第2話 ダークパスト ④
午後四時を回ろうとしていた。
神宮司邸に帰り着いた瑠奈は、本宅の前で蒼依と別れ、玄関に入った。
ホールに立っていた藤堂と家政婦の
「お帰りなさいませ」
藤堂が言った。
「ただいま」
リュックを背負ったまま瑠奈が声を返すと、詩織が一歩、前に出た。詩織は三人の家政婦のうちで最年少の二十四歳だ。以前は警察官として茨城県警の交通課に勤務していたらしい。セミロングヘアの彼女は、幼い顔立ちだ。瑠奈と同期と偽っても通りそうだった。
「お嬢様、お荷物をお持ちしましょう」
屈託のない笑顔で詩織は申し出た。
「大丈夫です。中身はお菓子ばかりで軽いから……」
告げてから瑠奈は頬が熱くなるのを感じた。中身まで伝える必要はなかったはずだ。
「承知しました」
詩織は失笑しつつ、下がって藤堂と並んだ。
「つい先ほど」藤堂が言った。「泰輝
泰輝が中之郷から飛び立ったことは恵美からの連絡で知っている。
「ありがとうございます。じゃあ、部屋に行っていますね」
瑠奈は二人に軽く頭を下げ、階段へと向かった。
その瑠奈の目の前に、半透明の子供が現れた。泰輝である。右の通路から現れた全裸の泰輝は、瑠奈を一瞥すると先に立ち、階段の段を全部飛ばして二階へと上がってしまった。
立ち止まり、瑠奈は振り向いた。
藤堂と詩織はその場で瑠奈を見ていた。泰輝には気づいていないようである。不可視状態であり、人間体の彼はバニラのにおいもしないのだから、通常の人間には感知できないのだ。しかるに、泰輝の素行の悪さを目にしたのは瑠奈だけというわけだ。
藤堂と詩織に向かって愛想笑いを浮かべた瑠奈は、急いで階段を上がった。二階の通路に泰輝の姿はない。
瑠奈は自室へと入るとリュックを床に置き、泰輝の部屋へと向かった。三回だけノックし、当てにならない返事は待たずにドアを開ける。
「泰輝!」
後ろ手にドアを閉じた瑠奈は、声を荒らげた。
可視状態の泰輝がTシャツと半ズボンを身に着けたばかりのところだった。
「ただいま」
きょとんとした表情で泰輝は言った。
そんな泰輝を瑠奈は睨む。
「あのね――」
「お帰りなさいって言わないの?」
瑠奈の言葉に泰輝の問いが重なった。
しつけは大事だ。示しがつかないので口にするしかない。
「お帰りなさい」そのうえで気持ちを引き締める。「それでね――」
「服、自分で着たよ」
意図して瑠奈の言葉を遮っているのかもしれないが、褒めるところは褒めなければならず、瑠奈は一呼吸してから言う。
「よくできたね。偉いよ。それはそうと、その姿でいるときは飛んじゃだめ、って言っているでしょう。言われたことは守りなさい」
「だって」泰輝は口をへの字にした。「面倒くさいんだもん」
「面倒くさい……って、そればっかり」瑠奈は思わずため息をついてしまう。「とにかく、決まりを守らないといけないのよ」
最近の泰輝は決まりを破ることが多く、何かと口答えをする。五、六歳の子供はそういうものなのだろうか。泰輝はそもそも人間ではなく純血の幼生であり、一歳という実年齢だが、幼生だからこそ、人としてのルールを守らなければ、取り返しのつかない事態を招きかねないのだ。
途方に暮れる思いでうつむき、肩を落とした。とはいえ、真紀にすがることだけは避けたい。ふがいなさで思わず涙をこぼす。
泰輝が物憂げな目で瑠奈の顔を見上げた。
「ぼくが決まりを守らないから、悲しいの?」
情けない姿を見せてしまった。慌てて涙を拭き、泰輝の顔を見る。
「悲しいわよ。だって、人として振る舞えなければ、あなたはこのおうちで暮らしていけないのよ」
「一緒にいられないっていうこと?」
「そうよ。いくら姿を消しているからって、その姿で飛んだりしてはだめなの。その姿でいるときは、人間になりきりなさい」
「わかった」
渋々と泰輝は頷いた。
その場しのぎの言葉かもしれないが、それでも瑠奈の気持ちはどうにか鎮まった。しかし一息つくと、別の不安が見えてくる。
「それより、今日のお友達との戦いはどうだったの? どこもなんともなかった?」
瑠奈が問うと、泰輝は不意に口を尖らせた。
「ちょっとやられちゃった」
「え……」瑠奈は目を剝いた。「どこをやられたの? 痛くないの?」
問い質しながら、確認のために泰輝の体の各所をさわりまくった。
「ここ」と泰輝は自分の左肩の辺りを右手で軽く叩いた。
「怪我は?」
傷が癒えていることは予想がつくが、それでも泰輝のTシャツの襟を伸ばして左肩を見ようとした。
「大丈夫だよ。すぐに直ったもん」
平静な様子だった。言葉に偽りはないらしい。
とはいえ自分の目で確かめないわけにはいかない。瑠奈は床に膝立ちになると、有無を言わせず泰輝のTシャツを強引に脱がせ、彼の左肩を検証した。そして外傷がないことを確認したうえで、Tシャツを元のように着せてやる。
ようやく落ち着き、瑠奈は床に正座した。
「お友達は強かったの?」
先日のハイブリッド幼生も強かったようだが、今回の敵も強大だったのだろうか。瑠奈は憂慮した。
「今日のお友達はね、ぼくとおんなじような武器を使ったんだよ」
こともなげに泰輝は言った。
「同じ武器?」
「前に尾崎さんが言っていた武器だよ。えーと……デンゲーキっていうやつ」
「電撃……まさか……」
泰輝以外に電撃を使える幼生がいたなど、瑠奈にとっては寝耳に水だった。少なくともこれまでは、純血でもハイブリッドでも、その技を使えるのは泰輝だけだった。特機隊もそうと把握しているはずだ。
「でもね、やっぱりぼくのほうが強かったよ」
泰輝はいつもの得意げな口調で訴えるが、瑠奈の憂いは募るばかりだ。
ふと、瑠奈は思った。あの巨大な幼生が自分や蒼依を襲おうとして近づいてきていたのは間違いないが、なぜあんな街うちに潜伏していたのか――と。もしかするとあの幼生は、自分たち二人を襲おうとする前からほかの標的を狙っていたのかもしれない。雄のハイブリッド幼生ならば女の見鬼との交わりを望む。
「本郷さん……」
瑠奈がつぶやくと、泰輝が首を傾げた。
本郷梨夢が見鬼だとしても、幼生が人目につくというリスクを冒してまであの場所に潜んでいるものだろうか。もしかするとほかに理由があるのではないだろうか。
気づけば、瑠奈は言葉を失っていた。
自分たちを取り巻く状況に暗い変化があるように思えてならなかった。
午後四時半を過ぎた頃に車の停車する音がした。梨夢が玄関ドアを開けると、ショルダーバッグを肩にかけた彩愛が、何やら大きな風呂敷包み手にして立っていた。
「予定より遅れちゃったけど、夕ご飯には間に合ったね」
そう告げて、彩愛は風呂敷包みをかかげた。
「何それ?」
梨夢が問うと、彩愛は笑みを浮かべつつ玄関をくぐった。
「見てのお楽しみ」
言ってリビングに入った彩愛は、ソファにはかけず、立ったまま、テーブルに置いた包みをほどいた。四段重ねの重箱だった。さらに彩愛は一番上の蓋を外して最上段の中身を見せる。細かく区切られた仕切りの中に色鮮やかなさまざまな料理が小分けされていた。
「高級幕の内弁当よ。お一人様二千円なり」
「すごい……」
それを見下ろしながら梨夢は感嘆の声を漏らした。
彩愛は得意げな笑みを浮かべる。
「前から予約しておいたの。梨夢は明日から夏休みだし。それの前夜祭」
「夏休みの前夜祭?」
どのような顔をしてよいのかわからない梨夢は、とりあえず、彩愛に倣って笑顔を作ってみた。
「で……」と彩愛は蓋を戻して梨夢を見た。「お風呂、まだだよね?」
「うん。沸かしてはあるけど」
梨夢は頷いた。
「なら、先に入っちゃいなさい。わたしはその間に片づけとかしなくちゃならないから」
「はい」
答えた梨夢がリビングを出ようとしたとき、「それから」と彩愛が口を開いた。
梨夢は立ち止まり、振り向いた。
「わたしの留守中に、何か変わったことはなかった?」
そう尋ねられ、梨夢は首を傾げる。
「変わったこと?」
「外が騒がしかったとか」
「どうだったかな……わたしは特に何も聞こえなかったけど」
「じゃあ、誰かが訪ねてきたとかは?」
二つ目の問いを受けて梨夢は固唾を吞んだ。しかし、神宮司瑠奈や空閑蒼依が訪ねてきたことは、彩愛にかかわりがあるとは考えにくい。むしろ、彩愛の二つの問いに不自然さを覚えてしまう。
「誰も来なかったよ。ていうか、何か心配ごとでもあるの? この近所で事件があったとか?」
「ううん。何もなかったのなら、別にいいのよ」
わずかながら、彩愛の顔に焦燥が窺えた。梨夢はそれを見逃さない。
「何かあるのなら言ってほしいよ。不安になっちゃう」
「ごめんごめん」彩愛は苦笑した。「ほら、件数こそは減っているようだけど、未だに神津山市で失踪事件があるでしょう。あなたの両親のこともあるし、あんまり口にしたくなかったのよ。……ときどき、姉さんたちの失踪を思い出しちゃって……あなたまでいなくなっちゃったら、わたし……」
苦笑が次第に暗い色へと変わっていった。
梨夢は慌てて首を横に振る。
「謝ることないよ。だっておばさんは、わたしのことを心配してくれたんだから」
「うん……そうね」小さく頷き、彩愛は顔を上げた。「湿っぽくしちゃって本当にごめんね。さあさあ、早くお風呂を済ませて、今夜は楽しくやろう」
今度の笑顔は本物らしい。
「じゃあ、先に入ってくるよ」
梨夢も笑顔を作った。
しかし、どうにも釈然としない。
笑顔が崩れないうちに、梨夢はリビングをあとにした。そして、ジーンズの後ろポケットに手を入れ、神宮司瑠奈から押しつけられたメモが入っているのを、そっと確かめた。
会議が終了し、小野田は分註所の玄関先に出た。神宮司邸の広大な庭は西日に照らされている。腕時計を見ると、午後五時四十二分だった。
西日に向かって大きく伸びをしていると、ドアの開く音がした。
「小野田さん、これから準非番でしたよね。部屋で休まれないんですか?」
そう声をかけてきたグレースーツの男は、佐川
「ちょっと外の空気を吸いたくてね」
小野田は言うと、両腕を下ろした。
「そうでしたか」佐川は破顔する。「でもせっかくの自由時間ですから、ちゃんと休んでおいたほうがいいですよ。それに今は全員が一人部屋ですから、リラックスはできるはずです」
「そういう君……えーと、佐川隊員はこのあとに立哨があったな?」
「はい」佐川は自分の腕時計を見た。「十八分後に
「ちょっと早いんじゃないのか?」
「実は自分も早めに外の空気が吸いたかったんです」
「同じか」
小野田は笑った。
「ところで小野田さん、佐川隊員、はやめておいたほうがいいですよ」
笑顔のまま指摘され、小野田は頭をかいた。
「ああ、そうだったな」
一般人の前でうかつに「隊員」などと口にすれば注目される可能性がある。そのため、現在の階級がどうであれ、年少者は年長者に「さん」づけで呼び、年長者は年少者を敬称抜き――すなわち呼び捨てで呼ぶことになっているのだ。もっとも隊長に対しては、一般人の前でない限り、互いの年齢の上下を問わず各隊員は「隊長」と呼んでいる。統制を取るためなのだという。ちなみに各小隊の隊長は、自分より年上の隊員に対して敬称をつけて呼んでいる。もう一つの例外として、恵美は各隊員に対し先輩後輩を問わず「さん」づけだ。彼女なりの流儀らしい。
「なら」小野田は真顔になった。「佐川」
「はい」
声を返した佐川も表情を引き締めた。
「君は第六小隊に配属される前も、第一小隊の隊員として神宮司邸に常駐していたんだったな?」
「そうです」と首肯した佐川に小野田はさらに問う。
「この土地での任務に就いているのなら、多くの幼生と遭遇したと思う。さっきの会議でもあったが、幼生の中には進化している個体があることが発覚した。どうだ、今日は泰輝くんに助けてもらったが……いや、おれと尾崎はおとといも助けてもらったが、あんな進化した敵に対して、おれたち特機隊がかなうと思うか?」
「正直、わかりません。しかし、秘密裏に敵を殲滅するには、空自の戦闘機や陸自の戦車では目立ってしまうし、自衛隊や警察の特殊部隊の多くも同様です。われわれが戦わなければならないのです」
「理屈ではそうだな。だがすでに、妖怪然としたハイブリッド幼生らのために、多くの隊員たちが命を落とした。敵が強くなっているのなら、今後も殉職者は出る可能性があるわけだ」
「それはそうですが」
「上層部だけに任せておいていいものなのかな?」
「声を上げろと? 組合でも作るつもりですか?」
揶揄した佐川だが、失笑も苦笑もなかった。
小野田も微笑みさえ浮かべない。
「おれはまだ死にたくねーしな。それに……」
「それに?」
佐川は眉を寄せた。
「処置だの隠蔽工作だのと、やり方が気に入らねーなあ、っていうことさ」
「どうしてそんな話をおれにするんですか?」
訝しむ目が、小野田に向けられた。
「君もおれと似たような感情を抱いているからさ」
「何を言って――」
「二カ月前の山野辺士郎事件で、
佐川の言葉を遮って小野田は言った。
「それとこれと、どう関係があるんです?」
驚愕の表情を呈した佐川が、声を細くした。
そんな彼を小野田は見つめる。
「須藤は、負傷した君の代わりに出動した隊員だ」
「尾崎から聞いたんですか?」
「尾崎はそんなことなんて一言も口にしていねーよ。それどころかあいつは、組織を非難するのはやめろと、おれにきつく言うわけだ。まあな、報告書を読んで、それと普段の君の様子を見ていて、なんとなくそう思っただけさ」
「さすがは警視庁捜査一課にいただけのことはありますね」
ごまかしきれないとでも悟ったのだろうか、諦めた様子で佐川はうつむいた。
「おれの経歴なんてどうでもいいんだよ」小野田は続けた。「とにかくだ、おれは自分に任された仕事はまっとうするつもりだ。それは佐川、君も同じはずだ」
「はい」
答えた佐川が、顔を上げた。
「だが、汚いものは汚いし、悪いものは悪い……そう感じる心まで失いたくない、そういうことだよ」
特機隊の存在を知ってから絶えず気がかりだったのは、特機隊隊員たち一人一人の心の持ちようだった。こんな阿漕な任務を好きでやっているはずがない――それを確認したかったのだ。少なくとも佐川がそうでないことは、これで理解できた。おそらく恵美も大場もそうなのだろう。それがわかっただけで、小野田は気が安らいだ。
佐川は黙して頷くと、ふと、背後に顔を向けた。
玄関ドアが開き、恵美が出てきた。
「お疲れ様でした」
恵美は小野田と佐川に一声かけると、二人の男の立ち話に興味を抱くふうでもなく、第二別宅へと向かって歩き出した。
「おう、お疲れ」
小野田が恵美に返すと、佐川も「お疲れ様」と、グレースーツの背中に声をかけた。
それ以上の反応を見せず、恵美は第二別宅の玄関へとたどり着き、ドアを開けて中に入ってしまう。
「なんというか、興ざめするな」
小野田が肩をすくめると、佐川は苦笑した。
「ですね」
「じゃあ、おれは部屋に戻るよ」
そう告げ、小野田は分註所の玄関へと向かった。
「お疲れ様でした」
佐川の声を背中に受け、片手を上げた小野田は、おもむろに玄関ドアを開いた。
ふと、小野田は佐川を見た。彼は前庭の南の方を見ている。
南の木立の下に、人の姿があった。
藤堂だった。彼はトランシーバーのようなものを片手に、周囲を見回しながら歩いている。手にしているものは、どうやら盗聴器探知機らしい。
東に目をやれば、このあとに佐川と交代する予定の池谷が、センサーグラスをかけた顔を藤堂のほうに向けていた。
そして小野田は、佐川と目が合った。互いに失笑した。
「水野前隊長の遺産ですよ」佐川は言った。「機密漏洩防止のためだとかで、神宮司家のみんなのスマホを盗聴していましたからね。敷地内に盗聴器が設置されることはなかったんですが……監視カメラとは別の盗撮カメラもしかりです」
「本部で小耳に挟んだよ。しかし、スマホの盗聴アプリは削除したんだろう?」
小野田が問うと、佐川は頷いた。
「はい。水野前隊長の殉職後ですが、神宮司家の人たちとの信頼関係を築かなくてはならない、というお達しがありましてね。ところが、神宮司家のみんなからは、未だに信用されていないです。敷地内の盗聴器の件もそうですが、スマホだって使いたがらないみたいですし」
「そうなのか」
小野田は瑠奈と蒼依を不憫に思った。人生の一番楽しい時間を過ごすはずの少女であるのに、闇の世界にとらわれたばかりか、必須アイテムであるスマートフォンを嫌忌する事態に追い込まれているのだ。
「失った信頼を取り戻すのは難しいですね」
「まったくだ」
そう返した小野田が再度、前庭に目を向けた。佐川も釣られたのか、同じ方向に顔を向けた。
藤堂と池田が談笑していた。
信頼を取り戻すのは難しいかもしれないが、不可能ではないだろう。
小野田はそう感じた。
ダイニングテーブルの席に着いた蒼依と恵美は、洋子が食事の準備を終えると、揃って会釈した。
「いただきます」
恵美のその言葉に続けて、蒼依も「いただきます」と言った。
蒼依は食事の前に風呂を済ませており、普段着に着替えているが、食後に入浴するのが習慣の恵美は、この日もグレースーツのままだった。もっとも、恵美は入浴後でも状況によってはグレースーツを着用する。むしろ入浴後でもグレースーツでいるときが多いほどだ。
「どうぞ、ごゆっくり召し上がってください」
慇懃に頭を下げた洋子が、退室した。
今宵の献立は、和風だった。メインは牛すき煮であり、だし巻き卵、きんぴら、和風ドレッシングのサラダ、大根の味噌汁、などである。白飯はおかわり自由だ。
ひととおり箸をつけた蒼依は、いつものごとくそれぞれの上品な仕上げに満悦した。
二巡目に入る前に箸を置いた蒼依は、コップの水を一口飲み、恵美に訪ねる。
「尾崎さん、今日の幼生って、瑠奈とわたしを狙っていたんですか?」
「そうねえ……」と首を軽く捻った恵美は、そっと箸を置いた。「その可能性は否めないわ。やっぱり気になるのね?」
「瑠奈もわたしも見鬼ですから、気にはなります。とはいえ、わたしはまだ覚醒していませんけど」
笑える気分ではないが、蒼依はとりあえず肩をすくめた。
「覚醒していなくても雄の幼生に追いかけられることがある、って実感したはずだから、蒼依さんも気を抜かないようにね」
「はい」蒼依は頷いた。「でも、特機隊の皆さんやたいくんが守ってくれるから、神経過敏にならずに済んでいます。意外と平気でいられるんですよ」
蒼依が言うと恵美は苦笑した。
「実は、今日もわたしたちは泰輝くんに助けられたのよ」
「そうだったんですか……ていうか、たいくんは無事でしたか?」
泰輝が負けるわけがない、とわかってはいるが、つい訊いてしまった。
「ええ、大丈夫よ。ちゃんと敵を斃したわ」
「よかった」
「泰輝くんがいるから、わたしも平気だったりしてね」
恵美の言葉で蒼依は思わず噴き出した。口の中に食事が入っていなかったのは、幸いである。
今なら相談できるかもしれない――と蒼依は思った。瑠奈が乗り気でない「蒼依の将来の目標」についての相談だ。
「今日からしばらくは一人で勉強するんです」
どう切り出せばよいのかわからず、とりあえず、目標達成のために必要不可欠な大学への進学を話題にしようとした。
「あら、瑠奈さんと何かあったの?」
「いえ、瑠奈はたいくんの面倒を見ることで忙しいみたいだし、勉強をするタイミングが少しずれちゃうみたいなんで」
「お互いに頑張っているのね」
恵美は目を細めた。
「はい、なんとしても大学に入って……」
そのあとの言葉が続かない。
「何か目標があるのね?」
問われたのが好機なのだろう。それなのに、言葉が出ないのだ。
「蒼依さん?」
恵美は憂いの表情を浮かべていた。
自分が弱いことを、蒼依は承知している。しかしこんなにまで勇気が出せないとは、いくら病気とはいえ、あまりに情けなかった。
「何かわたしに話があるみたいだけど、無理しなくていいわよ。わたしたち、いつでも会えるんだし」
恵美は諭すが、蒼依の焦りは募る一方だった。
「あの、尾崎さん」蒼依は口を開いた。「尾崎さんは、誰かにいじめられたり、誰かをいじめてしまったことって、ありますか?」
焦燥が招いた追憶は、今日の出来事だった。助けたかった。謝りたかった。その思いで訪ねたのが梨夢の住むあの家だった。今、本当に蒼依を苦しめているのは、将来の目標を相談できていないことではない。梨夢に対する罪悪感なのである。その罪悪感が口にさせた問いだった。
「いじめ?」
眉を寄せた恵美が、蒼依を見つめた。
「はい、いじめです」
成り行きではあったが、今はこの話題のほうが重要であると感じられた。自分の将来の目標など、今はどうでもよい。
「そうね、小さな頃はよく近所の年上の子たちにいじめられたわ。いじめっ子は男子も女子もいたわね」
思いがけない答えだった。恵美のような冷徹な人間でもいじめられた経験があるとは。
「いじめた経験は……ないですよね?」
まさかと思いつつも、蒼依は尋ねた。
恵美はすぐに答える。
「自分では、ない、と思っているけど、気づかないうちに誰かをいじめていたかもしれない。というより、いじめたつもりはなくても、相手が、いじめられた、と受け取ってしまうことだって考えられるでしょう?」
「そうかもしれません。なら、小さい頃に尾崎さんをいじめた人……その人を、尾崎さんは恨んでいますか?」
「その当時は悔しかったし、当然、恨んだわ。でも今は、もうどうでもいいこと。大人になるとともに、あの感情を忘れてしまった。でも、いじめの内容や、周囲の状況、いじめを受けた側の性格や年齢によっては、一生涯の傷となることもあるでしょうね」
「そうなんですか……」
梨夢に一生涯の傷を負わせてしまったとすれば、それは蒼依にとっても重い傷となるだろう。はたして梨夢は傷を癒やせるだろうか。少なくとも今は、許してくれる様子は見られない。しかし許してほしいと請うのは、卑怯にさえ思えた。
しばらく蒼依を見ていた恵美が、口を開いた。
「さあ蒼依さん、食事を続けましょう。せっかくの夏休みなのに、体がついてこなくちゃ台なしよ」
そして恵美は自分の箸を持った。
「そうですよね」蒼依はできる限りの笑顔を作った。「ちゃんと食べなきゃ、夏ばてしちゃう」
この日の夕食で重い話題が出ることは、もうなかった。
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