第一章・過ぎし日の影 ‐Ⅳ‐

 窓を開けると、夜風が、涼やかに頬を撫でていった。静けさに包まれた宵の闇に、下弦の月が、ほのかな輪郭を与えている。


 セインは、バルコニーの手すりにもたれかかると、細葉巻に火を点けた。吐く息と共に、紫の煙が、昂ぶる熱を彼方へと連れ去っていく。


 昼間は賑やかな王城だが、月明かりの下で、人も草木も、城壁さえも深い寝息を立てているかのようだ。


 騒がしさとは程遠いこの穏やかな時間が、セインは、とても好きだった。夜の帳はすべてを覆い、人の目を、気にする必要もない。


 澄み切った夜気に身を委ねていると、眠れる人と、ひとつになれるかのような気がした。


 城下の人々は、きっと、今日起きたことなど知らず、穏やかに、日の終わりを過ごしているのだろう。


 和やかな団欒の影に想いを馳せながら、セインは、想い出を辿り始めた。





 夕焼けが、丘の上にぽつんと立つ家を、赤く染めていた。庭に植えられた一際大きな木の根元で、セインは、こわごわと上を見上げていた。


「セイン、早く来いよ。」


 活発な兄は、すでに遥か頭上の太い枝に腰をおろしている。


「そんなこと言っても、兄さんみたいには出来ないよ。」


 セインは、高いところから手招きをする兄に、弱々しく首を横に振った。


 よく外を走り回っている兄と違って、自分は、家にこもりがちだ。どんなに頑張っても、兄と同じように振る舞えはしない。


「大丈夫だ、セイン。お前にだって出来る。」


 悄然と項垂れたセインの頭上に、優しい兄の励ましの声が響く。セインは、おずおずと顔を上げた。


 セインに向けられた深い夕焼け色の瞳は、弟の成功を信じて疑わない。


 セインは、己を奮い立たせると、小さな手足にぐっと力を込めた。


 一歩、また一歩。不安定な足場によろめき、何度も滑り落ちそうになりながらも、セインはなんとか、兄の隣までよじ登った。


 こんなに高い木の上に登れたのは、初めてのことだった。兄の励ましのおかげで、自分は、ここまで来られたのだ。


 セインは、嬉しさと誇らしさでくしゃくしゃになった顔を兄に向けた。


 兄は、頬を緩めると、賛辞の代わりに、セインの銀髪を力強く撫でまわした。


「ほら、見てみろよ。」


 兄は、促すように、顎をしゃくった。


 セインは、高鳴る鼓動を抑えながら、兄が示す先に視線を向けた。


 目に飛び込んできた眩い世界に、セインは、声を失った。


 今まで読んだどんな本にも、夕日に吸い込まれるなんて書いてはいなかった。


 目に沁みるほどに赤々と燃える夕焼けは、頬を染めるように、すべてをあたたかく煌めかせていた。


 丘の裾野に広がる街並みは、ここから眺めると、玩具のようにちいさい。斜陽を受けて、道行く人の影さえも、茜に溶けてしまったようだ。


「……すごいね、兄さん。兄さんの言った通りだ。」


 セインは、雄大な景色に、静かに息を呑んだ。


 ここから見える夕日が、一番綺麗なのだと、兄はいつも語って聞かせてくれていた。


 自分には登れないからと諦めていたが、こうして目の当たりにすると、兄がいつも楽しそうに話してくれていた意味が、解るような気がした。


「だろ。お前にも、見せたかったんだ。」


 兄は嬉しそうに、顔を輝かせた。彼の赤い瞳は、夕日よりも澄んだ輝きを帯びている。


 セインは、その輝きから目を背けるように、そっと視線を逸らした。


「セイン、あっちを見てみろよ。」


 兄は、セインの肩を揺らすと、すっと遠くを指差した。


 セインは、ゆっくりと兄の指先を辿った。


 街並みの向こうに、壮麗な城が聳えている。白亜の城塞は、夕映えの中で、宝石のような輝きを放っていた。


「父さんは、あそこで働いているんだ。なんて言ったって、この国一番の騎士だからな。」


「やっぱりすごいや……。父さん、今日は帰ってくるんだよね?」


 セインの脳裡に、大きな父の背中が浮かぶ。セインの前では優しい父だが、鋼のように鍛え上げられた身体は、背負うものの大きさに、決して負けない強さを滲ませていた。


「ああ。俺も、大人になったら強くなって、父さんみたいな騎士になるんだ。」


「兄さんなら、きっとなれるよ。」


 セインは、兄の夢に、静かに頷いた。きっと、青年になって甲冑を纏った兄は、素晴らしい騎士になるだろう。


「もちろん、お前も一緒にな。」


 力強い兄の微笑みは、綺羅星のような夢の形を示していた。


「……そうだね。」


 きっと、自分には届かない夢だろう。人の目に怯えて、家にこもるような脆弱な自分では、騎士になんてなれるはずがない。


 それでも、兄の指し示す未来は、夕日に染められた街並みのように、輝いて見えた。


 兄と一緒なら、自分もいつか、そうなれる日が来るのだろうか。


「ガイル、セイン、下りてらっしゃい! お父さんが帰って来たわよ。」


 セインが朧な夢に手を伸ばしかけたとき、木の下から、母の呼び声が聞こえた。


 幼い二人は、顔を見合わせると、鏡写しのように顔を綻ばせた。





 二人がリビングに駆け込むと、帰って来たばかりの父の後ろ姿が見えた。


「父さーん!」


 セインとガイルは、勢いよく父の背に飛びついた。


「おう、ちびども! 元気だったか?」


 父は、後ろ手に二人を受け止めると、軽々と前の方へと引き寄せた。


「うん。あのね、父さん。僕、木登り出来たんだよ。」


 セインは、父の穏やかな緑の瞳を見つめながら、誇らしげに顔を輝かせた。


「お、すげえじゃねえか、セイン。」


 父は、嬉しそうに微笑むと、セインの銀髪を豪快に撫でまわした。


 セインは、ちょっと照れくさく思いながらも、父の大きな掌に身を委ねた。


「お兄ちゃんたちばっかりずるい! あたしも!」


 拗ねたような声が聞こえたかと思うと、妹が、ちいさな手を差し伸ばして、ガイルとセインの間に割り込んできた。


「ティアは、甘えたさんだなあ。」


 母によく似た赤毛の少女は、ふくれっ面で、父の足元に縋りついている。


 父は、一人娘を愛おしむように目を細めると、壊れ物のように優しく抱き上げた。


「あなたたち、まだ手を洗ってないでしょ? ごはん、冷めちゃうわよ。」


 咎めるような口ぶりとは裏腹に、四人を見つめる母の目は、いつも以上に柔らかかった。


「よーし、ちびども! 手洗い場まで競争だ!」


 父は、悪巧みでもするようににっかりと笑うと、娘を大事に抱えたまま、我先にと駆けだした。


 セインとガイルは顔を見合わせると、わざとゆっくり走る父の背を追った。


 四人が手洗いを済ませてリビングに戻ると、食卓には、すでに母の手料理が所狭しと並べられていた。いつもより品数が多いのは、母の喜びの表現なのだろう。


「やっぱアンナの飯は美味いな。」


 母の手料理をぺろりと平らげた後、ソファーで寛いでいた父が、噛みしめるように呟いた。


「まあ、フォレストったら。子供たちが一緒だからでしょ。」


 台所から、母の嬉しそうな声が響く。


 セインが何気なく台所の方に視線を移すと、母は照れ臭そうに、磨き終えた食器とにらめっこをしていた。


「それもあるがよ。やっぱり、この家で食う、お前の飯が美味い。なんつっても、愛情がたっぷり詰まってるからな。」


 母の気も知らず、父は、晴れ渡る空のように一点の曇りもない笑顔を浮かべた。


 母は、手にした食器を落としそうになりながら、密やかに頬を緩めた。その横顔は、遠くからも分かるほどに赤く色付いていた。


「父さんたち、相変わらず仲良しだよな。俺、熱さで溶けそう。」


 父母の蜜月に飽いたのか、ガイルは、はやし立てるように顔を扇ぐような仕草をした。


「僕、父さんのおはなし聞きたいな。」


 セインは父の隣に腰かけると、控えめに裾を引いた。


 父が語ってくれる武勇伝が、セインは、どんな本よりも好きだった。


「あたしも! あたしも!」


 ティアは、林檎のような瞳を輝かせながら、父の足元に駆け寄った。


「おうおう。じゃあ、この間の剣術大会の話をしてやろう……。」


 三人の子供たちにせっつかれて、父は、ふやけたように相好を崩す。


 父は内緒話でもするかのように三人を引き寄せると、声を落として語り始めた。





 一陣の風が、梢をさやかに揺らした。


 セインは、かつての幸せの果てを前に、思考を放棄した。


 なんでもない、ありふれた家族の団欒。自分がその席に着くことは、もう二度とないだろう。


 振り返ってみれば、あれが、家族全員で過ごした、最後の時だった。この先のことはもう、思い出したくない。すべては、大戦によって焼き尽くされてしまったのだ。


「……思えば、僕はあの時から、剣を取る運命にあったのかも知れませんねえ。」


 誰にともなく零されたセインの嘆きの声は、夜の黙に吸い込まれていった。


 セインを慰めるかのように、柔らかな夜風が吹き抜ける。束ねられていないセインの長い銀糸の髪が、悲しげに靡いた。


 下弦の月は雲間に隠れ、ほのかな闇を埋めるように、糠星がさざめいている。


 もうずいぶんと、ここでぼんやりとしていたらしい。いつの間にか、灰皿には吸い終えた細葉巻の残骸が、いくつも転がっていた。


 セインは、想い出の欠片に後ろ髪を引かれながら、テラスの扉を潜った。窓を閉ざせば、風の声はもう聞こえない。


 自分には、明日も仕事が待っているのだ。


 セインは、重たい足取りで、ベッドに潜り込んだ。


 様々な思いが、脳裏に浮かんでは消えていった。一つ呼吸をするたびに、眠りが緩やかに手招きをする。セインは誘われるままに、眠りの底へ落ちていった。





 朝日に滲んだセインの意識を、数多の靴音が呼び覚ます。耳朶を打つ喧噪が、いつも通りの朝ではないことを告げていた。


 セインは、ベッドから転げ落ちるように這い出すと、慌てて士官服に袖を通した。

 胸に燻っていた不安が、全身を飲み込むように広がっていく。


 セインは、手早く身支度を済ませるや否や、廊下に飛び出した。


 取り急ぎ、状況を確認しなければならない。


 セインが宿舎の階段を駆け足で下っていると、途中で、壁にもたれて荒い呼吸を整えている少年を見つけた。


「ルーク、ちょうど良いところに。……大丈夫ですか?」


「セ、セイン様……。」


 顔を上げたルークの空色の瞳は、ただならぬ恐怖に揺れていた。


「なにがあったんですか?」


 セインは、ルークを落ち着かせるように背中をさすりながら、穏やかに問いかけた。


「隣国が……。トリスタンが、竜の末裔に襲撃されたとのことです。一夜のうちに王都が壊滅状態に……。それで、皆、慌てて……。」


 ルークの声は、怯えたようにわなわなと震えていた。


「……情けない。仮にも竜騎士ともあろう者が、そんなに狼狽えるものではありません。いいですか、ルーク。竜騎士とは、竜をも倒す勇士です。我々が動揺してしまっては、力なき人々はどうなるんですか?」


 セインは、これ見よがしに大きなため息を零した。眉間に皺を寄せ、あえて厳しい顔を部下に向ける。


「そう、ですね……。そう、ですよね……。僕が、僕たちがしっかりしなくちゃ……。皆、不安になってしまいます。そんなのは、駄目です。人々を守るのが、僕たちの責務です!」


 ルークは、震えながらも、しっかりと恐怖を受け止めた。言葉を重ねるごとに、その小柄な体躯に、みるみる英気を漲らせていく。


「そうです。そのために、僕らは剣を取ったのです。人々を守るには、的確な行動をするべきだ。まずは、トリスタンの状況を。」


 やはり、第一部隊長に据えた自分の判断に、間違いはなかったようだ。


 セインは小さな勇士に微笑むと、彼の肩に手を置いて、短く指示を出した。


「はい。昨夜、王都イゾルティーヴォが、竜の末裔の襲撃を受けました。敵の数、位階はまだ分かっておりません。市街地は、ほぼ壊滅。国王アズレトⅡ世の消息も、現段階では不明です。」


 ルークの空色の瞳に、もう怯えの色はない。ルークは、毅然としてセインを見据えると、届いた情報を、端的に述べた。


「……事態が深刻だ、というのは分かりました。」


 得られた情報のすくなさに、セインは頭を抱えた。


 同盟国であるトリスタンの王都には、ハーネストの竜騎士団も駐屯しているのだ。襲撃が行われたのが昨夜ということは、既に、半日近くが経過している。


 それでも襲撃の知らせが届いたということは、屯所の魔術設備は生きているのだろう。通信が可能であるにも関わらず、伝達が遅れ、詳細な報告が上がってこないということは、トリスタンの混乱が、それだけ大きいということだ。


「ルーク、城内にいる竜騎士団に非常招集を。出来るだけ、早く。……良いですね?」


 もはや、立ち止まっている場合ではない。


「かしこまりました。」


 ルークは、セインの命令に頷くと、足早に駆けていった。


 ルークの小さな背中が見えなくなってから、セインは大きく息を吐き出した。


「愚かなことを……。」


 十八年前の戦火が、セインの脳裏をちらついた。剣戟の音が、兵士のわめく声が、聞こえるかのようだ。


 セインは、嘆くように、じっと己の掌を見た。


 あの頃のように、己の身さえ守れないような幼子ではないのだ。この国を、人々を、守りたい。人と竜の末裔の過ちの連鎖は、この手で、断ち切らなければならない。


 もう誰も、自分と同じ悲しみを味わわずに済むように。


 セインは、固く拳を握りしめた。


 腰に佩いた剣は、道を、切り拓くためにあるのだ。


 セインは、真っ直ぐと前を見据えると、一心に歩き始めた。

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