第2話 ダークパスト ②

 車による巡回はややもするとドライブ気分に陥りかねない。ましてこの猛暑の中、カーエアコンをかけた状態なのだ。神宮司邸での立哨と比べたら、まさに天国である。

「この四号車、おれと尾崎の専用車みたいになっちまったな」

 助手席の小野田はそう抜かすと、センサーグラス越しの景色に目を馳せた。対幼生モードに設定してあるが、招かれざる反応は今のところない。どこを見ても深い山林ばかりであり、人の姿がなければ、すれ違う車もまれだ。前後にも車は見えない。

「現実的にはそうですね。ならば、小野田さんが運転してもよいと思いますが」

 ハンドルを握る恵美が、小野田を一顧した。

 恵美はセンサーグラスをかけていない。どうしてもそれが気になり、小野田は横目で恵美を睨む。

「センサーグラスはかけないのか? 敵と遭遇する確率は低い、とか?」

「確率で言えば低いでしょうね。それに、二人が揃ってかけていたら、このスーツですから、一般の人に怪しまれます。もう一つ……わかっているとは思いますが、特機隊専用車には最新の対幼生センサーが装備されています。センサーグラスは現地で着用すればよいかと」

「長々とありがとう」

 小野田はセンサーグラスを外し、スーツの内側、ワイシャツの胸ポケットに入れた。

 緩いカーブを繰り返す上りの道だった。片側一車線の舗装路だ。カーナビの画面を見れば、あとわずかで若粟わかあわの集落に差しかかるらしい。

「目的地はまだ先だな」

 その一言に恵美は頷く。

「はい。道順に若粟、下君畑しもきみはた上君畑かみきみはたとあります。目的地は上君畑にありますが、集落から離れた、かなり奥のほうです」

「まあ確かに、遠いっていうのはナビを見てもわかるんだが、実際、あとどれくらいかかるんだ?」

「すぐですよ。十分程度でしょう」

 そこに何度も足を運んでいる恵美が言うのだから、間違いないだろう。

 会話が途絶えたところで道は平坦になり、視野が広がった。カーナビの画面が、若粟に差しかかったことを示している。

 民家の前で二人の老婆が立ち話をしていた。それ以外に人の姿は見えない。

 この一帯の家屋は少なく、あっという間に集落を通り過ぎてしまった。それでも道沿いには何軒かの民家が離れ小島のごとく点在している。そんな民家も見えなくなった頃、山林とわずかな田畑が広がる辺りで、道は緩やかなカーブを繰り返すようになった。

「山野辺士郎事件の頃に一家三人の乗った車が襲われたのは、この辺だったよな?」

 小野田は尋ねた。

「そうです。若い夫婦と幼い娘が襲われました。現場の痕跡からして、幼生に捕食されたと思われます」

 脇目も振らずに恵美は答えた。

「悲惨な事件だが、仮にその家族が逃げおおせたとしても、やっぱり特機隊にとらえられてしまうんだよな。そして処置されてしまう……」

 特機隊隊員である自分への反発だった。恵美の反応が気になるところだが、小野田にそれを要求するつもりはない。もっとも、恵美はすぐに口を開いた。

「納得できないのはわかりますが、そういった感情はわたし以外の隊員に示さないほうがよいと思います」

「それこそ、逃げ出さずとも処置を受けることになるわけだ」

「水野隊長の一件以来、上層部は目を光らせています」恵美は言った。「特機隊だけでなく、輝世会にも同様のことが言えます。間者はどこにいてもおかしくない。それに、敵の回し者だけではありません。この組織を嫌う人間が政治家や官僚、警察関係の中にどれほど存在することか」

「警察関係で言えば、おれのことだろう」

 笑いそうになるのを、小野田はこらえた。

「少なくとも今のところは、小野田さんは実直だと思います。前向きに任務をこなしています。しかし……クーデターを起こそうとしている人がいないとも限りません」

 恵美の言葉は重かった。ただでさえ過酷な任務なのに、懸案事項をこれ以上は増やしたくない。

「特機隊の行く末が不安だな」

 それは本音だった。むしろ瓦解してしまえばいい――そこまで口にするところだったが、小野田は思いとどまった。

「そういった輩に付け込まれないよう、気をつけてください」

「忠告はありがたく受け止めておくよ」

 そして小野田は口を閉ざした。

 恵美も沈黙する。

 やがて四号車は下君畑の集落に入った。若粟より大きな集落だ。その集落の中ほどで左折し、山林の中の長い坂を上る。一気に加速するが、なかなか坂の頂上に至らない。市街地にはありそうもない道だ。山間部ならではの作りである。

 感覚的にも標高はかなり増しただろう。三十秒は上り続けただろうか。

 道が平坦になり、百メートルほど進んだ辺りで、再度、視界が開けた。

 田畑の間に民家が点在し、見渡せば遠くをいくつもの山に囲まれていた。

 束の間、右前方に富士山のごとく緩やかな傾斜の稜線を左右に広げた山が見えた。どうやら、山林に覆われたそれこそが高三土山たかみどさんらしい。とはいえ、手前に広がる山林がその姿をすぐに覆い隠してしまう。

「ようやく上君畑に入ったな」

「はい」

 答えた恵美は、信号機のない十字路で四号車を右折させた。


 上君畑の集落を北に向かって走っていたが、気づけば山林ばかりが視界を埋め尽くしていた。田畑や民家がなければ、当然のごとく人の姿や車もない。

 左に広い空き地があった。四号車は道を逸れ、その空き地へと入る。

 砂利が敷き詰められているが、雑草が多かった。周囲は杉林に覆われ、道と空き地以外に人工物は見えない。空き地に面した西側の杉林は林床が斜面となって立ち上がっており、カーナビで確認すると、それが高三土山の東側の裾だった。

 空き地の奥で停車した四号車から降りた小野田と恵美は、すぐにセンサーグラスを装着した。設定は対幼生モードである。

「鳥居も撤去したのか?」

 周囲に目を走らせながら小野田は尋ねた。

「はい。一の鳥居と二の鳥居がありましたが、どちらも今はありません」

 答えた恵美は駐車場を北に向かって歩き出した。

 恵美に並んだ小野田は引き続き周囲を警戒するが、幼生の反応はなかった。

 駐車場の北の外れの杉林に道が見えた。

 セミの鳴き声が遠くに聞こえた。ほかに耳に入ってくるのは、自分たちの靴音だけだ。

 杉林の中の道に差しかかる直前に、小野田は足元を見た。空き地と道との境界に、ならした跡がある。

「これが鳥居のあとか?」

「そうです。一の鳥居が立っていた場所です」

 歩きながら、恵美は答えた。

 道は赤土だった。幅は三メートルほどだ。緩い上りで雑草が多いが、地面は乾燥しており、歩行は容易である。

 小野田は左右の杉林を見渡した。どこまでも続く薄暗い空間ではあるが、特に異常はないようだ。

 開けた空間が前方にあった。そこが目的の場所であることを、小野田は悟る。

 赤土の道は五十メートルほどで終わった。道の終わりにも、地面にならした跡があった。

 杉林に囲まれた空間だった。先ほどの空き地の二倍前後はあるだろう。地面の至る箇所に掘り返されたような跡があった。そのためか、先ほどの空き地や赤土の道と比べて雑草が少ない。

 その土地の中ほどで恵美は足を止めた。小野田も足を止め、恵美に並ぶ。

「ここが高三土神社のあったところです」

 周囲を警戒しながら、恵美は言った。

「なるほど」

 社が建っていた様子を想像しつつ、小野田も周囲に目を走らせた。

 二人が確認すべきことは、処理班と輝世会によって一掃された一角がそのままであるか否かだ。拝殿と本殿、二基の鳥居、これらを撤去し状態で何も変わりがなければ問題はない。

「特に異常はないようですね」

 そう告げた恵美が、左のほうに移動した。

「そのようだな」

 首肯し、小野田は恵美に続く。

 静寂に包まれていた。セミの鳴き声は、もう聞こえない。

 恵美が足を止めたのは、杉林の手間だった。暗がりの中に小道が見える。

「高三土山の登山口です」

「おいおい、まさか今から頂上を目指すんじゃないんだろうな?」

 小野田が焦燥を呈すると、恵美は肩をすくめた。

「行きませんよ。今日の予定にないですし……というより、この装備で山道を歩くのは困難です。登山口の案内板もちゃんと撤去してあるか、それを確認したかっただけです」

 言われて小野田は小道へと足を踏み入れるが、案内板らしきものは見当たらなかった。

「一般人を行かせたくないのはわかるが」恵美の元に戻り、小野田は言った。「案内板がない程度では、頂上を目指す目的で来た人は、諦めないだろう」

「登山を意識せずに立ち寄った里山歩きの人ならば、案内板があれば立ち入る可能性があります」

「犠牲者を増やさないための気配り、か」

 独りごちたところで、小野田は納得した。

「それに」恵美は言った。「頂上の巨石……祭壇石さいだんせきも、すでに撤去してあります。考古学的に有益な資料となりえる、などと一部の学者やマニアからもてはやされていましたが、贋作であったと公表され、神社ともども地権者によって撤去されたということにされています」

「贋作とは、いやはや」

 言葉にならず、小野田は首を横に振った。

 周囲を見渡した恵美が、高三土山があると思われるほう――杉林の梢を見上げた。

「蕃神たちが降臨した山であり、多くの命が失われた場所でもあります。ここから目を離すわけにはいきません」

 重い過去を持つ者だけが口にできる言葉なのだろう。小野田には惨劇の情景を憶測することしかできなかった。

「今では召喚球が神宮司邸の地下に保管されているのみか」

 小野田のその言葉に恵美は「はい」と答えた。

 不意に、遠くでセミが鳴き出した。

「では、帰還しましょうか」

 恵美はセンサーグラスを介して小野田を見た。

「了解」

 物足りなさを感じないわけではなかったが、異常がなければそれに越したことはない。

 小野田と恵美はきびすを返した。

 着信音が鳴った。恵美のスマートフォンだ。

 小野田と恵美は足を止めた。

 ズボンの左ポケットからスマートフォンを取った恵美が、それを耳に当てる。

「はい……ええ、高三土神社跡です。こちらは異常ありませんが……はい……はい……わかりました」

 恵美は通話を終えると、スマートフォンをズボンの左ポケットに戻し、小野田を見た。

「大場隊長からです。未確認情報、ということなんですが、坂萩の市街地で幼生が目撃されたらしいです」

「坂萩といったら、このほぼ真東だな」

「はい」恵美は頷いた。「大場隊長と越田さん、三上みかみさんらの乗った一号車が間もなく現場付近に到着とのことです。応援を要請されました。急ぎましょう」

「そうだな。行こう」

 そして二人は、走ってその場をあとにした。


 瑠奈と蒼依が向かったのは、神津山市の南部、坂萩駅を中心とした市街地だった。築五十年前後と思われる建物が多く、民家が大半を占めており、ビルといえば概ね五階建て以下だ。目立った大きな建物は支所庁舎くらいだが、それでも四階建てである。

 坂萩駅西口でバスを降りた二人は、南へと向かって裏道を歩いた。裏道のほとんどが閑散としており、人の姿も往来する車も少なかった。舗装は施されているものの、道幅は狭く、歩道がないばかりか路肩の電柱が歩行者にとっての障害となっていた。

 梨夢の現在の住所を教えてくれたのは、斉藤さいとう美野里みのりという二年二組の女子生徒だ。蒼依が話すことのできる数少ない同級生のうちの一人である。しかも美野里は、梨夢との交流のあった人物なのだ。少なくとも、美羅によるいじめが激化するまでは――。

 美野里の自宅は神宮司邸の最寄りのバス停留所の近くだった。瑠奈と蒼依は美野里の自宅に立ち寄り、彼女から直接、梨夢の住所とスマートフォンの番号を聞き出したのだ。しかし瑠奈は、電話での会話をするつもりはなかった。瑠奈と蒼依、真紀や藤堂も、スマートフォンにインストールされていた特機隊の盗聴アプリを特機隊によってアンインストールしてもらっており、恵美からも「問題ない」と念を押されているが、東京の特機隊本部の真意は恵美にも読めていないのが現実である。絶対に盗聴されていないとは言いきれないのだ。それでも危急時に備えて、梨夢にこちらの連絡先を伝えておくべきだろう。

 蒼依が梨夢の住所を尋ねるなり美野里は怪訝な表情を呈したが、美羅たちの件で謝罪がしたい、との旨を告げると、彼女は快く応じてくれ、スマートフォンの番号も教えてくれた。おかげで瑠奈と蒼依は、こうして目的地に向かって歩いている。

 古い家屋ばかりが並ぶ通りに、二人は差しかかった。

 額の汗を拭きつつ、蒼依は口を開く。

「本郷さんのおばさんって本郷さんのお母さんの妹さん、だったよね?」

「斉藤さんはそう言っていたね」

 瑠奈は頷いた。

「ご両親がいなくても、おばさんがいてよかった」

 その言葉を受けて瑠奈は息を吞んだ。

「蒼依……」

「あ……」と蒼依は、歩きながら瑠奈の顔を見た。「大丈夫だよ。自分の境遇と比較しているわけじゃないから」

「本当に?」

 見れば、蒼依はばつが悪そうに苦笑している。

「うん、本当。とにかく斉藤さんって、本郷さんの事情に詳しくて助かったね。おばさんの家の場所とか、その目印とか、駅からの詳しい道順まで教えてくれた。せっかく教えてくれたんだから、斉藤さんの期待どおり、もう一度、ちゃんと謝るつもりだよ」

「なら」瑠奈は言う。「わたしも本郷さんに謝る。気持ちばかりが先走っちゃって、結局は役に立たなかったんだもん」

「本郷さん、受け入れてくれるといいなあ」

 その思いは瑠奈も同じだ。だからこそ頷き、そしてあえて付け加える。

「たとえこちらの謝罪を受け入れてもらえなくても、肝心の警告だけは受け入れてもらわないと」

「そうだったね」

 蒼依は表情を引き締めた。

 背後から声をかけられたのは、そのときだった。

「瑠奈ちゃんと蒼依ちゃんじゃないか」

 二人が立ち止まって振り向くと、すぐ目の前にグレースーツの男がいた。

「大場さん」

 瑠奈が思わず出した言葉どおり、そこに立っているのは特機隊第六小隊隊長の大場啓一けいいちだった。

「どうしたんだ、こんなところで?」

 問われても正直に答えるわけにはいかない。適当な言い繕いを瑠奈が思案していると、不意に蒼依が口を開いた。

「裏道散策です。このまま行けば荒川あらかわのショッピングタウンに行けるし」

「荒川まで行かなくたって、下手縄のショッピングモールがあるじゃないか」

 大場は言い募った。

 気を揉むことしかできず、瑠奈は蒼依の次の言葉を待った。

「だって」蒼依は言った。「モールには本屋さんがないでしょう」

「ああ」

 得心がいったように大場は頷いた。

「ショッピングタウンのワンダーゴーが一番の目的なんです」

 そんな蒼依の機転に瑠奈は感心してしまう。

 しかし、腑に落ちない事実があった。瑠奈は大場に目を向ける。

「大場さんこそ、こんなところで何をしているんですか?」

「いや」と口ごもった大場は、右手に持っていたものをスーツの内側に入れた。それがセンサーグラスであるのを、瑠奈は見逃さなかった。

「まさかこの近くに幼生がいるんですか?」

「え?」

 声を漏らしたのは蒼依だった。

 ため息を落として、大場は眉を寄せる。

「かかわってほしくないからこそあえて言うが、この少し戻った辺りの奥にある空き家に、幼生らしきやつが潜んでいるかもしれないんだ」

 大場は言葉を切り、周囲を見渡した。瑠奈と蒼依もそれに倣うが、幸いにも人の姿はない。

「おれはてっきり」大場は言った。「君らがそれを知っていてここに来たのかと思ったんだがな」

 首を横に振り、瑠奈は釈明する。

「そんな噂さえ聞いていませんでしたよ。それに、わたしの能力では幼生の気配を感じるなんて無理ですし」

「そうか」大場は得心したらしい。「三人体制で捜査しているんだが、幼生の存在はまだつかめていないんだ。とにかく、君らが通りすがりなら、問題はない。万が一ということもあるから、早めにここを離れてくれ。おれは捜査に戻る」

 瑠奈が「はい」と答えると、大場は右手を軽く挙げてきびすを返した。

「瑠奈」

 蒼依が不安げに瑠奈を見た。

「大丈夫。予定どおりに進めよう」

「うん」

 瑠奈の励ましが効いたらしく、蒼依の表情に力が戻った。

 大場は横道に入ってしまった。

 それを見届けた二人は、目的の家を目指して歩き出した。


 目当ての家は簡単に見つかった。通りからやや入った突き当たりである。表札には『立花』とあった。

 特機隊は捜査にドローンを使用することがあり、瑠奈はそれを警戒して空を見上げるが、小さな機影は見つからなかった。もっとも特機隊なら、こんな市街地でドローンを飛ばして人目を集めることはしないはずだ。

 スレート屋根の二階建てだった。新興住宅地で多く見かけるタイプの作りである。この界隈では目立つ部類だろう。

 車用と思われる大きな門扉が開いていた。その内側に一台用のカーポートがあるが、車はない。瑠奈と蒼依は通用口を通らず、その開いた間口から玄関へと至った。

 梨夢は叔母との二人暮らしらしい。車は見当たらないものの、叔母が在宅していないとは限らない。叔母が出たらなんと言い繕って取り次いでもらおうか――などと考えながら、瑠奈は呼び鈴を押した。

「どちら様ですか?」

 インターホンから聞こえたのは、梨夢の声だった。

「神宮司です。蒼依も……空閑さんも一緒です」

 瑠奈はインターホン越しに言った。

 返事はない。

 憂いを浮かべた蒼依が、瑠奈を見た。

「やっぱり会ってくれないのかな?」

「この近くで何か起きているみたいだし、絶対に会って話さないと」

 そう返し、瑠奈はもどかしさを抑え込んだ。

 ドアが開いた。

 半袖ブラウスにジーンズという姿の梨夢が、ドアを半開きにして立っていた。

「二人揃ってなんなの? 言いがかりをつけに来たの?」

 梨夢は顔をしかめてまくし立てた。

「言いがかりじゃなくて、ちゃんと謝ろうと思って」

 訴えたのは蒼依だった。

「わたし、言ったよね」梨夢の剣幕は収まらない。「みんなをわたしの前で土下座させてみせて、って。でなければ許さない」

「でもそれは――」と言いかけた蒼依を、瑠奈は制した。

「蒼依、もっと大事なことがあるよ。それを先に話さないと」

「あ……うん。そうだった」

 蒼依は頷いた。

「大事な話?」

 訝しむ目で、梨夢は瑠奈と蒼依を交互に見た。

「そうよ、大事な話があるの」瑠奈は梨夢を見た。「本郷さんは今日の下校途中でわたしたちと会っていたとき、何かに怯えていたでしょう?」

「わからないよ……そんなの、わからない」

 顔をこわばらせた梨夢が、ドアを閉じようとした。

 瑠奈はとっさにドアを押さえ、梨夢に向かって身を乗り出した。

「あのバニラの香りとともに何かを感じたんでしょう?」

 問い詰められた梨夢が、ドアから手を離し、身を引いた。

「わからないってば」

 梨夢は首を横に振った。

「体が気持ち悪い、って言っていたよ」瑠奈は言い募る。「もしそれが本当なら、そのことを誰にも言ってはだめだよ」

「何言ってんの?」

 梨夢は首を横に振り続けていた。

「一緒に住んでいるおばさんには? 言ったの?」

「言って……いないよ……」

 答えがあった。

「ほかには? ほかの誰かに言った?」

「言っていないってば」

 それは泣き声だった。梨夢の体は震えている。

「もしそれを誰かに言ったら、あなたは大変な目に遭うわよ」

「どういうこと?」

 泣きながら、梨夢は問い返した。眼鏡のレンズが曇りかけている。

「わたしだって同じ。普通の人にはない感覚を持っているの。それに、これをあなたに伝えてしまったわたしも、大変な目に遭うかもしれない」

「じゃあ、どうしてわたしに伝えたのよ?」

 梨夢の頬を涙が伝った。

「本郷さんを大変な目に遭わせたくなかいから」

「うそよそんなの。あなたたちがどうしてわたしの心配をしてくれるの? そんなこと、ありえない」

 と告げた梨夢は、不意に目を見開いた。瑠奈ではなく、その背後を見ている。

 瑠奈が振り向くと、梨夢の視界にどうにか入りそうな位置に不安げな表情の蒼依が立っていた。しかし、梨夢の視線の先にいるのは蒼依ではない。その背後、門の内側に立っている半透明の存在――普通の人間にとっては不可視状態の存在こそ、梨夢の見ている対象である。

「泰輝」

 瑠奈がその名を口にすると、蒼依が背後を振り向いた。

 泰輝は人間体だった。全裸の少年である。半透明の姿として、梨夢にも同じものが見えているに違いない。

「来ているの?」

 その蒼依の問いに答える前に、瑠奈は梨夢によってドアの外に押し出された。

「帰ってよ! もう二度と来ないで!」

 怒鳴り散らした梨夢は、ドアを閉じようとした。

「本郷さん」瑠奈はドアを押さえた。「見えるのね? あなたの目にはあの子が見えるんでしょう?」

「出ていって」

 梨夢は左手で瑠奈を押し出そうとし、右手でドアを閉じようとしていた。

「感じたことも見たことも、絶対に誰にも言ってはだめだよ。わたし、いつでも相談に乗るから。何かあったら、ここに……わたしのスマホに電話して」言って瑠奈は、自分のスマートフォンの電話番号を書き記したメモを梨夢に押しつけた。「でも、盗聴されている可能性があるから、電話では詳しいことを話さないでね」

「盗聴? ふざけないでよ」

 いら立たしそうに眉を寄せた梨夢だが、その手には瑠奈が押しつけたメモがあった。

「とにかく、何かあったらわたしを呼んでね。すぐに駆けつけるよ。直接に会って、そのときに詳しい話を聞くから」

 賢明に訴えた瑠奈は、ついに玄関から押し出されてしまった。

 ドアが閉ざされ、鍵のかかる音がした。

「本郷さん」

 瑠奈はドアに向かって呼びかけるが、返事はなかった。

「とりあえず、今はもうやめておこう。彼女、興奮しているよ」

 蒼依にそう諭され、瑠奈はゆっくりとドアに背を向けた。

 門のほうに目を馳せるが、泰輝の姿はない。

「たいくんは?」

 尋ねられ、瑠奈は首を横に振る。

「どこかに行っちゃったみたい」

 それよりも梨夢が気がかりだ。玄関を一顧し、瑠奈は言う。

「ここにいるのを特機隊に見られないほうがいいね」

「そうだね。早く行こう」

 頷いた蒼依とともに、瑠奈は門を出た。

 横道から細い通りに出ると、幸いにして人の姿も車もなかった。

 南の方角に向かって二人は歩き出した。

「こっち」と瑠奈は蒼依をうながし、小さな辻を右に曲がった。大場たちに見られるのを避けたかったのだ。そして次の辻を左へと曲がる。

 先ほどの通りの一本西側の通りだ。その通りも同様に、狭い道だった。

「ねえ、瑠奈」蒼依が口を開いた。「本当に荒川のショッピングタウンまで行くの?」

「ここで引き返したとして、それを見られたら不審がられると思うの」

「そっか。そうだよね。じゃあ買いものは、していったほうがいいか」

「うん」

 瑠奈は頷いた。

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