第6話 敵陣へと ②
薄闇の空間でどれほどもがいていただろうか。
長い何かが瑠奈に向かって伸びてきた。全体が金色の毛に覆われ、先端に鏃のようなものを備えている。そして瑠奈の腕ほどの太さのそれ――毛むくじゃらの触手が、瑠奈の腰に巻きついた。
ぐん、と瑠奈の体が引かれた。
移動する、という能動的な意識はとうに失せているが、この何かがそこへと運んでくれることだけを願った。
生か死か。自分を待ち受けている運命を、瑠奈は推し量った。
やがて触手の根元のほうに光が見えた。出口らしい。
だが、疑念は残っていた。何よりも、この触手が信用できない。
――無理もないね。
嘲笑が聞こえた。この触手を伝わってきた声は、耳を介さず、頭の中に入ってくる。だが、彩愛の声ではなかった。
――だったら自分で試せばいいわ。
その言葉のあとで、瑠奈は触手から解放された。
瑠奈を解放した金色のそれが、光の向こうへと引き戻される。
虚空に取り残されてしまったが、ここまで来ればどうにかできそうだった。
瑠奈は光の向こう側を覗いた。
薄暗い光景だった。アスファルトらしきものが見えるが、どうやら上下が逆さまのようだ。
瑠奈は精神を集中し、体の向きを回転させた。そしてその光へと近づく。
――そうよ、ここよ。
彩愛の声だ。
光が広がり、虹色のマーブル模様が瑠奈の前方をぐるりと取り囲んだ。空間が狭まっているのを感じ取る。出口の門のすぐ内側にいる、という証しだ。
瑠奈は右肩にリュックをかけていることを確かめると、自分の足元のほうを見た。マーブル模様の先にアスファルトの地面が見える。自分の靴底と地面との相対距離は十センチ程度だろう。
まずは右足を前に出し、最後の前進を念じた。
瑠奈の体は唐突に元の世界へと出た。冷気と重力を感じつつ、右足をアスファルトに接地させ、ついで左足を右足に並べた。薄闇の空間で手間取ったためか若干の目まいを感じるが、空気を思いきり吸い込むと、状態はすぐに回復した。
「初めまして、神宮司瑠奈さん。わたしが立花彩愛よ」
声の主が瑠奈の目の前に立っていた。真紀と同世代か、もう少し若いかもしれない。真紀に劣らず美人であり、ウェーブのかかったセミロングヘアがよく似合っている。白いブラウスと白い八分丈パンツが薄闇の中で目立っていた。
アスファルトの地面を見渡した。どうやら駐車場であるらしい。否、駐車場だったところだろう。ところどろに亀裂が走っているばかりか、雑草が生えている箇所もある。奥には工場のような建物があるが、明かりは皆無だ。そんな状況をかろうじて把握することができたのは、遠くの街灯から届く光のおかげだった。
さらに目を配れば、駐車場や建物の外周は木立に囲まれており、その外側にもいく棟かの工場のような建物が見えた。どこかの工業団地である、と思えた。
「神宮司さん」その女、立花彩愛が言った。「あなた、もう少しで死ぬところだったのよ。門を通過するのに五分もかかったわ」
その言葉を聞いて、瑠奈は啞然とした。門を使っての移動は、仮に目的地が地球の裏側であろうと、ものの数秒でこと足りるのだ。あの空間に一分も滞在すれば、それは死を意味するという。
「雑念は禁物。それは門を使うときの鉄則よ」
言われずとも承知しているが、人質を取られているという状況からして、平静でいられるわけがないのだ。それを口にできない状況であるのも承知しているゆえ、瑠奈は異議を控えた。
「手を貸していただきました。おかげで助かりました」
異議ではないはずだが、謝辞でもない。証しとして、瑠奈は怒りを込めて彩愛を睨んだ。
「ちょっと違うわね」彩愛は笑みを浮かべた。「貸したのは手じゃなくて、尻尾よ」
意味がわからないまま、瑠奈は押し黙った。
不意に、背中に蒸し暑さを感じた。門を出てからずっと背中に冷気を受けていた、と悟り、瑠奈は振り向いた。
案の定、門は消えていた。そして門があったと思われる場所の先に、泰輝と梨夢が立っていた。二人とも無表情だ。
泰輝はワイシャツに半ズボンだった。ワイシャツも半ズボンも、瑠奈の身に覚えのないものだ。少なくとも神宮司家に置いてあったものではない。
一方の梨夢はロングTシャツに膝丈のスカートであり、やはり最後に見たときとは違う服装だ。髪型は毛先にカールのかかったミディアムに変わっている。さらには、あのときと同じく眼鏡はかけておらず、しかも見違えるように美しくなっていた。
「泰輝も本郷さんも、無事だったのね」
瑠奈は思わず安堵の声を漏らすが、泰輝と梨夢は表情を変えずにその場に立ち尽くしている。
「さあ、例のものを渡してもらいましょう」
声をかけられ、瑠奈は彩愛に向き直った。
「先に二人を返してください」
「それは取り引きとして変でしょう」彩愛は笑みを消した。「あなたに主導権はないの。立場というものをわきまえてほしいわ」
相手の感情を逆なでするのはやめたほうがよいだろう。唇を嚙み締めた瑠奈は、右肩にかけたリュックを開けた。そして召喚球を取り出し、彩愛に差し出す。
彩愛は右手で受け取ったそれを、自分の目の高さに掲げた。
「本物ね。間違いない」と言って彩愛は、瑠奈を見た。「スマホは?」
「ここにあります」
瑠奈は答え、開いたままのリュックからスマートフォンを取り出すと、通話状態の画面を彩愛に見せた。
「いいわ。じゃあそれを、画面を上にして足元に置きなさい。スマホの状態がよくわかるようにね」
瑠奈は言われたとおりに画面を上に向けた状態のスマートフォンを自分の足元に置くと、リュックの口を閉じてそれを背負った。
「神宮司さんが自分のスマホにどんな電源設定をしているのか、わたしは知らないけど、通話状態にしておけば、少なくともバッテリーがなくなるまでは電源が入ったままね。特機隊がGPSでここの位置を知ることができる。門の出現や消失で起こる空間のゆがみが、ときおり精密機械にいたずらするけど、お互いのスマホはの状態は良好だったわね。通信不能に陥ったら、特機隊を呼び出すために違う手立てを取らなくちゃならないから、本当によかったわ。ここでハイブリッド幼生を暴れさせるとか、あんまりやりたくないもの」
それは冗談ではなさそうだった。彩愛は真顔である。
「どうして、特機隊に知られてしまうように、わざと仕向けるんですか?」
瑠奈が尋ねると、彩愛は誇らしげな表情を浮かべた。
「自信があるから。そして、早くことを済ませたいから。あちらから来ていただいたほうが、早く済むでしょう」
「第六小隊の全部がここに押し寄せるはずがありません。それに、特機隊が第六小隊だけじゃないのは、わかりますよね?」
「だからよ。いちいち小分けしたいたのではきりがない。なるべくまとめて片づけてあげるわ」
すなわち、特機隊との戦闘を望んでいるわけだ。しかも、自分が勝つことを想定している。
「でも」瑠奈は言い募る。「わたしたちのスマホが通話中なら、立花さんのスマホの情報も特機隊に把握されてしまいますよ」
忠告したわけではない。もう手遅れなのだ。精一杯の揶揄である。
「だってこのスマホ、わたしのものじゃないし」
どうだと言わんばかりに片眉を上げた彩愛が、パンツのポケットからスマートフォンを取り出した。それを瑠奈の足元のスマートフォンに並べて置く。互いに通話し合っているスマートフォンが、並んだわけだ。
「言ったでしょう、仲間の幅は広いって。他人のものをかすめ取るのが得意な人もいる」
すなわち、無貌教の仲間から盗難品を提供してもらった、ということだ。抜かりはないらしい。
「じゃあ、もういいですか?」瑠奈は口を開いた。「あの二人を連れて帰ります」
「おかしいことを言うわね。神宮司さんは状況を理解していないわ」
自信ありげな表情だった。何に対しての自信なのか、それが何を意味するのか、瑠奈にはわからない。
「どういうことなんです?」
「わたしのほうが訊きたいわよ。梨夢をどこへ連れて行くの? あの子はわたしの家に住んでいるのよ」
そこまでは考えていなかった。しかし悩む必要はない。
「うちで引き取ります」
「あなたのお母さんがなんと言うかしらね」
彩愛は首を傾げた。
「母は事情を知っています。断るはずがありません。もし母が渋るようでしたら、なんとしてでもわたしが説得します」
「特機隊も説得するの? 彼らだって口を出してくるでしょうね」
「特機隊には意見させません」
瑠奈は言いきった。蒼依を引き取ることができたのだから、本郷梨夢も同様に受け入れることができるはずだ。
「あらそう。なら、本人たちに確認してみて」
澄まし顔で彩愛は言った。
「確認、って……」
またしても意味がわからなかったが、とにかく自分の目的を果たしたかった。
瑠奈は泰輝と梨夢に正面を向けた。そこで初めて、彩愛の言葉の意味とその二人の表情とを結びつけた。
「立花さん」瑠奈は彩愛を見た。「二人に何をしたんです?」
おおかた、催眠術などの類いだろう。瑠奈は憤りを隠せなかった。
「だから、本人たちに訊いてみてよ」
じれったそうに彩愛は告げた。
瑠奈は彩愛に背を向け、泰輝と梨夢に近づいた。
表情は乏しいが、二人の目の焦点は瑠奈に合っている。
「泰輝、本郷さん」
瑠奈が声をかけると、泰輝がわずかに梨夢に体を寄せた。見れば、二人は手を繫いでいる。その様子に瑠奈は違和感を覚えた。
「本郷さん、わたしの家に行こう」
瑠奈は梨夢に向かって言った。
「どうして?」
問い返した梨夢が、瑠奈を見つめた。眼鏡をかけていないが、瑠奈の顔を把握できているようだ。それにしても見違えるような美しさだった。何があったのか訊きたいくらいだが、当然ながら、それは別の機会に持ち越さなければならない。
「もう立花さんの家には住めないよ。わたしの家で、その子と、それから……」瑠奈は泰輝を一瞥し、再び梨夢に視線を戻した。「蒼依やわたしと一緒に暮らそう」
ふと、梨夢の表情が柔らかくなった。
「それも楽しいかもしれないね。神宮司さんはあの林の中で、スーツ姿の人たちからわたしを守ろうとしていた。考えてみたら、空閑さんもわたしのことを気にかけてくれていたんだよね。でも……」
「でも?」
瑠奈は眉を寄せた。何かが不自然だった。否、何もかもが不自然ではないか。泰輝は瑠奈を見上げているが、まるで他人を見るような目つきである。彩愛はこれを確認しろと言ったのだろうか。
「わたしはおばさんと一緒にいる」
柔らかい表情のまま、梨夢は言った。
「どうして? 立花さんは邪教の信者だったんだよ。もしかしたら、幼生かもしれない」
「幼生?」
梨夢は首を傾げた。
やはり、催眠術にかけられたか、もしくは薬物を投与されたとしか思えなかった。しかし考えてみれば、少なくとも幼生である泰輝には、催眠術も薬物も効かないはずだ。
「神宮司さん」梨夢は瑠奈をじっと見つめた。「わたしの気が変になった、と思っているんでしょう?」
「そんなことは……」
瑠奈は言いさして口を閉じた。催眠術にせよ薬物投与にせよ、それらの可能性を懸念したということは、この二人の精神状態を訝ったのと同然なのだ。
「でもわたしは正気なの。わたしはおばさんと一緒にいる。泰輝くんもね」
そして梨夢は、泰輝を見下ろした。
続けて、泰輝が顔を上げて梨夢を見た。
見つめ合う二人が笑みを浮かべた。
「ぼくは梨夢お姉ちゃんや彩愛おばちゃんと一緒にいるよ」
そう告げた泰輝が瑠奈に顔を向けた。瑠奈に向けられたその顔に、笑みはなかった。
「蒼依ちゃんも泰輝のことを待っているんだよ」
でっち上げではない。事実なのだ。
ほんの束の間、何かを思い出したように泰輝の目が遠くを見た。そしてすぐに瑠奈から視線を逸らす。
たまらず、瑠奈は振り向いた。
「二人に何をしたんです? 本郷さん……梨夢さんも、泰輝も様子が変です。泰輝があんなことを言うなんて」
「わたしは何もしていないわよ」彩愛は言った。「梨夢は今でもわたしを頼りにしているんだし、泰輝くんは梨夢のことが気に入ったみたい。それだけよ」
もし梨夢が女の見鬼であるならば、泰輝はそんな彼女に欲情したのかもしれない。とはいえ、二人を無貌教に渡せるはずがなかった。
「そちらの要求は吞んだんです。あの二人が何を言おうと、連れて帰ります」
「力ずくで? あなた一人でどうにかなるかしら」
彩愛は失笑した。
「わたしは一人ではありません。間もなく特機隊が来ます」
「そうね。間もなく特機隊は来るわ。でも、ここに来た特機隊隊員は、全員死ぬのよ」
笑みを浮かべたまま、彩愛は言った。
「神宮司さんもわたしたちと一緒にいればいいのよ」
梨夢が言った。
とっさに向き直り、瑠奈は梨夢を見つめる。
「わたしはあなたを連れて帰る。泰輝も一緒に」
「ぼくは梨夢お姉ちゃんや彩愛おばちゃんと一緒にいるんだってば。でも、お母さんは一緒にいないほうがいい」
泰輝が自分を「お母さん」と梨夢や彩愛の前で呼んだことは、この期に及んで気にしても意味がないだろう。だが、我が子として接してきた泰輝に「お母さんは一緒にいないほうがいい」などと説かれたのでは立つ瀬がない。自分を突き放すむごい言葉を吐いた泰輝を、瑠奈は見下ろす。
「どうしてそんなことを言うの」
「そうよ泰輝くん」梨夢が言った。「お母さんにひどいことは言ってはいけない」
泰輝が瑠奈を母と認識していることを梨夢は至極当然のように受け止めているかのようだった。それでも瑠奈は、問題意識を本来の方向へと向け直す。
「本郷さん、わたしと一緒に行こう。さっきは、それも楽しいかもしれない、って言ったくれたじゃない」
「言ったよ。でも行けない。だって、泰輝くんが結界を解いてくれないんだもの」
その言葉の意味を、瑠奈は理解できなかった。
「結界が……それがどう関係あるの?」
「梨夢の言うとおりよ」彩愛が言った。「泰輝くんは、梨夢お姉ちゃんや彩愛おばちゃんと一緒にいたい、と言っているのに、一方では、神宮司邸の結界は解きたくないだなんて。だからこんな面倒な計画を立てなくちゃならなくなったの」
瑠奈はそんな彩愛を一瞥し、泰輝と梨夢を見やった。そして、必死になっている自分に気づく。ここにいる四人のうちで自分一人だけが浮いていることが、滑稽にさえ思えた。
「どうやら、頼もしい特機隊が来たようよ」
彩愛が言った。
車の走る音が聞こえる。
遠くの街頭の下に二台ぶんの車のヘッドライトが見えた。
泰輝も梨夢も彩愛も、ただじっとその二台を見ている。
二台の車は明らかにこちらに向かっていた。ほかに車は見えない。二台が走るその道が通りから外れた脇道であることを、瑠奈は今になって悟った。
この駐車場はフェンスで囲まれているが、大きな門が開け放たれており、二台の車はそこから入ってきた。そして二台は、瑠奈たち四人の正面、十メートルほどの位置で横に並んで停車する。瑠奈がヘッドライトのまぶしさに片手をかざすと、二台はエンジンを切ると同時にヘッドライトを消灯した。やはり、二台とも特機隊専用車だった。
一台目の特機隊専用車の運手席から降りたのは、小野田だった。助手席からは矢作が姿を現す。二台目の運転席からは木島、助手席からは三上が降り立った。四人ともセンサーグラスを着用していた。
木島以下四人はスーツの内側から拳銃を取り出し、揃って銃口をこちらに向けた。彩愛ではなく、瑠奈や泰輝、梨夢のほうに向いている感じである。
「木島さん!」
信じられない光景に瑠奈は思わず声を上げた。おそらく木島たちは、瑠奈が召喚球を持ち出したことを把握しているだろう。それにしても、銃口を向けられるなど、不測の事態としか言いようがない。
「この人たちが狙っているのは、わたしよ」
そう告げた梨夢が、泰輝の手を離した。
「瑠奈ちゃん」小野田が言った。「泰輝くんを連れて本郷梨夢から離れるんだ。彼女は純血の幼生だ」
聞き違えたのかと思い、瑠奈は梨夢に目を向けた。確かに以前の梨夢とは別人とも言える容姿である。だが、どう見ても「人間の少女」だ。もっと詳しく説明してほしい、と小野田に要求しかかるが、一つの事実が脳裏に浮かんだ。泰輝も純血の幼生であり、今もこうして人の姿でいる。ならば、梨夢が純血の幼生だというのもありうることだ。
瑠奈が梨夢から距離を取るまでもなく、梨夢が瑠奈や泰輝から離れた。木島たち四人に顔を向けたまま、木島たちを中心として弧を描くように、彩愛とも距離を取るように、ゆっくりと歩いて行く。
第六小隊の四人は、梨夢に狙いを定めていた。
「本郷さん……」
名前を呼んだだけで、続く言葉が出なかった。たとえ幼生だとしても、特機隊に撃たれて当然の存在なのだろうか。
梨夢が立ち止まり、その正面を第六小隊の四人に向けた。
「だめ!」
叫びつつ飛び出そうとした瑠奈は、泰輝に右手をつかまれた。
「大丈夫だよ」
そう告げる泰輝を見下ろすと、彼は梨夢の様子をじっと見つめていた。
梨夢のスカートの裾から四本の何かが伸び出した。それらは梨夢のすね当たりまで下がり、そこから梨夢の背中をかすめるように上へと伸びる。四本のそれらは金色の毛に覆われており、どれもが先端に鏃のようなものを備えていた。そして四つの鏃が、第六小隊の四人へと向けられた。薄闇の空間で瑠奈の体を出口の近くへと運んでくれたあの触手は、これに相違ない。
甘い香りが漂った。
「撃て」と木島が静かに指示した瞬間、四つの銃口が火を噴くよりも早く、耳をつんざく雷鳴とともに、光が走った。
小野田と木島が中腰になっており、三上と矢作は片膝を立てていた。四人は皆、苦悶の表情で右手を左手で押さえており、それぞれの手から拳銃が失せている。見れば、拳銃だったものらしい破片が、四人の周辺に散らばっていた。
「これで少しは怖がってくれるよね」梨夢はスーツ姿の四人を見ていた。「あんまり強いダメージを与えると、意識を失ってしまうかもしれない。そうなったら、怖がってくれるどころじゃないし」
「さすがは梨夢ね。じゃあ、これもお願いするわ」
彩愛は言うと、下投げで召喚球をほうり出した。固い音を立てて転がった召喚球が、第六小隊の四人と梨夢との間で止まった。
「召喚球」
声を漏らした木島だけでなく、小野田や三上、矢作も、アスファルトの上の球体に目を留めた。
梨夢の金色の触手――否、金色の尾の一本が、縦に振られた。その先端が召喚球を直撃したらしい。召喚球は縦に両断され、分かれた半球のそれぞれが断面を上にした。
特機隊の四人が驚愕の表情を呈する。
「何をするんです!」
実行した梨夢ではなく、彩愛に向かって瑠奈は声を上げた。
「召喚球はもういらないわ」彩愛は瑠奈を見た。「高三土山の祭壇石が破壊されてしまった今では、これはほぼお役御免なの。とはいえ、全く使えないわけではない。高三土山は特機隊にマークされているから、別の場所に祭壇石を新たに設けるとか、既存の別な祭壇石を使うことになる。どこぞの海の底にも祭壇石はあるようだし。でも一番効果があるのは、高三土山での儀式なのよ。それが不可能となった今だからこそ、ほかの連中に使われるリスクだけは避けたい。特機隊や輝世会、ダゴン秘密教団とかね。わたしたちはそれがなくてもほかの手段で神を召喚することができる。だったら、召喚球はないほうがいいのよ。そして、割れた召喚球をこうして置いておけば、あとから来た第六小隊の隊員たちが愕然とするでしょう。今のあなたたちみたいにね」
言って彩愛は、木島たちを見た。
「立花彩愛だな!」木島が中腰で右手を押さえたまま彩愛を睨んだ。「本郷梨夢が幼生なら、貴様は無貌教の信徒というわけだ」
「そういうことよ。でも、そんなことを知ったって、意味はないと思うの」
「なんだと」
木島はゆっくりと腰を上げた。小野田と三上、矢作もそれに倣う。
「あなたたち四人は、今から梨夢のごちそうになるんだもの」
それが、彩愛の許可が下りた、という合図だったに違いない。
四本の尾を背後に立てたまま、梨夢が笑みを浮かべた。その目は木島たち四人に固定されている。笑みをたたえた口が、徐々に大きく裂けた――そのとき。
梨夢が彩愛に顔を向けた。
「おばさん」
そう言葉を放った梨夢は、先ほどと同じ美しい顔だった。口の大きさは元に戻っている。
「どうしたの?」と彩愛が首を傾げる。
人の走る音がした。
小野田が梨夢に向かって走っていた。隙を突こうとしたらしい。
金色の尾の一本が宙を走った。
小野田は弾き飛ばされ、瑠奈の前に転がった。
「小野田さん!」
瑠奈はとっさにしゃがみ、小野田の肩を抱き起こした。
「とちったな」
顔をしかめつつ、小野田は言った。一人では起き上がれないようだ。
泣きそうになるのをこらえつつ、瑠奈は「けがは?」と尋ねた。
「あちこちを強く打ったが、電撃を食らった右手も含めて、そのうち痛みは引くだろう」
小野田がそう言うと、背後で哄笑が上がった。
「本当におばかね。痛みが引くどころか、食べられちゃう、っていうのに」
嘲りの目で瑠奈と小野田を見下ろしながら、彩愛が言った。
「もっとも」彩愛は続ける。「神宮司さんはいろいろと使えそうだから、とりあえず生かしておくけど、わたしたちと一緒に来てもらうか、帰ってもらうかは、梨夢と泰輝くんの気持ち次第ね」
「ねえ、おばさんってば」
じれったそうに、梨夢が声を飛ばした。
「だから、どうしたっていうのよ?」
気分をそがれたのか、彩愛は眉を寄せた。
「わたし、今はごちそう、いらない」
「どうして? あと片づけにもなるんだからね」
彩愛が口角を下げると、金色の尾の一本が、またしても宙を走った。
「うっ」と声を上げたのは矢作だった。彼は金色の尾によって腰を何重にも巻き取られ、空中に持ち上げられていた。
「矢作!」
起き上がれないまま、小野田は叫んだ。
矢作の体は梨夢から十メートルも離れた位置で、三メートルもの高さに持ち上げられていた。にもかかわらず、梨夢の体勢に変わりはなく、力んでいるようにも見えない。
不意に、矢作の体が彩愛のすぐ前に運ばれた。矢作は金色を解こうと両手でもがくが、効果はまったく得られない。
別の尾が矢作の顔をすうっとなでた。彼のセンサーグラスがアスファルトに落ちた。それを梨夢は靴底で踏み潰す。
「この人をわたしにちょうだい」
梨夢は彩愛に向かって猫なで声を出した。
「え?」
目の前の青年を見つめつつ、彩愛は困惑の色を呈した。
「わたし、この人がほしいの。今すぐしたいの。だから、ごちそうはいらない」
梨夢の言葉に困惑したのは彩愛だけではない。小野田も木島も三上も、当の矢作でさえも、自分の置かれた状況を忘れたかのように梨夢を凝視ししていた。
そんな中で、瑠奈は得心していた。幼生としての梨夢は、見鬼の男である矢作と交わりたいのだ――と。
ため息をついた彩愛も、ようやく気づいたらしい。「その人、見鬼なの? ……しかたないわね」とこぼして肩をすくめた。
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