第八幕


 第八幕



 シベリアに抑留されてから三年目の今年もまた、年の瀬である十二月三十一日、つまり大晦日が刻々と近付きつつあった。しかし出征以来の戦友であった飯塚一等兵が亡くなってからこっち、俺は日々の労働ラボータにも身が入らず、まるで魂が抜けてしまったかのような意気消沈した毎日が続いている。

「はあ……」

 ロシア語で『ターチカ』と呼ばれる手押しの一輪車でもって土砂を運搬しながら、俺は深い溜息を吐いた。今日の俺ら捕虜達に課せられた労働ラボータは、バム鉄道の支線を敷設するための地道な整地作業である。

「そこのお前! 休むな! ダワイ! ダワイ!」

 作業の手が止まっていた俺に、マンドリン短機関銃を手にしたソ連赤軍の警戒兵カンボーイが発破を掛けた。仕方が無く、俺は再び土砂を積んだターチカを押しながら、他の捕虜達と共にのろのろと歩き始める。

 飯塚一等兵が亡くなってからのこの二週間ばかりは、木々の伐採作業を終えた山や丘を人力でもって切り崩し、他の収容所ラーゲリから派遣されて来た測量士の支持に従いつつ土砂を運搬するだけの単調な日々が続いていた。つまり砂糖を運ぶ蟻の群れの様に高地と低地を何度も往復しながら、高所でターチカに積んだ土砂を低地に捨てて地均しに備えるのを、只ひたすらに延々と繰り返すのである。ターチカを使った土砂の運搬は伐採作業ほど危険ではないが、足腰への負担と疲労は大差無く、一日分のノルマを達成した頃には空腹と眠気でもって立っていられなくなる程の激務であった。

「壮太さん、大丈夫ですか?」

 低地に土砂を捨て終えた矢三郎が、空のターチカを押しながらすれ違いざまに尋ねたので、俺は答える。

「ああ、大丈夫だ。でも今日はちょっと、疲れ気味かな。なんだか少し眩暈がするよ」

 しかし空元気を振り絞りながらそう答えた次の瞬間、俺が押していたターチカの車輪が道端に転がっていた大きな石に乗り上げて横滑りし、そのまま横転してしまった。荷台に積まれていた土砂が、周囲一帯に勢いよくぶちまけられる。しかもそのぶちまけられた大量の土砂が、普段は労働ラボータを免除されてぬくぬくと将校室でサボっていると言うのに、この日はたまたま作業現場に視察に訪れていた綾瀬大隊長が頭から引っ被る格好になってしまった。

「あっ!」

 俺は思わず声を上げたが、声を上げようが後悔しようがもう遅い。土砂を被った綾瀬大隊長は怒りと屈辱でちょび髭をぶるぶると震わせながら、空になったターチカの傍に立つ俺を、燃え上がるような憤怒の眼でもって睨み付けている。

「貴様、何をやっとるかあ!」

 最初にそう怒鳴ったのは、怒りに燃える綾瀬大隊長本人ではなく、その背後に控えていた禿げ頭の須田中隊長だった。よく見ればその須田中隊長が着ている外套シューバも、ほんの僅かにだが、俺がぶちまけてしまった土砂によって汚れてしまっている。

「申し訳ありません、中隊長殿! 大隊長殿!」

 背筋を伸ばして姿勢を正すと、俺は最敬礼と共に謝罪の言葉を口にした。しかしその程度の事では、怒り狂った二人の将校達は許してくれない。

「上官である大隊長殿に対してこのような慇懃無礼な行為を働くとは、貴様、戦時下ならば切腹ものの不敬であるぞ!」

「さては貴様、事故に見せ掛けて、故意に土砂をひっ被せおったな! この軍規を守らぬ不埒者め! 一歩前に出ろ! 歯を食いしばれ!」

 言われた通り、俺は一歩前に出て歯を食いしばる。すると次の瞬間、綾瀬大隊長による渾身の力を込めた強烈なビンタが俺の左頬に炸裂した。頬の肉が破裂したかと思う程の衝撃音が、シベリアの空にこだまする。

「あっ……」

 ビンタを食らった俺は一瞬だけ意識を失い、膝の力が抜け、その場にどさりと崩れ落ちた。

「壮太さん!」

 事の推移を見守っていた矢三郎が駆け寄り、雪道に崩れ落ちた俺を助け起こす。

「思い知ったか、この若造め! これに懲りたら軍規を守り、二度と上官を愚弄するではないぞ!」

 大声でもってそう怒鳴りつけた綾瀬大隊長は俺に向かってぺっと唾を吐きかけると、外套シューバの裾を翻しつつ、須田中隊長や従卒達を背後に従えながらその場を立ち去って行ってしまった。

「壮太さん、大丈夫ですか? 口から血が出てますよ?」

「ああ、大丈夫だ。頬の内側の肉が、歯で切れただけだ。たいした傷じゃない」

 そう言った俺が雪の上に吐き出した唾には鮮血が混じり、真っ白な雪を赤く染める。

「大丈夫か、同志後藤! 立てるか?」

 不意にこちらに近付いて来るなり手を差し伸べながらそう言ったのは、坊主頭の小柄な男、つまりハバロフスク帰りの加藤一等兵であった。そして彼の顔には、まるで取って付けたかのような不自然な作り笑いが張り付いている。だがしかし、俺は彼の手を借りる事無く、震える膝にぐっと力を込めながら自力でもって立ち上がってみせた。彼の手を借りなかった理由は、俺が未だ加藤一等兵に対して不信感を抱いているからに他ならない。

「大丈夫だ。一人で立てる」

 立ち上がった俺はそう言うと、口元の鮮血を拭った。綾瀬大隊長のビンタによって腫れ上がった左頬が、心臓の鼓動に呼応するかのように、じんじんと痛む。

「そうか! しかし、キミも悔しいだろう! あんな働きもせずに威張り散らしているだけの無能なブルジョア気取りの将校、しかも敗戦国の中尉風情にこんな理不尽な暴力を振るわれては、我らプロレタリアートたる労働者は堪ったものではないからな!」

 妙に芝居がかった口調と仕草でもってそう言った加藤一等兵の態度に、やはり俺は不信感を抱かざるを得ない。

「だが安心したまえ、同志後藤! 彼らの天下は、そうそう長くは続かない! 旧態依然とした帝国主義的な敗戦国の体制は、必ずや先進的なソヴィエトの民主主義によって打破されねばならぬのだ! いや、必ずや打破してみせると、ここに宣言しよう!」

 やはり芝居がかった口調でもってそう宣言した加藤一等兵は、最後ににやりと意味深にほくそ笑むと、俺がターチカを横転させた現場から立ち去った。

「壮太さん、今のは何だったんでしょう?」

「さあ……全く分からん」

 立ち去る加藤一等兵の背中を疑念の眼差しでもって見送った俺と矢三郎の二人は、彼の言動の真意が読めず、互いの顔を見合わせながら訝しむ。果たして、加藤一等兵は何を目論んでいるのだろうか。しかし残念ながら今の俺らに出来る事はと言えば、ただただ呆然とする事のみでしかない。


   ●


 年の瀬の大晦日を野外での過酷な労働ラボータに費やし、精根尽き果てた状態で収容所ラーゲリに帰還してから兵舎で眠りに就いた俺ら捕虜達は、やがて眼を覚ますと同時に今年もまた元日を迎えた事を実感した。何故なら元日だけはたとえ平日であっても労働ラボータが免除されるため、この日は週の中日の木曜日であるにもかかわらず、午前八時になっても作業整列の鐘が打ち鳴らされなかったからである。

「今日から昭和二十三年か……」

 粗末な朝食を食べ終えてから兵舎に戻った俺は、残り少ないマホルカ煙草をぷかぷかとふかしながら独り言ちた。ペチカの火が焚かれた兵舎の中は温かく、捕虜達は寝台で二度寝したり娯楽に興じたりと、束の間の休日を思い思いに満喫している。

「壮太さん、何か甘い匂いがしませんか?」

 やがて正午を迎える頃、不意に矢三郎が言った。

「甘い臭い? そう言われてみれば……」

 改めて鼻腔粘膜に意識を集中させると、微かにだが、確かに何やら甘ったるい匂いがどこからか漂って来る。

「何だろう?」

 俺と矢三郎が訝しんでいると、不意に出入り口の扉を開けて、当番の将校が兵舎に駆け込んで来た。そして大声でもって、寛いでいた俺ら捕虜達に号令を掛ける。

「飯上げの時間だ! 総員、食堂に集合!」

「飯上げ?」

 当番の将校の言葉に、俺らはますます訝しんだ。たとえ休日であっても、一日二食が基本であるこの収容所ラーゲリでは、普段から昼食は配給されない。にもかかわらずこんな時間に飯上げとは、これは一体、どう言った風の吹き回しだろうか。

「とにかく、食堂に行ってみましょう」

「ああ、そうだな」

 何はともあれ俺も矢三郎も、他の捕虜達に混じって食堂へと足を運ぶ。

善哉ぜんざいだ!」

 食堂へと赴いた俺は、そこに並べられていた寸胴鍋の中身を一目見るなり驚きの声を上げた。何故ならその寸胴鍋の中では、小豆を砂糖でもって甘く煮た日本伝統の甘味、つまり夢にまで見た善哉ぜんざいが踊っていたからである。

「どうしたんだ、この善哉ぜんざいは?」

「どうだ、凄いだろう。半年前から露助ろすけどもと交渉して、この日のために小豆と砂糖を余計に配給してもらったんだ。まあ、さすがに餅ばかりは手に入らなかったが、文句は言わせないぞ」

 寸胴鍋の傍らに立つ炊事係の捕虜がそう言うと、玉杓子を持ったまま得意げにほくそ笑んだ。

善哉ぜんざいだ! 善哉ぜんざいだ!」

「頼む、俺のは大盛りにしてくれ!」

 興奮して寸胴鍋の前に殺到する捕虜達の持つ飯盒に、炊事係は次々と善哉ぜんざいをよそっていく。

「お代わりは無いぞ! 皆、よく味わって食えよ!」

 わざわざ炊事係に言われなくても、食堂の席に着いた俺ら捕虜達は思いもかけないご馳走である善哉ぜんざいを、一口一口よく味わいながら匙ですくって口に運んだ。砂糖でもって甘く煮込まれた小豆の粒を噛み締める度に、故郷である日本の懐かしき風景が次々と脳裏に浮かんでは消え、郷愁の念に駆られた捕虜達は涙を流して歓喜する。そしてある者は貪り食うようにがっつき、ある者はまるで宝物の様に大事に大事にゆっくりと味わいながら、やがて全ての捕虜達が善哉ぜんざいを食い終えた。

「ああ、美味かった」

 その場に居合わせた全員が、その顔に愉悦の笑みを浮かべる。

「おい、通訳ペレボーチク! こっちに来い!」

 すると不意に、捕虜達が善哉ぜんざいを食い終えるのを待っていたソ連赤軍の少尉が、通訳ペレボーチクである俺を呼んだ。こんな時に一体何事だろうかと訝しみながら、俺はその少尉の下へと急いで駆け寄る。

「はい、何でしょうか少尉殿!」

「これから、ここで映画を上映する! 日本軍の捕虜達に、最後までこの場に残って鑑賞するように伝えろ!」

 なんとも唐突で前例の無い命令であったが、一介の捕虜に過ぎない俺がその命令に従わない訳には行かない。

「総員、よく聞け! これから映画を上映するので、最後まで鑑賞しろと少尉殿は仰っている!」

 俺は少尉のロシア語による命令を日本語に要約し、食堂に集まった捕虜達に伝えた。

「映画?」

「映画だって?」

 命令を伝えられた捕虜達がどよめき、神妙な面持ちでもって互いに顔を見合わせる。それもその筈、俺らがこの収容所ラーゲリに収監されてからもう二年余りが経過したが、ソ連赤軍の将校が映画を観せるなどと言い出したのはこれが初めての経験だったのだから、致し方無い。

「窓を閉め、銀幕を用意せよ!」

 少尉の命令に従い、ソ連赤軍の警戒兵カンボーイ達が演壇に銀幕を張って窓を閉め、カンテラの灯を落とした。そして真っ暗になった食堂の中央に映写機が用意されると、映画が上映され始める。

「おい通訳ペレボーチク、今から俺が言う事を日本語に訳せ! いいか、この映画は我が祖国初の国産総天然色映画で、題名は『石のКаменный цветок』である! お前ら捕虜達は我らが最高指導者たる同志スターリン閣下に感謝しながら、最後まで心して鑑賞するように!」

「少尉殿は、この『石の花』と言う題名の映画を、スターリンに感謝しながら観るようにと仰っている!」

 俺がそう言った直後、その『石の花』と言う題名の映画が始まった。食堂に集まった俺ら日本軍の捕虜達は強制的に映画を鑑賞させられるものの、ロシア語が堪能な通訳ペレボーチクの俺はともかくとしても、そうではない他の殆どの捕虜達は映画の内容をまるで理解する事が出来ず、あんぐりと口を開けたままぽかんと呆けている。しかも肝心の映画の内容は名工と謳われた石工の老人の元に弟子入りした青年と少女との恋物語らしいが、こんなシベリアの僻地の収容所ラーゲリに収監された捕虜達にとって、縁も所縁も無い男女ののろけ話を観せられるほどの無意味な行為は無い。だから当然の結果として、善哉ぜんざいで腹が膨れた大半の捕虜達は映画を観るフリをしながら、こっくりこっくりと頭を前後させながら舟を漕ぎ始める。そして御多分に漏れず、俺と矢三郎の二人もまた、食堂の一角で自分達の席に腰を下ろしたまま居眠りをしてしまっていた。ペチカの中で焚かれる火が放つ放射熱が、ほんのりと暖かくて心地良い。

 やがてどれ程の時間が経過したのかははっきりとしないが、真っ暗だった視界が急に明るくなったので、うたた寝をしていた俺と矢三郎の二人はハッと眼を覚ました。どうやら映画の上映が終わったので、カンテラの灯が再び灯されたらしく、俺ら以外の捕虜達もまた続々と眼を覚ます。

「ああ、もう朝か」

 そう言って寝惚けている捕虜も見受けられれば、周囲の眼をはばかる事もなく、伸びをしながら盛大なあくびを漏らしている捕虜もまた見受けられた。何はともあれ、これで観たくもない映画を観させられると言った無意味な苦役は、その幕を閉じたらしい。

「さて、兵舎に帰ってもう一眠りするか」

 そう独り言ちた俺が腰を上げようとした次の瞬間、一際大きな声が食堂内に響き渡る。

「待て待て、同志諸君! そのまま、そのまま!」

 大声でそう言って捕虜達を制したのは、坊主頭の小柄な男、つまりハバロフスク帰りの加藤一等兵であった。そして彼は、どよめく捕虜達を掻き分けてつかつかと食堂内を縦断すると、階段を駆け上がって演壇に立つ。ちなみにこの演壇は、捕虜達を慰問する演芸会や勉強会を行うための設備だ。

「大日本帝国陸軍の捕虜たる同志諸君、どうか、最後まで聞いてほしい! 既にご存知の方も多いだろうが、私の名前は加藤文雄! 昨年の夏から冬にかけて、ハバロフスクの地で政治教育としての講習会を受講し、戦後の国際情勢やソヴィエト連邦の実情をつぶさに観察すると共に、マルクス・レーニン主義などを学んで来た者である!」

 拳を振り上げながら声を張り上げ、食堂に集まった捕虜達を相手に、加藤一等兵は一席ぶち始める。

「私はハバロフスクでの講習会において、地方代表者会議の議長殿から直々に、このブラーツク第二十三収容所における民主化運動の尖兵となって同志諸君を導けとの使命を与えられた! だからこそ、是非とも私が推し進める民主化運動に、プロレタリアートたる同志諸君に協力していただきたい! そして我らの力でもって、この世から邪悪なるファシズム思想とその体制を一掃するのだ!」

「そうだそうだ! ファシズムを打倒せよ!」

 数名の捕虜達が立ち上がり、壇上の加藤一等兵を鼓舞するように同調した。見ればその捕虜達は、加藤一等兵と共にハバロフスクでの講習会を受講した捕虜達である。

「ありがとう、ありがとう同志諸君! それでは早速だが、私は民主化運動の第一歩として、この収容所ラーゲリ内で維持されている帝国陸軍時代の階級を即時撤廃する事をここに提案する!」

「賛成! 賛成!」

「異議無し! 異議無し!」

 やはりハバロフスク帰りの捕虜達が、加藤一等兵の一方的な提案に対して、煽り立てるように賛同の声を上げた。

「どうやら、多くの同志諸君が私の提案に賛同してくれたようだ。心から感謝する。それでは今この瞬間より、この収容所ラーゲリにおいて、帝国陸軍時代の階級の上下を根拠に序列を主張する事は一切禁止する! この決定に賛同いただけるなら、どうか今ここで、その意思を示してほしい!」

「賛成だ! 俺も賛成するぞ!」

「そうだそうだ! 負けた軍隊の階級にいつまでも従い続けるなんて、馬鹿馬鹿しい!」

 今度はハバロフスク帰りのサクラの捕虜達だけでなく、階級が低い兵卒上がりの捕虜達もまた次々と声を上げ、壇上の加藤一等兵は得意げである。

「ふざけるな! そんな馬鹿げた提案なんぞ、認められるものか!」

 大声でもってそう怒鳴りながら、椅子がひっくり返るほどの勢いで立ち上がったのは、食堂の演壇から見て最前列に座っていた綾瀬大隊長であった。

「階級こそ、軍規を維持するための最も重要な骨子である! これを撤廃するなどと言う妄言は、決して許されるものではない! 加藤一等兵! 貴様の様な一介の兵卒風情がそんな大層な口を利くなど、言語道断の愚行である! 恥を知れ!」

 綾瀬大隊長は顔面を真っ赤に紅潮させながら、口角から泡を飛ばすほどの早口でもって怒鳴りつけたが、壇上の加藤一等兵は一向に動じない。

「恥を知れ? 恥を知れだと? 恥を知るのは貴様の方ではないのか、綾瀬中尉!」

「何だと?」

「綾瀬中尉、貴様は旧態依然とした敗軍の階級とやらの上に胡坐を掻き、罪無き捕虜達に対する暴虐無道な行為によって自己保身に走り、スタハノフ運動の邁進するここシベリアにおいて、全ての労働者に平等に課せられるべき労働ラボータを意図的にサボタージュした! これは労働者独裁を謡う我らがソヴィエト社会主義共和国連邦の国家体制に対する、明確かつ歴然たる反逆行為である! これを恥と言わずして、何と言おうか!」

「貴様、それ以上この俺と帝国陸軍を侮辱すると、許さんぞ!」

 綾瀬大隊長は今にも沸騰しそうなほど真っ赤になった額に玉の様な汗を浮かべ、握り締めた拳を怒りでもってわなわなと震わせながら、尚も怒鳴り続ける。しかしながら、壇上の加藤一等兵の方が一枚上手であった。

「許されないのは貴様の方だ、綾瀬中尉! 貴様の様な帝国主義的ファシズムにかぶれた反動分子の存在こそが、この収容所ラーゲリの規律を乱しているのだ! そんな反動分子には、正義の鉄槌が下されなければならない! さあ、同志諸君! その反動分子を、壇上に引っ張り上げろ!」

 加藤一等兵の命令に従って、ハバロフスク帰りの捕虜達が一斉に綾瀬大隊長に飛び掛かると、彼を背後から羽交い絞めにして自由を奪う。そしてそのまま抵抗する綾瀬大隊長を強引に歩かせ、階段を上り、食堂の演壇の床に力尽くでもって組み伏せた。

「ええい、何をする! 放さんか、この馬鹿者どもめ!」

 組み伏せられた綾瀬大隊長は怒りを露にするが、屈強な若い捕虜達に両腕を捩じ上げられてしまっては、まるで身動きが取れない。

「上官に対してこんな無礼を働くとは、貴様ら、日本に帰ったら軍法会議で極刑に処してやるからな!」

 尚も怒鳴り続ける綾瀬大隊長を、加藤一等兵は鼻でせせら笑う。

「軍法会議? それは、一体どこの国の軍隊の軍法会議の事ですかな? いいですか、綾瀬中尉! いや、綾瀬元中尉! かつての大日本帝国は今や敗戦国であり、そんな敗戦国を守るべき大日本帝国陸海軍などと言う軍隊は、もうこの世には存在しない! いいかげん、己が何の価値も無い敗軍の将である事を自覚せよ!」

「ぐぅ……」

 雄弁に語る加藤一等兵とは対照的に、言葉に詰まった綾瀬大隊長は、床に組み伏せられたまま悔しそうに歯噛みする事しか出来ない。

「さてさて、綾瀬元中尉。ここまでは、前置きに過ぎません。本題はむしろ、ここからですよ?」

 意味深にそう言った加藤一等兵は一歩前進し、汚物を見るような眼差しでもって、綾瀬大隊長を見下ろした。

「貴様が陸軍に召集されて満州に赴任する以前、内地で特別高等警察に刑事として勤務していた事は、既に調べが付いている!」

「それは……」

 怒りと屈辱でもって滾るように真っ赤だった綾瀬大隊長の顔色が見る間に青褪め、言葉を失う。彼が特高警察の出身だと言う事実は、収容所ラーゲリ生活が長い俺にとっても、これが初耳だ。

「特別高等警察の人間は言わずと知れた前歴者、即ち、戦犯である! その事実を隠し続けていたと言う事は、貴様自身が戦犯として追及される事を恐れていた何よりの証拠だ! さあ、貴様は今まで、我らが同志である共産主義者や社会主義者を何人逮捕した! そして、その内何人を拷問して非業の死に追い遣った! 正直に白状しろ!」

「そんなもの、いちいち数えていられるか! それに、俺は上官の命令に従って、危険思想にかぶれた犯罪者や非国民どもをひっ捕らえていただけだ! それを今更、戦犯呼ばわれされる謂れは無い!」

「つまりそれは、数え切れないほどの同志を殺したと言う事だな?」

 どうやら幾ら弁明しようとも、加藤一等兵は綾瀬大隊長を許す気は無いらしい。

「綾瀬元中尉! いや、綾瀬宗一被告! ハバロフスクでの講習会において、このブラーツク第二十三収容所の民主化委員会の委員長を拝命した私は、この場で貴様に有罪判決を下す!」

「異議無し! 異議無し!」

「そうだ! 罪を償わせろ!」

「この特高め! 戦犯め! 今まで散々威張り散らしていた事を後悔しろ!」

 ハバロフスク帰りのサクラもそれ以外の捕虜達も、その多くが民主化委員会の委員長とやらを自称する加藤一等兵が下した判決を支持する。

「同志諸君、静粛に! 諸君の意見は私の耳に届いた! 私が下した判決に諸君が賛同してくれた事を、私は誇りに思う!」

 加藤一等兵の演説に、食堂は割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。そしてふと気付いたが、食堂内がこれほどの大騒ぎになっていると言うのに、壁際に立つソ連赤軍の将校や警戒兵カンボーイ達は微動だにせず、一貫して見て見ぬフリを決め込んでいる。その落ち着きぶりから察するに、どうやら彼らソ連赤軍は事前に加藤一等兵らと示し合わせ、この事態を予見していたとしか考えられない。

「ありがとう、ありがとう同志諸君! ……さて、それでは綾瀬宗一被告、まずは貴様の犯罪行為の被害者である同志諸君に頭を下げ、謝罪せよ!」

「謝罪せよ! 謝罪せよ!」

 捕虜達も拳を振り上げながら加藤一等兵の言葉を連呼し、その様相は、まるで労働運動のデモ行進の際のシュプレヒコールさながらだ。

「さあ、謝罪だ! 同志諸君に謝罪するのだ!」

「ぐう……」

 水を得た魚の如き加藤一等兵に詰め寄られた綾瀬大隊長に、もはや逃げ場は無い。こうなってしまっては、演壇を取り囲む聴衆の要求に大人しく従うしか、道は無いだろう。

「……分かった……謝罪しよう……」

 苦渋の決断を下すような口調と面持ちでそう言うと、ハバロフスク帰りの捕虜達から解放された綾瀬大隊長は、他の捕虜達の方に向き直ってから一歩前に進み出た。そして彼が頭を下げようとしたところで、捕虜達の内の誰かが怒声でもって要求する。

「土下座だ! 土下座しろ!」

 その一言で、頭を下げ掛けていた綾瀬大隊長の眉間に怒りの青筋が寄った。しかしそんな綾瀬大隊長の変化には眼もくれず、調子に乗った捕虜達は、一斉に「土下座」の三文字を連呼し始める。

「土下座! 土下座! 土下座! 土下座!」

「おやおや、綾瀬宗一被告、同志諸君は貴様の土下座をお望みのようだ」

 土下座コールに背中を押された加藤一等兵が、暗に土下座を強要した。そして強要された綾瀬大隊長はゆっくりと跪いて両手を床に突き、頭を深く下げると、まさに土下座の格好でもって謝罪し始める。

「申し訳……ありませんでした……」

「声が小さい!」

「申し訳ありませんでした!」

 半ばヤケクソ気味な大声でもって、綾瀬大隊長が土下座しながら謝罪の言葉を口にした。しかし加藤一等兵は、それでも未だ彼を許そうとはしない。

「それでは綾瀬宗一被告、次は貴様が何故謝罪しなければならなかったのか、その理由を自己批判としてこの場で発表してもらおう!」

 加藤一等兵の新たなる要求に、ただでさえ青褪めていた綾瀬大隊長の顔からは更に血の気が引いて、まるで死人の様な顔色を捕虜達に晒している。

「さあ、自己批判せよ! ファシズムの手先であった自らの過去の悪事を、自らの言葉でもって告白するのだ!」

「自己批判せよ! 自己批判せよ! 自己批判せよ! 自己批判せよ!」

 多くの捕虜達による罵声にも近い自己批判コールが鳴り響く食堂は、言葉では形容し難い、ある種独特の異様な雰囲気に包まれていた。

「まず、貴様が内地で何をして来たのか、自己批判せよ!」

 進退窮まった綾瀬大隊長の、苦渋に満ちた自己批判が始まる。

「俺は内地に居た頃……特別高等警察の刑事で……共産主義者や社会主義者を取り締まって拷問し……その多くを死に追い遣りました……」

「つまり貴様は帝国主義の、ファシズムの走狗だったのだな?」

「……はい……俺は帝国主義の……ファシズムの走狗でした……」

「それでは関東軍に召集され、満州に赴任して来てからの貴様は何をしていた! 階級を笠に着て威張り散らしながら、罪も無い部下に対して理不尽な暴力を振るっていたのではないのか?」

「……はい……階級を笠に着て威張り散らしながら……部下に暴力を振るっていました……」

「そして、ここシベリアの収容所ラーゲリに収監されてからの貴様はどうだ! 既に存在しない敗戦国の軍隊の軍規を維持するなどと言う妄言を根拠に、共産主義国家体制において最も崇高な行為とされる労働ラボータをサボタージュした挙句、暖かな将校室でぬくぬくと惰眠を貪っていたのだろう? この事実を認めるか?」

「……はい……労働ラボータをサボって将校室で惰眠を貪っていた事実を……認めます……」

 恥ずかしさと悔しさのあまり、今にも血反吐を吐いて悶死してしまいそうな綾瀬大隊長の自己批判は、その後も続いた。いや、それはもはや自己批判と言うよりも只の誘導尋問でしかなく、加藤一等兵から一方的に投げ掛けられる侮蔑の言葉を追認するだけの、惨めで哀れな告解ショーに過ぎない。

「酷いな。見てられん」

 俺は壇上の加藤一等兵と綾瀬大隊長から眼を逸らしながら、小声で呟いた。

「まったくです。僕も見ていられません」

 隣に座る矢三郎もまた小声で俺の意見に同意し、演壇から眼を背ける。しかしそんな俺ら二人とは対照的に、食堂を埋め尽くした捕虜達の大半は拍手喝采しながら綾瀬大隊長に罵声を浴びせ、下卑た熱気と興奮を隠そうともしない。やがて気付けばとっぷりと陽も暮れ、綾瀬大隊長に対する自己批判と言う名の公開処刑は、夕食が配膳される夜半まで続いた。そしてこの事件を契機に、俺ら日本軍の捕虜達が収監されたブラーツク第二十三収容所の空気は一変するのである。

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