第1話 魔界へと ④
二階の自室でTシャツにジーンズという普段着に着替えた瑠奈は、ひととおりの勉強道具を小脇に抱えると、部屋を出て階段を下りた。
廊下ですれ違った三十三歳の小太りの家政婦――
「蒼依様がお待ちです」
「もう来ているんですか?」
焦燥した瑠奈は、晴美に頭を下げ、小走りで応接室の前へと至った。
ドアをノックすると、「はい」と返事があった。
瑠奈は応接室に入り、ドアを閉じた。
「雷が鳴っていたみたいだけれど、雨、降っているの?」
瑠奈が尋ねると、蒼依は頷いた。
「ぽつぽつと降っていたね。スーツのまま立っていた立哨の人は、もうすぐ雨合羽を着ることになると思う。ところで……たいくんは帰ってきたの?」
ソファに座っている蒼依が問うた。彼女もTシャツにジーンズだった。テーブルにはすでに、教科書と参考書、ノートが並べられている。
「まだなの」
答えた瑠奈は、小脇に抱えていた一式をテーブルに置き、蒼依の向かいに座った。
「心配じゃん」
蒼依は顔を曇らせた。
「でも」瑠奈は笑みを浮かべる。「尾崎さんから連絡があって、みんな無事だって。泰輝はたぶん、どこかでご飯を食べてくるんだよ」
「そうなんだ。よかった」
安堵の表情を浮かべた蒼依を見て、瑠奈も心の内で胸をなで下ろした。
心配なのは泰輝のことではない。蒼依の心だ。間もなく始まる夏休みといわずそのあともしばらくは学校を休んでほしくらいであるが、本人が勉強の遅れを憂慮し、かたくなにそれを拒んだのだ。可能な限り支えると心に誓った瑠奈だからこそ、ならば――と、寝ている以外のほとんどの時間を蒼依と過ごすことにしたのである。
山野辺士郎事件のあと、蒼依は、瑠奈と同じく神津山大学への進学を希望した。そこまでは納得できたが、さらなる先にある目標を知り、瑠奈は驚愕したのだ。
「始めようか」
蒼依が言った。
「そうだね」と答えた瑠奈は、自分の教科書とノートを開いた。
蒼依の苦手とする英語だった。瑠奈が蒼依を指導する形を取っているが、瑠奈にしてみれば自分自身の復習の意味もある。
ドアがゆっくりと開いた。
ここでの勉強中は飲み物や菓子類は口にしないことにしていた。おやつの差し入れでないのは確かである。何より、ノックなしでドアを開ける非常識な家政婦はいない。唯一、考えられるのは神宮司家の最年少者だ。
案の定、入ってきたのは泰輝だった。全裸で帰宅したはずだが、すでに半袖シャツと半ズボンを身につけている。
「おかえりなさい」
蒼依が笑顔で声をかけた。
「ただいま」と返した泰輝は、ドアを閉じてテーブルの横に立った。容姿が五歳前後であるため、事情を知らない者にはその「五歳」と伝えているが、実年齢は一歳だ。
「たいくん、どこも痛くしなかった?」
蒼依は尋ねた。
「うん、大丈夫だよ」
そんなやり取りがなされたが、泰輝が怪我をしているなど考えられなかった。巨獣の姿であっても少年の姿であっても、負傷したそばから傷は癒えてしまうのだ。痛みも残らない。特機隊の話によれば、純血の幼生である泰輝が再生不可能な傷を負った場合は、邪神たちの集うところへ去ってしまうという。言い換えれば、ここに帰ってきた泰輝は怪我などしていない、ということだ。泰輝が不死身である、ということを知っている蒼依は、泰輝とのコミュニケーションの手段として口にしたに違いない。
「ぼくがやっつけたお友達は大きな男の子だったんだ」泰輝は言った。「その男の子はね、ちょっと強かったんだよ。ぼくが行く前に尾崎さんたちがやっつけたお友達は、白くて長い女の子とおじいちゃんみたいな男の子だったけど、あんまり強くなかったみたい」
泰輝の言う「お友達」とはハイブリッド幼生のことだ。お友達をやっつけて楽しんでいるのである。彼らを殲滅する戦いは、あくまでも遊びの延長、というわけだ。ならばこの報告も自慢話でしかない。
うんざりとしつつ、瑠奈は泰輝を睨んだ。
「今回も泰輝はすごかったと思うよ。それはそうと、ドアを開けるときはノックをしなさい、って言っているでしょう」
「だって面倒くさいんだもん」
いつもの逃げ口上だ。泰輝にとって面倒なのはノックしたあとの対処であるらしい。ノックに対して返事がなかった場合、ドアを開けてよいのか悪いのか、判断できないのだという。加えて、ドアの内側にいる泰輝はノックをされても返事をしない。
埒があかない。瑠奈は話題を切り替えることにした。
「お外でご飯を食べることができたの?」
「うん。蛇が二匹と――」
「そこまで聞いていないよ」瑠奈は泰輝の言葉を遮った。「それで……服は自分で着られたの?」
「おばちゃんが着せてくれた」
泰輝の言う「おばちゃん」とは、瑠奈の母の真紀のことである。
「自分で着なきゃだめでしょう」
瑠奈が𠮟咤すると、泰輝は意味不明の笑みを浮かべ、蒼依の横に座った。
「ぼくね、蒼依ちゃんと勉強するの」
猫なで声で言った泰輝が、蒼依の体に身を寄せた。
「いいよ」蒼依は泰輝の頭を撫でた。「一緒に勉強しようか」
「泰輝、蒼依ちゃんの邪魔をしちゃだめだよ。部屋に戻って、少し寝なさい」
瑠奈は口調を強めて言いつけた。
巨獣の姿なら疲れ知らずだが、少年の姿はかなりの負担となっているはずだ。戦ったあとなら、なおのことである。
蒼依が瑠奈に顔を向けた。
「たいくんはきっとさびしいんだよ」
「そうかもしれないけれど」そして瑠奈は、泰輝を見た。「そんなにここにいたいのなら、かまわないよ。ここで寝ちゃいなさい。とにかく静かにするのよ」
「じゃあ、蒼依ちゃんの隣でこのまま寝ちゃおうっと」
泰輝のその言葉を耳にして、瑠奈は背筋に冷たいものを感じた。
久しぶりに本宅食堂での夕食の席に蒼依が着いた。普段の蒼依は第一別宅の食堂で恵美と二人で夕食を取っている。だがこの日の恵美は帰還してからずっと、任務報告を兼ねた会議のために分註所に出向いており、不憫に思った真紀が蒼依を夕食の席に誘ったのである。夕食の前後に本宅応接室での勉強が入っていたため、蒼依の移動を省くには好都合だった。しかも勉強を始めてから夕食の間まで雷雨があったのだから、幸いだったとしか言いようがない。泰輝を覗く神宮司家の二人――真紀と瑠奈に蒼依を加えた三人での夕食は、終始、和やかだった。
勉強は夕食後に再開されたが、午後十一時には切り上げられた。第一別宅に戻る蒼依を玄関先で見送った瑠奈は、家族用の風呂場で入浴したあと、自室の隣である泰輝の部屋のドアをノックした。返事がないのは承知しているが、諭す立場の自分がマナーを無視したのでは意味がない。
ドアを開けると、照明を点けたまま、泰輝はベッドで軽い寝息を立てていた。
夕食の直前に、泰輝は家政婦に体を洗ってもらったのち、自室に入った。泰輝はたまに牛乳を飲む以外は、たとえ悪天候であっても外で食事を取る。巨獣の姿となって小動物や魚を捕食するのだ。ために、泰輝が食堂に入るのは希なのである。
部屋に入った瑠奈は、泰輝に変わった様子がないのを確認した。そして照明を落とし、廊下に出る。
「まったく」
閉じたドアを背にして、瑠奈はため息をついた。
多くの生物と同様にハイブリッド幼生にも雌雄があるが、同族同士での交配はほとんどないらしい。もっとも、雄のハイブリッド幼生は女の見鬼との交わりを望み、雌のハイブリッド幼生は男の見鬼との交わりを望むという。瑠奈が憂慮したのは、その性的嗜好が純血の幼生にもあるかもしれない、ということだ。
不可視状態にある幼生の姿を視認する能力、幼生の気配を察知する能力、幼生の雌雄を見分ける能力、これら三つのすべて、もしくはいずれかを有すれば見鬼とされる。相手が幼生であれば、純血種かハイブリッドかを問わずその能力を発揮できる。覚醒していない蒼依はまだそれらの能力を発揮できないが、彼女が見鬼の資質を有していることはすでに発覚している。だからこそ、泰輝が蒼依をその対象として見なしている可能性はある、と考えられるのだ。
そんな憂慮はこれまで頭の隅にもなかった。しかし考えてみれば、男の見鬼である空閑隼人――蒼依の兄に対し、雌の邪神が性交を望んだのだ。純血の幼生は雄の邪神と雌の邪神との間に生まれた子なのだから、老婆心として片づけたくはなかった。
真紀や恵美に相談するべきだろう。早いうちがよいに違いない。
意を決し、瑠奈は真紀の部屋へと向かった。
翌日、木曜日の朝。
一学期の終業式があるのは明日だが、すでに気分は高揚していた。無論、夏休み中も勉強は抜かりなく進める所存だが、自由に使える時間は膨大だ。蒼依と出かける約束もしている。公共交通機関を乗り継ぐ日帰り小旅行だ。たまには泰輝抜きで遊ぶのもよいだろう。
登校の支度を整えた瑠奈は、自室から一階ホールへと下りた。いつもと同じ時間だ。
ドアの内側で制服姿の蒼依と談笑しているのは、執事の
「蒼依、おはよう」
階段を下りきった瑠奈は、笑顔で声をかけた。
「おはよう」と返した蒼依も笑顔だった。
藤堂がドアを開けた。
外に出た瑠奈と蒼依は、閉じたドアの前に立つ藤堂に向き直った。
「藤堂さん、いってきます」
瑠奈が言うと、蒼依も「いってきます」と続けた。
「いってらっしゃいませ」
丁寧に頭を下げる藤堂に背中を向け、瑠奈と蒼依は歩き出した。スクールバッグを右肩にかける瑠奈が右を歩き、スクールバッグを左肩にかける蒼依が左を歩く。これがいつものパターンだ。
「藤堂さんと何を話していたの?」
瑠奈は尋ねた。
「夏休みの日帰りツアーのこと」はにかみながら蒼依は答えた。「藤堂さんがね、もしいわき方面にするなら、小名浜港へ行って海鮮丼を食べるといいよ、って」
「やっぱり水戸のほうよりいわきのほうがいいかなあ。混雑とかなさそうだし」
水戸市という候補もあったが、瑠奈の中では蒼依の意見に偏りつつあった。
「海鮮丼、食べたいよね」
蒼依はまくし立てた。
却下する理由などなかった。
「よし」瑠奈は頷いた。「じゃあ、それに決めちゃおう」
「せっかくだし、たいくんも連れていこうよ」
突然の蒼依の提案に、瑠奈は思わず足を止めた。
「瑠奈?」
同じく足を止めた蒼依が、瑠奈の顔を覗き込んだ。
庭の東側を横目で見れば、木立の手前に
瑠奈が歩き出すと、蒼依もそれに合わせた。
「泰輝は連れていけないよ」
問題が起きるとは限らないが、瑠奈としてはそう告げるしかなかった。
昨夜、瑠奈は真紀と恵美との三人で話し合った。蒼依と泰輝とのかかわりを憂慮する瑠奈に対し、真紀と恵美は瑠奈のその憂慮を受け入れたうえで、「蒼依の精神の保護を優先すべき」と主張した。ハイブリッド幼生が見鬼との性交を望むことを蒼依はすでに知っているが、「ハイブリッド幼生の性的嗜好が泰輝にあるかもしれない」と伝えてしまえば、蒼依の泰輝に対する態度が剣吞なものに急変する可能性があるばかりか、蒼依に精神的な負担がのしかかる可能性も出てくるという。「のちのちのことを考慮すれば隠し立ては好ましくない」との見解を真紀と恵美は示したが、泰輝は幼生でありながら神宮司家の一員でもある。問題が起きないよう、周囲の者たちが監視するしかないのだ。日帰りツアーに泰輝を連れていった場合でも、当然ながら、瑠奈は終始、息を抜けないことになる。
歩きながら、瑠奈は言う。
「あの子ったら落ち着きがないでしょう」
「あたしが面倒を見るよ」
蒼依はそう返した。
「というか」もう一つのれっきとした理由を、瑠奈は口にする。「わたしは、蒼依と二人だけで楽しみたいの。今だって二人で歩いているけれど、学校とかその行き帰りとか、病院の帰りのショッピングモールとか、わたしたちが二人でいるのって、決まった場所ばかりじゃない。しかも、必要に迫られてだよ。たまにはね、普段は行かないようなところへ二人きりで行きたいの」
とはいえ、巨獣の姿となった泰輝が不可視状態で日帰りツアーについてくる可能性は否めなかった。現に、登下校の途中でバニラの香りが漂ってくることは、泰輝が今ほどに成長した八カ月ほど前から頻繁にあるのだ。場合によっては、不可視状態の少年の姿でこちらの様子を窺っていることもある。それは蒼依が神宮司家に引き取られてから以降も続いていた。むしろ、頻度は増えたかもしれない。
「ああ……」と蒼依はうなった。続く言葉はない。
案じているそばから精神的な負担をかけてしまったかもしれない。瑠奈は取り繕いの言葉を探した。
「そういえばそうだよね」蒼依は思い出したように言った。「最近は瑠奈と二人で遊びに行くことって、なかったね。うん、二人だけで行こう」
そして蒼依は笑顔を見せた。
やっと安堵し、瑠奈は頷いた。
二人が門から敷地の外に出ると、バニラの香りが漂っていた。
神津山第二高等学校は神宮司邸から東へ二キロ弱の距離にあった。西の山並みから上手縄、下手縄、赤ノ浜、と東に広がる台地――その一角に築かれている。
朝のホームルームの三十分ほど前だった。いつものごとく、この時間の二年一組の教室は閑散としていた。瑠奈と蒼依以外には、男子生徒が三人だけである。彼ら三人はスマートフォンで動画サイトを見ているらしく、こちらに干渉してくる気配はない。
「今日を乗り越えれば、あとは余裕だね」
蒼依の隣の席に腰を下ろすなり、瑠奈は言った。
蒼依の席は一番左の列――窓際の前から三番目だ。瑠奈が腰を下ろしたそこは、二カ月前までは
「明日は午前中で終わっちゃうじゃん。一度帰ってお昼ご飯を食べたら、買いものに出かけない?」
自分の机で頬杖を突く蒼依が、瑠奈に尋ねた。
「それいいね。買い置きしておかなくちゃ。お菓子とか、お菓子とか、お菓子」
瑠奈が言うと、蒼依は破顔した。
「お菓子ばっかりじゃん。太っちゃうぞ」
「一気に食べなければ問題ないよ。それに、蒼依にも食べてもらう」
「しょうがないなあ。手伝うよ」
そして蒼依は、舌を出して肩をすくめた。
泰輝が菓子類を口にしないばかりか興味もないことは、蒼依にも伝えてある。明日の買いものが自分たち二人だけの楽しみであることを、蒼依は承知してくれているようだ。
頬杖を解いた蒼依が校庭に視線を移した。朝練に励む運動部員や登校してくる生徒たちが見える。
蒼依の横顔に緊張が走った。それを察した瑠奈は、固まっている蒼依のほうへと身を乗り出す。
「どうしたの?」
瑠奈が尋ねると、蒼依は窓の外に視線を固定したまま「
「本郷さん?」
事態が把握できず、瑠奈は蒼依の視線を追った。
校庭の手前、校舎のすぐ目の前の歩道に立ち尽くす一人の女子生徒がいた。左肩にかけたスクールバッグのベルトを右手で握っている。編み込みお下げに眼鏡の少女だ。眼鏡の奥の目が、じっとこちらを見上げていた。
彼女は二年二組の生徒、本郷
「本郷さん、こっちを見ているけれど、どうしたんだろう?」
瑠奈は首を傾げた。
「本郷さんは」蒼依は言った。「美羅たちのいじめの対象だった」
視線を蒼依に戻すと、彼女の肩が小刻みに震えていた。
「蒼依、大丈夫?」
瑠奈は蒼依の両肩を後ろから押さえた。
「前に瑠奈が言っていたじゃん……美羅たちが二組の二人の女子をいじめている、って。そのいじめられていたうちの一人が本郷さんだったじゃん」
蒼依の肩の震えは収まらなかった。
見れば、梨夢が視線を逸らし、登校する生徒たちに合わせて歩き出したところだった。
「それはわかるよ」瑠奈は蒼依の肩を押さえたまま言った。「でも、もう済んだことでしょう。それに、野村さんは……」
その先は口にできなかった。蒼依の気持ちをかき乱してしまう。
「あたしはね、その野村美羅の仲間だったんだよ」
蒼依の頬に涙が流れた。
このままではいけない――瑠奈は蒼依の手を取って立ち上がった。手を引かれ、蒼依も立ち上がる。三人の男子生徒にこちらを気にする様子はなかった。
瑠奈は蒼依の手を引いて二年一組の教室を出ると、廊下を西へと向かった。廊下はすぐに突き当たりとなが、瑠奈はその突き当たりの角を右に曲がる。
曲がったすぐ先で廊下は終わっていた。正面と左右にドアがある。右は物置として使われている小部屋であり、正面は理科室、左は写真部の部室だ。どの部屋も朝はほぼ無人であるが、自由に出入りできるのは物置だけである。
瑠奈は右のドアを開けると、蒼依の手を引いて中に入った。そしてすぐにドアを閉じる。
教室として使うには狭い十畳ほどの部屋だった。いくつかの机が重ねられ、プロジェクターやホワイトボードなどが置かれている。
ドアからすぐのところで、瑠奈は蒼依を抱きしめた。抱き締められた蒼依も、瑠奈の背中に両手を回す。抱きしめ合って初めて、瑠奈は蒼依が嗚咽を繰り返していることを知った。
「大丈夫だよ、わたしがついている」
静かに告げた瑠奈は、蒼依のショートボブを片手でそっと撫でた。
「あたしは……どうすればいいんだろう……」
蒼依は瑠奈の耳元で声を絞り出した。彼女の肩の震えと嗚咽は一向に鎮まらない。
幸いにも、その日はそれ以降、梨夢と遭遇することはなかった。
蒼依が落ち着きを取り戻したのは、瑠奈とともに神宮司邸に帰り着いてからだった。
その日の夜、小野田は初めて神宮司邸敷地内の立哨に就いた。この熱帯夜で多少は役立っている夏仕様のグレースーツを身に着け、ワイシャツの上につけたホルスターに拳銃を装備し、パラライザーを上着の内ポケットに刺し、センサーグラスを装着していた。無論、胸ポケットには小型マイクを忍ばせており、神宮司邸敷地内での連絡に怠りはない。次の隊員と交代するまでの二時間は、ずっと立ち続けている。昨日は夕方から雷雨だったため、午後四時からの担当者と午後六時からの担当者は雨合羽を着用したが、これから数日は天候が安定するという予報であり、小野田は若干の安堵を得ていた。ちなみに、隊長である大場と隊長補佐を務める恵美は、基本的にこの任務に就くことはない。もっとも、セキュリティシステムがさらに整う来年の一月半ばには、神宮司邸敷地内におけるすべての立哨がなくなるらしい。
第三者からすれば暇そうに見えるだろう任務だが、立哨に就いていた一人の隊員が侵入者に殺害される、という事件が実際に起きてしまったのだ。油断してはならない任務であることは、疑念の余地がない。
小野田はセンサーグラスを対人モードに設定していたが、外灯の明かりが届いていない庭の隅々まで視認できた。センサーグラスにはカラー暗視技術を採用した暗視機能が備わっている。照度が下がれば自動的に働く機能だ。対人モードを初め、暗視機能はどのモードでも働く。無論、標準モードでこの機能が働けば、UVカットはオフとなる。神宮司邸の敷地は泰輝の作った結界の内にあるため、幼生の侵入は考えられず、侵入する敵があるとすれば、前例があるように人間だ。もしくは、幼生以外の怪物だろう。よって、神宮司邸警備でのセンサーグラスは対人モードに設定されているのだ。
そんなセンサーグラス越しに人の姿が見えた。本宅のほうから歩道を歩いてくる。一人の人間であることを示す記号が表示されていた。時間は午後十一時半を過ぎている。小野田が立哨に就いてから一時間半は経過したということだ。
この立哨に就く直前に大場から聞いた話によれば、神宮司邸敷地内に居住する者ならばいかなる時刻においても当然ながら敷地内を歩くことはあるが、特に藤堂は、昼夜を問わず、特機隊とは別に敷地の内外を巡回するらしい。セキュリティシステムが過剰な情報収集に使われていないか――すなわち、特機隊隊員や輝世会成員以外の者のプライバシーが確保されているか、それをチェックしているのだ。
立哨を続けていると必然的に遭遇するのが、巨獣の姿を取った泰輝が敷地を出入りする、という場面だ。とはいえ、概ねは不可視状態であるため、センサーグラスを対人モードに設定したままでは、それを目視することは不可能だ。ちなみに、泰輝は人間体であってもセンサーグラスの対人モードにおいて「人間」として感知されることはなく、対幼生モードにおいては「純血の幼生」として感知される。いかなる姿を取っていようとも泰輝はあくまでも純血の幼生、ということだ。
いずれにせよ、この時間に敷地内を歩く者がいれば、警戒してしかるべきだ。おおかた藤堂であろう、とも思われたが、小野田に向かって歩いてくるのは、Tシャツにジーンズという姿の少女だった。
「お疲れ様です」と口火を切ったその少女は、瑠奈だった。そして小野田の前で足を止めた瑠奈は、丁寧にお辞儀をした。
センサーグラスを装着したまま、小野田は片手を上げてそれに答える。
「どうも。散歩かい?」
「はい。寝苦しかったので、少し歩いていました。さっき尾崎さんから聞いて、小野田さんが立哨に就いていることを知りました」
「ほう、わざわざおれに会いに来てくれたのかな?」
はぐらかしながら、夜空を一顧した。都会では見ることのできない星空が広がっていたはずだが、天空はいつの間にか全面が灰色に覆われていた。
「そうですね。小野田さんは特機隊の仕事が好きじゃないみたいなんで、好感が持てたんです」
きつい言葉だったが、瑠奈は柔和な笑顔を浮かべていた。
「なんだよそれ。尾崎が言っていたのか?」
小野田が尋ねると、瑠奈は首を横に振った。
「いいえ。尾崎さんはそんなことは言っていません。でも、小野田さんを見ていれば、なんとなくわかりますよ」
「へえ」小野田は肩をすくめた。「洞察力があるんだな」
「ということは、正解だったんですね?」
「そういうこった」
小野田は苦笑した。
少しの間があった。
逡巡の色を浮かべた瑠奈が、口を開く。
「質問してもいいですか?」
しばらくは立ち話を続けることになりそうだ。監視カメラに撮られているはずだが、むしろ背反を表明できたようで心地よい。
「特機隊の機密にふれなければ答えられると思うが……とはいえ、会長や藤堂さんと同様、君と蒼依ちゃんも、特機隊との情報の共有率が高いんだったな」
「答えられる範囲でかまいません」
「どうぞ」と小野田は促した。
「小野田さんも邪教集団とか幼生に遭遇して、警察上層部に脅されたんですか?」
口調は至って丁寧だ。しかし、痛い思い出をえぐるような質問である。見かけに反してこの少女は手強い、と意識した。しかも彼女は見鬼なのだ。空閑隼人ほどの高い能力は持ち合わせていないらしいが、幼い頃に見鬼として覚醒した彼女は、小野田よりも多くの幼生を目にしてきたはずだ。
「そのとおりだ。邪教集団や幼生と遭遇したし、幼生でない化け物にも出くわした。そして、脳をいじられたくなかったら特機隊に入れ、と脅された」
「幼生でない化け物」瑠奈は首をひねるが、得心がいったらしく、すぐに頷いた。「邪教集団はいろいろとあって、幼生とかかわっているのは無貌教など、わずかです。多くの邪教集団は、それ以外の種類の生物を利用していますね」
「情報の共有率が高いとはいえ、よく知っているな。特機隊の機密は筒抜けなのか?」
神宮司家の者なら知っていて当然のことなのかもしれない。小野田なりの諧謔である。
期待どおり、瑠奈は失笑した。
「小野田さんがおっしゃったとおり、わたしだけでなく、蒼依も母も藤堂さんも、特別な計らいを受けています。でも」と瑠奈は真顔になった。「知っていることは限られているし、それを口外しようものなら、処置を受ける可能性があります」
「知っている範囲は違えど、立場は似ているわけだ。おれだってまかり間違えば処置を施されかねない」
「それなんです」瑠奈は小野田を見つめた。「小野田さんは処置をどう思いますか? 仕方のないことだと思いますか?」
さすがに嬉しげに肯定できる特機隊隊員は存在しないだろうが、特機隊隊員ならば、これを否定するわけにはいかない。
「問い返すようですまないが、尾崎に同じ質問をしたことがあるか?」
質問はしたはずである。小野田はそう睨んだ。
「はい。尾崎さんは暗い様子で肯定していました」
答えた瑠奈こそが、暗い表情だった。
「そうか」小野田は眉を寄せた。「おれがここにこうしているのは、権力に負けたからだ。というより、勝てるやつなんて一人もいないだろうな。特機隊の誰もがそのはずだ。尾崎の答えは正しいよ。だがおれは根っからのひねくれ者だ。ほかの隊員ほど要領もよくない。だから言えるんだが、処置なんてものを考案したやつら、そしてそれを続けさせているやつら、一人残らずろくでもないやつらだ。特機隊を作った神宮司誠一氏とその愛娘である君には悪いがな。おれは、処置を仕方のないことだとは思わない。以上だ」
終わった、と感じた。この少女と言葉を交わすことは、もうないだろう。
星のない夜空の下でカエルの鳴き声が聞こえていた。
「ありがとうございます」
瑠奈は安堵の表情を呈していた。
予想外の反応に小野田は眉をひそめる。
「君もずけずけと言うほうだが、おれもひどいことを言ったんだぞ」
「たぶん、小野田さんとわたしは似ているんですよ」
すがすがしいばかりの笑顔だった。
これをどう受け止めてよいのかわからず、小野田は片手で頭をかいた。
「まあ、光栄に思ってよさそうだな」
瑠奈は笑顔のまま「はい」と頷いた。
バニラの香りが漂っていた。
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