第2話 ダークパスト ③
その狭い通りも閑散としており、人も車も見当たらない。家屋のほとんどが薄汚れ、朽ちかけているものさえあった。
遠くでセミが鳴いていた。太陽は容赦なく照りつけている。背中のリュックが熱く感じられた。
車の走る音がした。背後から来るらしい。
歩きながら、瑠奈は蒼依とともに左端へと寄った。
二人を抜いたのは一台のSUVだった。その車がすぐ先で左に寄り、閉業したと思われるシャッターが下りたままの店舗の前に停車した。
瑠奈は立ち止まった。
「瑠奈?」
怪訝そうな色を呈した蒼依も、瑠奈に合わせて立ち止まる。
車の運転席と助手席、双方のドアが開いた。運転席から降りたのは恵美だった。助手席からは小野田が姿を現す。恵美が運転席のドアを閉じ、瑠奈を見て眉を寄せた。
「やっぱりあなたたちだったのね。こんなところで何をしているの?」
そう尋ねられ、瑠奈はため息をこらえる。
「荒川のショッピングタウンに買いものに行くところです。そこにある書店に行きたくて。さっきも大場さんに同じことを訊かれました」
「大場隊長と会ったの? どこで?」
恵美は目を丸くした。
「あっちのほう、一つ東寄りの通りです。たぶん、ここから百メートルくらいです」
指を差しつつ、瑠奈は説いた。
助手席のドアを閉じた小野田が、頭をかく。
「ナビだとこの辺なんだけど……誤差が出たな」
「愚痴っている場合じゃありません」恵美が小野田を睨んだ。「車をここに置いて、自分たちの足で行きましょう」
「だな」と小野田が頷いたとき、瑠奈は道の先、南へ十メートルほどの位置に、半透明の全裸の少年を見た。
「泰輝」
瑠奈がつぶやくと、ほかの三人も同じほうに顔を向けた。
「泰輝くんがいるの?」
問うたのは恵美だった。
「はい」
頷いた瑠奈は、泰輝が薄ら笑いを浮かべているのを見て取った。楽しもうとしているのだ。近くに泰輝以外にも幼生がいる。
「どこに……」
声を漏らしつつ、瑠奈は振り向いた。
先ほどの辻のほうから、巨大な何かが道の中央を這い寄ってくる。瑠奈には半透明に見るが、蒼依や小野田、恵美には見えていないらしい。すなわち、不可視状態であるということだ。幼生であることを、瑠奈は悟った。
その幼生は節足動物を模しているようだが、体内には骨らしきものが窺えた。もっとも、純血の幼生もハイブリッド幼生も、有している骨状の器官は厳密には骨ではなく、触手状の器官が寄り集まった
どこかで犬が吠え始めた。
瑠奈の様子から察したのだろう、小野田と恵美がセンサーグラスを装着した。
糞尿のにおいが漂ってきた。
「雄のハイブリッドだ」
小野田がつぶやいた。
幼生の気配を感じ取ることが不可能な瑠奈だが、彼女の能力でも対象の姿さえ目視できれば雌雄の判別はできる。そして、狙われているのは自分――否、自分と蒼依である、と瑠奈は悟った。
「あなたたちは早く逃げて」
言った恵美が、辻のほうに向かって走り出した。
小野田も同時に走り出す。
走っていく二人を見つめながら、蒼依が不安げな表情を浮かべた。
迫り来るそれが可視化した。
小野田と恵美がその手前で立ち止まり、揃って拳銃を構えた。
蛇が鎌首をもたげたような姿だった。ムカデのようないくつもの節のある胴体に、肉食恐竜のような頭がついている。無数の節足を有しているが、一番前の一対は腕のような形であり、先端が鎌状だった。
悪臭がさらに強くなった。
「幼生だ……」
声を震わせた蒼依は、表情が固まっていた。
蕃神の落とし子たる幼生が、目前に迫る。
炭酸飲料のプルタブを開けたときのような音が何度か連続した。
巨大な敵――ムカデもどきが、鎌首状に上げた頭をさ前後左右に素早く振った。小野田と恵美の射撃を躱しているらしい。
その怪物の背後に三人の人の姿があった。一般人が巻き込まれてしまった――と瑠奈は思ったが、よく見れば、大場を含めたグレースーツの男たちだった。彼らもセンサーグラスを装着しており、拳銃を構えている。
抑えられた射撃音がまだ続いているが、敵にダメージを受けた形跡はない。大場たちによる後方からの射撃も、功を奏さないようだ。
ムカデもどきが右手の鎌を振った。小野田と恵美はアスファルトの路面を転がり、それを躱す。
悪臭に混じってバニラの香りがした。
一陣の風が吹いた。
犬の鳴き声が、さらに盛んになる。
瑠奈と蒼依の頭上を、後方からその戦場に向かって、半透明の巨獣が飛んでいった。
「泰輝!」
叫びつつ、瑠奈は前に飛び出そうとした。その左腕を、蒼依が両手でつかむ。
「瑠奈、落ち着いて」
蒼依に腕をつかまれたまま、瑠奈は戦況を見守るしかなかった。
ムカデもどきの手前で翼を広げた泰輝が、不意に可視化した。
二つの巨獣の咆哮が上がる。
泰輝は減速せずにムカデもどきに飛びかかった。
二つの巨体は激突し、もつれ合うが、泰輝はその勢いのまま、ムカデもどきとともに上昇してしまう。
立ち上がった小野田と恵美が、空を見上げた。大場ら三人も見上げている。
泰輝とムカデもどきは、はるか上空で小さくなり、やがて見えなくなった。
犬の鳴き声が、とたんにやんだ。
バニラの香りも悪臭も、徐々に消えていく。
特機隊の五人が拳銃をスーツの内側に入れ、センサーグラスを外した。そして大場ら三人は奥のほうへと姿を消し、小野田と恵美は早足で戻ってくる。
辻の近くに見える門から一人のエプロン姿の主婦らしき女が出てきた。訝しげに通りを見渡し、小野田や恵美の背中、瑠奈たちにも視線を向けるが、首を傾げて家の中に戻ってしまう。
ようやく、蒼依が瑠奈の左腕から手を離した。
戻ってきた恵美に瑠奈は尋ねる。
「泰輝とあの幼生は?」
「わからない。でもすぐに見つかると思う」恵美は瑠奈を見た。「それより、承知していると思うけど、目撃されることを極力防ぐためにも、日中の市街地での戦闘は長引かせられないの。わたしと小野田さんの後ろ姿を見ていた主婦がいたわよね。もしかしたら、隠蔽工作のために特機隊が介入しなければならないかもしれない。ほかにも目撃者はいるかもしれないし。とにかく、早々にここを立ち去らないと」
「エプロン姿のご婦人は、まあ、問題ないと思うが」
そう言う小野田を恵美は睨む。
「甘いです。確認くらいは取らなくてはなりません」
「尾崎さんも小野田さんも、あの主婦を見ていたんですか?」
瑠奈は尋ねた。
「ちょっと見えただけ」
肩をすくめながら恵美は答えた。
返す言葉を見失った瑠奈は、口をつぐむ。
「わたしたちは捜査に戻るわ。大場隊長からすぐに連絡が入るだろうから」
恵美は言うと、運転席のドアを開けた。
「わかりました」瑠奈は頷いた。「わたしたちは、このまま荒川のショッピングタウンに行きます」
「じゃあ、気をつけてな」
笑顔を見せた小野田が、助手席に着いてドアを閉じた。
「泰輝くんの足取りがつかめたら、連絡するわ」
「お願いします」
瑠奈が頭を下げると、恵美は運転席に着き、ドアを閉じた。
車は走り去り、瑠奈と蒼依は取り残された。
「たいくん、どこへ行っちゃったんだろう?」
声を細くした蒼依が、力なくうつむいた。
「尾崎さんの言葉を信じよう」
できる限り明るく振る舞った瑠奈は、蒼依とともに歩き出した。
四号車は裏通りから広い通りへと出た。その通りを北へと向かって走っていると、三十秒と経たずに大場から電話があった。ハンドルを握る恵美に代わって小野田がカーナビの画面を操作する。
「車で移動中か?」
大場の声だ。
「はい」恵美が答える。「陸前浜街道を北上中です」
「なら、神津山南インター出入り口から上手縄工業団地を抜けて
「了解」
そして恵美はカーナビの画面を操作し、現在地表示に切り替えた。
「それにしても、妙ですね」
ふと、恵美は口走った。
「何がだ?」
「幼生……まあ、ハイブリッドに関してのことしかわかりませんが、彼らは通常、人間の目にふれることを嫌います」
「そうらしいな」
研修でそのように説かれたことを小野田は思い出した。ハイブリッド幼生は人間を捕食するとき、もしくは興奮したときなどに可視化するが、平常の落ち着いている状態では不可視状態となり、さらに可能な限り人間から距離を置く。ならば強烈な体臭を感知されることもなく、人間との無用な戦いを避けることができるわけだ。
「特に」恵美は言った。「巨大なハイブリッド幼生ほど市街地を避けています。まかり間違えて可視化すれば、それこそ人目を引いてしまいますから。なのにさっきの個体……ハイブリッド幼生は、民家の密集した地区に潜んでいました」
「そう言われてみれば、確かに妙だな。しかもそんな状況にもかかわらず、日中におれたちの目前で可視化した」
小野田がさらなる疑問を呈すると、恵美は躊躇することなくすぐに口を開いた。
「おそらく、あの幼生は瑠奈さんや蒼依さんを襲おうとしたんでしょう」
「二人が女性の見鬼だから、ということか?」
「そうです。センサーグラスに表示されていましたが、あの幼生は雄ですし」
「なるほどね」得心はいったが、根本的な疑問が明かされていない。「で、あの幼生があそこに潜んでいた理由だが……」
「それがわかればいいんですが、まさか進化に乗じて習性まで変わったとか?」
思わぬ問い返しだった。
小野田は首を捻る。
「仮に……習性が変わったわけではない、とすれば、何者かが意図的に仕向けた、とも考えられるよな」
「何者か……」
前方を見据える恵美の目が、わずかに細くなった。
「あくまでも可能性ということだ。憶測の域だよ」
付け加えて、小野田は口を閉ざした。
恵美も黙している。
やがて四号車は、幹線道路である県道にスイッチして西へと進路を変えた。
夏空はただまぶしいばかりで、幼生が出現したことなど微塵も感じさせなかった。
南中之郷地区は神津山市のほぼ中央だ。田畑と宅地が広がる平野部と、西の山並みから東へと伸びる丘陵地帯からなっている。
四号車が現場に到着したのは、その丘陵の中ほどにある雑木林の外れだった。すでに、特機隊専用車である二台のSUVが横に並んで停まっている。大場と越田、三上らの一号車と、佐川と仁賀の二号車だ。四号車はその二台に並んで停車した。
目の前には雑木林、左右と背後にはススキなどの雑草、上空には青い空、特機隊の車以外に見えるものはそれだけだった。近くに民家はなく、細い未舗装路が一本だけという寥々とした風景だ。
小野田と恵美は四号車から降りた。一号車と二号車に人の気配はない。
二人はセンサーグラスをかけて拳銃を手にすると、急ぎ足で雑木林の中の小道へと進んだ。センサーグラスは対幼生モードだ。すぐに反応があった。純血の幼生とハイブリッド幼生が、それぞれ一体ずつだ。どちらも雄である。
「この先だな」
小野田が言うと、恵美は頷いた。
「はい。急ぎましょう」
二人は並んでさらに先へと進んだ。
泰輝と敵の居場所を探り当てたのは佐川と仁賀の二人組だった。センサー機能つきカメラを搭載したドローンによる高高度からの撮影が功を奏したのである。おおよその場所が特定できれば、空からの捜査が可能だ。センサー機能つきカメラで撮った動画や画像にも、幼生の反応が表示されるだけでなく、不可視状態の幼生の姿が映される。神津山市内の幼生の分布を把握できたのは、このシステムに頼る部分が大きかった。もっとも、ドローンを飛ばしても人目につかないことが、重要な条件である。
「止まって伏せろ」
雑木林を抜けたとたんに小野田と恵美は声をかけられた。
立ち止まって片膝を突いた小野田の右横に、同じように片膝を突く大場がいた。彼もセンサーグラスを着用している。その向こうには越田と三上、佐川、仁賀も同じ姿勢で待機していた。やはり四人ともセンサーグラスを着用し、拳銃を右手に持っている。この四人は小野田より若いが、隊員としては皆、逸材だ。
「大場隊長、泰輝くんは?」
小野田の左で身を低くした恵美が、小声で問うた。
「健在だ」
簡明な答えがあった。
目の前には背の高い雑草に覆われた空き地があった。五十メートルほど前方には、背後と同じく雑木林がある。左右は開けており、どちらも遠くに見えるのはなだらかな山並だ。
幼生の反応は二つとも前方の雑木林の中にあった。それら二つ表示が、上下左右に小刻みに動いている。
獣じみたうなり声が聞こえた。
そして、前方の雑木林の上空に枝葉が舞い散る。
小野田は幼生の反応の一つを追って視線を上げた。
雑木林の梢から飛び上がったのはムカデもどきだった。可視状態である。全長は二十メート余りだろうか。赤くて長い体を蛇のごとくくねらせながら高度を増していく。センサーグラスの表示によれば、脳は恐竜型の頭に収まっているらしい。
幼生には純血にしろハイブリッドにしろ、重力を無視して宙に浮くことのできる個体がある。翼を有しているか否か、それは関係ない。また重力を無視できる個体は、そのまま大気圏を離脱し、宇宙空間を飛ぶことさえ可能だという。このムカデもどきも飛行できる個体というわけだが、この期に及んでも小野田には現実離れした光景にしか思えなかった。
もう一体の巨軀が雑木林から舞い上がった。可視状態の白い巨獣――泰輝だ。翼を閉じた状態で、かつ、頭部から尾の先端までを一直線に伸ばし、矢のように飛んでいく。
はるか上空で、泰輝はムカデもどきに追いついた。二つの影が一つになり、もつれ合ったそれらが、不意に高度を下げる。一つにまとまった状態のそれが落下速度を増した。
空き地の中央付近に二つの巨体が落下し、地響きとともに土砂や雑草が舞い散った。
バニラの香りと悪臭が入り混じった。
真っ先に上半身を起こしたのは、ムカデもどきだった。両手の鎌を左右に広げ、鋸歯の並ぶ大きな口を開けて雄叫びを上げる。
遅れて体勢を立て直した泰輝は、四つ足で身構えた。
ムカデもどきは飛びかかると同時に左右の鎌を交互に振った。
長い首をのけ反らせて躱した泰輝は、後ろ足で立ち上がるとともに翼を羽ばたかせて後方に飛びのいた。そして、三十メートルほどの間合いを取って身構える。
ムカデもどきが首を前に突き出しつつ、口を大きく開いた。放たれたのは、泰輝の得意技に酷似した光だった。雷鳴らしき音までが同じである。
泰輝の左肩で光が炸裂した。
白い体毛が舞い散った。
「電撃……」
恵美がつぶやいた。
うなりながら、泰輝が四つ足で低く身構えた。
長い両耳がだらりと草地に垂れている。
拳銃を両手で構えた小野田が、前に出ようとした。
その腕を大場がつかむ。
「待て」
「しかし」
小野田は上げかけた膝を落とし、大場を見た。
「泰輝くんの活躍は、ご存じのはず」
言ったのは恵美だった。
小野田は唇を噛み締め、戦場を見据えた。
ムカデもどきが胴体後半部の無数の足を素早く動かし、泰輝に向かって走った。
竹を割るような音が轟く。
そのムカデもどきと泰輝との間で、雑草が飛び散った。
見れば、草地に垂れたままの白い両耳に稲光が走っており、それが地面を伝ってムカデもどきに達しているのだった。
ムカデもどきがもんどり打って倒れると、泰輝の電撃はやんだ。
大地を蹴って跳ねた泰輝が、横倒しのムカデもどきに覆いかぶさり、その頭部に嚙みついた。
節の並んだ赤い胴体が、絶叫とともにびくんと震えた。
恐竜型の頭が砕け散った。
泰輝は空を仰ぎ、雄叫びを上げた。大きく開けた口が紫色に汚れている。
頭部を失ったムカデもどきが、雑草の上に横たわったまま動きを止めた。かみ砕かれた頭部の残骸から流れ出ているのは紫色の体液だ。
特機隊の六人のほうに泰輝が顔を向けた。赤い双眼が爛々と輝いている。
悪臭が薄れていく中、バニラの香りが強くなった。
空を仰いだ泰輝が、勢いをつけ、翼を閉じたまま飛び立った。そのまま上昇し、はるか上空で不可視状態となり、翼を広げて南の方へと飛び去る。そして雄の純血の幼生を示す表示が、ふっと消えた。
「確認するぞ」
大場が号令を放った。
六人は立ち上がり、微動だにしないムカデもどきの体に近づいた。
バニラの香りが消えている一方、弱まっているものの悪臭はまだ残っていた。その赤くて長い胴体の至る箇所から湯気が立ち上っている。
「崩壊が始まったか」
大場が言いながらセンサーグラスを外すと、ほかの五人もセンサーグラスを外した。
「尾崎」大場は恵美を見た。「処理班に出動要請だ」
「はい」
答えた恵美がスマートフォンを取り出した。
民家から遠く離れた人目につかないと思われるこんな場所であろうとも、処理班は戦いの痕跡を徹底的に消す。ほうっておいても幼生の死骸は消滅するが、毎回のように散らばる薬莢や、場合によっては特機隊隊員や一般人の遺体も回収しなければならない。そんな過酷な作業がなされてこそ、特機隊は任務を全うできるのだ。
「隊長」小野田は大場に声をかけた。「この幼生は飛び道具を使いましたよ」
大場は頷く。
「ああ。進化したハイブリッド幼生だな」
懸念は確実なものになっているということだ。
通話を始めた恵美を除く五人は、黙して敵の死骸を見下ろしていた。
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