水は器

増田朋美

水は器

今日は、やや曇っていて、どんよりという言葉がぴったりの日であった。こういう時は、誰であっても憂鬱な気分になりやすいものだ。其れはしかたないと言えば仕方ないで片付くこともあるけれど、時にはどうしても打破しなければならない問題に、発展するときもある。

その日も、花村義久は、新しく入居した小さな家で、しずかに楽譜などを書いていた。思えば、先日まで暮らしていた、大きくて立派な建物よりも、こういう小さな家の方が、自分には向いているのかもしれない。立派な建物は、確かに立派だが、家を管理することが、自分にはできないのだ。そのために、何人も、女中さんを雇わなければならなかったし、女中さんたちに、気遣いをするのも、なんだか負担になってしまう。そういう事をするよりも、自身で何でも片付けてしまうほうが、なんだか気楽だった。ただ、たった一人、どうしても先生のそばに居たいと言ってきかない女中さんがいて、彼女だけが、花村家に残った。だからいまでは、その女中さんと一緒に暮らしている。女中さん、正確に言えば、ヘルパーさんなのだが、その彼女、秋川さんは、花村先生と一緒に働くのが、何よりも生きがいなんですよ、なんていって、聞かないのだった。

「はい、もしもし、花村でございます。」

秋川さんが、そう電話している。電話の応対も、本当は秋川さんに任せきりにしてしまうのではなく、自分で何とかしたいなあと思う花村であったが、秋川さんは、先生のお手伝いなら、何でもしますから、と言って、聞かないのだった。

「ああ、さようでございますか。ちょっとお待ちくださいね。」

と、秋川さんは、電話を保留にして、花村のいる小さな部屋にやってくる。

「花村先生、あの、お稽古を見学したいという方が来ていますが。」

と、秋川さんが言った。

「ええ、いつですか。」

花村がそういうと、

「これから、すぐに行けるそうです。」

と、秋川さんは、そういう。つまり飛び入り参加という事か。たまにそういう人がいるのだが、大概は碌なものではないという事は、花村は経験で知っていた。

「それでは、もう今日は最後の生徒さんも終わってしまったので、お話だけという形になりますが、それでもよろしければどうぞと、お伝えください。」

というと、秋川さんは、わかりました。その通りにいたします、と言って、部屋を出て行った。また二言三言、彼女が話ている言葉を聞きながら、花村はどんな展開が待っているのだろうか、と、ちょっと考えてふっとため息をつく。

「じゃあ、三十分くらい待ってくださいとのことです。なんでも、電車で来るそうで。」

と、秋川さんがそう伝言した。花村は、とりあえず、箏を準備して、とりあえず、ベルトで爪輪の大きさを調節できる爪を、箱の中から取り出す。

暫くして、玄関のドアをノックする音が聞こえてきた。花村家には、インターフォンがない。なので来客が来る時は、ドアを直接たたいて知らせることになっている。

「こんにちは。花村先生。私、電話をよこしました、土谷と申しますが。」

たたいてきたのは、若い女性の声であった。若い女性の声と並行して、

「こんにちは。」

という声が聞こえてくる。五歳か六歳くらいの子供さんの声だった。小学生か、それとも幼稚園生か、そのくらいの声だ。こうなると、まだ変声期は来ていないので、男か女か、判別はできないが、たぶん、その強い言い方は、男の子だな、と類推することができた。

秋川さんが、ハイハイどうぞ、と玄関の扉を開ける。扉の向こうには、一寸太り気味の若い女性と、小さな男の子だった。

「あの、花村先生でいらっしゃいますか?」

と、女性は、一寸聞いた。

「ええ、私は、ただの掃除のおばさんです。先生は、こちらに居ます。」

と、秋川さんはにこやかに言って、二人を花村がいる部屋に案内した。お邪魔しまあすといって、二人は中に入った。

「こちらです。」

と、秋川さんは静かに戸を開けた。

「こんにちは。」

箏の調弦をしていた、花村は、挨拶をしながら、二人を観察した。子供の方は、しっかりとした口調であったが、母親の方は、何だかぼんやりしていて、立場が逆転しているようであった。

「花村です。花村義久と申します。よろしくどうぞ。今は名刺も何も在りませんので、口頭で自己紹介することになりますけど。」

と、花村は言う。

「まあ、先生は名刺をお持ちでないんですか。」

と、母親のほうが、思わず言った。

「ええ、今はとりあえず、社中をこちらに移転させたばかりなので、まだ、名刺も何も作っていないんですよ。」

と、花村は言った。そういうと、母親は、彼を、なんだか疑い深い目で見た。

「あら、花村会の主宰者ではなかったんですか?」

と、彼女はいきなり聞く。

「ええ、これから方針を変えて、非営利活動法人として、やっていくことにしているんです。そのほうが、家元制度もありませんし、より、お箏教室としての敷居も低くなって、入りやすくなるんじゃないかと思いまして。」

花村がにこやかに答えるが、彼女はそこがちょっと期待外れだったような気がしたのか、一寸落胆の表情を見せた。

「そんなに落胆しなくてもいいですよ。お箏教室であることは変わりありませんから。やることは、みんな同じことですから。変な昔の制度にこだわるよりも、気軽なお箏教室として、やっていく方が、いいかなと思って、変更してみました。」

と、花村は、にこやかに説明した。彼女はそれでも落胆したままだった。

「ママ、何をそんなに落ち込んでいるの?」

と、隣にいた息子が、そんなことを言うくらいだ。

「じゃあ、まず、お二人のお名前を教えていただけますでしょうか。」

花村が聞くと、

「ええ、私は、土谷富貴子、息子は土谷雅美、現在は、保育園に通っています。」

と、彼女は答えた。。

「じゃあ、今日、お母さんと一緒に、お箏を習いに来たんですか。其れなら、もう一面出しましょうか。」

と、花村は、押し入れから、お箏をもう一面出して、手早く柱を立てて、平調子を作った。

「それでは、一緒にお箏を弾いてみましょうか。」

と、花村が言うと、

「ええ、私は、結構ですから、この雅美に仕込んでください。」

という母親に、花村は、一寸変な顔をした。

「そうですか、それはいけませんね。こういう小さなお子さんは、出来る限り、お母様も一緒のほうが、とっつきやすいと思われるんですが。爪はお貸ししますから、一緒に取り組んでもらいたいんですけど。」

とりあえずそういってみると、富貴子さんは、嫌そうな顔をした。

「いや、わたしは、そういうことはできません。わたしができない代わりに、雅美にお箏を仕込んでください。」

と、富貴子さんは、そういう事を言う。

そう言われて花村は、この富貴子さんは、自分が習いたいのではないという事を感じ取った。

「花村先生、せめて雅美に、箏を仕込んでください、あたしは、幼いころ、しっかりしていなかったから、せめて雅美には何か一つ特技があった方がいいと思うんです。其れは、ありふれたものじゃなくて、一寸ちがったものの方がいい。やっぱり、これから大きくなるにつれて、一寸自信が付きそうなものをやった方がいいと思うんですよ。それで、あたしはお箏を選びました。お箏は、日本の伝統ですし、やってみれば、カッコいいと思うし。どうでしょうか、先生、うちの雅美に仕込んでやってくださいませ。」

そういう、富貴子さんは、なにか変なことを考えているのだろうか。花村を変な顔で見た。

「それでは、やってみましょう。とりあえず、初心者向きの曲を何かやってみましょうね。雅美君、お箏の前に座ってみてください。」

と、花村は、彼をお箏の前に正座で座らせた。雅美君は、花村の差し出す、ベルト式の箏爪を受け取った。

「じゃあ、これをつけてみましょうね。先ず、一番大きなサイズを、拇にはめてください。」

「はい。」

と、雅美君は、すぐに親指に爪をはめた。ベルト式の爪なので、わざわざ大きさを合せる必要もなかった。

「じゃあ、次に人差し指。」

と、花村は雅美君に、もう一つ爪を渡す。

「はい。」

雅美君は、その通りにした。

「それでは、もう一つ、爪をはめてください。中指に。」

と、花村の指示で、雅美君は、その通りにする。

「じゃあ、私の指示通りに、お箏に向かって構えて下さい。こういう感じです。」

花村は、自ら右手を出して、お箏への構え方を示した。」

「いいですか。じゃあ、まずは絃の名前を覚えていきましょうね。一番手前が、壱、そして弐、そして参。そのまま、四、五、六、七、八、九、十、斗、為、巾となります。じゃあ、雅美君、それでは、壱の絃に手を構えてみて、そのまま壱、弐、参、四、五、六、七、八、九、十、斗、為、巾と言いながら、絃をはじいてみてください。」

と、花村の指示通り、雅美君は、しずかに絃をはじき出す。まだ、手が小さいので音もうまくならないが、頑張ってその通りにしようと努力しているのである。

「いち、にい、さん、しい、ご、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう、と、い、きん。」

と、青い声でそういっている雅美君。割と覚えの早い子だなと、花村は思った。

「じゃあ、まず、初心者向きの楽曲として、この曲をやってみましょうか。雅美君、漢字は読めますか?」

と、花村が聞くと、

「わかんない。」

と雅美君は答えた。

「そうですか、それでは、私のまねをして覚えていきましょうね。箏は、番号である絃をはじいて、音を出す楽器なんです。文字は読めなくても、絃の位置で追う様にしましょう。いいですか、まず、わたしが、絃の上に手を置きますから、それと同じ位置に手を置いてください。」

花村がそういって自分の手を、七の絃の上に置いた。

「よし、えーと、先生が置いたのはここだ。」

と、雅美君も、七の絃の上に手を置く。

「それでは、拇の動きからやっていきましょうね。このように親指で弾いてください。」

花村が手本を示すと、雅美君はその通りに絃をはじいた。

「はい、では、その次の絃をはじいてみましょう。行きますよ。」

「はい。」

花村の合図で、雅美君はその通り、次の絃をはじいた。

「それでは、もう一回同じ絃をはじいて。」

「はい。」

と、雅美君はその通りにした。

「それでは、行きましょう。その次の絃、すなわち九の絃をはじいてみて下さい。」

「はい。」

またその通りにする雅美君。

「よろしい、今、一小節目が終わりました。それでは、もう一回今まで教えた四つの音を、親指を動かして出してみてください。」

と、花村がそういうと、雅美君はその通りに親指を動かした。一度でこれができるなんて、小さな子供さんにしては、かなり物覚えのいい子だと花村は思った。

「ちょっと先生、すみませんが!」

と、いきなり母親のほうがそう言い出す。

「何ですか?」

花村はそう聞いた。

「何ですかではありませんよ。そうでなくて、古典箏曲は教えてくださらないのですか。そんないい加減な教え方じゃなくて、ちゃんと、曲を教えてくださいよ。」

そんなことを言いだす母親に、花村はちょっと、おかしな親だなと思った。

「だから教えているじゃありませんか。これは、姫松という箏の初心者が必ず習う曲なんですよ。」

と、花村が正直に答えると、富貴子さんは変なことを言った。

「先生、そうじゃなくて、古典の簡単な曲を教えて頂戴よ。私は、それを、期待してきたのに。それでは私、恥ずかしい思いをするじゃありませんか。せっかくお箏を習いに来ましたのに、一曲も教えてくれないなんて、それでは雅美がかわいそうですわよ。」

「そうですか。でも、彼は漢字を読めるかと聞いたら、わからないといいました。それでは、こういう風に教えていくしか方法もないでしょう。」

花村がそういうと、富貴子は、がっかりした顔をした。

「何ですか、家元を名乗るような先生だから、うちの子をお箏がすぐに弾けるようにしてくれるんじゃありませんの?」

「家元を名乗ろうが、名乗るまいが、漢数字が読める年齢にならなければ、曲を教えることはできないんです。でも彼は、とても意欲的ですし、楽しそうにやっていらっしゃるから、私は、代理として今のようなやり方で、教えていこうと思っているんです。その何がいけないというのですか?」

と、花村は口調こそ変えなかったが、彼女を窘めるように言った。彼女は、そういう事を言われても何を言っているのか理解できないようだった。

「先生、そうじゃなくて、古典を一曲弾けるように仕向けてください。家元の先生で何ですから、何だってできるでしょう。だから先生の指導法で、この子に古典を一曲弾けるように仕向けてくださいよ。お願いしますよ、先生。」

という彼女。一体なんでそういうことを言うんだろう。なんだか、彼女、雅美君の教養を深めるつもりで、ここに来たわけではなさそうだ。

「それでは、先生、この子に古典を一曲聞かせてやれますか。古典箏曲はこれ柄だけすごいんだっていう事を、示してやってください。」

と、富貴子はそういうので、花村はちょっとため息をつき、

「じゃあ、一曲やってみます。古典と言っても明治時代に作られた、明治新曲の一つですが。」

と、言ってお箏を調弦しなおした。平調子から、四、六、九、斗を半音上げて、乃木調子に合わせた。

「じゃあ、弾きますよ。水は器という曲です。」

花村は、そういって、水は器という曲を弾き始めた。短い前奏を弾いて、次のように歌い始める。

「水は器に従いて、そのさまざまになりぬなり

人も交わるともにより、良きに悪しきに移るなり。」

と、歌った後は手事である。二段の手事を経て、短いながらもチラシを弾いて、それが終了すると、あと歌になる。

「己に勝る良き友を、選び求めて諸共に、

心の駒に鞭打ちて、学びの道に進めかし。」

この歌を歌い終えて、「水は器」という曲は終わった。

「何よ、こんな曲!こんな教訓的な歌詞、あたしには、出来るもんじゃないわ。じゃあ先生、それをうちの雅美に仕向けてやってくれますか。よろしくお願いします!」

と、富貴子はむきになって言う。

「いいえ、それはできませんね。」

と、花村はしっかりと言った。

「これは、古典を始めてやる人がやる曲です。まだ、平調子も覚えていない彼には仕込むことはできませんよ。そういうんでしたらね、お母様が漢字を教えてあげるとか、あらかじめ彼に予備知識をつけてあげてはいかがですか?」

と、途端に態度を変える富貴子。急に花村に懇願するようにこういうのである。

「先生、失礼しました。じゃあ、次回までに漢字をかならず読み書きできるようにしますから、どうか入門させていただけないでしょうか!お願いします!うちの子に、自信をつけさせてやりたいんです!お願いします!」

何だかよく分からないが、雅美君のほうが、心配そうに母親を見つめているのだった。それでは、なにか困ったことでもあるんだろうか。

「ママ、ごめんなさい。僕がやっぱり、みきちゃんと仲良くしているから、それで僕を連れてきたんでしょう。ごめんなさい、でも、みきちゃんは、大事な友だ、、、。」

雅美君がそういうと、富貴子は、

「その先を言うのはやめて!」

と、でかい声で言った。

「その先は言わないでよ!竹村さんの話なんて聞きたくもない!」

「竹村さん?竹村さんとは誰なんでしょうか?」

花村は、一寸面食らって、そう聞くと、

「あのですね。僕の、保育園で同じクラスの子で、みきちゃんというんです。みきちゃんは、みきちゃんのママと一緒にピアノを習ってるんです。みきちゃんのママが、地元のピアノの先生に、ピアノを習わせるようにしたらしくて。」

と、雅美君がそう説明してくれた。小さな子供の説明なので、一寸わかりにくいところもあったが、要するにこういうことだ。その雅美君の保育園で同級生に竹村みきちゃんという女の子がいて、彼女のお母さんが、みきちゃんにピアノを習わせ始めたのだろう。それを妬ましく思った富貴子さんは、自分の息子にお箏を習わせることで対抗しようと思ったのだ。自分はそれに利用されてしまったという事か。

花村は、それを悟ったが、でも、このお母さんの傷を治してあげなければ、この雅美君の将来が心配だと思った。

「そんな、他人と比較して、無理なおけいこごとをさせる必要はありません。其れよりも、このうちには、お稽古事というのに頼らなくても、幸せになれるんだと、お伝えしてあげるはず事のほうが、大切ですよ。無理して、雅美君をこんなところへ連れてくるよりも、彼に、幸せとは、他人と比較していたら、絶対に得られないものだという事を、伝えてあげてください。」

「いいよ、僕は、お箏習うよ。先生、僕に教えてください。僕が、お箏習えば、ママも苦しまずに済むんだ。だから、僕にさっきの曲を教えてください。お願いします!」

と、雅美君は、ペコンと頭を下げる。そういう彼のほうが、お母さんの富貴子さんよりも、しっかりしているじゃないかと花村は思った。

「いいえ、あなたが無理をして、頼む必要はありません。あなたは、幸せになる権利もあるんだから、本当に欲しいものをお母さんにねだってください。」

と、花村は雅美君の頭を撫でてやった。

「でも、僕が望んでいるのは、ママがうれしい顔をしてくれることです!」

と、そういう彼に、花村は、一度だけでも何か共有させてあげたほうがいいのではないかなと、思って、

「じゃあ、一度だけお二人も私の後に続いて歌ってくださいませ。」

と、もう一度お箏に手をのせて、水は器を弾き始める。雅美君も、それを、なんとかついていくように、歌いだした。

「水は器に従いて、そのさまざまになりぬなり

人も交わる友により、良きに悪しきに移るなり。」

小さな手事、チラシを経て、次の歌詞が歌われる。

「己に勝る良き友を、選び求めて諸共に

心の駒に鞭打ちて、学びの道にすすめかし。」








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水は器 増田朋美 @masubuchi4996

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