第6話 敵陣へと ①

 本宅の二階の廊下は照明が落とされ、非常灯のみとなっていた。真紀は入浴中で、しかも入ったばかりらしい。

 身辺の状況を確認した瑠奈は、自室に戻り、リュックを右肩にかけ、通話状態のスマートフォンをジーンズのポケットに入れた。そして再び廊下へと出る。

 照明を点けずに廊下を静かに進み、一階の玄関ホールへと下りるが、そちらは皓々と明かりが灯されていた。とはいえ、藤堂や家政婦たちの姿はない。皆、住み込みだが、少なくとも藤堂はまだ起きているはずである。おそらく彼は、盗聴器や盗撮カメラがないか、敷地の内外を点検しているのだろう。

 玄関ホールから食堂へ向かって廊下を進んだ。その途中で右に二メートルほどへこんだ場所がある。突き当たりに向かって左右に一つずつドアがあり、右がエレベーター、左が階段だ。どちらを使っても本宅の地下に下りることが可能である。瑠奈は左のドアを開けて中に入った。

 内側の空間は非常灯のみで照らされていた。この吹き抜けは縦長の直方体だ。地上一階と地下一階とを合わせたぶんの空間である。途中で切り返しのある階段は、非常階段のような作りだ。手すりこそあるものの、足元は金属の踏み板のみで、踏み板と踏み板との間を縦につなぐ蹴込けこみ板はなかった。そんな構造ゆえ、足音は響きやすい。

 瑠奈はドアを閉じ、照明を点けず、非常灯のみを頼りに階段を下りた。足音を立てないよう、慎重に一段ずつ下りていく。

 階段を下りきると、そこも非常灯で照らされた空間だった。塩ビシートの床は、一階や二階と同様の質感だ。東のほうに四角い断面の通路が延々と続いており、先のほうは闇に包まれて見えない。その闇の向こうにあるのは、第一別宅と分駐所、それぞれの地下部分である。

 瑠奈はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出し、それを耳に当てた。

「地下に下りました」

「ここからが大変ね」彩愛の声だ。「地下室の前に行ったら、まずはドアに背中を向けなさい。そうしたら、そこから五メートル先に門の発生点を設定するのよ。大きさは、通路に収まりきらないくらいにしてね。天井や床や壁に重ねてちょうだい。うまくできれば、駆けつけた特機隊隊員を足止めさせる障壁にもなる」

 とはいえ、門を呼び出すには多大な精神力を費やす必要があった。短い呪文ではあるが正確に唱えなければならず、少しでも間違えれば最初から唱え直さなければならない。それは精神力を余計に消費するということでもある。門を使えるとはいえ、簡単な作業ではないのだ。

「まずは門を呼び出して、急いで召喚球を取り出し、門へ飛び込むのよ」

 彩愛はそう指図するが、ロックの解除は二度もあるのだ。

「ドアは二つあります」

「知っている。でも、十分に間に合うはずだわ。……あなたの門を感じたら、こちらに出口を用意する。実行しなさい」

 せかすような言い草だった。

「今から前室のドアに向かいます」

 瑠奈は答えると、通話状態のスマートフォンをリュックに入れるが、そのリュックは口を開けたままにした。

 地下金庫は第一別宅や分駐所とは反対の方向だ。階段を下りきった位置から西へ五メートルほど進むと、突き当たりが片開きのドアとなっている。瑠奈はそのドアの前へと向かった。歩きながら、天井のドーム型監視カメラを一瞥する。

 ドアの向こうが金庫の前室であり、前室に入るとその奥の壁に金庫のドアがある。だがこの二つのドアは、普段はロックされており、ドアの横の壁に取りつけてあるパネルのテンキーで暗証番号を打ち込まなければロックは解除されない。しかもどちらのドアも特機隊のセキュリティシステムによって監視されており、ロックを解除すれば直ちに第六小隊管制室の監視モニターに警報が表示され、分駐所のみならず、神宮司邸敷地内の至る箇所に設置されたスピーカーから警報音が流れるのだ。そして同時に、第六小隊の隊長以下各隊員のスマートフォンにアラームとともに通知が表示されることになる。

 また非常事態にならずとも、監視カメラは常に作動している。彩愛の言葉どおり、運が悪ければ、管制室にいる誰かがモニターを介してこの様子を見てしまうかもしれない。それも考慮すれば、行動に迅速さが要求される。

 前室のドアの前に立った瑠奈は息の乱れを整え、パネルの横にあるスイッチでドア上部の照明を点けた。さすがに非常灯だけでは心許ない。時間が勝負なのだ。キーの打ち間違えは避けたかった。

 口を開けたままのリュックを足元に置いた瑠奈は、ドアを背にした。そして正面の空間の一点を見つめる。天井と床と左右の壁、これらに囲まれた空間の中心を通る線上の、自分から五メートルの位置だ。この点が、門の発生点となり、その位置に門の中心が重なるようにイメージした。そして門のサイズは、その表面が天井や床や壁に食い込むほどの大きさであるようにイメージする。

 屋外などの開けた場所であれば、門の位置や門の大きさなど気にしなくても差し支えないことが多い。術者の能力で呼び出せる最大の門を使える、というわけだ。事実、瑠奈がこれまでに呼び出した門は、入り口であれ出口であれ、すべて屋外だった。そして屋外ならば、「自分の前方の辺りに直径二メートルほどの大きさのもの」とか「自分の背後の少し高い位置に成体の象が通れる大きさのもの」などその程度のイメージで済むのである。

 しかし、屋内となると話は別だ。門が周辺の物質と重なった場合、特に出口側では、使用者がその物質に接触して負傷する、という恐れがあるのだ。また、送り返される門は発生点へと縮小して消えるが、なんらかの事情により唐突に消えたとすれば、重なっていた物質のその部分も同時に消失する可能性がある。門が生物に重なった場合であればその生物の重なっている部分を欠損する事故も起こりうる、ということだ。

 また、入り口の門を通過する際に、通過する対象が門よりも大きいなど門に入りきらなければ、入りきらなかったその部分は門の外に取り残されてしまう。すなわち、その部分が切断されてしまうということだ。一方、難なく入り口の門を通過できたとしても、出口の門が対象より小さければその対象は異次元空間から出られなくなってしまう。ゆえに術者は、使用する状況に合わせ、出入り口双方の門を大きめに設定するのだ。

 いずれにしても、雑念は許されない。門を司る神にイメージが正しく届かなければ、門は現れないのだ。

 本来ならば出口となるも追う一つの門も呼び出さなければならないが、彩愛がいるはずのその場所を瑠奈が知らないうえ、彩愛本人がそちらの術を施行するというのだから、それに委ねるしかなかった。

 ドアの前に到着して十秒と経っていないが、この時点ですでに瑠奈の精神は疲弊していた。とはいえ、呪文を唱えるというプロセスが残っている。イメージを忘れないようにするため、今回は門の発生点に正面を向けたまま呪文を唱えることにした。門の中心として設定した位置を見据え、両腕を大きく広げる。

「イアイ・ングガー……ヨグ=ソトース……フエエ=ルゲブ……フアイ・トロドク……ウアアアー」

 一言一句違えずに唱えきり、瑠奈は両腕を下ろした。

 寸刻、空間が揺れた。

 耳の中にわずかな痛みを覚える。

 瑠奈の定めた位置に、黒い点が現れた――と、次の瞬間にはそれが目指す大きさに膨らむ。急に膨らんだそれは、虹色の球体だった。表面には七色のマーブル模様が生きているかのごとく蠢いている。これが門だ。

 この門は直径が三メートルにも達する大きさだった。上下と左右が、それぞれ天井や床、壁に食い込んでいる――否、重なっているのだ。

 冷気が漂った。門の内側、異次元空間からあふれ出る冷気だ。

 天井と床、それぞれの左右の隅にわずかな隙間があった。特に床ならば、駆けつけた特機隊隊員は匍匐して通り抜けるだろう。イメージより、わずかに小さかったようだ。

 多少の疲労感はあるものの、気力は残っていた。まだ大丈夫――と自分に言い聞かせてドアの前に立ち、ドアの右にあるパネルのテンキーに、右手の人差し指を伸ばした。

 指が震えていた。

 これでよいのか、という戸惑いが肩にのしかかる。

 ドアの前に到着してからここまでに、二十秒ほどがかかった。監視カメラで見つけられていれば、今から一分とかからず特機隊隊員が駆けつけるだろう。

 前室のドアも金庫のドアも、暗証番号は六桁だ。もっとも、それぞれのドアには別個の暗証番号を設定してある。それらの暗証番号は、瑠奈と真紀しか知らない。

 前室のドアの暗証番号は、泰輝の誕生日である五月二十四日と瑠奈の誕生月の十二月から取って順に並べた「052412」を逆にした「214250」だ。瑠奈はその番号を確実に入力した。

 ロックの外れる「カチッ」という音がした。

 もう、あと戻りはできない。

 ただちにけたたましい電子アラームが鳴り響いた。瑠奈の耳に届くアラームは地下通路に設置されたスピーカーから放たれているが、神宮司邸敷地内の至る箇所で同じ音が同時に鳴り響いているはずだ。

 瑠奈はドアを手前に開け、前室へと入った。もちろん、ドアは開けたままだ。前室の中は通路側から入る非常灯の明かりのみだった。ドアの横を手でまさぐり、スイッチを入れると、室内の天井灯が灯された。

 前室は三メートル四方ほどの小部屋だった。天井も床も四方の壁も打ちっぱなしのコンクリートだが、正面の中央にある一メートル角の観音開きの扉だけは金属製だ。瑠奈はその扉――金庫の扉に駆け寄った。

 金庫の扉の暗証番号は、父である清一の誕生月の二月と真紀の誕生日である十月十九日から取って順に並べた「021019」を逆にした「910120」だ。今度はやや早めに入力した。し損じることはなかった。

 ロックの外れる音がするや否や、瑠奈は観音開きの左右のドアを手前に引いた。

 金庫の中は縦三段に区切られていた。一番上の段には何もない。中央の段には何冊かのファイルが重ねられているが、特機隊設立に関する書類がほとんどだ。

 目的のものは一番下の段に鎮座していた。透明でつやのある野球ボール大の球体が、二十センチ角の分厚いクッションに載っている。これが召喚球だ。

 瑠奈はためらわずに召喚球をクッションから取り上げた。そして、右肩にかけてあるリュックに入れると、振り向きながらリュックの口を閉じ、前室の外へと駆け出した。

 どこかで誰かが叫んでいた。女の声のようだ。真紀か、家政婦の誰かだろう。もしくは、地下通路を恵美がこちらに向かっているのかもしれない。いずれにしても、監視カメラで気づかれたのか警報で気づかれたのか、瑠奈には知る由もなかった。

 階段の上のほうでドアを開ける音がした。

「門を司る神の寵愛を」と唱えつつ、瑠奈は虹色の球体に飛び込んだ。


 久しぶりに二階の自室で夜を迎えることができた小野田は、これからもたまには人間らしい暮らしができるといいな――などと感慨にふけっていた。パジャマに着替えたのも数週間ぶりである。

 午前零時まであと十五分であるのを確認し、冷房をかけたまま消灯し、ベッドで目を閉じた。遠くで蛙が鳴いている。

 そのときだった。

 廊下でけたたましいアラームが鳴り響いた。机の上ではスマートフォンも同様のアラームを鳴らしている。

 セキュリティシステムの警報であることを悟り、小野田はベッドから飛び起きてスマートフォンのアラームを切ると、手際よくスーツに着替えた。部屋を出る前に基本的な装備を忘れていないかチェックし、ドアを開ける。

 あちこちでアラームが鳴り続ける中、小野田は階段を駆け下りた。すぐ後ろにスーツ姿の越田が追いつく。

「侵入者かもしれません」

「とにかく管制室に行こう」

 答えた小野田は一階に着くと、越田を従えて管制室へと向かった。

 管制室の前には佐川が立っていた。無論、彼もスーツ姿だ。彼は開けっぱなしのドアから管制室の中を覗いている。

「木島隊長と松崎さんがモニターでチェックしています」

 小野田と越田に気づいた佐川が、アラームが鳴り響く中、そう伝えてくれた。

「どこのセキュリティに異常があったんだ?」

 佐川に問いながら、小野田は管制室を覗いた。

 九帖の広さの管制室には六組の机と椅子があり、それぞれの机にはノートパソコンや大型モニターが置いてあった。うち二つの椅子に木島と松崎が着き、キーボードを操作しつつモニターの画面を切り替えている。その手前には、三上と池谷が立っていた。管制室内にいる木島を覗く三人が、今晩の当直だ。

「まだわからないみたいですね」

 答えた佐川が、並んで立つ小野田と越田の背後に目をやった。

 小野田が振り向くと、矢作が生きを荒らげながら立っていた。しかも、スーツのボタンを閉めている最中である。

「遅れてすみません」

 謝罪する矢作に対して小野田は言う。

「気にするほど遅れちゃいないさ」

 そして小野田は、管制室の中に視線を戻した。

「地下金庫だ」声を上げた木島が、立ち上がった。「しかし、監視カメラの映像が乱れていて詳細が確認できない。……松崎はここに残れ。あとの者はセンサーグラスを装着し、拳銃を用意しろ。センサーグラスは対人モードだ。で……三上は地下から本宅へ。残りの者は、おれとともに外へ出るぞ」

 すぐに動いたのは三上だった。彼はセンサーグラスをかけながら管制室を出ると、玄関の反対方向へと走った。そしてすぐに、ドアを開ける音がする。地下に通じる階段のドアだろう。エレベーターもあるが、緊急事態ならば階段を使って当然だ。続いて聞こえたのは靴を履く音だ。分駐所も第一別宅も、地下への出入り口の手前には第六小隊の各隊員用の靴が用意されているが、地下施設の床が本宅の床の材質と同じための措置である。

 小野田と越田、池谷、矢作は、木島を先頭にして分駐所の玄関へと向かった。五人とも玄関を出るまでに、センサーグラスを装着して対人モードに設定し、拳銃を右手に持つ。

 屋外でもアラームは鳴り響いていた。近隣に民家も工場も店もないのは幸いだが、夜中のうら寂しい道とはいえ、一般人が神宮司邸の周辺を通らないとは限らない。一般人の注意を引く可能性はあるな――と小野田は憂慮した。

「池谷は前庭の警備に当たれ」

 玄関の外に出るなり、木島は指示した。

「了解」と答えた池谷が、前庭へと向かう。

 残りの四人は木島を先頭に、本宅のほうへと走った。

 センサーグラスが自分たち一行以外の二人の存在を表示した。表示の対象は第一別宅の前に並んで立っている。小野田は目を凝らし、それがスーツ姿の恵美とパジャマにガウンの蒼依だということを知った。

 こわばった趣の蒼依が木島以下四人を見やる。

「地下金庫を暴かれた。尾崎は第一別宅から地下へ行き、本宅の地下金庫へ向かえ。すでに分駐所の地下から三上が向かっている。センサーグラスは対人モードだ。拳銃を忘れるな。そして蒼依ちゃんは、分駐所の管制室に避難してくれ」

 走りながら木島は一気に告げた。

「了解」と恵美が答えたときには、一行は第一別宅の前を通り過ぎていた。

 本宅に近づくと、その建物の中にも複数の人がいることを、センサーグラスが教えてくれた。

 敷地内のアラームがやんだのとほぼ同時に、越田が本宅の玄関ドアを大きく開いた。

 一行が中に入ると、二階へと通じる階段の手前に、バスローブに薄手のカーディガンという姿の真紀が、三人のパジャマ姿の家政婦らとともに立っていた。センサーグラスの表示がその四人に重なる。

 タオルで頭を包んだ真紀がなんとも艶っぽく見えてしまい、小野田は目を逸らしそうなった。しかし非常事態であるのを認識し、気を引き締め直す。

「会長」木島が言った。「地下金庫です」

「やっぱり」

 そう漏らした真紀が、眉を寄せた。

「藤堂さんが確認のために地下へ」

 家政婦の洋子が言った。

 小野田は地下金庫の位置を、赴任した当日のうちに確認しておいた。そちらに顔を向けてみるが、ここからでは壁や床などの遮蔽物が多いようで、藤堂の反応も賊の反応も表示されていない。

「皆さんはここにいてください」真紀らに告げた木島が、部下たちに目を向ける。「小野田はここに残ってくれ。越田は外の警戒だ。矢作はおれについてこい」

 木島が采配を振るったその直後だった。

 インカムの通信が入った。

「こちら松崎。木島隊長、聞こえますか?」

 これらの通信は、当然ながら、第六小隊全隊員のセンサーグラスに拾われている。

「木島だ」

「監視カメラの記録を解析できました。しかし……」と松崎は言い淀んだ。

「どうした?」

 木島は問い返した。

 静寂の中で、その場に居合わせた全員の顔に緊張が走った。

 小野田は息を凝らし、松崎の言葉を待った。


 門に入るとそこは別次元の薄暗い空間だ。こちらの世界で言う宇宙空間に似た特徴を有しており、無重力で上下はなく、空気がなければ、温度はマイナス二百七十度である。ゆえに人間はこの空間での移動ができなければ、生存さえ許されないのだ。しかし門を使える者は、この空間に滞在することができ、意識するだけで移動することができる。瑠奈は本宅の地下で門に入る直前に、門を司る神――すなわち「門の鍵にて守護者」に寵愛を請うた。これにより瑠奈はこの空間を出るまでのわずかな時間、この空間で生存することができ、自在な移動が可能となるのだ。また、元の世界で門の近くにいれば冷気を浴びることになるが、門を司る神に守られている状態では、むしろこの空間にいるときのほうが凍えなくて済む。

 門に突入した瞬間、冷気が感じられなくなり、瑠奈の体は重力から解放された。あとは、意識することによって任意の方向へ飛ぶだけだ。もっとも、向かうべき場所の目印がなければ、永遠に闇をさまようことになりかねない。今回の目印は、彩愛の声、それだけだ。

 空気がなくても苦しくなかった。呼吸をしていないということである。とはいえ、無限に耐えられるものではない。早急に彩愛の声を感じなければならない。

 不安に駆られ、入り口だったほうを振り向いた。遠くのところどころに茜色の光が差しており、それを頼りに目を凝らす。しかし離れすぎたためか、入り口は見えない。術者が意図すれば入り口であれ出口であれ、門は送り返される。焦るあまりに門の退去を失念していた、と悟った瑠奈は、入り口の門を送り返すべく、早急に念じた。念じるだけで対象の門は送り返されるが、この状態でそれが完遂したか否かを確かめる手段はない。

 再び、瑠奈は前を向いた。否、前後左右など、意味はないだろう。とにかく、彩愛の声を感じ取ることが先決だ。

 ――こっちよ。

 彩愛の声だ。宣告されたとおり、耳ではなく脳で感じられた。

 瑠奈の頭上――というより、頭が向いている方向にそれを感じた。もっとも、頭の方向とはいえ、自分たちの住む世界で言う「上」とは限らない。そもそも自分たちの住む世界とこの世界は、三次元的に対照ではないのだ。

 ――急ぎなさい。こっちよ。

 声は続く。

 瑠奈は頭の方向に進むべく意識した。比較するものが存在しないため視覚的にとらえようがないが、物理的なGが発生し、そこへ向かって飛んでいることだけはわかった。

 ――さあ、こっちよ。

 声は感じられたが、そこで不覚にも雑念が生じてしまった。そもそも、立花彩愛という人物の都合に合わせてことが進んでいるのである。結果として多くの人々に不幸をもたらすかもしれない。そんな雑念が失せてくれない。

 気づけば、彩愛の声が聞こえなくなっていた。さらに瑠奈は、自分の頭の向いている方向を基準として上下左右に飛び回っていた。これは自分の移動が安定を失ったことを意味する。なんとか意識を集中しようとするが、焦りばかりが先走った。

 真紀や蒼依、泰輝の顔が脳裏に浮かんだ。

 瑠奈は死を覚悟した。


 小野田は真紀とともに分駐所へと向かった。前庭を見ると、南の端で池谷が警備に当たっていた。この池谷と、裏庭に回った越田だけは、引き続きセンサーグラスを装着し、拳銃を手にしている。

 ブラウスにスカートという姿の真紀は、脇目も振らずに歩調を早めていた。真紀の斜め後ろにつく小野田は、そんな彼女に一言も声をかけられない。というより、声をかけても受けつけてくれないだろう。

 分駐所に着くと、真紀は管制室へと向かった。小野田もそれに続く。

 開け放たれたままのドアから管制室に入ると、モニターを前にして椅子に着く松崎と、その隣の椅子に座っているパジャマ姿の蒼依がいた。

「おばさん、瑠奈が……」

 青ざめた顔で言いながら、蒼依が立ち上がった。

「大丈夫だから、座っていなさい」優しく諭した真紀は、蒼依の肩に手を当てて彼女を座らせると、松崎の横に立った。「例の場面、再生できるかしら?」

「はい。一部、どうしても除去しきれないノイズがありますが、状況は把握できると思います」

 答えた松崎がキーボードを操作した。

 真紀に並んだ小野田も、モニターを覗き込む。

 動画は再生されたが、画面は乱れており、何が映っているのかわからなかった。しかし三秒ほど経過すると、ノイズが消え、地下金庫前室のドアの外が映された。通路側の天井から撮ったカラー映像である。画面の左に見えるドアは手前に開かれており、そのさらに手前となる画面の右端には、虹色に蠢くマーブル模様が見えた。巨大な球形の表面の一部らしい。

「門ね」

 真紀がつぶやいて二秒ほど経つと、Tシャツにジーンズという姿の瑠奈が前室から飛び出してきた。瑠奈は右肩にリュックをかけており、前室から飛び出した勢いのまま門に飛び込んでしまう。さらに十秒ほどが経過し、門は画面の右側へと瞬時に撤退し、その姿を消した。いつもの姿の藤堂が画面の右から現れたのは、その五秒後だった。

「それから」と告げたうえで松崎は動画を巻き戻した。再生された場面は、ノイズに覆われる数秒前らしい。そこに門はなく、扉の前に立った後ろ姿の瑠奈がスイッチを入れ、照明が灯される。そしてリュックを足元に置いて振り向いた彼女は、両腕を大きく広げて何やらつぶやいた。マイクは設置されていないため、無論、声は聞こえない。やがて彼女は口を閉ざして両腕を下ろすが、その直後に、画面はノイズに覆い尽くされてしまう。

「わかったわ。ありがとう」

 真紀が言うと、松崎はモニターを通常の画面に戻した。そして言う。

「映像の乱れは、カメラの真下に門が出現したことが原因のようです。空間のゆがみをもろに受けたんでしょう」

 一つの画面に上下三つずつの六カ所の様子が映された。右上の映像が現在の地下金庫前室の外側だ。木島と三上、矢作が検証している様子が窺える。監視モニターはあと二つあり、それぞれに神宮司邸敷地内外の六カ所ずつの映像が映されていた。映像は数秒ごとに切り替わり、五十五カ所の様子が映し出される。今のところは、どれも異常はなさそうだった。

「何か理由があるはずです」蒼依が言った。「でなければ、瑠奈がこんなことをするなんて」

「どんな理由があろうと、召喚球を持ち出すなんて、許されることじゃないわ」

 真紀の意見は正しいだろう。だが小野田は諭す。

「許されるかどうかは、今は問題じゃないはずです」

「え?」と真紀は小野田を見た。

「蒼依ちゃんの言うとおり、理由があるはずなんです」小野田は続ける。「その理由が問題なんですよ。あの瑠奈ちゃんがこんなことをするからには、誰かに脅迫された、という可能性があるでしょうね。人質との引き換え要求があったとか」

「人質……じゃあ、泰輝や本郷さん?」

 真紀は眉を寄せた。

「もし泰輝くんや本郷梨夢が人質とされているならば、これまでのいきさつからして、敵は幼生絡みの連中、と考えられます」

 小野田が率直な考えを呈すると、真紀は得心のいったような表情を浮かべた。

「無貌教ね。彼らなら召喚球を要求するわ」

「はい」小野田は頷いた。「とにかく、瑠奈ちゃんを見つけなければなりません。彼女がスマホを持っていればいいんですが」

「GPS機能ね」と真紀が言った直後に、恵美が管制室に入ってきた。

「どうだったの?」

 真紀の問いに恵美は答える。

「持ち出されたのは召喚球だけでした。門に関しては、藤堂さんが現場に着いたときにすでに消えていて、確認できたのは、薄まっていく冷気だけだったそうです。それから、瑠奈さんのスマホをGPSで捜すように、木島隊長から仰せつかってきました」

「だよな」小野田は頷き、残っている椅子に腰を下ろすと、机の上のノートパソコンを開いた。「瑠奈ちゃんがスマホを持っていて、かつ、電源が入っているかどうかだな」

 スリープから立ち上がった画面に、小野田はGPSアプリを表示させた。

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