第一章:過ぎし日の影 ‐Ⅱ‐

「遅いぞ、セイン! お前が最後だぜ?」


 セインが議場に滑り込むと、リクターが揶揄するような笑声をあげた。


「遅れてはいないんですから、大目に見てくださいよ。」


 時を告げる教会の鐘の音が、セインの無罪を証し立てる。


 セインは、間の抜けた声で、金髪の偉丈夫に抗議した。


「ほらほら、お二方とも。戯れ合いはおやめになって。もう鐘は鳴り終わりましてよ。竜騎士長様も、早く席にお着きくださいませ。」


 亜子を慈しむ母のような朗らかな女性の声が、子供じみた掛け合いに終止符を打った。


 セインは、はっと我に返ると、王の傍らで、たおやかに笑む女性の方を顧みた。


 緩やかなウェーブの掛かった金糸の髪が、白皙の肌をいっそう煌びやかに引き立てている。整った顔立ちにまだ幼さを残しながらも、大きな瑠璃色の瞳は、白百合のように凛として、セインを見つめていた。


「……失礼いたしました、王妃様。」


 セインは慌てて襟を正すと、玉座の華に向かって恭しく頭を垂れた。


「それでは、全員が揃ったところで、さっそく始めさせていただこう。」


 セインが席に着いたところで、白髪を品よくまとめた老紳士――国務大臣アルノー・ド・グィノットが、部屋の四隅で待機していた者たちに合図を送る。


 アルノーに応えるように、彼らは律動的な動きで、分厚い会議資料の束を配り始めた。


 セインは、手渡された資料がいつもより幾分か分厚いことを訝しみながら、ぼんやりと頁を捲っていった。


 内容と言えば、いつもとそう大して違わない。退屈な尚書の報告に始まり、教会の典礼予定表、税収、刑務長官の国内巡察の中間報告に、魔術省の魔術免状交付数など、退屈な報告が続いている。


 セインは、あくびを噛み殺しながら、分厚い資料を読み進めていった。昨日の寝不足のせいもあってか、余計に瞼が重い。


 しかし、涙で滲んだ視界が捉えた文字列が、セインの横っ面を、したたかに張り飛ばした。


「なんですか、これ……。」


 セインは、食い入るように、書類に目を走らせる。


 『竜の末裔による襲撃事案』と題された粗雑な報告書は、セインの意識を否応なしに覚醒させた。


 十八年前の大戦によって帝国が瓦解したとはいえ、竜の末裔そのものが、完全に滅び去った訳ではない。


 セインは竜騎士の長として、この手の復讐譚は嫌というほど耳にしてきた。それこそ、こんな箇条書きの文書とは比べものにならないほど、仔細な情報に触れる機会は多い。


 それでも、国務省が手荒くまとめただけの報告書がセインの胸を騒がせたのは、雑であるがゆえに、単純化された数字が、その指し示す意味を声高に叫んでいたからだ。


「襲撃件数は減っていますが、今までよりも規模が大きくなっていませんか? これでは、週に一つは小国が壊滅している計算になる。」


 セインは、声の震えを抑えながら、脳内で素早く情報を整理した。


 皇帝を失い、国家としての体こそなしていないにせよ、生き残った竜の末裔の中には、人類への報復に走る者も多い。


 多いとはいえ、小数で徒党を組んで散発的に暴れるのがせいぜいで、この十八年の間に、国家ごと吹き飛ばしたような例はなかったはずだ。


「……左様。」


 驚駭するセインを尻目に、白髪の老紳士が、ゆっくりと立ち上がった。


「万年人員不足の特務局では、他の神皇七国がある西方にまでは、目が行かぬのも無理からぬこと。そう、狼狽えることはなかろう。」


 アルノーは、皮肉めいた調子で頭を振ると、太陽を背に、物々しく言葉を続けた。


「我々国務省の情報局によれば、ハーネスト西方の小国家群の三分の一が、すでに壊滅の危機に瀕している。今はまだ損害を受けていない国も、他国から逃れてきた民衆を受け入れるので、精一杯であるという。そんな中で奴らの襲撃を受ければ……。」


「応戦しきれずに、壊滅する。難民は増えて……。悪循環ってわけか。」


 芝居がかったアルノーの言葉を引き継いで、リクターが苦い声を零す。彼は、鍛え上げられた腕を組んで、剣呑な光を宿した翠眼を国務大臣に向けた。


 アルノーはしたり顔で、大仰に頷きを返した。


「まさに、竜の末裔こそ、人類社会を蝕む悪夢よ。奴らは血に飢えた怪物、呪われた悪鬼にして、黙示録の邪竜に他ならぬ! 我々は、同胞を救うべく、立ち上がらねばなるまい。神皇七国の一角として、今こそあの化け物どもを、この手で殲滅してくれようではないか!」


 アルノーは、芝居じみた動きで拳を突き上げると、勇ましく吼えた。


 長外套の裾を、戦場ではためく軍旗さながらに翻すその雄々しい姿に、群臣からは喝采が上がる。


 賛同の声が鳴り止まぬ中、セインは無意識に、膝に乗せた拳を固く握りしめていた。


 状況が見えてもいないのに、戦意を煽るなど、愚かしいにも程がある。


 年甲斐もなく血気に逸ったこの大貴族は、そんなことも分からないほど耄碌しているのだろうか。叶うならば、今すぐにでも、この勇ましい老紳士の口を塞いで、引きずり倒してやりたいくらいだ。


 セインは、募る苛立ちを鎮めるように眼鏡のブリッジを押し上げると、激情を、穏やかな仮面の下に押し隠した。


「殲滅、などと口で言うのは容易いことです。グィノット卿がお元気なのは大変結構ですが、今必要なのは、殲滅策ではなく、防衛策でしょう。被害を最小限に留め、人民を救うことこそ、神皇七国の一角として為すべきことではありませんか?」


 冷徹なセインの声が、渦巻く熱狂を、部屋の隅へと追いやった。


 それまでアルノーに賛同するように手を叩いていた群臣は、冷や水でも浴びせられたように、喝采の手を止めて、成り行きを見守っている。


 にわかに静まり返った議場の中、セインは刺すような視線を、窓辺に立つアルノーに送った。


「ああ、不戦論は、卿のお家芸でしたな、竜騎士長。竜をも倒す騎士の長たる卿が、よもや臆したとは言うまいな?」


 アルノーは、鷹のような目を細めると、嫌味たらしくセインの方を顧みた。


「まさか。軍を率いて竜の末裔の掃討に当たるのは、僕の責務です。しかるべき時には、身命を賭してこの国を守りますよ。それこそ、騎士の本懐というものでしょう。」


 セインは、むき出しの敵意を、吹き渡る風のようにさらりとかわした。


「今がしかるべき時でなければ、いったい卿は、いつ軍を動かすというのかね? 竜の末裔の脅威が眼前に迫っているというのに動かぬというのなら、騎士の風上にも置けぬ臆病者と謗られても致し方あるまい?」


 アルノーの言葉など気にも留めない騎士に、老紳士は、痛烈な嘲弄で答える。


「僕ひとりが謗られるだけで済むのならば、安いものです。たしかな情報もないのに徒に軍を動かして民を損なうよりは、余程良いでしょう。誰の血も、流れませんよ。」


 騎士にとってはなはだ不名誉な痛罵さえ、セインはにこやかに受け流してみせた。


 ほとんどなにも分からないままに征伐の軍を上げるなど、笑い話にもならない。ちいさな火種でも、世界に散れば大火になるのだ。この段階でハーネストが軍事介入をしようものなら、他の国も、こぞって兵を挙げるような事態になりかねない。


 そうなってしまえば、一番辛い目に遭うのは、力なき民衆なのだ。それだけは、なにがあっても回避しなければならない。


 セインは、微笑みの奥に刃を潜ませたまま、アルノーをじっと見据えた。


 薄氷を踏むような老政治家と若い騎士の競り合いに、周囲は、色を失って黙りこくっている。


「……俺も、セインと同意見っすね。騎士団としても、もっと情報が欲しい。今は開戦云々よりも、防衛と救難の手筈を整えるのが先決じゃないっすかね。」


 このままでは不毛な応酬が続くと見たのか、リクターが悠然と声を上げた。


「ふむ。軍部の長二人が口を揃えて言うのならば、一理あるやも知れませんな。……ならば、私からも一つ提案をさせていただこう。」


 アルノーは、しばし顎に手を当てて考え込んだ後、場を仕切り直すように手を打った。


「ご理解感謝いたします、グィノット卿。それで、提案とは、どのようなものでしょうか?」


 この老獪な大貴族は、なにがなんでも、自分の意見をねじ込んでくる腹なのだろう。


 セインは、軽く会釈をすると、口元に笑みを張り付けたまま、穏やかに問うた。


「無論、戦わぬというのならば防備を固めねばなるまい。王都、旧帝国国境、西方の辺境地帯に配置する騎士の増員は、急務でしょうな。しかし、それだけでは万全とは言い難い。……ゆえに、聖者の槍を起動する、というのは如何かな?」


 アルノーは、わざとらしく勿体付けるように、ゆっくりと自論を展開した。


「聖者の槍、ですか。」


 戦の発端となった兵器の名を舌に乗せたセインの脳裡に、大戦の昏い影がよぎった。


「……なるほど。城からノルヴァニール全域を射程圏内に収めるとして、魔力の充填にかかる時間は、すくなく見積もっておよそ三週間、といったところでしょう。少々時間はかかりますが、備えておくに越したことはありませんね。」


 目見に浮かんだ瓦礫と屍の山を意識の隅に追いやるように、セインは、空中で算盤をはじいた。


 人々を戦争へと駆り立てた兵器に思うところはあれども、守備の要としては、これ以上の一手はないだろう。


 竜騎士の長として、セインに異論などあろうはずもなかった。


「魔力の充填に要する時間を、情報収集に当てれば良い。……状況次第では、こちらから攻めることを考えてみてもよかろう。」


 セインが頷くのを見て、アルノーは、勝ち誇るように威を正した。抜け目なく、最後に一言付け足すのを忘れない。


 したたかな老政治家の辞書には、どうやら、諦める、という言葉は載っていないらしい。


「まあ、それは最終手段です。あまり利のある話ではありませんから。まずは、防衛を固めましょう。」


 セインは、内心では舌打ちをしながらも、微笑んだまま、ゆるりと牽制を加えた。

 アルノーがこれしきで止められるような相手ではないことくらいは分かっているが、なにか言ってやらなければ気が済まなかった。


「……では、採決を。私、国務大臣アルノー・ド・グィノットは、国家防衛のため、聖者の槍の起動を提唱する。」


 ひとり冷ややかな視線を送るセインを尻目に、アルノーは大仰に手を挙げると、議場を見渡した。


 アルノーの視線に促されるように、諸大臣たちは、ひとり、またひとりと、宣誓を重ねていく。


「騎士長リクター・アゲンスト。聖者の槍の起動に同意する。」


「竜騎士長セイン・クロス。聖者の槍の起動に同意いたします。……陛下、以上が、我々臣民の総意でございます。」


 形式ばった宣誓の儀を終えると、セインは、玉座のレオンを仰ぎ見た。


「……よかろう。ハーネスト王国国王の名の下に、聖者の槍の起動を承認する。当該兵器の運用は、竜騎士団がその任を負うべきものである。竜騎士長は、速やかに責務を果たすように。」


 レオンは、玉座から立ち上がると、王杖を打ち鳴らした。


「仰せのままに。」


 セインは静かに立ち上がると、恭しく頭を垂れた。


「旧帝国側国境、西方の辺境地帯、ならびに王都の警備体制強化に関しては、竜騎士団、騎士団で協同して動くがよい。我が国では、まだなにも起きてはおらぬが、民の安寧に関わることである。慎重に、事に当たるように。」


 燃え盛る炎のような紅蓮の髪をなびかせて、レオンは、二人の騎士に交互に視線を送った。


「任されよう。」


 リクターは、敬意を示すように立ち上がると、力強く拳で胸を打った。


「陛下。最後に、竜騎士長として、ひとつ提案させていただきたいのですが。」


 終幕へ向かう議会の流れを止めるように、セインは静かに手を挙げた。


「なんだ、セイン? 申してみよ。」


 レオンは、訝しむように首を傾げると、短く裁可を下した。


 セインは、深々と一礼すると、王の紅蓮の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「もし竜の末裔がこの国に現れた場合、僕が直接出向いて、交渉にあたることを、お許しいただきたいのです。」


 敵がなんであれ、たった一人で現れれば、牙を剥く気も失せるだろう。いきなり鉾を交えるよりは、その方が余程、血を見ずに済む。


 セインのはっきりとした平板な声は、議場に狂騒をもたらすには十分過ぎた。


 中には、驚きのあまり水差しをひっくりかえし、ずぶ濡れになったままあんぐりと口を開けている者さえいる。


「気でも違えたか、竜騎士長! あの化け物どもが交渉に応じるわけがなかろう! 卿は無駄死にするつもりか?」


 普段芝居がかった調子を崩さないアルノーさえ、色を失って震える声を張り上げた。


「……それは、やってみなければ分からないことだと思いますが?」


 竜の末裔がいかに驚異的な力を持っているにせよ、言葉が通じるからには、可能性は零ではない。もちろん、これが危険な賭けであるのは、承知の上だ。


 セインは、確乎たる意志を、薄紫の双眸に込めた。


「アルノー、落ち着くがよい。……セイン、お前もだ。お前が出来るだけ戦を回避しようとする心情も、事情も、重々承知している。だが、控えよ。」


 ざわめきを両断するように、王の重々しい声が、議場に谺する。


「ですが、陛下……」


「ならぬ。これは、国王命令だ。有事の際は、セイン。お前は竜騎士長として、この国の防衛の要にならねばならない。……分かってくれような。」


 尚も食い下がろうとするセインを、レオンは、有無を言わせぬ峻烈な視線で退けた。


 国王命令と言われてしまえば、王臣たるセインに、抗う術はない。


「……御心のままに。」


 セインは、唇を強く噛みしめながら、深く頭を垂れた。


「……これをもって、会議を閉会させていただく。追って文書で正式に通達するが、各々方は、細心の注意を持って行動するように。以上。」


 アルノーは、仕切り直すように咳払いを一つして、閉会の辞を述べた。


 セインは、その言葉が終わると同時に、議場を飛び出していた。


 まだ席を立とうとしない大臣たちは、ちらちらとセインの様子を伺いながら、憂い顔を寄せてざわめいている。


 彼らの言葉など、もはやセインの耳には、雑音でしかなかった。


 即時開戦こそなんとか防げたものの、あの老獪な政治家が、あれしきで引き下がるわけがない。


 なにせ、あの野心溢れる老紳士は、ハーネスト屈指の大貴族なのだ。声望も、影響力も、元を辿れば余所者の自分とは、雲泥の差がある。


 アルノーなら、持てる権力を総動員して、開戦への道を開きかねない。もしそうなってしまえば、自分には、どうすることも出来なくなってしまう。


 セインは、募る苛立ちを、跫音に変えた。


 アルノーだけではない。あの粗雑にすぎる報告書が、セインの胸を否が応にも騒がせている。なぜ、今月に入ってから、襲撃の規模が急に大きくなったのか。


 詳細は分からないとはいえ、計算上、すでに四か国は、壊滅的な被害を受けているはずだ。それも、ハーネスト周辺の、小さな国から順に。


 積み上げられた事実が導く答えは、したり顔で戦意を煽る政治家が想像しているよりも、はるかに恐ろしいものかもしれない。


 セインは、塞き上げる疑念から逃れるように、一足飛びに廊下を抜けていく。


 宵闇の迫った紫の斜陽が、セインの長い影を、黒々と描き出していた。

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