第1話 魔界へと ②
Tシャツにジーンズという当たり障りのない服装で買いものを済ませた小野田は、ショッピングモール内のホームセンターから出た。歯磨き粉やボディソープ、シャンプーなど、日用品の入った二つのレジ袋を左手に提げ、屋外の歩道を東へと向かう。
大きめのボディバッグの中には、スマートフォン、警察手帳、免許証のほか、センサーグラスとパラライザー、専用の小型拳銃が入っていた。Tシャツ姿で拳銃を隠し持つための工夫である。今は準非番であるが、限られた員数であるため、非常事態には即対応しなければならないのだ。
時刻は午後三時四十五分を過ぎていた。西日が強い。
額に浮かぶ汗を右手の甲でぬぐいながら、小野田は駐車場に目を走らせた。東西に棟続きとなっている店舗の南に広がる駐車場は、五百代以上は収容できそうな規模だ。その半分ほどが車で埋まっている。
小野田はフードコート兼イートインコーナーの建屋へと入った。
百席ほどのイートインコーナーは二十人ほどの客が入っていた。その窓際の片隅――四人がけのテーブルに、恵美が着いていた。彼女もTシャツにジーンズという、小野田と同様の姿である。
「待ったか?」
尋ねながらボディバッグを背中から正面に回した小野田は、恵美の真向かいに腰を下ろした。
「時間に余裕があります。気にしないでください」
答えた恵美は、膝の上にショルダーバッグを載せていた。小野田は中身を確認したわけではないが、恵美の談によれば小野田のボディバッグの中身と同じものが入っているらしい。さらに彼女の隣の席には、エコバッグが置いてあった。バッグの口から垣間見えるのは、フードコートで購入したらしいいくつものパック類だ。インスタントの食品であることがわかる。
小野田はエコバッグを一瞥して「尾崎の夜食か?」と茶々を入れた。
「これは第六小隊の非常食です。せっかくここに来たんですし、経費を預かっているので、ついでに買っておきました。非常食を出すことは滅多にありませんが」
恵美の言葉を受けて小野田は頷いた。
「そういえば、おれたちの飯も神宮司家の家政婦が用意してくれる……って、会長が言っていたな」
「でも以前は、
輝世会は政財界が秘密裏に結成した組織だ。異形のものどもや邪教集団に関する研究や特殊装備の開発をする「秘密研究機関」はこれに属しており、対邪教集団の活動を拡充させるためにこれ以外にも、医療機関や土木建築、流通、製造など、さまざまなセクションから成り立っている。また、特機隊と連携して動くことも多く、両組織間で情報の共有がなされている。
「それが今じゃ、神津山に常駐する隊員は半分の十人だもんな。本職の家政婦が三人もいれば、余裕か」
「本職と言っても、彼女たちは輝世会神津山支部で厨房を任されていた人たちです。神宮司邸での職務に就く前に家政婦としての訓練は受けていますが、特機隊の息がかかっているには違いありません」
「銃を携帯しているなんてことはないんだろう?」
「中には警察官だった人もいますが、今はその資格がないですからね」
言い換えれば、神宮司家の現在の家政婦たちは、皆、家政婦の職務に専念するプロフェッショナルでありつつ事情を把握している、ということである。以前よりも改善された状況であろう。
「しかしな」小野田は口を開いた。「神津山に常駐する特機隊の話なんだが、いくら化け物の数が減ったとはいえ、これまでの半分の人数で任務をまっとうできるのか? 邪教集団のやつらのことも相手にしなきゃならないんだぞ」
「確かに、わたしたちは二十四時間体制ですからね。それでも、前第一小隊、再編成された新第一小隊、わたしたち第六小隊、それらの働きによって、神津山市内に潜む幼生の数は、推定ですが、五十体前後から十五体前後まで減っています」
「その十五体がまとまって攻めてきたら、ひとたまりもないな」
小野田はそうこぼすと、ため息をついて背もたれにふんぞり返った。
「追い打ちをかけるようですが」
言いさした恵美が、窓の外に目を移した。その視線の先には、西日に照らされた駐車場があった。
「なんだよ……言ってみろ」
小野田が催促すると、恵美はテーブルに視線を落とした。
「まだはっきりとは確認されていないんですが、日本中に散らばっている幼生の一部が、姿を変化させているようなんです」
「姿を変化させている……どういうことだ?」
「幼生は概ね、広く知られている妖怪を模倣した姿を取っていますが、複雑奇っ怪な姿の個体が確認されたらしいんです。というより、妖怪に似せた姿を取っていたはずの何体かの個体が、姿を著しく変化させたのだとか」
「いくつかの例があるということか?」
「ほかの小隊や処理班、輝世会から流れてきた情報……というか、今のところは噂にすぎません。もっとも、わたしたちがこれまでに遭遇した中にも、妖怪っぽさを持ちつつ合成生物のようでもある、そんな個体……強力な個体は存在しましたが」
その言葉を受けた小野田は、とある画像を思い出していた。本部での研修中に目にしたデータベースの画像だ。第一小隊が相手にしたハイブリッド幼生の中に、鬼と昆虫を掛け合わせたような巨大な化け物がいたはずである。それを指摘したうえで、小野田は言う。
「尾崎らが遭遇した、そういった突出した個体をも凌駕する幼生が現れたのかもしれない、ということなんだろうが、複数の例があるとすれば、憂慮すべき事態かもしれないな」
「事実だとすれば」恵美は小野田をじっと見つめた。「幼生たちは現代の人間が恐怖する姿を取り始めたのかもしれません」
「映画やアニメ、動画サイトの影響……」
小野田がつぶやくと、恵美は頷いた。
「ならばその変化に準じて、戦闘能力も向上している可能性があります」
「それは困る」小野田は言いながら上体を起こし、テーブルに両腕を置いた。「おれは新人だぞ」
「幼生の変化の実態は、まだ確認されていません。仮に事実だとしても、きちんと確認されれば、新しい武器が開発されるだろうし、戦い方も刷新されるかもしれません。それに小野田さんは、すでにハイブリッド幼生と戦っているじゃないですか。三体を殲滅したとか。うち二体は、幼生以外の怪物だったらしいですが」
恵美なりに気遣ったのだろうが、予想される改善も小野田の武勇伝も、気休めにさえならなかった。やるせなさが募るばかりだ。
「ハイブリッドを倒せたのは偶然だったし、ハイブリッド以外の二体に至っては、正確には抹殺したわけじゃない。というか……」
小野田は言葉を詰まらせた。
「はい?」
首を傾げる恵美に向かって、小野田は言葉を繫ぐ。
「幼生が妖怪以外の姿を取ったら、幼生以外の化け物と区別がつかなくなるんじゃないのか?」
「判別しにくくなるでしょうけど、センサーを使えば一目瞭然です。それに、人間を食べる怪物ならば、幼生であろうとなかろうと、倒さなくてはなりません」
「まあ、確かにそうだ」得心しつつ、小野田は続ける。「いずれにしても、あんな化け物どもに遭遇したおかげで、おれは特機隊に入隊する羽目になった」
「そんなに悲観的にならなくてもよいと思います」
「化け物相手に戦わなきゃならないんだぞ。それに、事情を知った一般人をとらえて輝世会に引き渡さなければならない……処置のためにな」
「二カ月前の
目撃者の記憶の一部を消去する「処置」や、インターネット上に拡散された情報を操作する隠蔽工作――それらが改善されたことはすでに本部で伝えられていた。ゆえに、改善前の「処置」がいかに非道なものだったのか、それがどうしても小野田の胸裏にこもって離れない。しかも改善されたにせよ、「処置」や「隠蔽工作」は未だになされているのだ。
小野田は訴える。
「そういう問題じゃないだろう」
「そういう問題です」
すぐに突き返されてしまった。
小野田が自分の意見を述べる前に、恵美が口を開く。
「処置の失敗に至っては、施術対象者の精神を破壊することに繋がります。処置や隠蔽工作は倫理的に許されることではありません。阿漕でしょう。ですが、誰かがそれをやらなければならないんです。世の中のバランスを崩すわけにはいかないのですから」
「おれたちがその汚れ役を担っている……か。個人よりも社会を優先する、っていうのが、まるで公安だな」
「神宮司会長が、よくそう揶揄します」
そう言って、恵美は苦笑した。
「会長が? ……そうか」
真紀が特機隊を好いていない、ということを、小野田は改めて察した。沈みがちだった気持ちが、さらなる深みへと落ち込んでいく。
「会長だけでなく、会長のお嬢様も同じように揶揄していますが、それでもお嬢様は、われわれに好意的です」
そう諭されても、小野田は腑に落ちない。
「われわれ……というか、本部で小耳に挟んだ話によると、ご令嬢は尾崎個人と仲がいいだけのようだが」
「年頃の女子高生ですから、男性隊員には話せないこともあるでしょう」
「そうかな……第一小隊隊員が演じていた二人の家政婦には愛想がなかった、とも聞いたぞ」
「それはあの二人に愛想がなかったからです」
恵美のその言葉を耳にしたとたんに、小野田は失笑した。
「尾崎に言われたんじゃ、その二人も立つ瀬がないな」
「そうですか?」
小野田の冗談を理解できなかったらしく、恵美は真顔で首を傾げた。とはいえ、気分を害したふうでもなく、真摯に小野田の言葉を分析しようと試みているらしい。
そんな彼女が、ふと、小野田の背後に目を投じた。
「噂をすればなんとやら、ですね。お嬢様がいらっしゃいました」
言われて、小野田は椅子に座ったまま振り向いた。一目で女子高生とわかる制服姿の二人の少女が、それぞれ肩にかけたスクールバッグを揺らしつつ、テーブルの間を縫って歩いてくる。小野田の見識に寄れば、黒髪ロングの少女が神宮司真紀の娘の
「髪の長い子が瑠奈ちゃんで、髪の短い子が蒼依ちゃんです」
恵美が解説してくれた。
二人の女子高生がテーブルの横で立ち止まると、小野田と恵美は立ち上がった。そして小野田は、ボディバッグを背中に回す。
真紀の娘である瑠奈は、母親に似て端正な顔つきだった。一方の蒼依も愛らしい容貌であるが、表情が暗く、影が薄い。
「お待たせしました」瑠奈は恵美に向かって言うと、小野田に会釈した。「神宮司瑠奈です。よろしくお願いします。そして彼女が……」
瑠奈にうながされ、彼女の斜め後ろに立っていた蒼依が、おずおずと前に出た。
「空閑蒼依です」
ぎこちなく頭を下げた蒼依は、すぐに瑠奈の斜め後ろに戻ってしまう。
蒼依がPTSD患者であることや、彼女が自分の家族のすべてを亡くしていることも、小野田は承知していた。だからこそ、努めて明るく振る舞う。
「小野田輝男だ。よろしく」
無理な笑顔は作らなかったが、悪い印象は与えなかったようだ。少なくとも怪訝そうな目は向けられていない。
「じゃあ、帰りましょう」
恵美の采配で一同はイートインコーナーを出た。
今回の買い出しに使われたSUVは、小野田が本部から乗ってきた車だった。すでに、四号車という車番を割り当てられている。無論、一号車から三号車までの三台も、水戸ナンバーだ。
四号車はショッピングモールの駐車場内を西に向かって徐行していた。
「今日の夜は雨かもしれないな」
助手席の小野田がフロントガラスの外を見ながら言った。西の山並みの上に綿菓子を積み重ねたような積乱雲が伸び上がっている。
「天気予報では一時的に雷雨、となっていました」
ハンドルを握る恵美が答えた。
「食事は家政婦が別宅や分註所に運んでいるそうだが、雨が降ったら、その作業も容易ではなさそうだな」
小野田が言うと、恵美は肩をすくめた。
「雨が降っても降らなくても、食事はトンネルを使って運ばれます」
「トンネル?」
声を裏返した小野田は、膝の上に載せたボディバッグを落としそうになった。
「二週間くらい前に作られたばかりなんです」助手席の後ろの瑠奈が、口を挟んだ。「以前は、屋根付きのカート……ゴルフカートの改造車で運んでいたんです」
「ゴルフカートで運ぶなんて、それはそれで面白い光景だと思うが」
小野田はトンネルにもゴルフカートにも驚嘆していた。
「たとえゴルフカートを使ったとしても、やっぱり雨の日は大変なんです。どうしても、運ぶ本人も食事の入った箱も濡れちゃうし」
真紀の娘である瑠奈と絡むことができ、ほんのわずかだが、小野田は心持ちが軽くなった。
「そうか……じゃあ今は、台風が来ても、家政婦も食事も濡れずに済むわけか」
「はい。それに労力も激減されているはずです。本宅も二つの別宅も、一階と地下はエレベーターで行き来できますから、厨房からテーブルまで、食事を載せた台車をそのまま運べるんですよ」
「なるほど」
瑠奈の弁に小野田は頷いた。
気が早いかもしれないが、この娘とは打ち解けそうだ、と感じた。もっとも、蒼依との交流はまだ考えないほうがよさそうである。
何気に後部座席に目を向けると、運転席の後ろの蒼依が、物憂げな表情で外の景色を眺めていた。
四号車は西側の出入り口を右折して道に出ると、北へと向かって加速した。
その直後、車内のスピーカーから着信音が発せられた。画面には「大場」と表示されている。
恵美がパネルを操作し、通話が繋がった。ハンズフリー通話だ。
「尾崎です」
恵美が口を開いた。
「今、どこにいる?」
大場の声だ。
「車でモールの駐車場を出たところです」恵美は答えた。「神宮司邸に向かっています」
「小野田も一緒だな?」
「そうですが、瑠奈さんと蒼依さんも一緒です」
恵美がそう伝えると、大場は一瞬、口ごもった。
「……そうか。なら、瑠奈ちゃんと蒼依ちゃんをそこで降ろして現場へ向かってくれ」
「現場? 任務ですか?」
眉を寄せながら問う恵美が、車を道の左端に寄せ、停車させた。
「幼生が目撃されたらしい。地図を転送する」
大場の言葉を受け、恵美はカーナビの画面を操作した。カーナビの地図表示が広域に切り替わり、現在地と目的地が赤い矢印で示される。目的地は現在地から南西へ直線距離で五キロほどだ。
「上手縄の……わかりました。道は頭に入りました」
カーナビの画面を見ながら、恵美は言った。
小野田は蒼依の様子を窺った。変化はなかった。先ほどと同じように外の景色を眺めている。それが異様といえば、異様だった。
「おまえたちが現場に一番近い」大場は言った。「神宮司邸の立哨に就いている
「了解」
恵美が答えると、通話が切れた。
「わたしたち、降りますね」
タイミングを見計らったように、瑠奈が言った。
「ごめんなさい。申し訳ないけど、バスを使って」
恵美が言い終えないうちに、左右のリアドアが開いた。
「無事に帰ってきてください」
訴えたのは蒼依だった。
そして二人の少女は、左右から車外に出た。
「いつものように、無事に帰るわよ」
恵美は振り向き、蒼依に答えた。
二人の少女によって左右のリアドアが閉じられると、四号車は切り返して向きを変え、南に向かって走り出した。
小野田は振り向いた。
二人の少女がいつまでも見送っていた。
「赴任したその日に初陣かよ」
そうこぼした小野田は、田園風景に目を馳せた。
四号車は片側二車線の幹線道路を西へと向かっていた。いつの間にか、制限速度を三十キロほど超過している。
「飛ばしすぎだろう。地元の警察に止められるぞ」
小野田は言いながら、恵美を横目で睨んだ。
「心配はいりません」恵美は前方に視線を向けたまま答えた。「非常時は各警察署に通達が即時に届きます。出回っているパトカーや白バイ、取り締まり中の警察官らに、対象の特機隊専用車のナンバーと車種が知らされるため、わたしたちは任務に専念することができるんです」
「ふーん。じゃあ、おれが神津山に来る途中の常磐自動車道で速度オーバーを気にしていたあれは、意味がなかったってか?」
「非常時でなければ、そういった配慮は受けられません。単なる移動では無理でしょう」
恵美は無表情だが、小野田にしてみれば嘲笑されたも同然だった。無視するのが無難と判断し、口を結んで正面を見据える。
ほかにも速度超過と思われる車が何台かあったが、恵美の運転する四号車は、それらをスムーズにパスし、置き去りにした。二車線を巧みに行き来し、絶妙なタイミングで車の列を抜き去る。ついてこられる車は一台もなかった。
小野田は不可思議な現象に気づいた。この四号車がどの信号機にも引っかからないのだ。
「信号機を操作しているのか?」
「この車で自動的に信号機を制御できます。わたしたちは警察であることを隠しているんです。装備しているサイレンや赤色灯は、使わずに済むのであれば、使いません」
「車での移動に関するうんぬんなんて、本部では教えてくれなかったな」
小野田が言うと、恵美は正面を向いたまま頷いた。
「わたしのときもそうでした。本部での説明は必要最小限です。細かいことは現場で覚えました」
「まさかと思うが、尾崎がおれの教育担当ってか?」
「そのように指示を受けましたが、聞いていませんでしたか?」
恵美は静穏な様子だが、小野田は憤懣やるかたない思いだった。
「必要最小限もほどがあるじゃないか。尾崎が教育担当だっていうのさえ、おれは聞いていないぞ。本部はおろか、さっきの大場隊長の説明でも、そんな話はなかった」
「いい先生になるつもりですから、安心してください。当分はコンビを組むことになるので、小野田さん、よろしくお願いしますね」
にこりともせずに恵美は告げた。
警視庁捜査一課でコンビを組んだことはなく、また、階級も現在と同様に巡査部長同士だったが、年功序列で言えば、恵美は小野田の後輩だった。小野田が彼女に助言をしたことも多いほどだ。逆転した立場を受け入れるのは、精神的につらい。
「わかったよ。安心するよ。割り切るよ」
泣きたい気持ちをぐっとこらえた。
恵美が目を細めた。小野田には一瞥もくれない。美人ではあるが、どうしても冷たい女に見えてしまう。スタイルのよさもなぜか魅力的に感じられない。
小野田はサイドガラスに顔を向け、こぼれ落ちそうになる涙と鼻水を、そっと片手でぬぐった。
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