第五幕


 第五幕



 その日、不味くて量の少ない朝食を食べ終え、午前八時の作業整列までの暇な時間を二度寝で潰していると、不意にレールの鐘がカーンカーンと打ち鳴らされた。

「整列! 整列!」

 鐘を打ち鳴らしながら、当番の将校が叫んでいる。何が何だか分からないまま、俺ら捕虜達は外套シューバを着込んで兵舎から飛び出すと、雪が降り積もった収容所ラーゲリの営庭に五列縦隊でもって整列した。

「また所持品検査か?」

 俺ら捕虜達が訝しんでいると、須田中隊長が列の前に出て来て命令する。

「総員傾注! 本日は午前中の労働ラボータを免除し、食堂にて健康診断を行う! 呼ばれた小隊から順に病室に移動し、アントネンコ中尉の診断を受けよ!」

 どうやら今日は久し振りに、労働等級を決定するための健康診断が行われるらしい。そこで俺らは食堂へと移動し、全ての着衣を脱いで性器も肛門も丸出しの全裸になると、この収容所ラーゲリの病室を統率するポリーナ中尉の前に一列になって並んだ。

 ポリーナ・アントネンコ中尉は太った背の低い白人の女医であり、目尻に皺の寄った中年の軍医でもある。そして彼女はいつも無愛想で不機嫌で、待遇改善を訴える患者の声にも一切耳を貸さない、冷徹で無慈悲な女であった。

「佐山矢三郎、お願いします!」

 俺の前に並んだ矢三郎が快活な声でもって名乗りながら一歩前進し、ポリーナ中尉の前に立つと、中尉は彼の顔色や眼の輝き具合などを診察する。

「後ろを向いて」

 中尉に命じられた矢三郎は、彼女に尻を向けた。するとポリーナ中尉は、矢三郎の尻たぶの肉をぎゅっと指でつねる。こうして尻の肉の皮下脂肪のつき具合や肌の色艶を目視で確認し、その結果によって、捕虜の労働階級を決定するのだ。尻の肉をつねるだけの健康診断とは、なんとも単純で、また同時に原始的な診断方法であるとしか言いようがない。

一級ペルヴィー

「佐山矢三郎、一級ペルヴィー!」

 ポリーナ中尉の決定を、彼女を補佐する日本軍の捕虜の軍医が復唱した。どうやら矢三郎の労働階級は一級ペルヴィー、つまり野外での重労働を課される最も過酷な階級である事が決定したらしい。

「次!」

 やがて自分の順番が回って来たので、俺もまた一歩前進し、全裸のままポリーナ中尉の前に立つ。するとポリーナ中尉は俺の裸体をじろじろと睨め回した後に、不意に俺の股間の男性器をひょいとつまみ上げた。

日本人ヤポンスキーのおちんちんは、どうして皆、こうも小さいのかしらねえ」

 彼女の問いに、俺は皮肉交じりに答える。

「はい、中尉殿! 我々日本人の男性器が小さいのは、この収容所ラーゲリで配給される糧食が充分ではないからであります! ですから腹一杯食べさせてもらえれば、太く長く硬い、立派な男性器をご覧に入れましょう!」

 性器丸出しの俺が堂々とした口調でもってそう言うと、普段は無愛想なポリーナ中尉が、珍しく声を上げて笑った。

「あらあなた、なかなか面白い事を言うじゃないの。それじゃあ今度、マシェフスキー所長に糧食の改善を進言しておこうかしらね。そうすればあなたが言う通り、立派なおちんちんを見せてくれるんでしょう?」

「はい! 必ずやご覧に入れます!」

 そう言った俺もまたポリーナ中尉と笑い合ったが、中尉の隣に立つ日本軍の軍医は、なんとも微妙な顔をしている。どうやらこの軍医は、俺の冗談がお気に召さなかったらしい。

「さあ、後ろを向いて」

 ポリーナ中尉に命じられた俺は、彼女に尻を向けた。そして尻たぶの肉をつねって、中尉は俺の労働階級を決定する。

二級ブトロイ

「後藤壮太一等兵、二級ブトロイ!」

 俺の労働階級は二級ブトロイ、つまり一級ペルヴィーと同じく、野外での重労働が課せられる階級であった。

「次!」

 すると俺に続いて、すぐ後ろに並んでいた飯塚一等兵が一歩前に出る。見れば彼の顔面は降り積もった雪の様に蒼白で、がりがりに痩せ細ったその身体は立っているのが精一杯と言うか、気を抜けば今にも昏倒してしまいそうな悲惨な有様であった。

「飯塚……」

 彼の身を案じる俺の視線の先で、ポリーナ中尉が飯塚一等兵の尻たぶの肉をつねる。

二級ブトロイ

「飯塚清一等兵、二級ブトロイ!」

 ポリーナ中尉の決定を、軍医が復唱した。しかし俺は、その決定に納得が行かない。

二級ブトロイ? 中尉殿、飯塚は四級チェティーレか、せめて三級トレティーではないのですか? 今の彼に、野外での労働ラボータは不可能です!」

 俺はそう訴えるが、ポリーナ中尉は首を横に振る。

「いいえ、あたしが二級ブトロイと言ったら、二級ブトロイなの。異論は許しません」

「そんな……」

 にべも無いポリーナ中尉の言葉に、俺は絶句した。労働ラボータが免除されて病室で休んでいられる四級チェティーレか、せめて屋内での軽作業に従事する三級トレティーであれば飯塚一等兵も体調が回復出来るだろうと考えていたのだが、そんな俺の目論見はあっけなく否定されてしまったらしい。

「しかし中尉殿……」

「いいんだ、壮太」

 尚も食い下がってポリーナ中尉の決定に異を唱えようとする俺を、飯塚一等兵が身をもって制した。しかしそんな彼の眼は虚ろで、ふらふらと視線が泳ぎ、まるで焦点が合っていない。こんな健康状態の人間が野外での重労働に従事出来る筈がないと言うのに、渦中の飯塚一等兵は、逆に俺の身を案じる。

「いいんだ、壮太。俺なら大丈夫だ。それよりも、こんな所で俺なんかのために露助ろすけと口論していると、お前の評価が下がって帰国ダモイが遅れるぞ」

「……」

 俺は言葉も無く、性器丸出しの全裸のまま唇を噛みながら、その場に立ち尽くす事しか出来ない。

「貴様ら! そこで何をやっておるか!」

 するとそんな俺と飯塚一等兵の二人を、作業大隊の監督を務める須田中隊長が、カンテラの灯りに禿げ頭を輝かせながら怒鳴りつけた。

「たとえ、所属する軍は違えども、階級の上下は絶対だ! アントネンコ中尉殿に逆らう事は、大日本帝国陸軍の軍規に照らし合わせてみても、理由の如何を問わず許される事ではない!」

 そう言って俺らを怒鳴りつける須田中隊長を、ポリーナ中尉がたしなめる。

「黙りなさい、少尉。あたしの患者を罵倒する事は、この場の責任者であるあたしが許しません。それでも罵倒し続けると言うのならば、マシェフスキー所長に進言し、あなたを処罰してもらわなければならなくなりますよ」

 ロシア語に長けていない須田中隊長は、当然ながら、ロシア語によるポリーナ中尉の警告を理解する事が出来ない。しかしそれでも、自分がたしなめられている事だけは理解出来たのか、それ以上俺らを怒鳴りつける事はなかった。

「災難だったね、一等兵のお二人さん。さあ、診察は終わったから、さっさと兵舎にお帰りなさい」

 不機嫌そうにそう言ったポリーナ中尉に見送られながら、俺と矢三郎、それに飯塚一等兵の三人は、全裸の捕虜達でごった返す食堂を後にする。


   ●


 午前中に行われた健康診断の後に、俺ら日本軍とドイツ軍の捕虜達によって構成された作業大隊は、午後からの労働ラボータに駆り出された。午前中が健康診断によって実質的に休みだったからと言って、気温が氷点下三十度を下回るか極度に天候が悪化しない限りは、労働ラボータが免除される事はない。そして今日の作業もまた、タイガの森での木材の伐採とその運搬である。

「ダワイ! ダワイ!」

 鬱蒼と生い茂るタイガの森に分け入った俺ら捕虜達は、ソ連赤軍の警戒兵カンボーイ達に急かされながら、直径一mを超えるカラマツの大木の伐採作業に取り掛かった。

「倒れるぞ!」

 成人男子を身長をも超える大きなのこぎりでもって、俺らはカラマツの大木を次々に切り倒す。倒れて来る大木に押し潰されて絶命しないか、捕虜達は常に命懸けだ。

「ようし、枝を払って切り揃えろ!」

 班長を務める小隊長の命令に従い、切り倒された大木の枝葉を斧でもって切り払ってから、更に残った丸太を一定の長さで切り揃える。ここまで来れば、後は切り揃えた丸太を下の林道まで運んでから、そこに待機している馬橇に乗せるだけだ。

「飯塚、大丈夫か?」

「……」

 一緒に丸太を運ぶ飯塚一等兵の身を案じて俺は声を掛けるが、彼からの返事は無い。そしてまた同時に、丸太を担ぐ飯塚一等兵の肩と腕にはまるで力が入っておらず、丸太に手を掛けたまま、幽鬼の様にただふらふらと森の中をさまよっているのみである。

「おい飯塚、お前、そのままじゃ本当にやばいぞ」

 しかしそんな俺の警告も、意識が朦朧とした飯塚一等兵の耳には届いていないようだった。そして彼は、他の捕虜達が丸太を馬橇に積むと、その後をふらふらとついて行こうとする。

「おい、飯塚!」

 馬橇を後を追う飯塚一等兵に、俺は呼び掛けた。それと同時に、収容所ラーゲリ目指して歩き始めた馬橇を引く蒙古馬が肛門をおっぴろげながらぶりぶりと馬糞をひり出し、その馬糞がぼとぼとと林道に零れ落ちる。そして次の瞬間、飯塚一等兵その場に立ち尽くしたまま、ぶりぶりと服を着たまま糞尿を垂れ流した。彼が着る襦袢袴下の股から下が見る間に茶褐色に染まって、真っ白な湯気を立てながら、鼻を突く悪臭を周囲に漂わせ始める。

「飯塚!」

 遂に飯塚一等兵は、気を失うようにしてその場にどうと倒れてしまった。馬橇を引く蒙古馬がひった大量の馬糞に顔面から突っ伏しながら昏倒した彼の眼鏡のレンズが、地面に激突した際の衝撃でもって粉々に砕け散る。


   ●


 俺と矢三郎の二人は気を失った飯塚一等兵を肩に担ぎながら、収容所ラーゲリの敷地内の一角に建つ病室へと駆け込んだ。

「アントネンコ中尉殿! 飯塚が! 飯塚が!」

 下半身は糞尿まみれ、更に顔面は馬糞まみれの飯塚一等兵を担ぎ込んだ俺らの姿に、ポリーナ中尉は不快感を露にする。

「まず、その糞まみれの顔を洗って来なさい。診察はその後です」

 ポリーナ中尉にそう言われた俺と矢三郎は仕方無く、一旦飯塚一等兵を営庭に連れ出すと、水桶に汲んであった井戸水でもって彼の顔と股間をよく洗ってから再び病室へと足を向けた。

「どれ、それじゃあ診察してやろうかしらね」

 糞尿を洗い流して綺麗な身体になった飯塚一等兵を病室に並べられた寝台の一つに寝かせると、そう言ったポリーナ中尉が診察を開始する。勿論、こんな僻地の収容所ラーゲリの病室に、まともな医療機器や医薬品なんかが存在する訳がない。だから診察とは言っても、せいぜい聴診器で心臓の鼓動を確かめて血圧を測るくらいのもので、後は軍医による聞き取りと触診のみである。

「重度の赤痢ね」

 それが、ソ連赤軍の将校であると同時に女医でもあるポリーナ中尉が下した診断結果であった。赤痢とは赤痢菌によって媒介される感染症で、激しい下痢や発熱を伴い、重症化すれば死に至る事も少なくない危険な病である。そんな危険な病気が放置されていると言う現状が、この収容所ラーゲリの衛生観念の欠落ぶりを如実に物語っていた。

「労働は免除してあげるから、当分の間はここで大人しく休んでなさいな」

 ややもすれば恩着せがましく聞こえなくもない口調でそう言ったポリーナ中尉に、寝台の枕元に立つ俺は声を荒げて抗言する。

「中尉殿、やはり飯塚は病気だったではありませんか! 何が、彼の労働階級は二級ブトロイですか! こんな状況の飯塚が、野外での労働ラボータに従事出来る筈がないではありませんか! 訂正してください!」

 俺はそう言って抗議するが、無愛想なポリーナ中尉に反省や自責の色は見られない。

「彼の労働階級が二級ブトロイなのは、揺るがない事実よ。ただ、一時的に赤痢に感染していると言うだけ。だから、赤痢が完治したらまた重労働に復帰してもらいます」

 上官であるポリーナ中尉からそう言われてしまっては、一介の兵卒に過ぎない俺は二の句が告げなかった。そしてそんな俺の傍らの寝台に横になった飯塚一等兵は発熱でもって顔を紅潮させ、苦しそうにはあはあと息を荒げている。

「そんな……」

 口惜しげに呟きながら、俺は気を失った状態の飯塚一等兵をその場に残したまま、収容所ラーゲリの病室を後にした。

「糞!」

 戸外に出た俺が罵声と共に降り積もった雪の塊を蹴っ飛ばすと、ちょうどその日の労働ラボータを終えて収容所ラーゲリに帰還した捕虜達の一団と出くわし、その先頭に立った須田中隊長がこちらへと近付いて来て尋ねる。

「飯塚一等兵はどうなった!」

「彼は、赤痢で入院しました」

 俺がそう答えると、須田中隊長もまた、雪の塊を蹴っ飛ばした。そして禿げ頭から真っ白な湯気を立ち上らせつつ、口汚く罵る。

「糞! また病人だ! ふざけおって! このままだと、残された俺達のノルマがますます厳しくなるぞ!」

 シベリアに点在する各収容所ラーゲリは、収監している捕虜の数に応じて、厳密なノルマが課せられていた。このノルマが達成出来ないと収容所ラーゲリの評価が下がり、食糧の配給が減らされるなどの懲罰的措置が取られるだけでなく、内地への帰国ダモイが遅れるとも噂されている。そして収容所ラーゲリごとにノルマが決定されていると言う事は、労働ラボータに従事出来ない病人が増えると、それだけ健常な捕虜の負担が増えると言う事を意味していた。

「これではまた作業編成のやり直しだ!」

 忌々しそうに怒鳴りながら、将校室へと姿を消した須田中隊長。彼の後姿を見送った俺は自分が寝泊りする兵舎へと足を向けたが、帰還する途中で足を止めると肩から提げた雑嚢の中から煙草入れを取り出し、日本新聞の切れ端でもって煙草の葉を巻いてマホルカ煙草をこしらえる。

「矢三郎、先に兵舎に帰っててくれ。ちょっと一人で考えたい事があるんだ」

 そう言って矢三郎を先に帰した俺は、収容所ラーゲリの敷地の反対側に建つドイツ軍の兵舎へと足を向けた。そして兵舎の前でマホルカ煙草を咥え、その先端にマッチで火を点けると、臭くてえぐい紫煙を吐き出す。

「ふう」

 やがて吸い終えたマホルカ煙草を地面で踏み消して覚悟を決めると、俺はドイツ軍の捕虜達が寝泊りする兵舎へと足を踏み入れた。

「ルッツ! ルッツ・アルトマイアーはいるか?」

 出入り口の扉を開けた俺がそう叫ぶと、兵舎の中で寛いでいたドイツ軍の捕虜達が一斉に押し黙り、こちらに注目する。俺を見据える彼らの視線には、同じ収容所ラーゲリに収監されていても絶対に他民族には心は許さない、決しておもねらないと言う、ある種の気概や矜持の様な感情が渦巻いていた。

「壮太!」

 ルッツ兵長が捕虜達の人垣の奥から姿を現すと、彼の名を呼んだ俺と共に、一旦兵舎の外に出る。

「何か、俺に用か?」

 外套シューバを着ていないルッツ兵長が、背筋をぶるっと震わせて真っ白い息を吐きながら尋ねた。

「飯塚が倒れた。赤痢だ」

「イイヅカ? ああ、いつもお前と一緒にいる眼鏡の捕虜か。赤痢とは、それは不運だったな。……それで?」

 問い直すルッツ兵長に、俺は答える。

「以前イエヴァから貰った導笛しるべぶえ、未だ持ってるよな? あれを使って、イエヴァにまた会いたい」

「イエヴァに? 彼女に会ってどうする?」

「彼女に頼んで、別荘ダーチャに備蓄された肉と米を分けてもらいたいんだ。滋養のある物さえ食べれば、きっと飯塚の病状も回復するに違いない。だから、お前が彼女から貰った導笛しるべぶえが必要なんだよ」

「なるほど」

 ルッツ兵長は得心し、首を縦に振った。そして暫し考え込んでから、俺の提案を了承する。

「分かった。一緒にイエヴァの別荘ダーチャを訪ねよう。ただし、今日はもう陽が暮れるし、今から収容所ラーゲリの外に出る方法も無い。だから、彼女に会いに行くのは明日になってからだ。明日の午前中に俺が迎えに行くから、それまでにお前も仲間と口裏を合わせて、労働ラボータの途中でも抜け出せるようにしておけ」

「よし、そうしよう。それじゃあ明日の午前中に、迎えに来てくれ」

「ああ、また明日」

 そう示し合わせた俺とルッツ兵長はその場で解散し、それぞれが寝泊りする兵舎へと足を向けた。そして自分の兵舎に帰還した俺が寝台にごろりと横になると、隣の寝台で寝る矢三郎が心配そうに口を開く。

「飯塚さん、大丈夫でしょうか。それにしても赤痢だなんて、やっぱり、ただ単に体調が悪いだけじゃなかったんですね」

「そうだな。俺らももっと早くに病室に連れて行ってやるべきだったんだが……露助ろすけの奴ら、よほどの高熱でも出さなきゃ、まともに診察もしてくれやしない」

 そう言った俺と矢三郎の二人は、己の無力さを恥じ入って、深い溜息を吐いた。兵舎の窓の外を見れば、とっぷりと陽が暮れた宵闇を切り裂く北風に、ちらちらと小雪が舞っている。


   ●


 翌日の早朝、点呼を終えた俺ら捕虜達は五列縦隊になって、労働ラボータが開始される時間の到来を待っていた。

「開門!」

 ソ連赤軍の将校がそう叫ぶと同時に収容所ラーゲリの営門がぎいぎいと鈍い音を立てながら開き、警戒兵カンボーイに急き立てられた捕虜達は、作業現場であるタイガの森目指してぞろぞろと歩き始める。今日の作業もまた原生林の伐採、そして鉄道を敷設するための整地と地均しであり、どれを取っても決して楽な作業とは言えない。

「壮太! 壮太!」

 やがて伐採作業を開始してから一時間ばかりも経過した頃、警戒兵カンボーイには悟られない程度の押し殺した声でもって、誰かが俺の名を呼んだ。そこでそっと背後を振り返り、視線を巡らせてみれば、後方のカラマツの大木の陰からルッツ兵長が手招きしているのが眼に留まる。

「矢三郎、後は任せた。行って来る」

 俺はそう言い残すと、矢三郎を含めた同じ班の捕虜達の隊列を離れ、木陰に身を隠した。そしてソ連赤軍の警戒兵カンボーイに見つからないように細心の注意を払いつつ、木陰から木陰へと移動しながら、ルッツ兵長が待つカラマツの大木の陰へと急いで移動する。

警戒兵カンボーイに気付かれていないだろうな?」

「ああ、大丈夫だ。奴ら、倒れそうな木の方に注意を向けていて、こっちにはまるで気付いていない」

 捕虜達を監視する警戒兵カンボーイの眼を盗みながら、俺とルッツ兵長は小走りでもってその場を離れた。そして森の奥深くまで足を踏み入れて充分に距離を取ると、ホッと安堵の溜息を漏らす。

「ここまで来れば、もう大丈夫だろう」

「そうだな、それで、導笛しるべぶえはちゃんと持って来たろうな?」

「ああ、ここにある」

 ルッツ兵長はそう言うと、外套シューバのポケットから小さな笛を取り出した。それは表面に細かな細工が施された、動物か何かの骨で出来た美しい笛。つまり、イエヴァから貰った導笛しるべぶえである。

「それじゃあ吹くぞ、いいな?」

 そう前置いてから、ルッツ兵長は口に咥えた導笛しるべぶえをぴいと吹き鳴らした。すると笛の音の高低や音量の大小に呼応するかのように、雪に覆われた地面がぼんやりと青白く光り輝きだす。そしてその光が一本の道となり、薄暗いタイガの森の奥深くへと続いて行くのが見て取れた。

「よし、行くぞ」

 相変わらずどんな仕組みや仕掛けなのかはさっぱり分からないが、とにかく俺とルッツ兵長の二人は光り輝く道を目印にしながらとぼとぼと歩き始める。針葉樹の枝葉が生い茂る森の中はカラマツやモミや白樺の木の根が縦横無尽に張り巡らされ、降り積もった雪に脚が膝まで埋まり、なんとも歩き難くて仕方がない。しかしそんな森の中を導笛しるべぶえに導かれながら一時間余りも歩き続けた末に、ようやく俺ら二人は目的地である別荘ダーチャを視界に捉えた。そしてその煉瓦造りの別荘ダーチャの門扉の前には、狼犬のプラーミャを傍らに従えたイエヴァが立っている。

「こんにちは、イエヴァ」

「やあイエヴァ、思ったよりも早く、また会う事になったな」

 俺とルッツ兵長が、別荘ダーチャの門扉に歩み寄りながら挨拶した。

「ルッツ、壮太、元気だったか? 笛の音が聞こえたから、迎えに出て待っていたぞ。今日はアントンは一緒じゃないのか?」

「あいつは、今日は一緒じゃない。俺らみたいな一介の兵卒だけならともかく、さすがに機関銃を持った警戒兵カンボーイが姿を消したら、目立ってしょうがないからな」

 そう言って笑ったルッツ兵長に、外套シューバを着ていないため首周りの刺青が露になったイエヴァが尋ねる。

「それで、今日は何か、あたしに用か?」

「ああ、壮太がキミに用があるらしい。ほら壮太、早く言ってやれよ」

「実は昨日の夜、俺の同僚が病気で倒れたんだ。だから、その同僚に滋養のある肉と米を食べさせてやれば病気が早く治ると思って、こうしてキミにお願いしに来たと言う訳なんだ。頼む、イエヴァ。米と肉を分けてくれ」

 俺は深々と頭を下げながら、イエヴァに懇願した。戦友である飯塚一等兵を助けるためならば、歳下の少女に対して下手に出る事も厭わないし、なんであれば土下座してやっても構わない。だがしかし、土下座なぞせずとも、彼女は俺の要求を快諾する。

「いいぞ。米も肉も、持って行けるだけ持って行け。米は別荘ダーチャから無くなればすぐに魔女が補充するから、遠慮する事はない」

「本当か?」

 俺は下げていた頭を上げ、歓喜した。

「ああ、本当だ。ただし、残念ながら今は肉を切らしてしまっている。ちょうどこれから狩りに行くところだったんだが、あなた達も一緒に来るか?」

 イエヴァの提案に、俺とルッツ兵長とは暫し逡巡する。

「狩りか……この前みたいに、またひぐまを相手にしたりするのかい?」

「運が悪ければ、ひぐまと出くわしてしまうかもしれない。だが基本的にあたしが狙う獲物は、ユキウサギかシベリアジャコウジカだ。匂いに敏感で聴覚も鋭いプラーミャの警告に従ってさえいれば、そんなに危険な事はない」

「兎か鹿ねえ……それならたぶん、問題無いな。俺らも一緒に行くとするか、ルッツ?」

 俺が結論を下すと、ルッツ兵長も頷いて同意した。

「よし、決まりだな。それじゃあ準備して来るから、ここで待っていろ」

 そう言ったイエヴァは、その場に俺とルッツ兵長、それに狼犬のプラーミャを残したまま別荘ダーチャの母屋へと取って返し、扉の向こうに姿を消した。すると主人の姿を見失っってしまったプラーミャが不安そうにくうんと鳴いたので、俺は彼の頭や首を撫でてやって、寂しさを紛らわせてやる。どうやらその大柄な体格と厳つい面構えに似合わず人懐っこい性格らしいプラーミャは、俺の着ている衣服に身体を擦りつけて自分の匂いを付着させ、まるで生まれたての子犬の様な甘えん坊ぶりだ。

「よしよし、可愛い奴だな、お前は」

 ルッツ兵長もまた、ごろりと雪原の上に寝転んだプラーミャの柔らかなお腹を、手袋を履いた手でもって優しく撫でてやる。撫でられたプラーミャは長い舌を出しながらはっははっはと嬉しそうに喘ぎ、ご満悦だ。

 しかし次の瞬間、恍惚の表情を浮かべながら寝転んでいたプラーミャが何かに気付いたかのようにすっくと立ち上がると、別荘ダーチャの母屋の二階部分をキッと睨みつけながら唸り声を上げ始める。

「プラーミャ? どうした?」

 俺はプラーミャが睨みつける母屋の二階に何か見えるのかと、その視線の先にジッと眼を凝らした。するとカーテンが下ろされた別荘ダーチャの窓の奥で何かが動いたような気もしたが、一瞬の出来事だったのと、あまりにも遠く暗いために、残念ながらはっきりと確認する事は出来ない。

「何かあったのか、壮太?」

「気のせいかもしれないが、誰かが二階からこちらを見ているような視線を感じたんだ」

 俺はルッツ兵長の問いにそう答えると、二人揃って窓の向こうの暗闇に眼を凝らすが、やはり何も確認する事は出来なかった。そしてそうこうしている内に狩りの準備を終えたイエヴァが別荘ダーチャの母屋の扉を開け、その姿を現す。

「待たせたな」

 そう言ったイエヴァは羊革の外套シューバを羽織り、肩にはドイツ軍のKar98k小銃を担ぎながら、腰の革帯には切れ味鋭い肉厚な狩猟用のナイフを差していた。

「壮太もルッツも、二人ともどうした?」

 イエヴァが尋ねたので、俺は答える。

「いや、その、二階から誰かがこっちを覗いているような気がしたんだが……。そう言えばイエヴァ、あの魔女は今、どうしているんだ?」

「この時間だったら、魔女は未だ寝室で寝ている筈だ。特に昨夜は、明け方近くまで町で遊んで来たらしいからな。だからきっと陽が沈んで夜になるまで、起きて来る事はまずないだろう」

「そうか」

 どうやら窓の向こうからの視線は、やはり俺の気のせいらしい。

「よし、それじゃあ行くぞ」

 イエヴァの号令と共に、彼女に先導される格好でもって、俺とルッツ兵長の二人はタイガの森の方角へと降り積もった雪を踏んで歩き始めた。俺らを先導するイエヴァは実弾が装填された小銃を手にしたためか興奮気味で、その足取りは、まるでスキップをするかのように軽い。しかしそんなイエヴァの姿とは対照的に、狼犬のプラーミャは背中と尻尾の毛を逆立たせながら、別荘ダーチャの二階の窓に向かっていつまでも唸り続けていた。

「どうしたプラーミャ、早く来い」

 主人であるイエヴァにそう言って促されたプラーミャは、文字通り後ろ髪を引かれるような思いでもって唸るのを止め、渋々ながら俺ら三人の背後につき従う。こうして俺とルッツ兵長、それにイエヴァとプラーミャの三人と一匹は、糧食となるべき獲物を求めて森の中を歩き始めた。

 シベリアのタイガの森の中は木々が鬱蒼と生い茂り、それら針葉樹の枝葉や苔が群生する地面にはさらさらの新雪が堆く降り積もっていて歩き難く、背筋が凍るように寒くて仕方がない。それでも長時間歩き続ければ、次第に体温が上昇し始めて、ぽかぽかと身体が温まり始める。だがしかし、ここシベリアではあまり身体を温め過ぎて、必要以上に汗をかいてしまってはならない。汗をかき過ぎると立ち止まった際にその汗が凍り、全身が霜焼けによる低音火傷でもって焼け爛れてしまうのだ。

「止まれ!」

 やがて半時ばかりも歩き続けた末に、イエヴァが片手を上げながら押し殺したような声でそう言うと、足を止めて屈み込む。

「どうした、イエヴァ?」

「動物の糞だ。未だ柔らかい。近くにシベリアジャコウジカがいるぞ」

 雪原の上に転がった、未だひり出されてから間も無いころころとした鹿の糞を観察しながらイエヴァが言った。

「あっちの高台に登って、周囲を探そう」

 俺ら三人と一匹は、転がっていた糞の主を求めて高台に上る。そして双眼鏡でもって周囲をよく観察すると、二百mばかり風上の低湿地帯で、二頭のシベリアジャコウジカが雪に頭を突っ込みながら苔や下草を食んでいるのが見て取れた。

「いたぞ」

 そう呟いたイエヴァは担いでいたKar98k小銃を肩から下ろし、ボルトを引いて初弾を薬室に装填すると膝立ち姿勢で構え、二頭のシベリアジャコウジカの内の一頭に照準を合わせた。そして彼女は呼吸を止め、照星を覗き込む右眼の視神経と、引き金に掛けた右手の人差し指に意識を集中させる。

 一瞬、まるで時が止まったかのように、真っ白な新雪に覆われた森の中がしんと静まり返った。するとその時、こちらの気配にようやく気付いたのか、不意に頭を上げた二頭のシベリアジャコウジカがきょろきょろと周囲の様子をうかがう。しかし二頭が逃げ出そうとして身を屈めたその刹那、イエヴァが小銃の引き金に掛けた指を躊躇無く引き絞った。ターンと言う尾を引くような銃声と共に射出された小銃弾が、一拍の間の後に向かって右側に立っていたシベリアジャコウジカの側頭部を撃ち抜き、即死した獲物はその場にどうと倒れたままぴくりとも動かない。

「やった!」

 俺ら三人はほぼ同時に、揃って歓喜の声を上げた。その声が木々の狭間にこだまするのを聞きつけた訳でもなかろうが、残った一頭のシベリアジャコウジカは森の奥深くの暗闇の中へとあっと言う間に逃げ去り、気付けばもうその姿は無い。

「一頭逃げたぞ、イエヴァ。追うか?」

「いや、追う必要はない。獲物は一頭で充分だ」

 ルッツ兵長の問いにそう答えたイエヴァを先頭に、俺ら三人と一匹は急いで高台を駆け下りる。そして風上の方角に駆け続けて低湿地帯に足を踏み入れると、そこに転がっているシベリアジャコウジカの死体に近付いた。側頭部を撃ち抜かれたシベリアジャコウジカは、完全に死んでいる。

「さあ、解体するぞ」

 そう宣言したイエヴァが、腰の革帯からナイフを抜いた。そして地面に崩れ落ちているシベリアジャコウジカの前に屈みこむと、まずはその喉を切り裂き、血抜きを行う。切り裂かれたシベリアジャコウジカの喉からは真っ赤な鮮血がとうとうと溢れ出て来て、真っ白な雪原を赤く濡らした。

 シベリアジャコウジカは日本に生息するニホンジカとは違って、雄の成体であっても頭に角が生えない。その代わりと言ってはなんだが、性器と臍との間に麝香腺と呼ばれる機関を有し、ここから分泌される麝香の匂いによって牝の個体を惹きつける。そしてこの麝香腺は香水の原料として高値で取引されているのだが、どうやらイエヴァはその点に関してはまるで興味がないらしく、仕留めたシベリアジャコウジカの麝香腺をわざわざ取り分けたりはしない。

 やがて血抜きが終わった獲物の身体を、イエヴァは解体し始めた。まず初めにシベリアジャコウジカの喉元にナイフの刃先を突き入れ、そのまま一気に肛門付近まで、一文字に腹を切り裂く。すると鮮血によって赤くてらてらと輝くピンク色の内臓が露になり、生臭い匂いがむわっと周囲に広がった。そしてそこから四肢の先端に向かって、漢字の『士』の字の様に切れ目を入れると、真皮と皮下脂肪の間にナイフの刃先を滑らせながら、器用に毛皮を剥いで行く。

「内臓と骨は、捨てる」

 イエヴァは毛皮を剥ぎ終えた獲物の腹腔と胸腔から湯気を立てる内臓を掻き出すと、それら全てを無造作に雪原に放り捨てた。どうやら彼女には、獣の心臓や肝臓を調理して食べたり、小腸を利用した燻製肉である腸詰めを作ったりするような習慣は無いらしい。日本人である俺やドイツ人であるルッツ兵長は、内臓が無駄に捨てられてしまう事を少しばかり勿体無いなと思う。だがそんな俺らには眼もくれず、やはりイエヴァは慣れた手捌きでもって、獲物の肉と骨とを素早く器用に分割し始めた。そして気付けば、彼女によって仕留められた一頭の雄のシベリアジャコウジカは毛皮と肉と骨と内臓との四つの部位に切り分けられ、雪原の上に整然と並べられる。

「さあ、別荘ダーチャに帰ろう。ルッツ、壮太、肉を持て」

 そう言ったイエヴァに指示され、俺とルッツ兵長の二人は解体されたシベリアジャコウジカの枝肉を肩に担いだ。担いだ枝肉は未だ温かく、仄かに湯気が立ち上っている。そして革帯にナイフを差し直したイエヴァはKar98k小銃と毛皮を担ぎ、狼犬のプラーミャが捨てる予定の骨の山の中から大腿骨を選び出してそれを咥えると、俺ら三人と一匹はその場を後にする。

「それにしても、こんなに早く無事に獲物を仕留められたのは、運が良かったな」

 別荘ダーチャに帰る道すがら、ルッツ兵長が呟いた。

「ああ、そうだな。肉もこれだけあれば、飯塚にたっぷり食べさせてやれる」

 そう言った俺は、先頭を歩くイエヴァに尋ねる。

「それにしてもイエヴァ、あの距離で一発で生きたシベリアジャコウジカを仕留めるとは、まさに銃の名手だな。役立たずの歩兵に過ぎなかった俺なんかよりも、遥かにいい腕前だ。いつ頃から狩りをするようになったんだい?」

「六年前に魔女に呪いを掛けられた時から、ずっと森の中で狩りをする事を強要されている。魔女は新鮮な肉が好きだからな。それ以前にウクライナに住んでいた頃には銃なんか触った事も無かったのに、もうすっかり一人前の狩人になってしまった」

「ウクライナに住んでいたって事は……キミはこの地で生まれ育った、生粋の地元民じゃないのか」

「そうだ、地元民じゃない。ウクライナで生まれ育った。あたしのロシア語が拙いのも、母国語じゃないからだ」

 俺の問いに、イエヴァが答えた。彼女の横顔はどこかしら寂しそうと言うか、過ぎ去った日々に思いを馳せるかのように儚げな、愁いを帯びた郷愁の表情である。

「イエヴァ、壮太、別荘ダーチャが見えて来たぞ」

 やがて一時間ばかりも森の中を歩き続けた末に、そう言ったルッツ兵長の言葉通り、前方の開けた土地に立つ煉瓦造りの別荘ダーチャが視界に入った。

「よし、それじゃああなた達はここで待っていろ。すぐに肉を切り分けて、米と一緒に用意してやる」

 別荘ダーチャの玄関先でそう言ったイエヴァが、母屋の出入り口である分厚い木製の扉をぎいと開ける。開け放たれた扉の向こうは真っ暗で、陽の光が一切届かない漆黒の闇の様に見えた。すると不意に、その闇の奥から彼女の名を呼ぶ声が届く。

「帰って来たのね、イエヴァ」

 その声は、穏やかで優しそうな大人の女性の声であった。むしろ穏やか過ぎて、少しばかり気色が悪い。

「あらイエヴァ、良く見たらお客様が一緒じゃないの。おもてなししなくっちゃね。さあ、家の中まで上がって来てもらってちょうだいな」

 その声の主、つまり魔女ヴァレンティナはそう言うと、くすくすと楽しそうにほくそ笑んだ。予想もしていなかった魔女の登場に俺とルッツ兵長とイエヴァの三人は言葉を失い、狼犬のプラーミャは暗闇に向かって唸り声を上げ続けている。

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