第一章・過ぎし日の影 ‐Ⅰ‐

 今から遡ること十八年前、人類は、ついに最大の脅威を克服した。

 極北の大国ハーネストの東には、かつて、人に非ざる者たちの帝国があった。

 彼らが、いつからそこに在ったのか、誰ひとりとして知る者はいない。分かるのは、神の加護を受けた王が統べる神皇七国が成立するよりも、はるか昔からということだけだ。

 彼らは人間と同じ姿を有しながら、その生は、人間の五倍を優に超える。卓越した身体能力は、婦人でさえも、研鑽を積んだ人間の騎士の遥か上をいく。厖大な魔力に裏打ちされた強靭な肉体は容易く傷付かず、その身を竜に変ずることさえも出来るという。

 誇り高き彼らは、自らをこう呼んだ。

 ――竜の末裔、と。




 人類と、竜の末裔。互いに似ていながらも、決して相容れぬ二つの種族は、千年以上の長きにわたって、絶妙な均衡の上に並立していた。

 無論、それを互いに良しとしていた訳ではない。

 歴史を辿れば、両者の間での小さな諍いは、枚挙にいとまがない。

 特に、東の国境で帝国と接していたハーネスト王国は、騎士団、竜騎士団を両翼とする軍事大国として、人類の最終防衛線の役を担ってきた。

 人々は、竜の末裔を、聖典の語る邪竜に擬えて、恐怖と憎しみを抱いていた。

 竜の末裔は、力なき人間どもが地上の支配者面をしていることを、許しがたい傲慢と捉えていた。

 両者の間には、埋められない溝があった。それでも並存を続けていたのは、人類には竜の末裔を駆逐するほどの力はなく、竜の末裔には、人類を殲滅するに足る数がいなかったからに過ぎない。

 仮初の平安に、新しい道を示したのは、万物の守護者たる神皇七国の筆頭を自任する、ヴァルドー王ヴィットーリオⅡ世だった。

 ヴィットーリオは、教皇座を戴くヴァルドーの王都サンローゼで、大規模な世界会議を催した。

 ハーネスト、ロマニアなどの神皇七国だけではなく、教会を中心とする共生圏にあるすべての国を集めて行われた会議の席で、ヴィットーリオは、竜の末裔の脅威の重大性と、国家の垣根を越えた人類の連携の必要性を、声高に説いた。

 竜の末裔を討ち滅ぼす力がないというのであれば、創り出せば良い。形勢を逆転させるほどの、強力な切り札を。

 かの王の訴えに希望を見出した諸国連合は、彼の主導のもと、大戦への舵を切る。

 二度にわたる世界会議を経て、竜を狩るドラチェーザの一族や、高名な魔術師の叡智の結晶が日の目を見るのに、発議から、実に八年の歳月を要した。

 苦心の末に創り上げられたその兵器は、伝説にあやかって、『聖者の槍』と名付けられた。

 聖者の槍は、竜の末裔の力の根源である魔力を封じる魔術防衛システムである。ひとたび起動すれば、射程圏内にいる竜の末裔を、人間と同程度にまで抑え込むことが出来る。

 強大な力を誇る高位階の竜の末裔を完全に封じるほどの力はないが、竜の末裔の中でも、高位竜は全体の一割にも満たない。

 人類が得たこの新たな力により、長きにわたった二者の均衡は破られた。

 聖者の槍の登場は、およそ恐怖とは縁遠い竜の末裔を、戦慄させるには十分だった。なにせ、起動されてしまえば、数で圧倒的に劣る彼らの滅びは、必定と言っても過言ではなかったからだ。

 帝国はすかさず、聖者の槍を保有するヴァルドーに、総攻撃を仕掛ける構えを見せた。だが、そこに、偵察隊より、ひとつの情報がもたらされる。

 ――聖者の槍は、破壊を恐れて小国のいずこかに隠された。

 焦燥に駆られた帝国は、やむなく戦力を分散させ、世界各地に同時侵攻を開始した。かくして存亡を賭けた大戦の火蓋は、切って落とされた。

 十八年前の、晩夏のことである。

 各地に散った帝国の尖兵の勢いは、烈火の如く苛烈を極めた。単体でも驚異的な強さを誇る竜の末裔の軍勢を前に、攻撃を受けた小国は、ひとつ、またひとつと、地図の上から消え去っていく。

 戦火は瞬く間に広がり、大地の全てが朱に染まり、死の匂いが、世界を包むかに見えた。

 各国が疲弊していく陰で、ヴァルドー王を筆頭とする神皇七国の君主たちは、隠密裏に、戦力を帝国の東、神皇七国が一国、ハーネストに集中させていた。

 払われた犠牲も、流された血も、すべては計算の上だったのだ。

 竜の末裔たちが人間たちの策略に気が付いた時には、すでに勝敗は決していた。

 聖者の槍によって無力化された帝国は、なだれ込んだ諸国連合の圧倒的な兵力によって灰燼に帰した。

 栄華を誇った不落の帝国は、歴史の露となり、人類の凱歌が響き渡った。

 歴史的な勝利の記念として、皇帝たる青竜の牙と称される一振りの豪壮な槍が、今もヴァルドーの王宮に飾られているという。

 かくして人類は、竜の末裔を討ち滅ぼし、平安を勝ち取ったのである。




 セインは、城のテラスに出て、ひとり午後の茶を嗜んでいた。

 椅子に腰かけて梢を渡る穏やかな風に吹かれていると、いくらか気が紛れる。それでも、セインの心は、自然と、十八年前のあの日に向いてしまっていた。

 あの大戦の折、被害を受けなかった国は、ほとんどなかったと言っていい。それは、セインの故郷も同じだった。

 軍靴に踏み荒らされた瓦礫の街は、もう元には戻らない。失った家族は、もう微笑みを返してはくれない。すべては、とうに過ぎ去ってしまったのだ。

 あの時レオンに出会わなければ、自分も、過ぎ去った者の列に連なっていたのだろう。

「情けないですねえ。」

 セインは、自嘲気味に、重い溜息を零した。

 夢で見たノルヴァニールの惨劇が、幼い日に味わった地獄と、重なって見える。

 自分は、あの日を二度と繰り返させないために、剣を取ったのではなかったのか。戦禍を厭うからこそ、誰かを守るだけの力を、求めたのではなかったのか。

 それなのに、無力な幼子のように、ただの夢に囚われてしまっている。

 惨劇の情景と、不可解な嗄れ声が、セインの胸の奥で、ぎりぎりと爪を立てていた。頭ではただの夢だと解っているのに、確信めいた不安が、どうしても拭い去れないでいる。

「……こんなに良い天気なのに。」

 セインは、昏い思考から逃れるように天を仰いだ。

 短い夏の終わりの高い空に、ちぎれ雲が、滔々と流れていく。どこまでも青く澄み渡る空の眩さは、セインの心を、逆しまに映したかのようだった。

 蒼穹を舞う小鳥たちは、穏やかなカノンを奏でている。長閑で、ありふれた午後だ。

 セインが求めるように指を伸ばすと、一羽の小鳥が、寄り添うように舞い降りた。

 きっと、長いこと飛び回っていたのだろう。物怖じするでもなく、せっせと疲れた翼を整えるその姿に、セインはすっと目を細めた。

 軽やかなその両翼には、一かけらの憂いもないのだろう。安らかに憩う小鳥の姿は、そよぐ風のように、どこまでも穏やかだった。

 このままずっと、眺めていたい。この安寧に、まどろんでいたい。

 そんなセインのささやかな願いは、ついぞ、叶うことはなかった。

「セイン様……! こ、こんなところに……いらしたんですか……。」

 緩やかな静謐を破ったのは、息も絶え絶えな、少年の声だった。

 小柄な少年は、空色の髪を揺らしながら、セインの下に駆け寄ってくる。

 その勢いに驚いて、小鳥は、大空へと羽ばたいていった。

「おや、ルーク。どうしましたか? そんなに慌てて。」

 セインは小首を傾げると、半ば倒れ込むようにテーブルにもたれかかった少年に問いかけた。

 きっちりと着こまれた濃紺の士官服の襟元で輝く徽章は、あどけなさの残る容姿に反して、彼が誉れある竜騎士団第一部隊長であることを示している。

 暢気な上司の声に、ルーク・タイルフォンは、抗議するように顔を上げた。

「ど、どうかしました? じゃありませんよ、セイン様。もうすぐ会議のお時間ですよ。陛下やリクター様が探して……もしかして、忘れていらっしゃいました?」

 彼の大きな空色の瞳は、セインの顔の筋肉がわずかに硬直したのを、見逃してはくれなかった。

 自分は、なにをぼんやりしていたのだろうか。

 己の愚かしさに、セインは、軽い眩暈を覚えた。

 些事に気を取られて現実を見失うなど、竜騎士長の責にある者として、失態にも程がある。

「大丈夫ですよ、セイン様。あと五分ありますから、今から向かえば間に合います。」

 優しい部下が肩を揺すってくれるまで、セインの視界から、すべてが消え失せていた。

「ありがとう、ルーク。もうすこしで僕、頭の固いお偉方に、またどやされるところでした。」

 セインは、心配顔の部下に茶目っ気たっぷりの笑みを送ると、カップに残った紅茶を一気に干して、颯爽と立ち上がった。

「あ、セイン様、カップとポットは、僕が洗って執務室にお運びしておきます。」

「ありがとう。では、お願いしますね。」

 たしかに、執務室に寄るほどの時間はないし、ティーセットを抱えたまま、議場へ向かう訳にもいかない。ここは、素直に彼の好意に甘えさせてもらおう。

 セインは、ルークにティーセットを手渡すと、さっと踵を返した。

 ここからなら、急げばなんとか滑り込めるだろう。

「セイン様、危な……!」

 悲鳴にも似たルークの叫び声に、重く鈍い衝撃音が重なった。

 セインは、もんどりうって痛打した額を押さえた。疼くような痛みに、じんわりと涙が滲む。

 気が急くあまり、出入り口が自分の背丈よりも低いということを、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。

「だ、大丈夫で……」

「……じゃあ。」

 慌てて駆け寄ってきたルークの言葉を笑顔で遮ると、セインは、逃げるように出入り口をくぐった。

 きっと、今の顔は、未だかつてないほどに引き攣っていたことだろう。恥ずかしさと情けなさで、これ以上、彼の顔を見ていられなかった。

 じんじんと疼く額をさすりながら、セインは一足飛びに会議場へと駆けて行った。

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