第1話 魔界へと ③

 停留所に着くなり、瑠奈は蒼依の顔を覗いた。

「どう? 疲れていない?」

「うん、大丈夫だよ」

 頷いた蒼依が、うっすらと笑みを浮かべた。

 日差しは避けたかったが、日よけになるものはなかった。バス停留所案内表示板のみが、ここが停留所であることを示している。片側一車線の狭い車道と、それとは釣り合わないほど広い歩道――農家らしき家が並ぶこの界隈は、歩行者も車も少ない。――いつものことだ。

 蒼依は毎週水曜日に午前の授業終了後に早退し、精神科で治療を受けていた。そして蒼依の治療があるこの水曜日に、瑠奈は放課後にショッピングモールまで出向いていた。治療を済ませた蒼依とそこで合流し、一緒に帰るのである。概ね、途中の二キロほどの区間はバスを利用していた。

 蒼依の主治医である精神科医は、輝世会のメンバーであるという裏の肩書きを持っており、必要とあれば特機隊隊員の診察を担うこともあった。そのため蒼依は、精神が傷ついた原因を把握してもらったうえでの治療を受けることができるのだ。

 幼い頃に母を亡くした蒼依は、父と兄、三人家族で上手縄の自宅で暮らしていたが、二カ月前の山野辺士郎事件でその父と兄までをも失ってしまった。一家はもともと親戚付き合いがなかったため、蒼依は完全に孤立したのだ。そんな彼女を引き取ると申し出たのが、瑠奈の母、神宮司真紀だった。真紀は神宮司家の本宅内に蒼依のための部屋を用意してくれたが、蒼依自身は神宮司母子の間に入りすぎることを拒んだ。折しも蒼依は恵美に心を開いていたため、恵美が一人で使っている第一別宅に住まうこととなった。二階の南側の一室が蒼依の部屋となっている。

 公には父も兄も行方不明とされている蒼依は、生活費や学費、医療費、小遣いなどを神宮司家に負担してもらっていた。蒼依はその施しも拒んだが、こればかりは真紀も「どうしても償わなければいけない」と言って引き下がらず、結局、蒼依は真紀の厚情に甘えることとなった。

「小野田さんっていう人、神津山に赴任したばかりなんだよね?」

 蒼依に問われ、瑠奈は「そうだね」と答えた。

「それなのに」蒼依は続けた。「いきなり出動なんだ」

「尾崎さんがいるから、どんな幼生がいても、きっと大丈夫だよ」

「でも」蒼依はわずかに首を傾げた。「小野田さんて、尾崎さんの知り合いというか、先輩みたいだったよ」

「小野田さん、立場ないかも」

 瑠奈が言うと、蒼依は失笑した。

「こんにちは」と声をかけられた。

 蒼依の横に、七十歳前後とおぼしき老女が立っていた。よそ行きらしい服装であり、チューリップハットにリュックが愛らしい。若干、腰が曲がっている。

「こんにちは」

 瑠奈と蒼依は声を揃えた。

「暑いねえ。日陰がないから大変だ」

 笑みを浮かべる老女に向かって、瑠奈は言う。

「そうですね。バスが早く来るといいですね」

 一般人に特機隊や幼生の話を聞かれるわけにはいかない。瑠奈が横目で見ると、蒼依は小さく頷いた。承知している、という合図だ。

 所在なく、瑠奈は正面を見た。

 道の反対側、飲料自動販売機の横に、半透明の男児が立っていた。全裸であるうえ、臓器や骨なども含め、すべてが半透明の状態である。まるでガラス製の人体模型だ。見鬼けんきである瑠奈には半透明として見えるが、通常の人間には見ることができない。

 その男児――神宮司泰輝たいきが、南西の方角を指差した。

 瑠奈は泰輝が指し示す方角が四号車の向かった先であると理解した。泰輝がそこへ行こうとしていることも、同時に察する。

「だめよ」

 首を横に振りながら、瑠奈は小声で訴えた。

 老女が半歩、前に出た。蒼依越しに瑠奈を見ている。話しかけられたと思ったのだろう。

「瑠奈、たいくんがいるの?」

 さらなる小声で囁いた蒼依が、瑠奈を横目で見ていた。この蒼依も見鬼であるが、まだ覚醒しておらず、今の状態の泰輝を視認することは不可能だ。

「うん」と瑠奈は頷いた。

 自分を相手にしたのではない、と悟ったらしい老女が、身を引いて車道のアスファルトをぼんやりと見つめた。

 泰輝の双眼が赤く輝いた。その赤い輝きも瑠奈には見えるが、無論、蒼依や老婆には見えないのである。

 続いて泰輝の全身を体毛が覆い始めた。各筋肉が成長して胴体が膨れ上がり、長い尾が生え、首がろくろ首のように伸び、頭部は肉食哺乳類のごとく変形し、背中に一対の翼が形成され、両耳の先端が鞭のように伸び、全身が巨大化する。当然だが、臓器や骨もその変化に合わせて巨大化し、変形していた。全体としてのシルエットは、西洋の竜に酷似している。しかし、人間の姿であろうと巨獣の姿であろうと、泰輝の体を構成する器官のすべては地球上の生物のそれらと異なっていた。特に骨などは、触手のようなものがこより状に寄り集まった器官であり、本人の意思で形状を変えることが可能なのだ。この変身の要も、骨格の変形である。

 半透明の巨獣となった泰輝は、後ろ足で立っていた。しかし前屈みの姿勢であり、前方に伸びている長い首は、完全に車道にはみ出ている。

「あら、アイスクリームのにおい」

 老女が独りごちた。

 バニラのにおいが漂っていた。巨獣と化した泰輝が放つ体臭だ。

 半透明の巨獣が左右の前足を地面につけた。そして空を仰ぎ、反動をつけて真上に飛び立つ。コウモリのものにも似た翼を閉じたまま高度を上げ、やがて見えなくなった。

 瑠奈が視線を空から下ろすと、泰輝を見ることのできない蒼依が空を仰いでおり、老女も同じように空を仰いでいた。

「お日様が入道雲に隠れちゃったね」

 老婆の言葉によって、瑠奈はようやく、日差しがなくなっていることに気づいた。

「帰るまでに天気が持つといいな」

 穏やかな表情で言った蒼依が、瑠奈に顔を向けた。

「そうだね」瑠奈は苦笑した。「天気予報をちゃんと見ていたら、傘を持ってきたのに」

「あらやだ、あたしもだよ」

 老女が言った。

 三人は笑った。

 本気で笑ったのは、老女だけだったに違いない。


 有効感知距離が百五十メートルの車載対幼生センサーに反応がないため、少なくともその範囲内には幼生はいない、とわかった。

「行きましょう」と恵美が告げた。

 小野田と恵美のそれぞれは、必需品の入ったバッグを携帯し、四号車を降りてすぐにドアを閉じると、凹凸の多い荒れた土地を西へと走った。

 到着の直前に入った大場からの情報によれば、かつて、この高台の一帯には炭鉱長屋が並んでいたという。もっとも現在は、その長屋のほとんどは取り壊されており、残された二つの棟も完全に無人であるらしい。

 周囲に広がる灌木や茂みによって見通しは利かず、山並みが垣間見えるだけだが、人の住んでいる民家が近くにないことは把握していた。四号車を停めた空き地にも、ほかの車両はもちろん、小野田と恵美以外に人の姿はない。

 二人は茂みに突入し、背の高い雑草をかき分けた。おのずと走る速度は低下する。

「センサーグラスを装着しましょう」

 雑草から顔を背けつつ小走りに進む恵美が、ショルダーバッグのファスナーを開けながら言った。

「わかった」

 恵美と並んで進む小野田は答えると、すぐにボディバッグを背中から前に回し、センサーグラスを取り出した。

 茂みは深く、足元には起伏があった。どこまでも続く緑の障壁によって、二人の歩調がさらに下がる。それでも、茂みを抜けたときには二人ともセンサーグラスを装着していた。

 西の山並みから連なる峰の一角がこの高台だった。それがよくわかる眺望が、標準モードのセンサーグラス越しにあった。

 前方に木立があり、その手前に二棟の瓦屋根の長屋が見えた。二人は小走りに進みながら、周囲を警戒した。

「第三者の存在の有無を確認してみます。小野田さんは対幼生モードにしておいてください」

 恵美は言うと、センサーグラスのテンプルに並ぶボタンを押した。センサーグラスを対人モードに設定したらしい。

 一方の小野田は、指示されたとおりに対幼生モードに設定した。標準モードと同様、遮光されたままだが、UVカットはオフとなる。英文や各種記号が二秒ほど小さく表示されたのち、幼生を補足していないことを示す記号が右下に表示される。

 しばらくすると、恵美は小走りに進みながら、再度、センサーグラスのボタンを操作した。対幼生モードに切り替えたことが窺えた。

「人はいないようです。銃を用意しましょう」

 恵美の言葉に小野田は頷いた。

 二人はそれぞれのバッグから拳銃を取り出した。グロック17をベースにカスタムの施された特機隊専用の拳銃である。型式はAC7だ。小型サプレッサーが内蔵されているため、ノーマル然とした形状であっても銃声はかなり抑えられている。また、対ハイブリッド幼生の弾丸を使用することが可能であり、通常はその弾丸を装填してある。

 恵美は左肩にかけていたショルダーバッグをたすきがけにかけ直し、小野田はボディバッグを背中に回した。そして二人は、拳銃を持つ右手の肘を曲げて銃口を上に向け、右手に左手を添える。射撃待機姿勢であるハイレディポジションだ。

 平屋の縦長の建物は、並列に並んでいた。おのおのの端面をこちらに向けている。

 恵美は二棟の長屋まであと二十メートルという距離で立ち止まり、茂みの一角に身を隠した。小野田もそれに倣う。二人はハイレディポジションを維持した。

「慎重に行動しましょう。可能な限り静かに近づきます」

 恵美が小声で言うと、小野田は黙して頷いた。

 二人が必要以上に慎重になるには理由があった。到着直前の大場からの連絡で、目撃されたという幼生の特徴が伝えられたのだが、これまでにないタイプの幼生らしい。すなわち、広く知られている妖怪を模倣した姿ではない、ということである。「妖怪というより巨大怪獣のような姿だったらしい」これが大場の言だった。

 二棟の長屋は静まり返っていた。聞こえるのは、そよぐ風が雑草や木々の枝葉を軽く揺らすその音と、セミの鳴き声だけだ。

 恵美が小野田に顔を向けて頷いた。

 静けさの中に緊張が走った。

 小野田は頷き返した。

 二人は揃って歩き出した。

 小さな茂みを越え、まずは恵美が右の長屋――北側の棟の端面に歩み寄った。続いて、小野田が南側の棟の端面に身を寄せる。二人ともハイレディポジションのままだ。

 二棟の長屋の周辺はどこもかしこも、膝ほどの高さの草に覆われていた。長屋の建物の板壁は至る箇所に穴が口を開け、瓦屋根はひしゃげているだけでなく、やはりいくつもの穴が覗き、数カ所から草が生えている。

 ハンドサインで警戒の意思を示した恵美が、小野田とは反対の方向――自分が身を寄せる棟の北側を覗き込んだ。小野田は自分が身を寄せる棟の南側をそっと覗くが、センサーグラスは幼生を補足していない。やはり雑草だらけの景観であり、各住戸の窓ガラスのほとんどが割れていた。

 南側の確認を終えた小野田は、こちらの棟と北側の棟との間、中庭を覗き込んだ。ちょうど恵美も、中庭に警戒を切り替えたところだった。

 中庭も雑草で埋められていた。見える範囲の窓ガラスのほとんどが割れている。センサーグラスは、やはり幼生を補足していない。

 奥のほう、棟と棟との間に、倒壊しかかった小屋のよなものが見えた。いや――と小野田は悟った。あれは小屋ではなく、炭鉱が操業していた当時に使われていたはずの公衆トイレである、と。無論、その時代のものであるから、水洗ではなくくみ取り式のはずだ。

 糞尿のにおいがあった。何十年も前に放棄されたはずの公衆トイレだが、はたして現在でもし尿は悪臭を放ち続けるのか、もしくはその後、最近になって利用した者がいたのだろうか。

 においに気づいたらしい恵美が、ハンドサインを出した。それによれば、このにおいの元は敵であるらしい。

 小野田は生唾を飲み込み、再度、中庭を覗いた。

 センサーグラスに反応があった。中庭の奥から、地上二メートル前後の高さをゆっくりと飛んでくる何かがある。半透明の状態のそれを、いくつかの記号が取り囲んだ。半透明であるならば、不可視状態ということである。幼生であることを意味する「L」という文字が表示されており、加えて、雌雄を見極める文字が、雌を意味する「F」となっており、純血種かハイブリッドかを見極める文字が、ハイブリッドである「H」となっていた。

 敵はぼろきれのような姿だった。全長は三メートルほどだろう。翼らしきものは備えていないが、細長い体を蛇のごとくくねらせ、重力に逆らって空中に浮いている。どことなく東洋の竜に似ており、胴体の前寄りに一対の足が備わっていた。骨のようなものや内蔵らしきものも、体表と同じように半透明の状態で確認できる。

「撃ちます」

 恵美の声で小野田は棟の端面から飛び出した。そして半透明のぼろきれに向かって拳銃を構える。

 一方の恵美は、小野田より一秒ほど早く飛び出しており、小野田より先に敵に銃口を向けていた。

 不意にぼろきれに色がついた。体表が白一色で覆われ、体内の器官のすべてが隠されてしまう。可視化したわけだが、これでは弱点である脳の位置がわからない。

 頭を狙えばおのずと脳を破壊できるだろう――と小野田が判断したの同時に、センサーグラスが脳の位置を示す案内を表示した。それはやはり頭部に位置していた。

 炭酸飲料の缶を開けたときのような音が、一度だけ鳴った。AC7の銃声だ。

 射撃したのは恵美だった。センサーグラスが示した位置を、対幼生の弾丸が貫く。

 幼生の頭部が弾け飛び、細長い胴体が雑草の生い茂る中庭に落下した。地面に叩きつけられた音からすれば、人間の成人と同等かそれ以上の質量があるらしい。

 小野田と恵美は、拳銃を構えたまま細長い胴体に近づいた。

 茂みの中に横たわるそれは、白とはいえ、薄汚れており、灰色がかっていた。それを見下ろす位置で、二人は立ち止まった。

「なあ尾崎」小野田は首を捻った。「こいつは妖怪図鑑で見かける妖怪に似ているぞ。化け物には違いないが、怪獣という感じではないよな」

「同感です。幼生がほかにいるかもしれません」

 そう答えた恵美が、周囲を警戒した。

「だな」

 小野田も周囲に目を走らせた。

 悪臭が強くなった。見れば、微動だにしない細長い胴体から、うっすらと幾筋もの湯気が立っている。死骸が崩壊し始めたのだ。

 その悪臭の中に、微妙に異なるにおいがあった。糞尿のにおいに個人差があるように、わずかな差だが、違うにおいが混淆している。

 小野田はセンサーグラス越しに、異様に腕の長い半透明の姿を見た。それは恵美のすぐ後ろに二本足で立っていた。

「尾崎、伏せろ!」

 小野田の一声で恵美がその場で片膝を突いた。

 恵美の背後で正面をこちらに向けている不可視状態のそれには、雄のハイブリッド幼生を意味する「L・M・H」とい文字が表示されている。脳の位置を示す表示が出ているが、その表示に頼るまでもなく、半透明の脳はしっかりと視認できた。

 標的が可視化する前に、小野田は引き金を引いた。

 銃声よりも肉や内臓器官の弾ける音のほうが大きかった。

 頭部を吹き飛ばされたそれが、可視化しながら仰向けに倒れた。

「助かりました。ありがとうございます」

 言いながら、恵美が立ち上がった。

「礼はいい。お互い、これからも貸し借りなしで行こう」

 肩をすくめた小野田は、自分が斃した敵を見下ろした。

「この幼生も、妖怪の姿ですね」

 恵美の言葉どおりだった。大柄な人間――のようでもあるが、全身を黒っぽい体毛が覆い、手足にはそれぞれ五本のかぎ爪を有している。頭部は粉砕されているが、射撃直前に見たものが正しければ、老人のような顔だった。

「まだいる、っていうことか」

「そう思ったほうがいいでしょうね」

 二人はすぐに警戒態勢を取り戻した。小野田が仕留めた敵の体からも湯気が立ち始めたが、安穏としてる場合ではない。拳銃を構えたまま背中合わせになり、索敵に集中する。

 さらに強烈な悪臭が広がった。小野田のセンサーグラスは雄のハイブリッド幼生の存在を示しているが、半透明の姿も色のついた姿も見えない。記号は南側の棟の中ほどに固定されている。

「尾崎、南側の長屋に注意しろ」

 小野田の警告を受けて恵美もそちらに顔を向けた。

「建物の中か、もしくはその向こう側ですね」

 恵美は言った。

「ああ」と小野田が頷いた直後に、雄のハイブリッド幼生の存在を示す文字が上昇した。

 目で追えば、半透明の巨大な物体が空に舞い上がっていた。瓦屋根は弾けていない。敵は長屋の向こう側――建物の外にいたようだ。

 二人は銃口を空に向けるが、距離があり、急所など確認できる状態ではなかった。

 ハイブリッド幼生が可視化しながら落下してきた。小野田と恵美の立っている位置に向かっている。

 とっさに二人は飛びのき、雑草の上を転がった。

 轟音とともに着地したのは、全身が鈍色の、四つ足の巨体だった。爬虫類や昆虫のごとく、足を外側に広げ、腹を地面につけている。大きめの鱗に覆われた鎧のような胴体は、乗用車並みの大きさだ。太い首の先に備わっているのはワニのような頭部である。節のある四肢は昆虫のものに酷似しているが、おのおのの先端は巨大な一本爪だ。長い尾は絶え間なく左右に振れており、そのため、膨らんでいる先端の形状が把握できない。

 脳の位置を示す案内がなかった。それでも小野田はすぐに立ち上がり、口のやや後方、頭部の盛り上がっている部分を狙って撃つ。通常の脊椎動物なら、脳のある位置だ。

 頭部そのものを粉砕することはかなわなかったが、軽減された銃声とともに放たれた弾丸は、狙った位置を貫通した。

 敵が雄叫びを上げた。そして小野田に向かって跳躍する。

 再度、小野田は飛びのき、雑草の上を転がって片膝を立てた。

 巨体が着地した向こう側――敵の左側で、恵美が銃を構えていた。その銃口は、左右に振れている長い尾に向けられている。

 小野田は見た。脳の位置を示す記号が一瞬だけ表示された。一瞬だけの表示が、ときおり現れるのだ。指し示す位置は、絶え間なく振れている尾、その先端だ。触れ続けているため、センサー機能が追いつかないらしい。

 恵美が銃を撃つが、案の定、せわしなく動く標的に命中させることはできなかった。

 敵が正面を小野田に向けた。同時に、長い尾が恵美の体を薙ぐ。恵美の体は長屋とは反対の方向に弾き飛ばされていた。

「尾崎!」

 茂みの中に転がった恵美のほうへと駆け出した小野田だったが、四肢を素早く動かして走った巨体が、小野田の進路上で止まった。鋸歯の並んだ口が、目の前で大きく開いた。

 よく見れば、このハイブリッド幼生の頭部に目はなかった。ワニのような巨大な口と、その上に左右に並ぶ二つの鼻の穴があるのみだ。

 長い尾が左右の振れを止め、真上に立ち上がった。その先端の膨らみが前方にせり出し、小野田の目の前で止まる。尾の先端についているのは、まぶたのない巨大な単眼だ。瞳がせわしなく動いていたが、ふと、その視線が小野田に定まった。

 小野田はのけ反りつつも拳銃を向けようとしたが、それより早く巨大な口から突風のような息が吐き出された。糞尿もどきの口臭もひどいが、その風圧に耐えられず、小野田は後方に吹き飛ばされる。

 雑草の上で仰向きになった小野田が上半身を起こすのと、敵が跳躍のための構えを取ったのは、同時だった。

 次の瞬間に自分は敵の下敷きとなってしまう――小野田の脳裏に自分の最後が浮かんだ。

 しかし、巨大なハイブリッド幼生は動かなかった。尾の先端の単眼が、上空を見上げてている。

 小野田も見た。

 半透明の何かが、一対の巨大な翼を広げて舞い降りてくるところだった。長い首と長い尾、長い両耳――そのシルエットは、データベースですでに目にしている。センサーグラスには雄の純血の幼生を意味する「L・M・P」という文字が表示されていた。

 悪臭の中にバニラの香りがあった。

 瞬時に跳ね起きた小野田は、自分の右手へと走り、敵の正面を避けつつ間合いを取った。

 舞い降りてくるそれに色がついた。白い巨獣だった。

 ワニ頭のハイブリッド幼生が、尾の先端の単眼だけでなく、巨大な口をも上に向けた。

 白い巨獣がうつ伏せの状態でハイブリッド幼生の背中に落下した。

 土や雑草が弾け飛び、小野田は左手で顔をかばった。

 二体の巨獣の咆哮が上がった。

 翼をたたんだ白い巨獣が、赤い目を輝かせ、馬乗りになったままワニ頭の首に嚙みついた。上顎から伸びる二本の鋭い牙が、ワニ頭の首に食い込んでいる。

 しかしワニ頭は激しく首を横に振り、白い巨獣の牙から逃れた。そして瞬時に四肢を垂直に立て、その勢いで背中の白い巨獣を弾き飛ばす。

 雑草の上を転がった白い巨獣が、二本の後ろ足で立ち上がった。前足は左右とも五本のかぎ爪を備えているが、大地を踏み締める後ろ足の足先は、左右とも蹄である。

 ワニ頭が四肢を外側に広げて低く身構えるなり、前方に跳躍した。強烈な体当たりを食らった白い巨獣が、ワニ頭の前足に組みつかれたまま仰向けに倒れる。

 見るからに白い巨獣のものよ強力そうな巨大な口が、白い体毛に覆われた長い首に嚙みついた。白い巨獣の苦悶の叫びが響いた。

 小野田は拳銃でワニ頭の尾の先端を狙おうとした。しかし長い尾は、またしても左右に振られている。

「黙って見ているよりましか」

 言い捨てた小野田は、引き金を引いた。案の定、弾丸は標的を逸れてしまう。

 続けてもう一度、撃った。今度の弾丸は尾の付け根付近、背中の後端に命中する。鎧のような鱗の何枚かが砕け、肉片や体液が飛び散った。

 もっとも、脳を破壊しなければ、破損した肉体は再生してしまう。この程度のダメージならものの数分で癒えてしまうだろう。

 歯ぎしりをした小野田は、視界の隅に動く何かを察知した。

 見れば、恵美がよろよろと立ち上がるところだった。あれだけ飛ばされた割には、右手で拳銃をしっかりと握っている。

 小野田は巨獣同士の戦いを警戒しつつ、恵美の元へと走った。

「大丈夫か?」

「はい、なんとか」恵美は頷いた。「泰輝くんが来てくれたんですね」

「だが、劣勢だ」

 白い巨獣は未だに首を嚙みつかれたままだ。激しくもがいているが、それを押さえつけるワニ頭の力は、より強力なのだろう。

「手は出さないほうがよいと思います。泰輝くんはきっと、敵を斃します」

 恵美は言うが、小野田は確信が持てず、首肯できなかった。

 進化したハイブリッド幼生は、噂どおりに強敵だった。もしワニ頭が白い巨獣を斃したとなると、ハイブリッド幼生が純血の幼生を凌駕したことになる。とはいえ、仮にワニ頭が勝利したとしても、純血種である白い巨獣は死にはしない。生まれた当時の姿に戻り、神々の住まう究極の混沌へと帰るだけなのだ。そして最強の守りを失った小野田と恵美は、ワニ頭の餌食となるだろう。

 二本の白くて長い耳が、素早く宙を切った。ワニ頭の太い首にその二本が何重にも巻きつく。

 光と音は同時に発生した。

 白い巨獣の両耳の表面を、竹を割ったような音を立てて稲妻が走っていた。

 組みついていた前足をほどいたワニ頭が、続いて白い巨獣の首から巨大な口を離し、全身を震わせながら大地に伏した。しかしワニ頭の首は、白くて長い両耳に締めつけられたままであり、稲妻も収まっていない。眼球のついた尾が、震えながらまっすぐ上に向かって立っていた。

 白い巨獣の尾がゆっくりと動いた。鏃のような尾の先端が、彼の左肩越しに前方に突き出る。

 一瞬の出来事だった。鏃のような尾の先端から雷鳴とともに稲妻が放たれ、ワニ頭の尾の先端を粉砕する。

 戦いは済んだらしい。

 稲妻は収まり、敵の首を解放した両耳と、地面に置かれた尾が脱力しきっていた。

 草地に伸びきったワニ頭は沈黙を守っている。

 バニラの香りが悪臭を凌いでいた。

「勝ったのか?」

 小野田が問うと、恵美は二歩、前に出て、微動だにしない敵を見つめた。

 恵美に並んだ小野田も、センサーグラス越しにそれを見た。殲滅を意味する記号が表示されている。

「もう死んでいます。間もなく崩壊が始まるでしょう」

 恵美の言葉に小野田は頷く。

「おれたちだけでは勝てなかったな」

 言った小野田に、白い巨獣が顔を向けた。赤い双眼がわずかに細くなる。脳を示す表示がその頭部に重なっていた。

「おれの言葉を理解したのか?」

 小野田がセンサーグラスの内側で目を丸くすると、恵美は白い巨獣を見上げた。

「もちろんです」

「へたなことは口にできないな」とこぼし、小野田はため息を落とした。

 ワニ頭の死骸から湯気が立ち始めた。

 空を見上げた白い巨獣が、翼をたたんだまま飛び上がった。どんどん上昇する巨体が、半透明になる。そして彼は翼を広げ、北の方角へと飛び去った。有効範囲から離脱されたためにセンサーが追いつけず、雄の純血の幼生を示す表示は消えてしまう。

 バニラの香りが消え、悪臭も徐々に弱くなる。

「そろそろ大場隊長たちや処理班が到着するはずです」

 見上げていた小野田は、恵美の言葉で顔を下ろした。

「それまでは警戒が必要なんだな?」

「はい」

 二人は拳銃を手にしたまま、長屋の周囲に注意を向けた。

 特機隊隊員としての任務は始まったばかりだが、一年後も自分が生きているかどうか、小野田は自信が持てなかった。

 ふと、小野田は独りごちる。

「あの白い巨獣だって、巨大怪獣じゃねーか」

 それが聞こえなかったらしい恵美は、警戒に集中したいた。

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