り込めば、そう遠くはない。

 セインは、考えを巡らせながら、路地を進みはじめた。

 数歩、進んだところだろうか。背後に感じた気配に、セインはぴたりと足を止めた。

 音もなく現れたのは、助けを乞う民衆ではない。肌を焼くほどの、明確な殺気を帯びている。

 セインは、ふうっと息を吐くと、静かに、向けられた殺意の方を顧みた。

「黒竜は、どこですか?」

 短く問いかけながら、セインは、獲物を前にした獣のように目をぎらつかせている男たちを観察した。

 見かけは人間と大差ないが、肌に浮かぶ紋章が、彼らが人ではないことを証し立てている。自らの出自と力を示す紋章は、強い魔力を持つ種族のみに現れる特徴だ。

 彼らは、王都襲撃の実行犯の一部だろう。

 燃えるような赤毛の男が三人、生い茂る青葉のような緑髪の男が四人。全員が、武器を手に、セインをぐるりと取り囲んでいた。

 いつの間にか、退路は完全に塞がれてしまっている。

「騎士様よ、聞かれて答えるとでも思ったか?」

 赤い髪の男は、一歩前へ進み出ると、セインを嘲るように下卑た笑みを浮かべた。

「それもそうですね。でしたら、そこをどいて下さいませんか? あなたたちなどと、遊んでいる暇はありませんので。」

「なん、だと?」

 セインの大きなため息に、男は、ぴくりと眉を動かした。

「おや、聞こえませんでしたか? 僕が探しているのは、黒竜です。あなたたちなどには、用はありません。教えて下さらないなら自分で探しますので、道を開けてください。」

 セインは、大仰に声を張り上げた。

 血路を拓くには、彼らの精神を揺さぶるのが一番だ。隙さえ作れれば、可能性はいくらでもある。

「てめえ、随分となめてくれるじゃねえか。」

「今なら、命までは取りませんよ。」

 セインは、屈辱に震える男の神経を逆なでするように、にこやかに語りかけた。

「人間風情がつけ上がりやがって……!」

 我慢の限界に達した赤毛の男は、わめきながらセインに躍りかかる。

 唸りをあげて迫る切っ先を前に、セインは静かに、眼鏡のブリッジを押し上げた。

「警告は、しましたよ。」

 セインは、抜きざまに、男の凶刃を受け止めた。

 刃の交わる金属音が、晩鐘のように闇夜に響く。

 セインは、裂帛の気合を乗せて、一歩踏み込んだ。たたらを踏んだ男めがけて、余勢のままに、抜き放った長剣を振り下ろす。

 姿勢を崩した男の半身が、為す術もなく、ずるりと地面に滑り落ちた。

 噴き上がる血潮も、跳ね上がる血水も気にも留めず、セインは六人になった男たちに視線を向けた。

 男たちは、抗う術もなく斬り捨てられた仲間の残骸を、言葉を知らぬ赤子のように、茫然と見やっている。

「弱い者を斬るのは、好きではありません。お互い、気持ちの良いものではありませんから。……通して、頂けますね?」

 セインは、切っ先を伝う血を振り払うと、瞠目する男たちを睨み据えた。

「弱い? 一人殺ったくらいで寝ぼけてるんじゃねえ!」

 セインの冷ややかな声は、彼らの戦意を呼び覚ますには十分過ぎた。

 男たちは、赫怒に顔を赤く染めながら、六方から一斉に、セインを強襲する。

 セインは、冷静に剣を掌で返すと、振り返りもせず、背後から迫る男の心臓を貫いた。

 返す手で、串刺しにされて痙攣する男の身体を、膂力の限りに左方へと投げつける。

 左から迫っていた男は、風を切って迫る仲間の遺骸を前に、身を固くした。

 この一瞬の驚きが、男の運命を分けた。

 竜の末裔の反射速度をもってすれば、この一撃を躱すことは造作もない。

 しかし、男は、仲間の遺骸を前に、一瞬たじろいでしまった。男は、驚きのあまり受け身を取ることもなく、後ろ向きのまま、石造りの壁に激突した。

 頭蓋の砕ける嫌な音が、暗闇に残響を残す。

 寸刻の間に三人を失った竜の末裔たちは、身を翻して、一旦間合いを取った。

「……まだ、続けるというのですか?」

 ぎらついた殺意を迸らせる男たちに、セインは、低く苦い声を零した。

 呆気ない仲間の死を目にしても、戦わなければならない理由が、彼らにはあるのだろうか。無用な戦いを、これ以上続けるのは、セインの望むところではない。

「てめえが死ねば終わるんだよ!」

 セインの背後から、猛然と地を蹴る音が谺する。

「な……。」

 獅子のように吼える戦斧が、セインの首筋に勢いよく振り下ろされる。

 刹那、暗闇に、赤々と血潮が舞った。水たまりに、ごとりと首が転がる。

 男は、愚かな人間を嘲笑うように、転がる首を蹴り飛ばした。

「はっ! たった一人で俺たちに勝とうなんざ、百年はや……」

 男が蹴り飛ばした遺体から、ふわりと薄紫の燐光が剥がれ落ちた。

 男が再び首に視線を落とすと、恐懼に見開かれた光なき翠眼が、問いかけるように、男を見上げていた。

「まさか……光の屈折を変えて……?」

 男は、震えながら、仲間の躯を茫然と眺めていた。

「残念ながら、それは、僕ではありませんね。」

 セインは、音もなく男の背を取ると、身を屈め、耳元で囁いた。

「ひ、ひぃ。」

 腕の中で、男は、怯えたように小さな悲鳴を漏らす。

 セインは、その声に耳を貸さず、提琴の弓を弾く楽師のように、男の喉笛に当てた剣を静かに滑らせた。

 生暖かい鮮血が、頬を伝う。セインは、腕の中で力を失った男の身体を離すと、切っ先を下ろした。

「これが無益な戦いだと、お分かりいただけましたか?」

 セインは、暗く沈んだ声で、男たちに問いかけた。

 こんなものは、ただの虐殺だ。それを続けるのは、たとえハーネストに牙を剥く者が相手だとしても、胸が痛む。

「お、お前は……。」

 男たちは、信じられないものを見たかのように、わなわなと震えている。

 彼らの目に、今の自分はどう映るのだろうか。

「これ以上、僕に殺させないでください。」

 セインは、剣を下ろしたまま、懇願するように、男たちに歩み寄った。

 このまま走り去ってくれたなら、どんなに良いだろうか。

「この化け物がっ!」

 セインの願いも虚しく、男たちは死中に活を見出すように、鉾を振り上げた。

 セインは、男たちの悲壮な突撃に嘆息を零すと、踏み込みざまに二人を一刀のもとに斬り伏せた。

 大きな水音を立てて、猛る二竜は、どうっと地に伏せた。

「やはり、そう、見えるのですね。」

 セインは、もはや動かなくなった男たちに向けて、嘆きの声を零した。

「凡百の目にはそう映る……。昔からそうだっただろう、セイン。」

 なにもないはずの闇の底から、凍りつくような、男の冷たい声が響く。

「僕が、そう言われるのがどれだけ嫌いだったか、知っているでしょう? ……ガイル兄さん。」

 音もなく揺らぐ闇に、セインは、さも当然のように語りかけた。

 揺らいだ闇の狭間から、背の高い黒衣の男が、音もなく姿を現した。

 短く切り揃えられた黒髪の下で、昏い柘榴石の瞳が、鋭い光を放っている。白皙の顔は、まるで鏡で映したかのように、セインと瓜二つだった。

 ガイルは、ゆっくりとセインに歩み寄ると、薄紫の双眸をじっと覗き込んだ。

「知っているとも。だが、事実だろう。お前も、俺も、似たようなものだ。七人、か。その状態で、よくもこれだけやってのけたものだ。」

 ガイルは、セインの手際に感心するように、仲間の躯を眺めやった。

 セインの脳裡に、穏やかな優しい兄の面影がよぎる。

 目の前にある柘榴石の瞳は昏く、氷のように冷え切っていた。

 十八年の歳月は、あの朗らかな兄を、ここまで捻じ曲げてしまったのだろうか。

「兄さん、どうして、こんなことを? 今さら人間を殺して、どうなると言うんですか?」

 セインは、震える声を絞り出して、兄を問いただした。

 十八年離れていたとはいえ、眼前にいるのは、紛れもなく血を分けた兄だ。変わってしまったとしても、ガイルなら、これが無意味なことだと理解してくれるはずだ。

「どうして? お前こそ、何故そんなことが言える? 十八年前、奴らが俺たちになにをしたのか、よもや忘れたとは言わせんぞ!」

 セインの淡い期待は、嘶くような赫怒の声に砕かれた。

 こちらを睨み据えるガイルの双眸は、地獄の黒炎よりもなお、苛烈な怒りに満ちている。

「忘れる訳がないでしょう! 人間たちは、僕たちの国を滅ぼした! 父さんは、国を守って死んだ。母さんも、あんなに小さかったティアでさえ、竜の末裔だというだけで殺した! だからといって、こんなことをしたって、誰も帰っては来ない!」

 セインは、喉が千切れんばかりに、震える声を張り上げた。

 ずっと心の奥に秘めていた嘆きの絶叫が、雨音を切り裂いた。

 踏み荒らされた丘の上の家で、母は、娘を守るように抱きすくめたまま事切れていた。ちいさな妹の掌は、二度と、この手を握り返してはくれなかった。

 燃えあがる街の中、逃げ惑う二人の背を、剣を手にした人間たちが、執拗に追い回した。

 死の咢から逃れようと、人波を掻き分け、ただひたすらに、走り続けた。

 走って、走って、走って――。

 息は上がり、足は縺れ、全身の血管が、焼き切れるかのように痛んだ。それでも、足を止めることは許されず、迫りくる脅威から、逃げることしか出来なかった。

 混乱する人群に飲まれ、いつしか傍にいてくれたはずの兄の姿さえ見失い、塞き上げる恐怖に、吐き気が止まらなかった。

 十八年の歳月を人の中で生きようとも、セインがあの日を忘れたことなど、一度たりともありはしなかった。

 だからこそ、自分は今、こうして兄の前に立っている。

 差し伸べられた手の温もりが、自分を救ってくれたからこそ、なにも返せぬままに、諦めることは出来なかった。

 セインは、一歩前へ踏み出すと、思いのたけを声に乗せて兄に詰め寄った。

「僕はもう、誰にも同じ思いをさせたくないんです! 兄さん、お願いです。もうこんな無駄なこ……と……」

 闇を裂く、青い光が閃いた。

 セインの祈るような絶唱は、抉るような鋭い痛みにかき消された。

 悪夢を辿るように、セインはゆっくりと視線を下ろした。

 ガイルの大剣が、セインの腹に深々と突き立てられていた。黒刃は赤黒く染まり、生暖かい血が、雨の雫とともにセインの身を伝っている。

 穿たれた傷から流れ出る血液が、急速に体温を奪っていく。引き波のように凍えていく身体が、信じたくない現実を、セインに突きつけた。

「黙れ……!」

 ガイルは、苦悶するように唇を噛むと、静かに黒刃を引き抜いた。

 支えを失って、セインは為す術なく、その場に頽れた。

「にい……さん……?」

 セインは、茫然としたまま、彼方にある兄の顔を仰ぎ見た。

 ガイルの表情は、闇に紛れて良く分からない。切っ先を下ろしたガイルは、痛みを噛み殺すように、荒い吐息をついていた。

「いいだろう……。邪魔をするというのであれば、殺す。たとえ、俺が死そうとも、な。」

 どこか悲しげな色を帯びた冷たい宣告が、篠突く雨の向こうで響いた。

 セインは、滲んでいく意識の中、兄の昏い声を聞いていた。

 もはや、手遅れだったのだろうか。問う力さえ、血潮とともに流れ出てしまっていた。

 光なき鈍色の空は、決裂を嘆くように、二人の上に涙を零した。あとにはただ、雨音だけが、響いている。

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