第壱章「死神の仕事」
episode ONE 《暗殺》
八月下旬
PM22:00 北海道札幌市中央区 すすきの
「っはあ、はあ、はあ、はあ」
「……っ!」
ある女はすっかり日の暮れたすすきのを必死に走っていた。
歳は二十代後半だろうか、着ているスーツがよれよれになり、髪が乱れ、短めの黒スカートの下部が解れ、破れかけている。
満身創痍の女の後ろを銀髪の青年は追っていく。夏にもかかわらず新雪色のパーカーに身を包む青年。やけに上下するパーカーに違和感は消えない。
そして、追われる女は悲壮な顔で嘆きつつ――
「——っなん、で! なん、なのよっ!」
それは数分前。
平常運転の残業が終わったいつも通りの時間だった。
日課になりつつある酒屋からの帰り、唐突にナイフを突きつけられ女はあまりの驚きと恐怖に瞬間的に身が凍る。驚嘆をどうにか振り払い、人ごみに紛れ、走り逃げてきた。
しかし、正直なところ、頭の整理などつくはずもない。
意味の分からない、理解のできないこの状況。急な非現実を見せられ、これを夢だと信じたい。だが、そんなことをいちいち思考する暇すらないほどに女は絶望的に追い詰められていた。
走るのに精一杯で、助けての一言すら言えていない。
その光景を見た人は不思議だなと言わんばかりの顔で素通り。誰も触れようとしない集団心理がそこに働いていた。
必死の、必死で、必死に。
全力を振り絞る最中。
――ポキッっと乾いた音がした。
体は途端に倒れ込み、咄嗟に右手をつく。全衝撃が右の手のひらに加わり、激痛が雷撃の如く指先に走る。
「……、いィっ!」
そして、指が下敷きになり変な方向に曲がる。
折れた。
そう理解した瞬間、痛みがぐっと増す。
「ぅ! ナ!!」
痛みで視界が霞む中、ふと足元に目を向けるとヒールの先が綺麗に折れていた。それも無理はない。実に五分は走っていたのだ、安物のハイヒールとしては頑張っていた方だろう。
むしろ高校時代に県大会出場経験のある陸上女子は慢心していた。素早い起点と単純な速さがあり、差がついたと思ったのが間違いでたったの数秒で差が縮まる。薄っすらと笑みを浮かべた銀髪の青年が猛スピードで追いかけていく。
やばい、やばい、やばい、死ぬ死ぬ死ぬ、殺されるっ。
単純なる感覚。折れたヒールを脱ぎ捨て、裸足でもう一度。体力には自信があったがヒールの負担から来た痛みが足裏に生じてうまく走ることが出来ない。
さらに縮まる。
「っはああ、ぁぁ、イッ!!」
胸が熱い、足はさらに熱い。呼吸器官は悲鳴を上げ、足の皮膚がただれて血がまき散らされていく。狸小路商店街には
が。そんな咄嗟の行動も水の泡、時すでに遅し。
女の頭上には青年、いや託宣の死が手を差し伸べていた。
「っは! ッぁ、ああ!!」
痰が絡みつき、喉に稲妻が走る。
電撃をこらえて走る——ことさえも、無駄な掻きだった。
裏路地に逃げ込んだ瞬間、前のめりに落ちていく。
原因いたって単純、疲労からくる目眩だった。
「え?」
もう死ぬのか、と唐突に悟った女の前からその青年が姿を見せる。一体どこから回り込んだのか、不思議に思う余裕なんてあるわけもなく。右手に果物ナイフが握られた姿はまさに狂人、そんな悪な姿だけが終局の脳裏に焼き付く。
「な、んで、なんでなのよ! どうしてなの⁉ 教えなさいよ‼ 私はあなたに——っ」
すると、涼風のように不気味な笑い声が女の耳を撫でる。
「……ふふ、ごめんねお姉さん。俺もさあ~~別にね……やりたくないんだけどさあ、上からの命令なんだよね~~」
明るい反面、どす黒い奇妙な声で青年は言った。しかし、狂人じみたその言葉に女は理解できなかった。
「じゃあ、さようなら……綺麗なお姉さん」
そう聞いた刹那、迸るほどに鮮明な痛みと、フレアのように燃え上がる熱がその細い首を取り囲んだ。四方八方、十六方。炎に囲まれて崩れゆく城のように、女の上半身と頭を繋ぐ細き橋は瓦解していく。実が捻じれ、液は跳ね、それを形作る、モノは無残にも灰に姿を変える。
――気が付けば、女の意識は消えていて。
――そこには亡骸が二つ、取り残されていた。
捻じり込まれた果物ナイフは鮮血を咲かせ、辺りには薔薇が生っていた。
「あーあ、綺麗なお姉さんだったのになぁ、もったいねぇ……よぉ」
軽々と口にして、頬にこびり付いた生ぬるい血を拭いスマホを取り出す。
「はーい、056ですよぉ」
『こちら通信A班、どうぞ』
「標的αの殺害完了したぜぇ」
『了解』
「このあとは?」
『引き続き標的βの殺害に当たってほしい、098も向かっている』
「はいよぉ――って、あいつかよぉ」
『こちらとしては手伝ってほしいが、君のノルマは達成している。勝手にしてもいいぞ』
「そうさせてもらいますよっ」
一息ついて、腕を伸ばす。
「どうしたものかーー、あいつとの任務は好きじゃないしなぁ。それに失敗したとしてもエースが来たら一瞬だしなぁ」
「まあでも、面白そうだし様子だけでも見に行くかぁ」
そう言って彼は静寂な夜空に消えていった。
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