彼女の坊やは妖獣童子

岬士郎

第1話 魔界へと ①

 週末でもないのに催された駅前の居酒屋チェーン店での飲み会は、一大プロジェクトの打ち上げだった。名目上は暑気払いも兼ねていた。本人としてはビールを軽く一杯のつもりだったのに、三十三歳になっても独身である、ということをプロジェクトリーダーである課長にあげつらわれてからは、ウィスキーをロックで何杯も浴びていた。

 二次会のスナックに向かう道すがらは、十二人いたはずのメンバーが課長を含めて男ばかりが五人となっていた。それもそのはず、一次会で課長が管を巻き始めてからはメンバーのほとんどがしらけていたし、三人いた女性社員に至っては、皆が揃って一次会の最中にこっそりと退席したほどだ。

 いつもは温厚な課長だが酒が入ると豹変する――課内では周知の事実だ。しかし、これ以上は付き合っていられない。憤懣やるかたないその係長は、ほかの四人に気づかれないように飲み屋街通りから脇道へと逸れた。

 ここから線路伝いに進めば神津山かみつやま駅の西口に戻れる。もっとも、午後十時半を回ろうとする今の時間にバスなどあるわけがない。場末のアパートまでは三キロほどだが、この酔い具合なら一時間と少しでたどり着けるだろう。

 街灯の明かりがわびしいひっそりとした路地だった。両脇は空き地らしいが、どちらも、高いブロック塀で遮蔽されている。

「こっちに結婚願望がないことを課長は理解していたはずだよなあ。あの五十路過ぎのデブ野郎め。一発ぶん殴っておけばよかった」

 独りごちながら、右手に提げているビジネスバッグを振り子のごとく大きく振った。

「誰をぶん殴るんだって?」

 突然の声に振り向くと、丸顔を紅潮させた課長が、ビジネスバッグを小脇に抱えて立っていた。

「あ……課長……一次会の次の二次会は三次会……」

 取り繕うとして口をついたのは、自分にさえ理解できない言葉だった。

「三次会の次は四次会に決まっているだろうが。おまえもこれから五次会へ行くんだ。お楽しみはこれからだ」

 課長の酔い具合も相当なものだ。一緒にいたはずのあとの三人は、課長がこの脇道に入ったのを好機とばかりに出奔したに違いない。万事休すである。

「なんか臭いな」

 つぶやいた課長が、係長の背後に定めた両目をぱっと見開いた。

 確かに糞尿のにおいが漂っている。係長は課長の視線をたどって振り向いた。

 すぐそばに全裸の少年が立っていた。小学校低学年らしい。頭は丸坊主である。陰毛もない――それ自体は当然なのだろうが、股間にぶら下がっているものは大人並みに大きく、先端が完全に剝けていた。最も異様な点は目である。左右に二つあるべき目は、顔の中央に一つしかなかった。しかも、ただ一つ、というだけではない。顔の中央から突き出ている長さ十センチほどの肉棒の先端に半球を剝き出しにしてついているのだ。

「ひいいいっ」

 課長が悲鳴を上げると同時に、係長は噴き出した。

「なんだこりゃ。下のもでかいけど、上のもう一本もビッグサイズだな」

 高慢な上司は腹立たしいだけだが、目の前の小さな道化師はめっぽう愉快である。この悪臭さえなければ、酔漢にはちょうどよい遊び相手かもしれない。

「おい、笑っている場合じゃないだろう」

 課長は危急を感じているらしいが、係長はまたしても噴き出してしまう。

「何をそんなにビビっているんですか? このガキはたぶん、神津山の都市伝説とかで有名な妖怪ですよ。一つ目小僧、とかって若いやつらが――」

 係長が言いきらないうちに、全裸の少年、一つ目小僧が歩き出した。笑いの止まらない係長を無視し、裸足でアスファルトをぺたぺたと踏み締め、課長へと近づいていく。

「来るな」課長はビジネスバッグをほうり出してあとずさった。「気味悪い。臭い」

「課長、さっきの勢いはどうしたんですか?」

 挑発せずにいられなかった。

 課長が「あっちへ行け!」と突き出したその右手を、一つ目小僧が両手で握った。

「うわあああ!」

 悲鳴が上がった。課長の右手首から先が、一つ目小僧の口にくわえ込まれている。

「いててて! 何しやがるんだこの化け物!」

 課長は一つ目小僧を突き飛ばした。

 赤黒い液体がアスファルトの路面を染める。

「ない……」

 手首から先を失った右手を自分の顔の前に掲げ、課長はへたり込んだ。切断部から鮮血が迸っている。

「ありゃ、小便臭いガキに手を食われてやんの」

 殴り倒したい相手が血まみれで喚いているのだから、笑いが止まらない。

 一方の一つ目小僧は、口の中のものを無数の鋸歯でかみ砕きながら、肉棒の先の単眼を係長に向けた。しかし興味がなかったのか、肥えた獲物に視線を戻す。

「痛い……痛いよ。け……警察だ。いや、救急車を呼んでくれ」

 へたり込んだまま、課長は係長に指図した。

 ごくり、と口の中のものを飲み下した一つ目小僧が、課長の上半身を押し倒し、太鼓腹の上に馬乗りになった。

「ひゃあああ!」

 それも課長の悲鳴だった。

 次は何か、と目を凝らすと、課長の腹から長い何かを引き伸ばした一つ目小僧が、それを高く掲げた。紛れもなく腸である。引き伸ばされた腸はちぎれていなかった。一つ目小僧は手にした腸を折り曲げ、その部分を頬張ると、ずるずると飲み込み始めた。

 係長は「課長、これはダイエットになりますよ」と言って笑った。血まみれの二筋の腸が小さな口に吸い込まれていく光景は、あまりに愉快であり、また興味深かった。

 係長は小躍りするが、弾みで足がもつれ、ビジネスバッグを落として尻餅を突いてしまう。そこはふたのない側溝だった。気づけば、尻は側溝にすっぽりとはまり、両足を路上にほうり出していた。何度ももがくが抜け出せそうにない。とはいえ、笑いは止まらなかった。

 左の方向――課長の様子を見ようとするが、そばに立っている電柱によって視界が遮られていた。前に屈もうとしても、この体勢ではどうにもならない。逆に背中をのけ反らせようとしたが、ブロック塀に頭と背中が当たってしまう。

 へらへらと笑いながらもがいていたそのとき、炭酸飲料のふたを開けたような音がした。

 目の前の路上に一つ目小僧の体が飛んできた。仰向けに倒れたその体に頭部がない。巨大な男根が天に向いている。

「この一つ目小僧はタイプツーのほうだ。第六小隊が神津山に配備される前からマークされていた個体だよ。やっと片づいたな」

「しかし、犠牲者が出ました。まだ息はあるようですが、これでは助からないか」

 二人ぶんの男の声が近づいてきた。

「確かにな」

「いや……もう一人います。しかも生きている」

 飲み屋街通りのほうから歩いてきたグレースーツの二人の男が、係長の正面で足を止めた。こんな夜中に双方ともサングラスをかけている。そればかりか、どちらも右手に拳銃を提げていた。二十代後半か三十代らしいその二人は、辺りを見回すと、拳銃を胸元からスーツの内側に入れた。

「ああ。負傷さえしていないようだ」

 そう返した男が、収めた拳銃の代わりにペンのようなものを取り出した。その先端に明かりが灯る。ペンライトだったようだ。

 ペンライトの明かりがこちらに向いた。あまりのまぶしさに、係長は思わず片手をかざす。ペンライトを持つ男が「こいつ、酔っている」と呆れたような声を放った。

「とりあえず処理班を呼びます。ターゲットの体が崩壊し始めました」

 もう一人の男はそう言うと、スマートフォンをズボンのポケットから取り出し、電柱の陰へと移動した。

 ペンライトの明かりが消えた。まぶしさから解放されてふと見れば、一つ目小僧の体からうっすらと湯気が立っていた。悪臭が強くなっている。

「もしかして」係長は口を開いた。「課長が襲われたのはビビったからじゃないかな。おれはずっと笑っていたんだ。一つ目小僧はお化けだし、人を怖がらせるのが仕事じゃないか。怖がるやつに興味があるんだよ」

 自説ながらその奇抜さがおかしかった。係長はただただ笑い続ける。

「酔っているのに、鋭いな」と言いつつ、男はペンライトを逆手に握った。

「でも、課長は内臓脂肪が多いから、うまくなかったんじゃないかなあ」

 側溝に尻を固定されたまま笑っていると、ペンライトの後端を首筋に押しつけられた。

 係長の酩酊した意識は、その瞬間に闇の中へと吸い込まれてしまった。


 首都高速道路は概ね渋滞していたが、三郷料金所を通過してからは、交通量は多いものの流れはスムーズだった。水戸インターチェンジを通過した直後から三車線が二車線へと削減されたが、同時に交通量も減った。山や田畑といった茨城県北部の風景の中、SUVは小野田おのだの気分と裏腹に快調にハイウエークルーズをこなしていた。

 あてがわれたSUV――第六小隊用の水戸ナンバー車で常磐自動車道を北上する小野田輝男てるお巡査部長は、これまでに味わったことのない重圧に押しつぶされそうだった。田舎での生活を強いられるだけではない。特殊機動捜査隊――通称「特機隊とっきたい」の任務に従事しなければならないのだ。鬱屈のあまり、やっとの思いで遠ざけた紫煙に甘えそうになったほどである。

 梅雨が明けて間もなかった。夏休み直前の子供たちにとっては気持ち華やぐ時期だ。晴天の午前。外気温は三十度を超えていた。

 カーエアコンは強烈なまでに効いているが、グレースーツの上着はたたんで助手席に置いてあった。ホルスターつきのサスペンダーは、その上着の下にある。当然、拳銃はホルスターに収まったままだ。クールビズということで許可されているノーネクタイではあるが、それでもボタンは上から二つも外していた。移動中とはいえ、勤務中でもある。このだらけた態度が発覚すれば、少なくとも厳重注意は免れない。支給されたスーツは夏用だが、スリーシーズン用のスーツは現地で支給されることになっていた。しかし小野田はこの夏用でさえ、小野田はこの夏用でさえ、三回しか袖を通していない。

 今年の秋で三十一歳となる小野田は、定年まで警視庁捜査一課で働けると信じて疑わなかった。それが、このざまである。

「ふざけやがって」

 誰に聞かせるでもなく愚痴がこぼれた。

 速度計が百五十キロを指していた。高速機動隊と悶着を起こすわけにはいかない。自分を落ち着かせるべく深呼吸を三回、繰り返した。そして車速を法定速度まで落とす。もっとも、音楽やラジオをかける気分ではない。

 ふと思い立ち、ワイシャツの胸ポケットに刺してあるゴーグルタイプサングラスをかけてみた。特機隊専用装備のセンサーサングラスだ。通常モードに設定すれば瞬時にUVカットが施されるためサングラスとしても使用可能だが、本来の目的は不可視状態の幼生を視認することである。さらにこの夏に全隊員に支給されたこの新型は、従来型の各機能に加え、敵が可視状態でもその弱点である「脳」を見つけ出す機能と、対象の幼生の雌雄を判別する機能、その幼生が純血種かハイブリッドかを判別する機能、などが追加されている。あの空閑くが隼人はやとでさえ純血種かハイブリッドかを判別することは不可能だったという。すなわち、新型のセンサーグラスの機能を活用すれば、空閑隼人クラス以上の見鬼の能力を身につけたのと同然、と言えるわけだ。

 左右のテンプルにそれぞれ三個ずつ備わるボタンを適当に押すと、レンズに案内が表示された。ボタンを押すパターンによってモードを切り替えるというこの操作に、小野田はまだ慣れていない。テンプルに内蔵されているスピーカーと胸ポケットの内側に取りつけてある小型マイクとを併用すればインカムとして使用でき、また各モードにおいての録画機能も有しているが、それらの操作もテンプルのボタンによってなされる。しばらくはボタンを押して遊んでいたが、ものの一分で飽きてしまい、通常モード――すなわち通常のサングラスに設定し、ボタンから指を離した。

 こういったセンサー機能はすべての特機隊専用車にも装備されていた。小野田は任地に到着するまでにこの操作もセンサーグラスと合わせて試すつもりでいたが、センサーグラスの試用で懲りてしまい、意識しないことにした。

 日立南インターチェンジを通過すると、道は傾斜のきつい上りとなった。一キロほどの坂道を上りきり、山並みの山腹を貫く全長が二キロ以上もある長いトンネルに入る。

 延々と続くトンネルをやっと通り抜けた、と思っても、次のトンネルがすぐに口を開けていた。その先にも、いくつものトンネルが待ち構えていた。

 トンネルにうんざりとし始めた頃だった。

 そのトンネルを抜けると、山間部の風景が広がっていた。次のトンネルが大口を現す気配はない。しばらくして「神津山市」の標識を通過した。

 小野田はついに、忌むべき土地、神津山市に入ったのである。


 かつて神宮司じんぐうじ邸の第二別宅を分駐所にしていたのは、特機隊第一小隊だった。しかし現在は、再編成かつ増強された第一小隊は東京都の本部に移り、第一小隊から分離した第六小隊のたった九名がその分註所に駐在している。第六小隊は小野田が加わることにより十名となるが、特機隊の六小隊で一番小さな部隊であることに変わりはない。

 神宮司邸は神津山市上手縄かみてなわの田園地帯の奥にあった。正面である南側に田んぼが広がり、左右と背後には雑木林が迫っている。この大邸宅の正門前に、小野田の運転するSUVは到着した。専用車載器の出す信号を読み取ることによって自動開閉する巨大な門を通過し、コンクリート敷きの道を徐行で進み、疎林を抜けて広い洋風庭園へと入る。

 木立に囲まれた庭園は、中央に直径二十メートル前後の池があり、その奥には、三棟の建物が横に並んで正面をこちらに向けていた。向かって左端の建物が本宅であり、三棟のうちで一番大きく、平面と曲面との組み合わせという世間離れした意匠だった。その右に並ぶ二棟は、向かって左が第一別宅、その右が第二別宅であり、どちらも瀟洒で現代的な二階建ての家構えである。

 小野田は神宮司邸に到着する直前にスーツの上着を着込んでいた。敷地内で警備に就く特機隊隊員、もしくは監視カメラに不体裁を見とがめられずに済むはずだが、カーエアコンが効いていなければ、たとえこのサマースーツであっても耐えられなかっただろう。念のため、センサーグラスは装着しておいた。

 コンクリート敷きの道をたどるとおのずと本宅の正面へと至った。

 車寄せに二人の男の姿があった。センサーグラスにグレースーツという姿の若い男と、その斜め後ろに立つ細身の初老の男だ。若い男は明らかに特機隊隊員だが、初老の男はセンサーグラスをかけておらず、黒服の服装からしてこの屋敷の執事のようだ。

 若い男が身振りで案内するが、どうやら「このまま止まらず、第一別宅と第二別宅との間を通って裏側に進め」ということらしい。初老の男はSUVに向かって丁寧に頭を下げていた。

 案内に従い、小野田はSUVを第一別宅のほうへと進めた。その建物の前を通過してすぐに左折し、敷地の裏へと延びているコンクリート敷きの道をゆっくりと進む。

 横から見れば、第一別宅は正面からの印象どおり、一般の民家と同程度の規模だったが、分駐所である第二別宅の奥行きはその二倍以上はあった。

 第二別宅の裏に、コンクリート敷きの広い駐車スペースと、その東側に大型のガレージがあった。第二別宅とガレージの間には水戸ナンバーの一台の白いワンボックス車が停めてある。

 三枚あるシャッターのすべてが下りているガレージを背にして、グレースーツの女が立っていた。センサーグラスはつけていないため、顔の判別はついた。

 女の前でSUVを停止させた小野田は、サイドガラスを下げた。

「センサーグラスはかけていないんだな」

 冷やかし半分に小野田が言うと、女は無表情のまま口を開いた。

「概ね、警備に就いているときや敵と遭遇する確率の高い任務に就く場合に装着します」

「あ、そう」と答えつつ、小野田はセンサーグラスを外し、それをワイシャツの胸ポケットに刺した。「一応、通常モードだったんだけど」

「どのモードにせよ、任務以外で使用してはいけない、ということはありません。普通のサングラスとして使っていただいても、もちろん差し支えないです」

 女は抑揚をつけずに言った。

 応戦したい気持ちはあるが、その前に確認すべきことがあった。

「聞いていると思うが、この車、本部からの支給品だ。どこに停めればいい? ガレージの中に入れるのか?」

「このままでかまいません。あとでわたしが移動させます」

「了解」

 女の言葉を受け、小野田はサイドガラスを閉じると、エンジンを切り、その白い車を降りた。

「相変わらずの仏頂面だな」

 ようやく反撃に出た小野田は、意図して静かにドアを閉じた。

「小野田さんが態度を引き締めてくれれば、わたしは普通に接することができます」

「捜査一課にいた頃だって、尾崎おざきはいつもそんな表情だったぞ」

「いつもではありませんでした。小野田さんと話をするときだけでしたよ。小野田さんはあの頃だって、締まりのない人でしたから」

 この女――第六小隊の紅一点である尾崎恵美えみはそう言うと、軽く微笑んだ。

「初めて見た笑顔だな」

 そうこぼし、小野田はリアドアを開けた。そして後部座席から大きめのスポーツバッグを取り出す。着替えや日用品が詰め込んであるが、引っ越しの荷物はこれだけだ。

 再び無表情を呈した恵美が、肩をすくめる。

「初めてではないと思いますが、逃げられたら困りますからね」

「裏切ってつかまったりすれば、脳をいじられるんだし、逃げねーよ」

 小野田は反駁すると、リアドアを閉じてスマートキーを恵美に差し出した。

「逃げないというのは賢明ですが、任務を全うしなければならないということも、忘れないでください」

 言いながら、恵美はスマートキーを受け取った。

「おれは愚痴は多いが、仕事は手を抜かないぞ」

「そうでしたね。確かに愚痴は多かった」

 真顔での言葉を受け、小野田は憮然とした。

「そっちだけとはな……」そして小野田は、仕切り直す。「ところで、おれは今から何をすればいいんだ? まずは大場おおば隊長に挨拶か? それとも神宮司会長にか?」

「お二人とも分註所で待っています。神宮司家と特機隊との関係、神津山市での任務の内容など、概要というか、簡単な説明があるそうです。その前に荷物を部屋に置いたほうがいいでしょう。案内します」

「頼む」と頷いた小野田は、スポーツバッグを左肩越しに引っかけ、恵美のあとに続いた。

 分註所の玄関先で、小野田は恵美のあとに続きながら本宅のほうに顔を向けた。本宅の車寄せには誰もいない。

「本宅の玄関先は警備の範疇ではないのか?」

 小野田が尋ねると、恵美は本宅の車寄せに顔を向けた。

越田こしださん……さっきまでいた隊員ですが、第一別宅の裏で立哨に就いています。通常、玄関先の警備は監視カメラとセンサーだけです。というより、敷地内の警備のほとんどと、敷地外周の警備のすべてをセキュリティシステムが担っています。現在の立哨は員数が削減されていて、第一別宅の裏に一人と、庭の東側に一人の、計二人です」

 すなわち、越田という隊員は小野田を案内するため車寄せに一時的に立っていたわけだ。

 小野田が頷くと、恵美は玄関ドアを開いた。

「分註所も本宅も第一別宅も、玄関や勝手口の鍵はかけません」ドアを開けたまま、恵美は言った。「セキュリティシステムや特機隊隊員による警備があるので、施錠は必要ありません。有事の際に隊員たちがどの建物にもスムーズに出入りできるようにしておくための措置でもあります。それから、本宅は下履きのまま入れますが、第一別宅と分駐所はスリッパに履き替えてください。ちなみに分駐所では……」

 恵美が一呼吸を入れたところで、小野田は眉を寄せた。

「まだあるのか?」

「やめておきますか?」

 無表情で問い返された。

「いや、言ってくれ」

 ここでの任務や過ごし方を、自分はまだ何も知らないのだ。それに恵美の機嫌を損ねるのは得策でないと察した。

「夜は廊下や玄関ホール、会議室は照明を点けたままです。浴室や洗面所、キッチン、トイレ、そのほかの各部屋などの照明の点灯と消灯は、各隊員の判断でなされます」

 理解したのかを問うように、恵美は首を傾げた。

 昔の後輩に阿諛するのは情けないが、小野田はこらえた。

「よくわかったよ。ありがとう」

「では、入りましょう」

 心なしか、恵美の顔が人形のように見えた。


「以上だ。必要なものがあれば、今日中に揃えておいてくれ。買いものは尾崎が案内してくれる」

 グレースーツの男――大場がそう言ってソファから腰を上げると、神宮司真紀まきも腰を上げた。小野田も遅れずに続く。

「わかりました」そして小野田は真紀に顔を向ける。「よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 ブラウスにスカートという姿の真紀が、黒髪を後ろで結った頭を軽く下げた。実年齢は四十二歳ということだが、恵美と同世代――二十代半ばと偽っても通りそうだった。若作りでも、東京に本社がある全洋ぜんよう物産株式会社の会長だ。その所作に隙はない。

 危うく見とれるところだった。真紀が顔を上げる前に、小野田は目を逸らした。

 分註所の会議室は、特機隊が常駐する以前は応接室だった部屋だ。小野田は大場と真紀に続いてその部屋を出ると、さらに二人に続いて玄関から出た。

「それでは」

 真紀は一礼をし、本宅のほうへと歩き出した。

 彼女を見送ることなく、大場が小野田に顔を向ける。

 大場の背丈は小野田の百七十五センチと同程度だが、体格はがっちりとしていた。年齢は四十八歳である。特機隊に入隊する以前は、警視庁刑事部捜査四課、いわゆるマル暴に所属していたらしい。警部であり、それ以上のことは聞かされていない。角刈りのヘアスタイルが「暴力団相手の強面刑事デカ」という風貌を醸し出している。

「おれはこれから処理班の分註所に行ってくる。君は自分の部屋で待機していてくれ。買いものは、どうする?」

 大場は問うた。

「はい、着替えやタオルなど、いくつか揃えたいものがあります」

「わかった。尾崎に声をかけておく。彼女は報告書をまとめている最中だが、あと三十分もあれば済むだろう」

「お願いします。あと、それから……」

 言いさし、小野田は後頭部をかいた。

「なんだ、言ってみろ」

 うながされ、小野田は口を開く。

「この敷地内は全面禁煙ですよね?」

「そうだ。以前は分註所内に喫煙所を設けてたが、灰皿などはすべて撤去された。われわれの公用車内もすべて禁煙になった。……吸いたいのか?」

 大場は片眉を上げた。

「いえ」小野田は首を横に振る。「禁煙に成功しましたが、においを嗅ぐと、どうしてもいらいらして……」

「状況からしてにおうことはないだろうが、気をつけろよ……会長はただでさえたばこのにおいが嫌いなんだ。まして、水野みずのの件があったからな」

「それで全面禁煙になったわけですか?」

「そういうことだ。会長は、嫌いなにおいと敵の回し者のイメージが、かぶってしまったんだろう」

 敵とは、すなわち邪教集団である。

 第一小隊前隊長である水野昭彦あきひこは、愛煙家というだけで真紀から厭われていたが、邪教集団――無貌むぼう教の間諜であることが発覚し、さらなる嫌悪を真紀に抱かせる結果となった。もっとも、真紀が水野の正体を知ったのは、彼が恵美によって始末されたあとだったらしい。

 見れば、真紀が本宅の玄関に入るところだった。

「あの人に嫌われたくないですね」

 小野田が言った直後に本宅の玄関ドアが閉じた。

 視線を戻すと、大場が小野田を横目で睨んでいた。

「全洋物産の会長だぞ。変な気は起こすなよ」

「そういうつもりで言ったんじゃありません」

 小野田は躍起になって弁解した。

「冗談だ」と笑顔も見せずに返した大場は、片手を上げ、裏庭のほうへと歩き出した。

 ――冗談?

 小野田は大場の背中を睨んだ。

 大場も恵美も、表情を見ただけでは本気で言っているのか冗談で言っているのか計り知れない人物だ。安易な気持ちで話をするなど危険極まりないだろう。

 この地での任務が想像以上に前途多難であるのを悟った小野田は、肩を落として分註所の玄関をくぐった。

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