第二章・報復の狼煙 ‐Ⅲ‐
国王の間を飛び出してから、セインは、人知れず自室へと戻っていた。
今はもう、誰にも会いたくなかった。きっと、自分は今までの人生で、一番ひどい顔をしていることだろう。
セインは茫然と、窓辺の安楽椅子にもたれて時を過ごした。
黄昏ていたはずの空には、いつの間にか、どんよりとした夜の帳が下りている。
「その先にある未来、か。」
そこに、自分の居場所は、なくていい。
十八年前のあの日、家並みは焼き尽くされ、軍靴に踏み荒らされた瓦礫の街を駆け抜けた。救いを求める手を、どれだけ振り払ったのだろう。
誰ひとり助けられず、大切なものをすべて失っても、あの時はただ、生きなければと思った。そうすることで、守れるものがあると、信じていた。
セインは、じっと己の掌を見つめた。
誰もが平等に冷たくなっていく地獄で、差し伸べられた手の温もりが、今でもこの掌に残っている。
澄み渡る夕焼けのような紅蓮の瞳に、自分は、救われたのだ。
あの大戦で、人々は脅威を拭い去り、未来を勝ち取ったのだろう。ただ、そこに至るまでに積み上げてきた屍は、あまりにも多かった。
優しい手に引かれる自分の隣で、救われることのなかった弱き人群が、物言わぬ虚ろな目で空を見ている。残された者の嘆きの声が、呪いのように、セインの耳にこびりついていた。
あんな凄惨な地獄など、誰も、味わうべきではないのだ。
そのためならば、この身を捧げるのも惜しくはない。
救いをもたらしてくれた王を、受け入れてくれたこの国を、守り抜くこと。それこそが、セインに出来る、唯一の恩返しだった。
その想いを胸に、自分は一心に剣を学び、魔術の腕を磨いてきた。この国に降りかかる火の粉を払うために、この身はここにあるのだ。
それなのに、たったひとつのことさえ上手く果たせない己の無力さが、歯がゆかった。
「立場……そんなもの、僕だって分かっているんですよ。」
セインは、繰言のように呟くと、掌を固く握りしめた。
今の自分は、ハーネストの竜騎士長なのだ。国の守りの要であり、戦いにあっては、全軍の先頭に立たなければならない。
この国を守るために、自ら望んで上り詰めた地位だ。ひとりで敵陣に斬り込むべきではないことくらい、自分でも解っている。
それでも、本当は、今すぐにでも飛び出して、竜の末裔たちを探し出し、過ちを正したかった。ひとりきりであれば、隠密裏に行動するのは、そう難しいことではない。
見つけることさえ出来れば、襲撃を未然に防げるかも知れない。そうすれば、ここが戦場になることは、避けられるだろう。
しかし、レオンにあそこまで言わせてしまった以上、その可能性は潰えてしまった。
「せめて……出来ることをしなくては。」
セインは、沈む気持ちを頭の片隅に追いやると、静かに立ち上がった。主を失った安楽椅子が、ゆらゆらと軋む音を背に、セインは、明かりのない部屋から這い出した。
暗がりに慣れた目には、廊下に燈された燭光さえ、射抜くような鋭い輝きに見えた。
セインは、重たい身体を引きずりながら、特務局へと足を向けた。
イグナティウスなら、新たに得た情報から、居所を割り出しているかも知れない。それさえ掴めれば、すこしは希望が見えるだろう。
「お、セイン。ちょうど良かった。」
遠くの方から大声で呼び止められ、セインはぐるりと頭を巡らせた。
廊下の向こう側から、金髪の巨漢が、豪快に手を振っている。
セインは、呼ばれるままに、リクターの許へと駆け寄った。
「リクター殿、どうかなさいましたか?」
セインは、表情を繕うと、不思議そうに小首を傾げてみせた。
「いや、そろそろ、特務局がなんかしら掴んでねえかと思ってな。それ次第じゃ、防衛も見直さんとならんだろ。」
リクターは、頬の傷を引っ掻きながら、一縷の希望にすがるように、セインの双眸を覗き込んだ。
「竜の末裔たちの数の目星はつきましたが、居所まではまだですよ。」
「そうか……。トリスタンは、旧帝国と国境を接している。あいつらが旧帝国領に逃げ込んでたら、最悪だな。」
リクターは、落胆したように低く唸ると、ひっつめた金髪を掻きむしった。
「ありえない、とは言えませんね。旧帝国領は、こちらからでは、入ることも観測することも出来ません。彼らがそこにいるのなら、僕らから手出しをするのは無理ですね。」
リクターの指摘に、セインは眉宇を曇らせた。
十八年前の大戦の後、滅び去った帝国の跡地は、魔術結界で封鎖されてしまっている。風説によれば、皇帝が最期の力を振り絞り、亡国を侵略者から守り抜いたのだという。
それが、真実かどうかは定かではない。しかし、旧帝国領を覆い尽くす強固な結界は、人間が立ち入ることはおろか、垣間見ることさえも許さないのは、紛れもない事実だった。
竜の末裔たちが旧帝国領内に潜伏している可能性は、実のところセインも考えていた。なにせ、トリスタンを襲撃してから二週間も姿をくらましているのだ。彼らが潜むのに、閉ざされた故国ほど、適した場所はない。
「……戦う気はあんのか。」
ぽつりと呟いたリクターの翠眼は、一直線に、セインの真意を問うている。
「もちろん、必要とあればいつでも。ただ、無用に軍を上げるべきではない、という意見に変わりはありませんよ。もし彼らが旧帝国領にいるとなれば、なおさら無駄だ。開戦の利は、なにひとつない。」
セインは、偽ることなく、リクターの視線を受け止めた。
「おっさんたちも頭が固いからな。俺もさすがに、もう抑えきれん。ハーネストに来るってんなら、なおさらだろ。俺たちは、戦うためにいるんだ。」
リクターは、セインの覚悟に、安心したように口元を緩めた。
「彼らは、僕たちをおびき出そうとしているんですよ。今出陣すれば、いい的です。」
半ば諦めたようなことを言うリクターに、セインは眉を吊り上げた。
「飛んで火にいるなんとやらってな。せめて居場所が分かれば、叩きようもあるがよ。」
リクターは、おどけた調子で呟くと、眉間の皺を深くした。
「そうですね。特務局に、特定を急がせます。」
「頼むわ。俺も、なんとか時間を稼いでおく。無益な戦を避けたいっつーのは、俺も一緒だからな。困ったら、おじさんに相談しろよ。」
リクターは、大きな掌でセインの背を力強く叩くと、豪快な笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、リクター殿。……では、僕はこれで。」
リクターの心遣いが、沈みかけていたセインを、再び奮い立たせた。
彼の馬鹿力のおかげで背中はじんじんと疼いたが、セインはそんなことはおくびにも出さず、リクターに軽くお辞儀をすると、再び歩きはじめた。
夜空はどんよりと曇り、空気は、雨の訪いを告げるようにひんやりと湿っている。
――なんだか、嫌な夜だ。
セインは、うすら寒さを感じながらも、前へ進んでいった。
静まり返った廊下には、セイン以外に動く影はない。曇天が、ぽつりぽつりと落とし始めた雨の雫と、セインの跫音だけが、静寂に谺していた。
まるで、この広い城にひとり取り残されたかのようで、不安になる。
鈍色の空は、いつしか大粒の雫で窓を叩きはじめた。
――本当に、嫌な夜だ。
ねっとりと肌にまとわりつくような夜気のせいで、妙に息苦しい。
セインは、無性にざわめく鼓動を無視しながら、階段に足を掛けた。
刹那、天を引き裂いたかのような爆音が、王城を揺るがした。
セインは弾かれたように、びりびりと振動する窓の外に目を向けた。
城下の方角から、轟音を共連れに、爆炎が上がる。
黒き夜を赤く染め上げた火の手に、セインは、全身から血の気が引いていくのを感じた。思考は停止し、視界が真っ白になる。
――城下で、最悪の事態が起こっている。
半瞬遅れてようやく状況を飲み込んだセインは、なりふり構わず走り出した。
夢で聞いた白衣の影の繰言が、螺旋を描いてセインの脳裡を揺さぶっている。
今はもう、何事かを思案している場合ではない。
セインは、こみ上げる不安をかみ砕き、ただひたすらに、城内を駆け抜けていった。
裏庭まで下りると、異変に気付いた人々が、様子を伺おうと、心配顔で群がっていた。
「セイン様!」
頭一つ高いセインの姿を見つけたのか、ルークが、人ごみを掻き分けてセインの許へ馳せてきた。
「ルーク、状況は分かりますか?」
「今、城下から救難信号が上がりました。……竜の末裔の襲撃です!」
ルークは、大きな空色の瞳を潤ませながら、叫ぶように声を張り上げた。
もっとも恐れていたことが、起こってしまった。
覆すことの出来ない現実が、セインの両肩に重くのしかかる。
「そう、ですか。……ルーク。君は、城内の竜騎士団を率いて、騎士団と共に、城の警護に当たってください。準備不足ですが、聖者の槍を起動すれば、被害は抑えられます。」
セインは、ルークの肩にぽんと手を乗せると、足早に踵を返した。
「ちょっと待ってください! セイン様、一体どこへ行かれるんですか?」
遠くなるセインの背を引き留めるように、ルークは声を張り上げた。
「どこって、もちろん、城下に決まっているじゃないですか。ああ、兵は不要ですよ。この雨の中では、ひとりの方が動きやすいですから。」
セインは振り返ると、明日の天気の話でもするかのように、わざとらしく暢気な笑顔を作った。
「なにをおっしゃっているんですか? いくらなんでも危険すぎます!」
ルークは、あっけらかんとした上司を諌めるように、さらに声を張り上げた。
「軽く、様子を探ってくるだけですよ。なに、心配はいりません。すぐに戻ってきますから。」
セインは、ルークを宥めすかすように、穏やかな笑みを浮かべた。
「ですが……!」
「大丈夫ですよ。」
セインは、追いすがるルークを振り切るように微笑むと、くるりと彼に背を向けた。
夢に見た惨劇が、セインの脳裏をよぎる。
雨音に交じって、遠く街の方から、泣き叫ぶ声が響いている。
闇夜の中、転がるように駆け出したセインの足に、もはや迷いはなかった。
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