第六幕


 第六幕



 足を踏み入れた堅牢かつ荘厳な煉瓦造りの屋敷、つまりイエヴァの別荘ダーチャの母屋の中は、奇怪な様相を呈していた。この時間帯ならば暖かな陽の光が差し込んで来る筈の窓と言う窓に分厚い戸板が打ち付けられており、壁や床の隙間と言う隙間が布や藁でもって塞がれ、閉塞感に満ちた室内は漆黒の闇の底にどっぷりと沈み込んでいる。そこにはまるで墓穴の奥深くに埋められた棺桶の中の様な暗さと息苦しさが充満しており、なんだかひどく落ち着かず、季節は冬であるにも関わらず全身にじっとりと嫌な色の汗が浮かんだ。そしてそんな闇の中で、天井から吊り下げられた幾つものカンテラの灯りだけが室内を仄明るく照らし出し、俺らの視界をかろうじて確保している。

「ごめんなさいね、ほら、あたしって太陽が苦手だから」

 そう言った魔女ヴァレンティナはやけに楽しそうに、くすくすとほくそ笑んだ。そして彼女に先導されながら、俺とルッツ兵長、イエヴァ、それに狼犬のプラーミャは薄暗い別荘ダーチャの廊下を慎重に歩き続ける。足元が暗いので、うっかりすると床板を踏み外して転倒しかねない。しかし魔女ヴァレンティナは軽快な足取りでもってすいすいと歩き、まるで暗闇の中でも眼が見えているかのようだ。

「さあ、お好きな席にお掛けになってちょうだい。こんな辺鄙な場所にお客様だなんて久し振りの事だから、ちょっとだけ緊張しちゃうわね」

 やがて別荘ダーチャの母屋の食堂に辿り着くと、嬉しそうにそう言った魔女ヴァレンティナは、部屋の中央に置かれた大きな食卓を囲む椅子に座るように俺とルッツ兵長を促す。そこで俺らは身に纏っていた羊革の外套シューバ防寒帽ウシャンカを脱ぐと、手近な椅子に腰を下ろした。

「そうね、それじゃあさっそくだけど、皆で昼食を囲みながら歓談する事にしましょうか。イエヴァ、その獲って来たばかりのお肉を焼いて来てちょうだい」

「はい、ヴァレンティナ様。かしこまりました」

 魔女ヴァレンティナに命令されたイエヴァは淡々とした口調でもってそう言うと、シベリアジャコウジカの枝肉を持ったまま食堂の奥の厨房へと姿を消し、やがて肉を焼いているらしい心地良い音と匂いとが俺らの耳と鼻をくすぐる。

「本当に、久し振りのお客様ねえ。なんだか、嬉しくなっちゃう」

 そう言った魔女ヴァレンティナの絹のドレスに包まれた肌や毛髪は全て真っ白で、やはり爛々とした両の瞳と紅が引かれた唇だけが真っ赤に輝いており、この世のものとは思えない妖艶な空気を周囲に漂わせていた。また至近距離で接した彼女は三十代から四十代くらいの女盛りの年頃に見受けられるが、その正確な年齢はうかがい知る事が出来ない。

「それじゃあ、まずはお互いに、自己紹介から始めましょうか。あたしは、ヴァレンティナ。姓でも名でもなく、ただのヴァレンティナよ。それで、あなた達のお名前は?」

「あ、俺は後藤壮太、日本人ヤポンスキーです、ヴァレンティナさん」

「「」さん付けなんて余所余所しい呼び方はよして、呼び捨てでヴァレンティナと呼んでちょうだい。あたしもあなたの事を、これからは壮太って呼び捨てで呼ばせてもらうから。その方が、いかにも仲の良いお友達って感じでしょう?」

 そう言って、魔女ヴァレンティナはくすくすと笑う。

「俺は、ルッツ。ルッツ・アルトマイアー。ドイツニェーメツだ」

「あら、『言葉が通じないニェーメツ』と言う割には、ロシア語が通じるじゃないの。それにしても日本人ヤポンスキーとドイツニェーメツだなんて、奇妙な取り合わせねえ」

「まあ、俺らはソ連赤軍の収容所ラーゲリに囚われている捕虜の身ですから」

 俺はそう言うと、少しばかり自虐的に笑った。

「ふうん、それじゃあ自己紹介ついでに、互いの経歴を語り合う事にしましょうか。あたしはね、イエヴァから既に聞いているでしょうけれど、魔女なの。生まれたのは、今からもう八百年ほど前の事かしら。偉大なる母エカテリーナの腹から産まれ出でて、帝政ロシアの貴族の娘として育ち、何の因果か今は流浪の世捨て人としてこんな辺鄙な森の中で勝手気ままな隠居生活を謳歌しているって塩梅なのよ。ホントに、共産党もレーニンの禿げもスターリンの髭面も大嫌い。あいつら、とっとと政権を追われて、シベリアの原野で野垂れ死にしないかしらねえ」

 魔女ヴァレンティナはそう言って、自らが魔女である事を公言したが、そう簡単にその言葉を信じる訳にはいかない。

「次は壮太、あなたの経歴を聞かせてくれるかしら?」

 魔女ヴァレンティナにそう問われた俺は、居住まいを正してから口を開く。

「俺は大正十三年生まれで、出身は千葉県我孫子町です。幼少期を両親と共に我孫子町で過ごしてから、中学校卒業後に府中の東京外事専門学校に進学しました。そして二十一歳の時に大日本帝国陸軍に召集され、配属された関東軍第一方面軍第五軍の第124師団の兵士として満州に赴任して来ました」

 何故だか分からないが、決して饒舌ではない筈の俺の喉からは、次々と言葉の波が溢れ出て来て止まらない。まるで悪戯を母親から問い質されている幼児の様に、全てを白状しなければならないと言う強迫観念にも似た思いに囚われてしまっているのだ。

「ふうん、タイショーとかアビコとかは良く分からないけれど、あなた、随分と遠くから来たのねえ。それで? その後は?」

「満州に来てからすぐにソ連赤軍が国境を越えて侵攻して来たので、俺が所属する第124師団は穆棱の町の郊外でこれを迎え撃ちましたが、師団は壊滅状態に陥って俺は敗走しました。そして牡丹江で武装解除され、ソ連赤軍に捕虜として捕えられて、ここシベリアのブラーツク第二十三収容所まで移送されて来たんです」

 魔女ヴァレンティナの問い掛けに、俺は素直にぺらぺらと喋り続ける。

「そうなの、それは大変だったわねえ。それであなた、人は殺したの?」

 くすくすと笑いながら、魔女ヴァレンティナが尋ねた。そこで俺は、正直に答える。

「穆棱でソ連赤軍を迎え撃った際に赤軍兵を撃ち殺したかどうかは……正直言って、自分でも良く分かりません。上官に指示されるまま、敵が潜んでいるらしい方向に向かって闇雲に撃っていただけですから、自分が撃った銃弾が命中しているかどうかを確認している余裕なんてありませんでした。きっと殆どの銃弾は的を外れて、誰も殺していないんじゃないかと思います」

「あら、そうなの。そうね、確かにあなたの心には、闇が少ないものね。でも善良で清廉潔白過ぎる男の告解なんて聞いていても、これ以上に時間の無駄でつまらない行為なんてないんじゃないかしら?」

 落胆した魔女ヴァレンティナはそう言うと、心底つまらなそうに深い溜息を吐いた。そして彼女は俺の向かいに座るルッツ兵長を見遣ると、今度は彼に尋ねる。

「それじゃあルッツ、次はあなたの経歴をお伺いましょうか。あなたは壮太よりも心の闇が深そうだから、是非とも面白いお話を聞かせてちょうだい」

 そう言った魔女ヴァレンティナは、やはり楽しそうにくすくすと笑った。

「俺は……」

「そう、あなたは?」

「俺は1919年にバイエルン州のニュルンベルクで生まれ、それから一度も街の外に出ないまま育ち、十八歳の時に地元の学校を卒業して国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチ党に入党したんだ」

 魔女ヴァレンティナに促されるまま、ルッツ兵長は訥々と語り始める。

「俺が最初に配属されたのは、秩序警察オルポの第四十五警察大隊だった。そして入党してから二年後の二十歳の時にポーランドで戦争が始まったが、その時は配属先が秩序警察オルポだった事を、俺も家族も歓迎していたよ。なにせ、警察に所属していれば国内の治安維持に努めるだけで、前線で戦わなくても済むと聞かされていたからな」

「なるほどねえ、ルッツ、あなた戦いたくなかったんだ?」

 カンテラの灯りに照らされながらそう言って相槌を打つ魔女ヴァレンティナは、心底楽しそうだ。

「ああ、そうだ。戦いたくなかった。それに実際、戦争が始まってから最初の二年間は戦わずに済んだんだ。しかし忘れもしない1941年の夏、俺が所属する第四十五警察大隊はソ連領のセペトフカに送られ、そこで、ああ……」

「そこで、何があったのかしら?」

 苦しそうにかぶりを振るルッツ兵長を、魔女ヴァレンティナは問い詰める。

「セペトフカで俺達に与えられた任務は、現地に住むユダヤ系住民を駆り集める事だったんだ。だから俺達はユダヤ人が住む家を一件一件家捜し、隠れていた住民達を強引に連れ出して、ユダヤ人街の中央のユダヤ教の礼拝所に集合させた。自力で歩く事が出来ない老人や病人はその場で射殺し、泣き叫ぶ幼児を抱いた母親の襟首を掴んで無理矢理歩かせながらだ」

「あら、面白そうじゃないの」

「やがて礼拝所に集められた数千人のユダヤ人達は、四十人ずつの小規模な集団に分けられて、順番にトラックでもって街の近くの森へと移送された。そして森の中で俺達は、移送されて来たユダヤ人達を地面にうつ伏せに寝かせると、その後頭部にKar98k小銃の銃口を向けて……」

「撃ったのね? ユダヤ人を殺したのね?」

「ああ、撃った。殺した。移送されて来るユダヤ人達を老若男女の区別無く、服を脱がせて全裸にしてから、次々とうつ伏せに寝かせて撃ち殺したんだ」

「と言う事は、子供も撃ち殺したのね? そうでしょう?」

 魔女ヴァレンティナが、如何にも興味津々と言った口調でもって、身を乗り出しながらルッツ兵長に尋ねた。

「そうとも、殺したよ。泣き叫ぶ幼児を地面に組み伏せ、首の後ろに銃剣の先端を浅く突き刺してから、小銃の引き金を引くんだ。すると頚椎が一撃で破壊されたユダヤ人は、悲鳴を上げる事もなく、大人も幼児も即死する。しかし、時々だがユダヤ人が暴れて、一発で射殺出来ずに何発も銃弾を撃ち込まなければならない事があるんだ。そんな時は死に切れなかったユダヤ人は苦しんでますます暴れるし、飛び散った鮮血と脳漿と頭蓋骨の欠片を全身に浴びた俺達の軍服や露出した顔面は、瞬く間に真っ赤に染まってしまう。特に、頭皮と一緒に頬に張り付いた髪の毛の感触が気持ち悪くて仕方が無いんだ」

「鮮血と脳漿! なんて素敵なのかしら! 背筋がぞくぞくしちゃう!」

 身悶えしながらそう言った魔女ヴァレンティナに鼓舞されたルッツ兵長は、尚も語り続ける。

「気付いたら、俺達はセペトフカに住んでいたユダヤ人を、たった一日で全員殺し尽くしてしまっていた。いや、何人かのユダヤ人は移送途中に逃亡しただろうが、それでもとんでもない数の住民を殺してしまった事に間違いはない」

「それでルッツ、あなたはどうしたの?」

「その日、兵舎に帰って眠りに就いた俺は、悪夢にうなされて深夜に飛び起きたよ。そして泣きながら便所に駆け込み、嗚咽と共に胃の内容物を全部吐き出したんだ。勿論、便所で吐いていたのは俺だけじゃない。ユダヤ人の殺害に従事させられた大隊の仲間達の殆ど全員が、その日から毎晩悪夢にうなされながら嘔吐し続ける事になったんだ」

「ユダヤ人を殺したのは、その時だけなのかしら?」

「いや、違う。俺はその後、大隊長に転属を願い出た。ユダヤ人の虐殺に加担した仲間達と一緒に何食わぬ顔で任務に就き続ける事に、それ以上耐えられなかったからだ。そして俺の転属願いは、すぐに受理されたよ。だが転属先のハンブルクに拠点を置く第101警察予備大隊でも、状況は何一つ変わらなかったんだ」

 そう言ったルッツ兵長の眼は虚ろで、まるで夢遊病患者のそれのように焦点が合っていない。

「そう、それじゃあその第101警察予備大隊とやらで何があったのか、詳しく教えてちょうだい」

「最初の一年弱は、警察としての国内の治安維持だけを命じられ、俺の心の奥底に渦巻いていた罪悪感も次第に薄れつつあった。事実、前線で戦っている友軍の兵士達の身を案じて、自分は未だ恵まれていると優越感に浸る事もあったよ。だが、セペトフカでの虐殺からちょうど一年が経過した1942年の初夏に、俺達は再びユダヤ人を殺すように命じられたんだ」

「今度は、どこで殺したの?」

「当時ドイツが占領していたポーランドの、ルブリン管区だ。そのルブリン管区のユゼフフと言う村に住んでいるユダヤ人を一人残らず殺害せよと命じられた俺達は、その命令に従って、まずは住民を村の中央の市場に集合させた。そして市場まで自力で辿り着けない老人や病人は発見次第その場で射殺し、残った住民も四十人ずつの集団でトラックに分乗させて、村の近くの森まで移送してから射殺したんだ」

「女も子供も、皆殺しにしたのね」

「そうだ、ここでも俺達は、老若男女を問わず皆殺しにした。セペトフカでの虐殺と同様、森に移送したユダヤ人達をうつ伏せにして地面に寝かせ、無防備な後頭部をKar98k小銃でもって撃ち抜く。そんな非人道的な行為を朝から晩まで繰り返し、気付けば千人を優に超えるユダヤ人達の死体の山が、森を埋め尽くすかのように転がっていたんだ」

「その死体はどうしたのかしら? ちゃんと埋葬してあげたの?」

「埋葬なんてしていない。薄暗い森の中に死体を放置したまま、俺達は逃げるようにその場を立ち去ったんだ。隊員の中には死体から金目の物を強奪する輩もいたが、俺も含めた殆どの隊員は、とてもそんな事が出来る精神状態じゃなかった」

 語り続けるルッツ兵長の手はわなわなと震え、両の瞳からはぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていた。

「そんなにたくさんのユダヤ人を殺す事が出来て、さぞや楽しかったでしょうね」

「何が楽しいもんか! 当時俺は大隊内で一番若い隊員だったから、軟弱で臆病な若輩者と思われる訳には行かなかったんだ! それに、ユダヤ人の殺害は大隊を指揮する少佐の直々の命令だったから、仕方がなく従ったまでだ! 勿論ナチ党員だった当時の俺は、多くの善良なドイツ国民同様、総統閣下が提唱された反ユダヤ主義に傾倒していた事は認めざるを得ない。だがしかし、だからと言って、何の抵抗も出来ない女子供まで皆殺しにする事はないじゃないか!」

「でも、その後もあなたはユダヤ人を殺し続けたんでしょう?」

「ああ、そうとも、その通りだ。俺達はその後もルブリン管区内のウォマジーで、そしてセロコムラで、各地に住むユダヤ系住民を皆殺しにし続けた」

 すると不意に、魔女ヴァレンティナは右手を斜めに掲げてナチス式敬礼の姿勢を取る。

「それはそれは、あなたが敬愛する総統閣下もさぞやお喜びになられたでしょうね、ルッツ。さあ、高らかにその名を賞賛しましょう、ハイル・ヒトラー!」

「やめろ! 俺の前でその名を口にするな! 頼むから、やめてくれ……」

「あらあら、ごめんなさいね。気に障っちゃったかしら? でもナチ党に入党したと言う事は、少なからず、あのちょび髭の総統閣下の思想に共感していたんでしょう?」

「それはそうだが……今となっては、何を信じていいのか俺自身にもまるで分からないんだ……」

 ルッツ兵長はそう言って泣きながら、まるでひどい頭痛や眩暈に襲われる病床の老人の様に、皺だらけの両手でもって頭を抱えた。

「どうやら、総統閣下の話題はお気に召さなかったようね。それじゃあ、話を元に戻しましょう。ルッツ、あなたはその後、どうしたのかしら?」

「ユダヤ人を殺し続ける事に耐え切れなくなった俺は、また転属を上官に願い出て、それはすぐに受理されたよ」

「ふうん、今度の配属先は、どこだったの?」

「俺は意を決して秩序警察オルポを除隊し、陸軍の新兵として、ドイツ国防軍の第六軍に配属された。そして補充兵として東部戦線に送られ、スターリングラード攻防戦に参加したんだ」

「そうなの。それで、スターリングラードの居心地はどうだったのかしら?」

「少なくとも俺が配属された1942年から1943に掛けてのスターリングラードは、まさに地獄そのものだったよ。市街地での熾烈な攻防戦によって俺達第六軍は孤立し、壁一枚隔てた隣の部屋に居るかもしれないソ連赤軍の影に怯えて寝る事も出来ず、補給が滞った結果として飢えと寒さで友軍の兵士達がばたばたと死んで行くのを黙って見ている事しか出来なかったんだ」

「それはそれは、ご愁傷様。お悔やみの言葉を述べてあげようじゃないの」

「治安維持に従事していればいい秩序警察オルポとは違って、東部戦線は常に死と隣り合わせの過酷な最前線だった。だがそれでも、無抵抗の女子供を裸にひん剥いて暗く寂しい森の中で撃ち殺すのに比べたら、戦う相手が敵の兵士である分だけ罪悪感に苛まれる事は無くなったよ。ドイツ人であれロシア人であれ、国家に奉仕する兵士が戦場で死ぬのは自然の摂理だ。何の罪も無いユダヤ人を虐殺するのとは、訳が違う」

 そう言ったルッツ兵長は別荘ダーチャの食堂の天井を見上げると、深い溜息を吐いた。そして魔女ヴァレンティナは楽しそうにくすくすと笑いながら、彼に労いの言葉を掛ける。

「あなたも苦労したのねえ、ルッツ。でも、結局ドイツ軍は負けちゃったんでしょう?」

「そうとも、ドイツ国防軍は負けた。スターリングラード市内で敵の大軍に包囲された俺達第六軍は、最高指揮官であったパウルス元帥の命令により、1943年一月三十一日にソ連赤軍に全面降伏したんだ」

「なるほどねえ。それで、その後のあなたはどうなったのかしら?」

「ソ連赤軍に捕らえられた俺は、敗戦国の捕虜としてシベリアの幾つかの収容所を転々とした後に、二年前からここブラーツクの収容所ラーゲリに収監されたよ。そしてまさに今日この時まで、過酷な強制労働と飢えと寒さに耐え忍びながら、おめおめと生き延びて来たんだ」

「おめおめと生き延びて来たねえ……ねえ、ルッツ。あなた、自分は戦場で死に損ねたと思っているんじゃなくて?」

「ああ、そうだ。確かに俺は、死に損ねたのかもしれない。俺みたいなユダヤ人殺し、子殺しの人でなしは、スターリングラードで戦死するべきだったんだ……」

 ルッツ兵長は吐き捨てるようにそう言うと、言葉を詰まらせて嗚咽を上げながら、再び頭を抱え込んでしまった。そこで痺れを切らした俺は食卓を叩き、勢いよく椅子から腰を上げ、魔女ヴァレンティナに向かって怒気を込めた声でもって叫ぶ。

「いい加減にしろ! これ以上ルッツを苦しめて、何になるって言うんだ!」

「あら、ごめんなさいねえ。怒らせちゃったかしら? お客様の心の闇を覗く事が出来るのは久し振りだったもんだから、ちょっと調子に乗っちゃった」

「……ヴァレンティナ、お前、俺達に何をした?」

「なあに、大した事じゃないの。ちょっとだけ、あなた達を喋り易くしてあげただけ。初対面の者同士だもの、少しくらい口が軽くなった方がいいでしょう? まあ、夜のバーで大人の男女がお酒を酌み交わしながら語り合うようなものよ」

 そう言った魔女ヴァレンティナは、尚も楽しそうにくすくすと笑い続けていた。俺はまだ彼女が本物の魔女だと認めた訳ではないが、どうやら俺とルッツ兵長とは、得体の知れない魔術か何かによって操られていたらしい。

「ヴァレンティナ! 何をしている!」

 不意にそう叫んだのは、狼犬のプラーミャを連れながら食堂の隣の炊事場から姿を現したイエヴァだった。

「壮太に、ルッツに何をした!」

 そう言ったイエヴァが詰め寄ろうとすると、魔女ヴァレンティナは虚空に向かってぱちんと指を鳴らす。するとイエヴァの首周りから胸元にかけて彫られた刺青が明るいオレンジ色に発光し、まるで南洋の密林に住む大蛇の様に皮膚の上でとぐろを巻きながら、彼女の喉をぎりぎりと締め上げ始めた。

「ぐうぅ……」

 白くか細い喉を締め上げられたイエヴァが、その喉から苦悶の喘ぎ声を漏らす。主人の危機に狼犬のプラーミャが魔女ヴァレンティナを睨み据えながら唸り声を上げるが、彼女は意に介さない。

「あら、イエヴァ。このあたしを呼び捨てにするだなんて、あなたも随分と偉くなったものじゃないの」

 魔女ヴァレンティナが猟奇的な笑みをその口端に浮かべながら、まるでその場に居合わせた全員を嘲笑うかのような皮肉の言葉を漏らした。彼女の表情からは、この状況を楽しんでいるのか怒り狂っているのか判別がつかず、なんとも言えない不気味な空気を周囲に漂わせている。

「申し訳ありません……ヴァレンティナ様……」

 イエヴァが息も絶え絶えに謝罪すると、魔女ヴァレンティナは再びぱちんと指を鳴らした。するとイエヴァの首周りの刺青が発光しながら喉を締め上げるのを止め、彼女は自由を取り戻す。

「……げほっ……げほっ」

 イエヴァはつたを象った刺青によって締め上げられていた喉を押さえながら、苦しそうに何度も咳き込んだ。大蛇の様にとぐろを巻いていた首周りの刺青は、今は静かに彼女の皮膚の下で眠りに就いている。そして唸り声を上げていたプラーミャは主人であるイエヴァの下へと駆け寄ると、心配そうにくうんと鳴いた。しかしイエヴァは、尚も苦しそうに咳き込み続ける。

「イエヴァ、余計な無駄口を叩いていないで、あなたはあなたの職務を果たしなさい。それで、肉はもう焼けたのかしら?」

「……はい、ヴァレンティナ様。すぐにお食事の準備をいたします」

 ようやく喉の痛みから解放されたイエヴァはそう言って炊事場へ取って返すと、炙り焼きにした腿肉の塊が乗った大きな皿を手にしながら、再び食堂に姿を現した。そしてその大きな皿を食卓の中央に、更に黒パンが乗ったパン皿とシチーがよそわれた人数分のスープ皿や食器を俺らの眼の前に置いてから、彼女もまた自分の席に腰を下ろして次の命令を待つ。

「さあ、それじゃあ皆で、少し遅い昼食を囲むとしましょうか。イエヴァ、お客様に肉とパンを切り分けてあげてちょうだい」

「はい、ヴァレンティナ様。かしこまりました」

 道端で腐り切った魚の死体の様に生気の無い眼をしたイエヴァはそう言うと、炭火でこんがりと焼かれたシベリアジャコウジカの腿肉の塊と黒パンをナイフとフォークでもって切り分け、四人分の平皿の上によそった。よそわれた肉と黒パン、それに刻み野菜のたっぷり入ったシチーは見るからに美味そうだが、不気味に笑う魔女ヴァレンティナを前にしてはなんだかまるで食欲が湧かない。

「壮太、ルッツ、それにイエヴァも、日々の糧となってくださった命に感謝しながらいただきましょうか」

 しかし魔女ヴァレンティナその人にそう言われてしまっては、眼の前に並べられた食事に手をつけない訳には行かなかったので、俺らは恐る恐る食卓に手を伸ばす。そして口に運んだシベリアジャコウジカの腿肉の炙り焼きは風味豊かで香ばしく、なんとも言えないほど美味かったが、やはり魔女の爛々と輝く真っ赤な眼に見つめられたままではどうにも食った気がしなかった。

「どう? 美味しい?」

「はあ、まあ……」

 魔女ヴァレンティナの問い掛けに、俺とルッツ兵長は曖昧模糊とした言葉でもって返答するが、その心中は決して穏やかではない。

「そう、それは良かった。それじゃあ改めて、食事中にお喋りするのはちょっとお行儀が悪いけれど、自己紹介の続きを始めましょう。さあイエヴァ、あなたの半生を振り返って、その詳細を壮太とルッツに教えてあげてちょうだい」

「はい、ヴァレンティナ様」

 そう言ったイエヴァは、生気の無い虚ろな眼をしたまま語り始める。

「あたしの名前は、イエヴァ・イワーノヴナ・ラザレンコ。ウクライナ人民共和国南部のハリコフの街で生まれ、銀行の頭取の娘として、かの地で十二歳になるまで何不自由無く育った」

「ふうん、それで?」

 イエヴァの経歴などとっくの昔に知り尽くしているであろう魔女ヴァレンティナが、わざとらしい口調でもって敢えて尋ねた。

「十二歳の時、戦争が始まった。ドイツ軍が国境を越えて、ウクライナに侵攻して来た。だからあたしと両親、それに未だ幼かった弟の四人で急いで荷物を纏めて国を脱出し、ここシベリアのブラーツクに別荘ダーチャを買って疎開して来た」

「なるほどなるほど」

「疎開して来てから一年半余りは、それなりに平穏無事な日々が続いた。食糧難には悩まされたが、それでも戦場から遠く離れたこの地なら、少なくとも戦渦に巻き込まれて死ぬ事だけは無かったから。でも、それがある日、ああ……」

 そう言って言葉を詰まらせると、顔面を青褪めさせながら額に脂汗を滲ませたイエヴァは、まるで絶望感によって心を支配されたような表情のまま頭を抱えて沈黙する。

「どうやら、イエヴァはもうこれ以上、口を利く事が出来ないようね。それじゃあ彼女に代わって、その後何が起きたのか、このあたしが話して聞かせてあげましょうか」

 くすくすと笑いながら、魔女ヴァレンティナがそう言った。そして今度は彼女が、イエヴァの身に何が起きたのかを語り始める。

「禿げ頭のレーニンが主導したロシア革命のせいで皇帝ツァーリが失脚し、二百年近くも続いた帝政ロシアが、ある日突然崩壊しちゃったの。すると当然、あたしの母親とその子供達もまた貴族としての地位を追われて、社会主義国家の一市民として生きて行かなきゃならない事態に陥っちゃったと言う訳なのよ。ほんと、やんなっちゃう」

 忌々しそうに深い溜息を吐きながら、魔女ヴァレンティナがそう言った。

「でもね、貴族暮らしが長かったあたしには、一市民として地道に生きて行くなんて事自体がどだい無理な相談だったのよ。それに、社会主義国家って基本的に暗くて地味で貧乏なんだもの。豪華絢爛な贅沢三昧が出来ない人生なんて、この上無くつまらない人生なんじゃなくて?」

 魔女ヴァレンティナの疑問に、俺もルッツ兵長もイエヴァも答えない。

「それでも最初の二十五年間は、飢餓と貧困にぐっと耐えながら、なんとか我慢していたのよ。いつかはこの国も、少しは豊かになるんじゃないかと期待しながらね。だけど、いつまで経っても豊かになるどころか、帝政ロシア時代の華やかさが返り咲いてくれる兆候すら無いじゃない? だからあたし、もう我慢するのは止めて、田舎で好き勝手に生きる事にしたのよ。それで適当なねぐらを探していたら、ここブラーツクで、ちょうどいい別荘ダーチャを見つけたって言う訳なのよねえ」

 イエヴァがビクッと肩を竦め、彼女の額にじっとりと浮かんだ脂汗が、血の気を失った頬を伝い落ちる。

「でもね、その別荘ダーチャには既に、ウクライナから疎開して来た四人家族と一匹の子犬が住んでいたの。そんな先住者が一緒だと、何かと邪魔でしょう? だから、まずはその家族の父親と母親をさくっと殺しちゃった」

 人を殺した事を、まるで羽虫でも叩き潰したかのような軽々とした口調でもって告白した魔女ヴァレンティナは、楽しそうにくすくすと笑った。

「それでね、両親を殺しちゃったら、後は二人の子供達と子犬が残されたでしょう? 確か十二歳の女の子と、未だ五歳の男の子、それに一歳の雄犬だったかしら? ほら、あたし動物は嫌いじゃないから、雄犬は生かしておいてあげる事にしたのよね。でも、二人の子供達はぎゃあぎゃあ泣き喚いてうるさいし、何よりも、鬱陶しくて仕方無いじゃない? だからさっさと殺す事にしたんだけれど、人里離れたこの別荘ダーチャに住むからには、誰かあたしの身の回りの世話をさせてあげる人が必要だと思ったの。それで、女の子の方は下女として生かしておいてあげる事にしたって訳なのよね。まあ、男の子の方は下男にするには幼過ぎたから、殺しちゃったけど」

 そう言った魔女ヴァレンティナは、本当に心の底から楽しそうに、くすくすと屈託無く笑い続ける。そして彼女とは対照的に、両親と弟が殺された事実をまるで愉快な世間話の様に語られたイエヴァは歯を食いしばり、喉の奥から溢れ出ようとする嗚咽を堪えながらぽろぽろと涙を零して泣いていた。

「……なあヴァレンティナ、一体何がそんなに楽しいんだ?」

 俺が怒りを押し殺しながら尋ねると、魔女ヴァレンティナは相変わらず軽々とした口調でもって答える。

「だってほら、人の命って、燃え尽きる瞬間が一番美しいじゃない? イエヴァの弟だってね、死ぬ寸前は泣き喚きながら命乞いをして、とっても可愛らしかったんだもの。だからあたし、人を殺した話を聞いたり聞かせたりするのが大好きなのよねえ」

 魔女ヴァレンティナはそう言うと、血も滴るシベリアジャコウジカの腿肉を美味しそうに咀嚼した。そしてよく噛み砕いた肉を嚥下する彼女の言葉からは微塵の罪悪感も感じられず、その内容を理解しようとするだけで、俺の脆弱な胃と喉には酸っぱいものが込み上げて来る。

「……帰ろう」

 俺はそう言うと、自分の席から腰を上げた。

「あら、もう帰っちゃうの? 未だお腹が空いているんじゃなくって?」

「人を殺した話ばかり聞かされたから、食欲が失せちまったんでね」

 吐き捨てるようにそう言った俺は外套シューバを羽織り、防寒帽ウシャンカを被ると、虚ろな眼をしたまま黒パンを食んでいるルッツ兵長の肩を叩く。

「帰るぞ、ルッツ。こんな所に居ても、気分が悪くなるだけだ」

 肩を叩かれたルッツ兵長はハッと我に返った様子で、怯えた子供の様にきょろきょろと周囲を見渡すと、か細い声で「ああ、分かった」と言ってから腰を上げた。血の気が失せた彼の顔面は蒼白で、まるで生気が感じられない。

「それは残念ねえ、久し振りのお客様だから、もうちょっとお喋りしていたかったのに。まあ、気分を害されたようですし、仕方無い事ね。あたしも、これから寝室で寝直す事にしようかしら。……それじゃあイエヴァ、お客様を玄関までお見送りしてあげてちょうだい。勿論、お土産も忘れずに手渡して差し上げるのよ?」

「はい、かしこまりました」

 魔女ヴァレンティナに命令されたイエヴァはそう言って席を立ち、食堂の奥の炊事場へと再び姿を消した。そして暫くしてから小脇に抱えられるくらいの大きさの包みを二つばかり手にして戻って来ると、その包みを俺とルッツ兵長に手渡す。手渡されたそれは油紙に包まれたシベリアジャコウジカの腿肉の切り身と、小さな麻袋に詰められた生の白米であった。

「約束の米と肉だ。持って行け」

「ああ、ありがとう」

 礼を述べた俺とルッツ兵長、それにイエヴァとプラーミャの三人と一匹は、薄暗い廊下を経由して別荘ダーチャの玄関へと逃げるように退散する。そして冬の午後の柔らかな日差しに照らされた戸外に足を踏み出すと、不意にルッツ兵長がイエヴァの方へと向き直り、彼女の手をぎゅっと堅く握り締めた。

「イエヴァ」

 ルッツ兵長とイエヴァの二人が、至近距離で見つめ合う。

「キミも今まで、相当に辛い経験を重ねて来たんだな。その元凶がドイツ軍のソ連侵攻である事を、俺は一人のドイツ軍兵士として申し訳無く思う。許してくれとまでは言わないが、どうか謝罪させてほしい。本当に、済まなかった」

 そう言って、沈痛な面持ちのルッツ兵長は頭を下げた。

「いいんだルッツ、謝るな。悪いのは魔女だ。あなたは悪くない」

 イエヴァは首を横に振り、謝罪するルッツ兵長を責め立てるような無粋な真似はしない。

「ありがとうイエヴァ、そう言ってくれて嬉しいよ」

 ルッツ兵長は涙ながらにそう言うと、小柄なイエヴァの身体をぎゅっと抱き締めた。イエヴァもまたルッツ兵長を優しく抱き締め返し、二人の足元では狼犬のプラーミャがぐるぐると嬉しそうに駆け回っている。

「ルッツ、もう行くぞ。早くしないと他の捕虜達と合流出来ずに、サボっていたのが露助ろすけどもにバレちまう」

 俺は、いつまでもイエヴァと抱き合っていようとするルッツ兵長を急かした。

「ああ、そうだな壮太。作業大隊が収容所ラーゲリに帰り着く前に、早く合流しないとな」

 名残惜しそうにイエヴァを抱き締める腕の力を抜いたルッツ兵長と共に、分厚い羊革の外套シューバに身を包んだ俺は、別荘ダーチャから続く雪道を歩き始める。

「じゃあな、イエヴァ」

「機会があったら、また会おう」

「ああ、二人とも元気でな」

 イエヴァと離別した俺とルッツ兵長の二人は、ここまで来る過程で雪原の上に残された自分らの足跡を辿りながら、カラマツの森の中を歩き続けた。

「なあ、ルッツ」

「何だ、壮太?」

 俺は、隣を歩くルッツ兵長に尋ねる。

「あのヴァレンティナとか言う気色の悪い女は、本当に魔女だと思うか?」

「分からない。だが俺はあの女と眼が合った瞬間から急に意識が朦朧とし、気付いたら自分でも忘れようとしていた過去の恥ずべき行為をべらべらと喋ってしまっていた。だから、それが魔法だとか魔術だとか言った超常の力かどうかはさておき、得体の知れない何かによって心を惑わされていた事だけは確かだと思う」

「得体の知れない何かか……でもやっぱり、俺は彼女が魔女だなんて信じられないよ」

「ああ、そうだな。俺だって、そんな簡単に信じたりはしないさ」

 魔女の実存とその真偽について議論し合いながら森の中を歩き続けていると、やがて鬱蒼と生い茂るカラマツの森の向こうから、微かに人の気配が漂って来た。そこで木陰に身を隠しながら気配の濃い方角へと慎重に足を運べば、やがて原生林の伐採に勤しむ日本軍とドイツ軍の捕虜達の姿が眼に留まる。

「よし壮太、ここでお別れだ。俺は向こうの仲間達と合流するから、お前も自分の仲間達と合流しろ。じゃあな。警戒兵カンボーイに見つからないように、注意しろよ」

 そう言ったルッツ兵長は生の白米が詰まった麻袋を俺に手渡すと、真っ白な雪が降り積もった木々の狭間にその姿を消した。そこで俺は肩から提げた雑嚢の口を開け、シベリアジャコウジカの腿肉を包んだ油紙と共に、その麻袋をぎゅっと押し込む。そしてルッツ兵長に助言された通り、ソ連赤軍の警戒兵カンボーイに発見されないように細心の注意を払いながら、仲間である日本軍の捕虜達の一群にこっそりと合流した。

「お帰りなさい、壮太さん。首尾はどうでしたか?」

 俺の帰りを待ち侘びていた矢三郎に尋ねられたので、肉と米が入った雑嚢をぽんぽんと叩きながら俺は答える。

「ああ、首尾は上々だ。肉も米も手に入った。早く収容所ラーゲリに帰って、飯塚に食わせてやらないとな」

 そう言った俺は何食わぬ顔でもって、他の捕虜達と共に伐採作業に従事する。すると程無くして太陽が西の空へと傾き、今日もまた終業時刻である午後四時を迎えた。

「ようし、今日の作業は終了だ! 収容所ラーゲリに戻るぞ! 全員、さっさと整列しろ! ダワイ! ダワイ!」

 マンドリン短機関銃を頭上で振り回しながら大声で叫ぶ警戒兵カンボーイの命令に従い、作業の手を止めた俺ら捕虜達は五列縦隊で並ぶと、収容所ラーゲリへの帰還の徒に就く。そして一時間ばかりもとぼとぼとタイガの森の中の一本道を歩き続けた末に、ようやく収容所ラーゲリに辿り着いて営門を潜ると、ねぐらである兵舎の敷居を跨いだ。また同時に、雑嚢の中の肉と米が無事かどうか、もう一度確認する。

「ふう、助かった」

 肉と米を持ったまま兵舎に無事帰還出来た俺は、ホッと安堵の溜息を漏らした。ここシベリアの収容所ラーゲリでは、捕虜が食料を隠し持っている事が発覚すると、問答無用でソ連赤軍の警戒兵カンボーイによって没収される。何故なら食料の携帯は、収容所ラーゲリからの脱走と逃亡を企てている証拠と判断されてしまうためだ。そしてこの事実は、何も個々の捕虜だけに留まらない。炊事場で働く炊事係にも毎日毎日一日分だけの食材が配給され、それらはその日の内に使い切ってしまわねばならず、未使用のまま保管しておく事は堅く禁止されていた。だからもし食材を使い切らずに炊事場の棚にでも仕舞っておいた事がバレれば、炊事係を統率する田所曹長が、懲罰として営倉送りにされてしまうのである。

 やがて食堂で夕食を食べ終えた俺は、兵舎のペチカを利用して、イエヴァから貰った肉と米を調理し始めた。勿論調理とは言っても、肉は炊事場から拝借した塩と胡椒を振りかけて焼き、米は飯盒を使って柔らかい粥状に炊いただけの簡単なものに過ぎない。

「いい匂いがするなあ」

「なあ、俺にも食わせてくれよ」

 肉と米が調理される匂いに誘われて、腹を空かせた捕虜達がペチカの周りに集まって来た。

「これは、入院している飯塚に食わせてやるための肉と米だ。だから米はもう残っていないが、肉は余計に貰って来たから、余った分は皆で食べていいぞ」

 俺がそう言うと、捕虜達はごくりと唾を飲み込みながら、ペチカの上で肉が焼ける光景をジッと見守る。こんな時に食材を独り占めしようとすると、最悪の場合は兵舎内で暴動が勃発しかねないので、ある程度は皆で分け合って食べるのが無益な暴力を回避するための最善策である事を、俺は熟知していた。これもまた、飢えと寒さによって常にぎすぎすした空気が充満する収容所ラーゲリで平穏無事に生きて行くための、先人から受け継がれた知恵の一つである。

「さあ、出来た。それじゃあ俺は病室に行って来るから、残りの肉は皆で食べてしまっておいてくれ」

 炊き立ての粥が入った飯盒と、食べ易いように一口大に切り分けたシベリアジャコウジカの腿肉を飯盒の蓋に乗せた俺はそう言って、矢三郎と共に兵舎を後にした。背後では、同じ兵舎で寝泊りする捕虜達が一斉にペチカに群がり、永らく口にする事が出来なかった新鮮な肉に舌鼓を打っている。

「急げ矢三郎、お粥が冷めちまう」

 矢三郎を急かしながら、俺ら二人は飯塚一等兵が入院している筈の病室へと急いだ。そして営庭を縦断して病室の在る建物に辿り着くと、隣の診察室で待機している軍医達に見つからないように息を殺しながら、薄暗い病室の中へと忍び足で侵入する。

「飯塚、飯塚、起きてるか?」

 俺は寝台に横になっている飯塚一等兵に歩み寄り、小声でもって呼び掛けた。

「……ん? ああ、壮太か。……どうした?」

 眼を覚ました飯塚一等兵の顔色は悪く、眼窩の周りの皮膚は落ち窪んで頬はこけ、すっかりやつれ果ててしまって見る影も無い。どうやら入院してからも、彼の体調は悪化し続けているように見受けられる。

「お前のために、米と肉を手に入れて来てやったぞ。さあ、食え。美味いぞ」

 そう言いながら飯盒とその蓋を差し出すと、飯塚一等兵は寝台の上で半身を起こした。

「米と肉だなんて、こんな物、いったいどこで手に入れたんだ?」

「そんな事はどうでもいいから、軍医が戻って来る前に、早く食え。これさえ食えば、赤痢なんてあっと言う間に治るさ。さあ、食え。精がつくぞ」

 俺の言葉に、差し出された飯盒を受け取った飯塚一等兵は思わず涙ぐむ。

「ありがとう壮太、ありがたく頂くよ」

 飯塚一等兵はそう言うと、アルミ製の匙でもって、米の粥を啜り始めた。そして彼は、飯盒の蓋に盛られたシベリアジャコウジカの腿肉にも手をつけるが、肉を嚥下した彼の顔色が見る見る内に青褪める。

「うっぷ……げえええぇぇぇ……」

 突然えずいた飯塚一等兵は、一度は飲み込んだ肉を粥と一緒に吐き出し、病室の床にぶちまけてしまった。どうやら既に衰弱し切ってしまっている彼の胃腸が、脂っこい肉の重さに耐えられなかったらしい。

「飯塚……」

 げえげえと肉を吐き出す飯塚一等兵の姿に、俺は絶望する。もはや充分な栄養を補給する事すらも出来ないほど、彼の病状は悪化してしまっているのだ。

「すまない、壮太。すまない……」

 泣きながら詫びる飯塚一等兵の姿に、彼に掛けてやる言葉が見つからない俺は、薄暗い病室の片隅で呆然と立ち尽くす。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る