第七幕
第七幕
その夜、夕食後の自由時間を迎えた俺は矢三郎と向かい合って寝台の上に腰を下ろしながら、手作りの将棋盤と駒でもって将棋を指していた。そして盤上の形勢はと言えば、残念ながら、歳上である俺の方が圧倒的に劣勢である。矢三郎は未だ十代の少年でありながら、将棋や囲碁と言った勝負事や賭け事の類には滅法強い。
「これで、王手です。僕の勝ちですね」
「え?」
一手打ち終えると同時に唐突に勝利を宣言された俺は、言葉を失った。そして満面の笑みでもって勝ち誇る矢三郎の言う通り、俺の王将にはもう逃げ場が無い。完全に、詰んでしまっている。
「ああ、糞、降参だ。俺の負けだ、こん畜生め」
俺が敗北を認めると、俺と矢三郎を囲んで勝負の行方を見守っていた幾人もの捕虜達が、わあっと小さな歓声を上げた。娯楽に飢えた
「どうします、壮太さん? もう一局、指しますか?」
「いいや、今夜はもうやめとくよ。何度対局しても、お前には勝てる気がしない」
そう言って
「どうしました、壮太さん?」
将棋盤と駒を片付ける矢三郎に尋ねられたので、俺は雑嚢から煙草入れとマッチ箱を取り出しながら答える。
「なあに、ちょっと、病室の飯塚はどうしているかなと心配になってさ。この前は、せっかく持って行ってやった肉も米も食べられずに吐いちまったほどの病状だったし、こうなれば何処かから抗生物質を手に入れて処方してやるしか無いんだろうが……。そんな高価で希少な薬品、こんなシベリアの奥地でどうやって手に入れればいい?」
「さあ……見当もつきませんね」
「だよなあ」
落胆しながらそう言った俺は、日本新聞の紙片で巻いたマホルカ煙草を口に咥え、その先端にマッチで火を着けた。そして深く息を吸い込み、一旦呼吸を止めてからゆっくりと紫煙を吐き出すと、えぐくて臭いマホルカ煙草特有の匂いが周囲にぷんと漂う。ここ数日、俺と矢三郎はこうして飯塚一等兵の身を案じながら意味の無い遣り取りを繰り返し続けているが、そんな事をしていても当然ながら飯塚一等兵の病状は改善せず、まるで埒が明かない。
「本当に、どうしたものかなあ……」
俺と矢三郎が途方に暮れていると、不意に兵舎の出入り口の扉が勢いよく開いたかと思えば、およそ十名ばかりの日本軍の捕虜達がどかどかと靴の踵を鳴らしながら入室して来た。そしてその捕虜達の先頭に立つ一人の男が、高らかに声を上げる。
「懐かしき同志諸君、久し振りだな! 我々は今ここに、ハバロフスクから無事帰還した事を宣言する者である!」
そう宣言した坊主頭の小柄な男に、俺は見覚えがあった。確か今年の夏から捕虜に対する政治教育の一環としての講習会を受講するために、自ら志願してハバロフスクに旅立った捕虜達の内の一人で、
「この私が帰還したからには遠からず、この
堂々と謳い上げる加藤一等兵の姿を前にして、俺ら捕虜達は訳も分からず、ぽかんと口を開けたまま呆けるばかりだ。なにせ日々の苛烈な
「さあ、同志諸君! 明日からの
胸を張ってそう言いながら、ずかずかと大股でもって兵舎の通路を歩く加藤一等兵の姿に、俺は激しい違和感を覚える。俺の記憶が確かならば、以前の彼はいつも上官に対してぺこぺこと頭を下げてばかりいる、腰の低い卑屈な小男だった筈だ。この数ヶ月間のハバロフスク遠征で、そんな加藤一等兵の身に何が起こったのかは分からないが、その外面も内面もまるで別人の様に変わり果ててしまっている。
「壮太さん、あれは一体何ですか?」
「分からない。しかし、なんだか嫌な予感がするな」
小声で耳打ちする矢三郎に、俺もまた小声で答えた。すっかり人が変わってしまった加藤一等兵と、彼が背後に引き連れているハバロフスク帰りの捕虜達に対して、俺はどうしても不信感が拭えない。
●
ハバロフスク帰りの加藤一等兵に不信感を覚えた夜から数日後の日曜日の午後、俺は病室に入院している飯塚一等兵を見舞っていた。
「具合はどうだ、飯塚?」
枕元に立った俺は容態を尋ねるが、寝台に横になったまま微動だにしない飯塚一等兵からの返事は無い。いや、それどころか、半開きのまま虚空を漂う彼の眼は焦点が合っておらず、その顔はまるで死して尚生き続ける幽鬼の様に血の気が失せていて、俺が見舞いに訪れた事にも気付いていないかのように見受けられた。しかも、どうやら赤痢が悪化し過ぎて糞尿が垂れ流しになっているらしい飯塚一等兵が寝かされた筵と毛布からは、言葉には言い表せないような猛烈な悪臭が漂っている。
「それじゃあ飯塚、また来るからな」
俺はそう言い残すと、踵を返して病室を後にした。悪臭が漂う飯塚一等兵の身体のあちこちに、蛆虫を産みつける機会をうかがう蝿がうじゃうじゃとたかっている光景が、とてもじゃないが見ていられなかったのだ。
「はあ……」
戸外に出た俺は深い溜息を吐きながら、真っ白な雪が降り積もった
「壮太! おい、壮太!」
項垂れながら営庭を歩いていると、不意に誰かに名前を呼ばれたので、俺は顔を上げて周囲を見渡す。陽が沈んで薄暗くなりつつある営庭は、眼を凝らしてもあまり見通しが利かない。それでも辺りに注意を払い続けると、一人のソ連赤軍の
「おい壮太、探したぞ」
そう言いながら駆け寄って来た大柄な
「なんだアントン、何か用か?」
俺が尋ねると、アントン二等兵は息を切らしながら答える。
「ああ、一大事だ。マシェフスキー大尉殿が、お前をお呼びだ」
「マシェフスキー大尉が? どうして?」
「理由までは、さすがに俺も知らんよ。しかしなんでも大尉殿は、お前と一緒に話がしたいらしい」
「話がしたい? 俺と一緒に? どうして?」
ヤコフ・キリーロヴィチ・マシェフスキー大尉、つまりこのブラーツク第二十三収容所の所長を務める男が食事を共にしたがっていると言われても、俺にはまるで身に覚えが無く、首を傾げるばかりだ。
「とにかく、大尉殿直々の命令だ。いいから俺と一緒に官舎まで来い」
そう言うアントン二等兵に急かされながら、俺ら二人は
「マシェフスキー大尉殿、後藤壮太一等兵をお連れしました!」
アントン二等兵が所長室の扉をノックしてから恭しく報告すると、室内から「そうか、入りたまえ」と言う低く落ち着いた声が届く。そしてその声に従って、扉を開けたアントン二等兵と俺は静かに入室した。さほど広くはない所長室の壁際に置かれた文机と相対するように置かれた木製の椅子に、細身のヤサ男であるマシェフスキー大尉が腰を下ろしているのが眼に留まる。
「フルマノフ二等兵、ご苦労だったな。歩哨の任に戻りたまえ」
「はい、大尉殿! 失礼いたします!」
最敬礼しながらそう言うと、アントン二等兵は踵を返して退室した。ペチカの火が煌々と焚かれているため、少しばかり汗ばむほど暖かな所長室には、俺とマシェフスキー大尉の二人だけが残される。
「よく来てくれたな、後藤壮太一等兵。まあ、立ち話もなんだから、遠慮せずに座りたまえ」
「それでは失礼いたします、大尉殿」
日本軍とソ連赤軍の違いはあれど、こちらとあちらの間には兵卒に過ぎない一等兵と将校の中でも最高位の大尉と言う絶対的な階級の差があるので、俺は緊張しながら所長室の中央に置かれた革張りのソファに腰を下ろした。するとマシェフスキー大尉もまた座卓を挟んだ向かいの席に腰を下ろし、俺の頭の天辺から足の爪先までを、まるで値踏みでもするかのようにじろじろと睨め回す。
「……あの、大尉殿、自分に何かご用でしょうか?」
「ああ、少しばかりキミに、個人的な興味を抱いてね」
マシェフスキー大尉にそう言われた俺は、彼はもしかしたら男色家なのではないかと一瞬だけ身の危険を感じたが、どうやらそう言った性的な眼でもって俺を見ている訳ではないらしい。
「確かキミは、以前この部屋を訪れた際に、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を手にしていた筈だ。そこで聞きたいのだが、キミは、他のドストエフスキーの著書も読んだ事があるのかね?」
「一通り、代表作とされる一連の長編作品は読みましたが……」
「ならば当然、最晩年の傑作とされる『白痴』にも眼を通しているのだろう?」
やはりこちらを値踏みするかのようにほくそ笑みながら、マシェフスキー大尉が俺に尋ねた。
「はい、大尉殿。小説の『白痴』でしたら、出征前に一度だけ、ロシア語の原文で読んだ事があります」
「ほう、やはり読んだ事があるのかね。それでキミは、その『白痴』を読んで、どのような感想を抱いた? 私は率直に、あの小説に対するキミの意見が聞いてみたい」
「率直な意見ですか……」
「そうとも、極めて率直な、忌憚の無い意見だ」
マシェフスキー大尉からそう尋ねられた俺は暫し逡巡し、慎重に言葉を選びながら答える。
「率直に申し上げまして、ドストエフスキーは『白痴』の主人公であるムイシュキン公爵を、理想的かつ好意的に描き過ぎていると感じます」
「ほう? 何故そう感じるのかね?」
「実際に白痴である人間は、残念ながら、小説の中のムイシュキン公爵の様に魅力的な人物として社会に受け入れられる事は滅多に有り得ません。事実、私の近しい親戚にも先天的に白痴である青年が居ますが、彼を扶養している年老いた両親の身体的、精神的な苦痛を私は肌で感じて来ました。そのような現実の白痴が周囲に与える負の側面を目の当たりにして来た自分には、ドストエフスキーの『白痴』は少しばかり非現実的過ぎるように見受けられます」
「なるほど、なるほど。хорошо《ハラショー》、実にхорошо《ハラショー》だ。素晴らしい。私はそう言った理知的な意見が聞きたかったのだよ」
嬉しそうにほくそ笑むマシェフスキー大尉はそう言いながら、控えめな拍手でもって俺を称えた。
「さすがだ、後藤壮太一等兵。キミは
拍手と共にそう言ったマシェフスキー大尉は、まるで新しい玩具を与えられた幼児の様に、実に上機嫌である。
「まあ、煙草でも吸いたまえ、後藤壮太一等兵。捕虜の身分ではそうそう吸えない、高級品だ」
そう言ったマシェフスキー大尉は軍服の胸ポケットから紙巻煙草が詰まった紙箱を取り出し、その中の一本を俺に手渡すと、自分もまたそれらの煙草の内の一本を口に咥えて火を着けた。そして火を着けるのに使ったマッチをこちらに近付け、俺が咥えた煙草の先端にも火を着ける。与えられた煙草は俺ら捕虜達が普段吸っている不味いマホルカ煙草とは異なり、俗に『パピローズ』と呼ばれる、ソ連赤軍の将校か共産党に所属する官僚にしか配給されない高級煙草だ。
「こうして煙草を吸っていると、スターリングラードでの苦しかった日々を思い出すよ」
マシェフスキー大尉はパピローズの紫煙をぷかぷかと吐き出しながら、訥々と昔話を語り始める。
「私は1942年十一月、赤軍のロマネンコ中将率いる第五戦車軍の前線指揮官の一人として、スターリングラード攻防戦に参加した。ちなみに当時の私の階級は少佐で、大隊指揮官としての権限を与えられていたよ」
パピローズを吸いながら、大尉の自分語りは止まらない。
「そして私が指揮する第五十一軍の第十三機械化師団は、快進撃を続けた。迎え撃つドイツ軍の機甲師団を次々と撃破し、哀れな敵兵の屍を踏み越えながら進軍する私とその部下達は、文字通りの意味でもって笑いが止まらなかったものだ。だがしかし、ドイツ軍も決して無抵抗だった訳ではない。夜間の奇襲攻撃を受けた我らが師団は手痛い損害を被り、瓦礫の中に仕掛けられた地雷によって無限軌道を破壊された戦車は市街地の中央でもって立ち往生して、進退窮まった私は部下達と共にドイツ軍の捕虜となったのだよ。そしてその時、全てを諦めて自暴自棄になった私は、今の自分の様に煙草を吸いながら自らの運命を呪ったものだ」
座卓の中央に置かれた灰皿でもって、マシェフスキー大尉はパピローズの吸い殻を揉み消した。
「そこからは、まさに地獄だったよ。自分達が行き抜くための物資にも困窮したドイツ軍は我ら赤軍の捕虜達を狭く不潔で屋根も窓も無い収容所に押し込め、横になって寝る事も許さず、満足な食事も与えなかった。おかげで多くの部下達を飢えと寒さで失った末に、およそ三ヵ月後にようやく解放された私は、前線指揮官としてその責任を赤軍の上層部から追及されたのだよ」
そう言ったマシェフスキー大尉の顔から、笑みが消える。
「結局私は、前線基地での臨時査問会議の結果として、少佐から大尉へと降格させられた。そしてベルリンを陥落させて戦争が終わると、こんな辺鄙な森の中の
「見たまえ、後藤壮太一等兵。ここからなら、車庫に停められた戦車が間近に見える。あの戦車は、私がここに赴任して来る際に帳簿を誤魔化して持って来させた、私がかつて戦車大隊を指揮していたと言う唯一の証拠だ。だからこうして眼を瞑ると、スターリングラードの瓦礫の中を進軍していた華々しい過去が、まるで昨日の事のように思い出されるのだよ」
マシェフスキー大尉は眼を閉じたまま、暫し感慨に耽っていた。そして一通り過去の栄光に思いを馳せ終えると眼を開け、ゆっくりと窓を閉める。
「つまらない話を聞かせてしまったな、一等兵。お詫びと言ってはなんだが、この後、夕食をご馳走しよう。まあ勿論、ご馳走するとは言っても、普段キミ達が食べている夕食と大差は無いがね。それでは夕食の準備を急ぐように部下達に指示して来るから、キミはここで待っていたまえ」
そう言い残すと、マシェフスキー大尉は退室した。さほど広くはない所長室に、俺一人だけがぽつんと取り残される。そこで俺もまたソファから腰を上げると、所長室内をうろうろと歩き回って物色し始めた。しかしマシェフスキー大尉の居室も兼ねる所長室の中に置かれた家具や調度品などは極めて質素かつ簡素で、これと言って特筆すべき金目の物などは見当たらない。
「?」
そんな所長室の中で、数少なく俺が興味を惹かれたのは、壁際の文机の上に無造作に置かれていた一挺の拳銃だった。
「これは?」
その拳銃は比較的小型で細身の自動拳銃であり、持ち上げてみればずしりと重く、試しに弾倉を引き抜いてみれば真鍮製の薬莢に包まれた実弾が装填された正真正銘の実銃である。
「その拳銃が、気になるかね?」
不意に背後から声を掛けられた俺は驚き、手にしていた自動拳銃をうっかり取り落としてしまった。文机の天板の上に自動拳銃が落下し、ごとんと小さな衝突音を立てる。そして慌てて背後を振り返ると、いつの間にか用件を終えて彼の居室兼所長室に帰還していたマシェフスキー大尉が、出入口である扉の傍に立っていた。
「すいません大尉殿、これは、その……」
俺は弁解しようと益々慌てるが、当のマシェフスキー大尉はと言えば、彼の私物である自動拳銃を勝手に弄くっていた俺を責め立てるような素振りは無い。
「ドイツ製の、ルガーP08だ。私の知る限り、この世で最も美しい拳銃だよ。まさに、芸術品と呼ぶべき名銃だと私は考えるね」
マシェフスキー大尉はそう言うと、座卓の上に置かれたサモワールから二人分の紅茶を淹れ、俺にも飲むように促す。
「そのルガーは、スターリングラードを奪還した際に、降伏したドイツ軍の将校から収奪したものだ。私は根っからの愛国者だが、悔しいかな拳銃小銃問わず銃のデザインと性能ばかりは、ドイツ製が最高だと確信しているよ」
「はあ……」
取り立てて銃に興味が無い俺は曖昧な返事でもって言葉を濁すと、手にしたルガー拳銃を文机の上に戻し、革張りのソファの自分の席に再び腰を下ろした。そして大尉が淹れてくれた紅茶を、静かに口にする。
「そこの、キャビネットの上を見たまえ」
そう言われた俺がマシェフスキー大尉の指差す先に置かれた飾り棚の上に視線を移すと、そこには一振りの日本刀が飾られていた。柄頭に菊の御紋が彫られた、こちらもまた正真正銘の大日本帝国陸軍の軍刀である。
「それも、この収容所まで連行されて来た日本軍の将校から収奪した軍刀だ。私はこうして敗残兵から奪い取った戦利品を眺めている瞬間にこそ、無上の優越感と幸福感を抱くのだよ」
紅茶を飲みながらそう言ったマシェフスキー大尉は、自らの悪趣味な嗜好を嘲笑するかのように、もしくは嗜虐心をくすぐられる快感に打ち震えるかのように、ほくそ笑んで止まない。
するとその時、不意にコンコンと所長室の扉がノックされた。
「大尉殿、お食事の準備が整いました」
「よろしい、入りたまえ」
マシェフスキー大尉の返答を受けて所長室の扉を開けたのは、マンドリン短機関銃を手にしたソ連赤軍の
「さあ、遠慮無く食べたまえ、後藤壮太一等兵」
「それではいただきます、大尉殿」
俺はそう言うと、眼の前の座卓の上に配膳された夕食に手をつける。大尉が事前に釈明した通り、確かに夕食の献立は、俺ら日本軍やドイツ軍の捕虜達が普段食べているそれと大差無い。ただしカーシャは薄く水っぽいそれではなくスプーンがぴんと立つほど麦の粒の密度が濃いし、シチーには具材である肉と野菜がごろごろと大量に煮込まれ、しかもそのどちらもが食べ切れないほどたっぷりと白磁の皿によそわれていた。だから献立が一緒とは言え、俺らの様な捕虜の中でも最下層の兵卒が舐めるように啜っている家畜の餌以下の劣悪な夕食とは、まさに雲泥の差である。
「どうかね、今日の夕食の味は? まあ、所詮はこんな辺鄙な森の中の
マシェフスキー大尉の説明を聞いた俺は、何故こんな高級そうな食器が用意されたのかを理解した。そしてついでとばかりに、俺は大尉に要求する。
「いいえ、大尉殿。これだけの量が食べられれば、充分に満足であります。ですから自分の様な末端の捕虜に与えられる食事も、味はともかくとして、出来ればこのくらいの量に改善していただけないでしょうか?」
「なるほど、なるほど。それはもっともな要求だ、後藤壮太一等兵。しかし残念ながら、ここシベリアの
「はあ……」
なんだか体良くはぐらかされてしまった感は否めないが、相手が捕虜達の生殺与奪の権利を一手に握る
「やはり粗末な食事だったが、それでも腹は膨れたろう。キミが満足してくれたのなら、喜ばしい事だ」
俺の向かいの席で夕食を食べ終えたマシェフスキー大尉はそう言いながら、軍服の胸ポケットから取り出したハンカチーフで口元を拭うと、サモワールでもって二杯目の紅茶を淹れ始める。そこで俺は彼の眼を盗み、また同時に炊事係の捕虜にも気付かれないように細心の注意を払いながら、銀食器のナイフを自分が着ている九八式軍衣の袖口にそっと隠した。幸い、ナイフを隠した瞬間を誰かに見咎められた気配は無い。そしてナイフを隠し持ったまま食後の紅茶を飲んでいると、マシェフスキー大尉は左手首に巻かれた腕時計に視線を移して、現在の時刻を確認した。
「ああ、もうこんな時間か。明日も早い。キミもそろそろ兵舎に帰って休みたまえ、後藤壮太一等兵」
「はい、大尉殿。それではこれで、失礼いたします」
俺はソファから立ち上がり、敬礼する。
「また機会があったら、今度は別の文豪の作品に対するキミの感想も、是非とも聞いてみたいものだ。その時を楽しみにしているし、キミも楽しみにしていたまえ」
名残惜しそうにそう言ったマシェフスキー大尉に見送られながら、俺は所長室を後にした。そして一人きりで長い廊下を渡り、官舎を出ると、その出入り口の扉のすぐ横に立って歩哨の任に就いていたソ連赤軍のアントン二等兵に歩み寄る。
「よう壮太、大尉殿は何の用事だったって?」
「なんだか良く分からんが、ドストエフスキーがどうこうとか言う話をされたよ」
「どすとえふすきー? 何だ、それは?」
「別に、知らないなら敢えて知る必要も無い事さ。それよりもアントン、折り入って相談があるんだ」
俺はそう言うと、袖口の下に隠し持っていた銀食器のナイフを取り出した。突然ナイフを突き付けられる格好になったアントン二等兵はぎょっと驚き、持っていたマンドリン短機関銃の銃口をこちらに向ける。
「違う違う、落ち着けアントン、よく見ろ。これは食器のナイフだ。こんなもんで人を殺せやしないさ」
「なんだ、驚かすなよ。……それで、相談ってのは何だ?」
「ああ、このナイフと交換で、赤痢に効く抗生物質を手に入れて来てほしいんだ」
「こうせいぶっしつ?」
どうやらアントン二等兵は、抗生物質と言う単語の意味が理解出来なかったらしい。
「抗生物質、つまり薬だよ、薬。実は今、病室に入院している俺の友人の飯塚が赤痢で苦しんでいて、このままでは近い内に死んでしまいそうなんだ。だからこの銀のナイフと引き換えに、何とかして、どこかで抗生物質を手に入れて来てほしい。頼む」
俺は両手の掌を合わせて祈るような格好でもって、アントン二等兵に懇願した。だがしかし、懇願されたアントン二等兵の返答は芳しくない。
「壮太、悪いけどそれは無理ってもんだ。今のこのご時勢じゃあ、薬なんて貴重品は、幾ら金を積んだって手に入りやしない。そりゃあ、党の幹部くらいのお偉いさんになれば話は別かもしれんが、俺みたいな党員でもない一介の二等兵なんかじゃあ、手に入れる手段はこれっぱかしもありやしねえよ」
「そんな……」
銀食器のナイフを堅く握り締めたまま絶望した俺は、その場にがくりと膝から崩れ落ち、眼の前が真っ暗になった。
「だから壮太、諦めてくれ。それに、仮にその抗生物質とか言う薬が手に入ったとしても、大尉殿から盗んだナイフを受け取ったなんて事がバレたら俺の身も危ない」
アントン二等兵はそう言うと、申し訳無さそうに首を横に振る。
「分かったアントン、無理を言って悪かったな」
立ち上がった俺は項垂れたままそう言うと、自分の
「壮太さん、ちょうど良かった」
「どうした矢三郎、こんな時間に」
兵舎から飛び出して来た捕虜達の一人である矢三郎に尋ねると、彼は走りながら答える。
「飯塚さんの容態が急変して、危篤だそうです! 壮太さんも一緒に来てください!」
「何だって?」
驚いた俺は矢三郎達の後を追って、飯塚一等兵が入院している病室へと急いだ。そして病室に駆け込むと、他の捕虜達と一緒に飯塚一等兵が寝かされた寝台を囲む。
「飯塚! 飯塚! しっかりしろ!」
無数の蝿が飛び交っている寝台の枕元に跪いた俺は彼の名を呼ぶが、飯塚一等兵は焦点の合わない虚ろな視線を虚空に漂わせ続けるばかりで、俺の声が聞こえている様子はない。
「飯塚! おい、飯塚!」
それでも呼び掛け続けていると、僅かに意識が回復したらしい飯塚一等兵が何か言いたげに口をぱくぱくさせながら、こちらにちらりと眼を向けた。
「……壮太か……?」
「ああ、そうだ! 俺だ、お前の戦友の後藤壮太だ! しっかりしろ、飯塚!」
俺は彼を必至に励まそうとするが、己の寿命が尽きようとしている事実を自覚したのか、飯塚一等兵はぽろぽろと涙を零し始める。
「死ぬ前に、もう一度内地に帰りたかったなあ……」
「何言ってんだ飯塚! お前がこんなところで死ぬもんか! 生き延びて、俺と一緒に内地に帰るんだろ?」
虫の息の飯塚一等兵の手を取った俺もまたぽろぽろと涙を零し、言葉とは裏腹に、彼との今生の別れを覚悟した。
「なあ壮太、妹に、幸子に俺が書き溜めた手紙を届けてやってくれ……」
「ああ、分かった! だが、手紙を届けるのは俺じゃなくて、お前自身だ! お前自身が内地の我孫子町まで生きて帰って、妹さんに直接手紙を届けるんじゃないのか? なあ、そうだろう?」
しかしそんな俺の言葉は、意識が混濁しつつある飯塚一等兵の耳には届いていない。そして遂に、その時が訪れる。
「幸子……」
最後に故郷で兄の帰りを待つ妹の名を言い残すと、病床の飯塚一等兵は静かに息を引き取った。命の蝋燭の火が掻き消えた彼の眼からは光が失われ、括約筋が弛緩し、直腸と膀胱に僅かに溜まっていた糞尿が筵の上に垂れ流されて強烈な悪臭を放つ。
「飯塚……靖国で会おう……」
「飯塚さん……」
彼の手を堅く握り締めたままの俺や矢三郎、そして病室に駆けつけたおよそ十名ばかりの捕虜達は、飯塚一等兵の名を繰り返し口にしながら無念と遺憾と悔恨の想いに満ちた涙を零し続けた。それらむせび泣く者達の多くは生前の飯塚一等兵と同期であったり同郷であったりと、彼と親交が深かった捕虜達である。
するとその時、出入り口の扉を開け放って、数人の男達がどかどかと靴の踵を鳴らしながら病室に足を踏み入れた。悲嘆に暮れていた俺ら捕虜達は、胸の内から湧き上がる哀悼の意に水を差された格好となる。そこで病室に足を踏み入れたのは何者かと思って振り返ると、それは綾瀬大隊長と須田中隊長を筆頭とした、この
「また死んだのか!」
開口一番、将校達の先頭に立つ綾瀬大隊長が言い放った言葉に、俺は不快感と不信感を抱く。
「こうも次々と捕虜が死んでしまっては、この
まるで一席打つかのようにそう言い放った綾瀬大隊長は踵を返すと、他の将校達や従卒達をぞろぞろと背後に引き連れたまま、さっさと病室を出て行ってしまった。後に残された俺らは、悲しむ間も無くぽかんと呆けるばかりである。
「そりゃあ、お前は病気にならんよ。毎日毎日威張り散らしながら美味い飯を温かい部屋で貪り食って、
飯塚一等兵の最期を看取ろうと病室に集まった捕虜達の内の誰かが、吐き捨てるように呟いた。勿論、その言葉は綾瀬大隊長には届かない。
「とにかく、遺体を運ぼう」
やがて、やはり捕虜達の内の誰かがそう呟いたのをきっかけに、俺らは飯塚一等兵の遺体から衣服を脱がし始めた。とは言え彼が身につけている衣服は肌着代わりの襦袢袴下と褌と靴下だけなので、あっと言う間に飯塚一等兵の遺体は一糸纏わぬ全裸となる。しかも脱がせた衣服はどれも赤痢が原因の激しい下痢による糞尿まみれで、脱がせたところで再利用出来るかどうかも怪しかった。
「矢三郎、足を持て」
「はい」
俺は飯塚一等兵の上半身を背後から、矢三郎は下半身を足元から抱え上げて、全裸の遺体を病室の外へと運び出す。戸外に出てみれば、とっぷりと陽が暮れた夜空はどんよりと灰色に曇り、刺すように冷たい北風に小雪が舞っていた。それはまるで、飯塚一等兵の死を悼む、天が流した涙の結晶のように感じられなくもない。そして
「飯塚、すまん。近い内に埋葬して、立派な墓を立ててやるからな。それまでは、ここで我慢していてくれ」
そう言った俺は、ぼろぼろになった筵の上に横たえられた飯塚一等兵の全裸の遺体に向かって、厳かに手を合わせた。すると他の捕虜達も俺に倣って黙祷し、飯塚一等兵の冥福を祈る。
「またな、飯塚」
そう言い残した俺ら捕虜達は、寒風吹き荒ぶ薄暗い倉庫を後にした。野晒しにされた全裸の飯塚一等兵の遺体が、悲しげに風に揺れている。
●
飯塚一等兵の死から一週間後の日曜日の朝、作業が免除された俺と矢三郎を含めた数名の捕虜達はツルハシやシャベルを手にすると、彼の遺体を埋葬するために再び倉庫を訪れた。冬のシベリアの寒空の下で一週間にも渡って野晒しにされたままだった遺体はまるで氷の塊の様にかちかちに凍り付いており、夏場とは違って腐敗も腐食もせずに、病室で息を引き取った状態を維持したまま原型を留めている。
「よし、棺に入れるぞ」
俺ら捕虜達は互いに協力し合いながら、伐採したカラマツの端材を組んで作った粗末な棺に、飯塚一等兵の遺体を納棺した。防寒用の手袋越しに伝わって来る凍った遺体の感触はゾッとするほど気色が悪く、死者を冒涜するようで後ろめたいが、思わず背筋に鳥肌が立つ。しかし腐敗せずに原形を留めているとは言っても、ただでさえ骨と皮だけのミイラの様にがりがりに痩せ細ってしまっていた遺体からは余計な水分が抜け、それを納めた棺は、まるで枯れ枝を詰めた木箱の様に軽かった。
「開門!」
ソ連赤軍の
「ダワイ! ダワイ!」
日曜日だと言うのに監視業務に就かされたおかげで不機嫌な
「よし、一旦下ろすぞ」
飯塚一等兵の遺体が納められた棺を地面に下ろした俺ら捕虜達は、その遺体を埋めるための墓穴を掘り始める。しかしいざ掘ろうとすると、気温が零下三十度を下回る冬のシベリアの地面は岩の様に硬く凍り付いていて、
「早くしろ、
マンドリン短機関銃を手にした
やがて飯塚一等兵の遺体が土の下に完全に消え去ると、誰かが拾って来た墓石代わりの石を土饅頭の上に置いた即席の墓の前に、俺ら捕虜達は整列する。これが飯塚一等兵との最後の別れになるのだと思うと、俺の心に去来する虚無感は計り知れない。そして最後に、日本新聞の切れ端を花の形に切り抜いただけの間に合わせの造花をそっと手向けると、俺らは揃って歌い始める。
ここは御国を何百里♪ 離れて遠きシベリアの♪ 赤い夕陽に照らされて♪ 友は野末の石の下♪
思えば悲し昨日まで♪ 真っ先駆けて突進し♪ 敵を散々懲らしたる♪ 勇士はここに眠れるか♪
嗚呼戦いの最中に♪ 隣に居りし我が友の♪ 俄かにはたと倒れしを♪ 我は思わず駆け寄って♪
軍律厳しき中なれど♪ これが見捨てて置かれうか♪ しっかりせよと抱き起こし♪ 假繃帶も弾丸の中♪
折から起こる吶喊に♪ 友はようよう顔上げて♪ 御国のためだ構わずに♪ 後れてくれなと眼に涙♪
後に心は残れども♪ 残しちゃならぬこの身体♪ それじゃ行くよと別れたが♪ 永の別れとなったのか♪
戦い済んで陽が暮れて♪ 探しに戻る心では♪ どうか生きて居てくれよ♪ ものなど言えと願うたに♪
空しく冷えて魂は♪ 故郷へ帰ったポケットに♪ 時計ばかりがこちこちと♪ 動いているも情けなや♪
思えば去年船出して♪ 御国が見えずなった時♪ 玄界灘で手を握り♪ 名を名乗ったが始めにて♪
それより後は一本の♪ 煙草も二人で分けて飲み♪ 着いた手紙も見せ合うて♪ 身の上話繰り返し♪
肩を抱いては口癖に♪ どうせ命は無いものよ♪ 死んだら骨を賴むぞと♪ 言い交わしたる二人仲♪
思いもよらず我一人♪ 不思議に命永らえて♪ 赤い夕陽のシベリアに♪ 友の塚穴掘ろうとは♪
隈無く晴れた月今宵♪ 心しみじみ筆とって♪ 友の最期を細々と♪ 親御へ送るこの手紙♪
筆の運びは拙いが♪ 行燈の陰で親達の♪ 読まるる心思い遣り♪ 思わず落とす一雫♪
それは軍歌『戦友』の「満州」の部分を「シベリア」に読み替えた、哀悼の念と弔意を表するための鎮魂歌であった。同胞である捕虜を埋葬する際にはこの歌を歌って見送るのが、この
「終わったらとっとと
やはりソ連赤軍の
「凄いな」
振り返った墓所には数え切れないほどの土饅頭と墓石が並べられており、大東亜戦争が終結してからのこの二年間で、これほどの数の捕虜達が無念の死を迎えたのだと言う冷酷かつ凄惨なる事実を無言で物語っている。そしてこの俺自身は、生きて内地に帰れるのだろうか。そんな素朴な疑問にも、頬を撫でるシベリアの冷たく乾燥した風は答えてはくれない。
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