第四幕
第四幕
文字通りの意味でもって艱難辛苦に耐え忍ばなければならない臥薪嘗胆の日々においても、ギリシア正教の安息日たる日曜日だけは、
その日曜日の午前中、俺は矢三郎と共に、
「壮太さん、それ、面白いですか?」
他の捕虜達と花札を引きながら、矢三郎が俺に尋ねた。虚を突かれる格好になった俺は読んでいた本から顔を上げると、彼に「うん?」と問い返す。
「それ、面白いですか?」
改めて、矢三郎が尋ねた。
「そうだな、まあまあかな。まあ、いい暇潰しにはなるさ」
自嘲気味に微笑みながらそう返答した俺が読んでいた本は、帝政ロシアの文豪として名高いドストエフスキーの最晩年の代表作である『カラマーゾフの兄弟』。当然ながら日本国内で発売された邦訳版ではなく、ロシア語で書かれた原書である。
「僕も、ロシア語が理解出来れば読めるんですけどね」
「俺が教えてやろうか?」
「そうですね……いや、結構です。僕は壮太さんと違って、そこまで活字に飢えてはいませんから」
矢三郎は首を振りながらそう言うと、花札を引く手に意識を集中させた。俺ら捕虜達がこうして安息日の一時を過ごしている食堂の一角には大きな本棚が置かれ、そこには共産主義を謳うマルクスやレーニンやスターリンの著書と共に、ドストエフスキーやトルストイと言った文豪による小説や思想書も数多く並んでいる。これはつまり、捕虜達にも共産主義思想やロシア文化に接する機会を与えて赤化しようと言うソ連赤軍の魂胆なのだが、残念ながら捕虜達の大半はそもそもロシア語がまるで読めない。だから稀に、俺の様なロシア語が堪能で活字に飢えた物好きがぱらぱらと頁を繰るだけで、プロパガンダとしては殆ど意味は無かった。
食堂の各所に置かれたペチカの中ではぱちぱちと言う小気味良い音楽を奏でながら薪が燃えていて、放射熱によって温められた空気が室内に充満し、なんとも心地良い。野外での労働の無い安息日にこうして暖かい食堂で寛いでいると、この上無い幸福感に心身を委ねているようで、なんだか無性に眠たくなって来てしまう。これで空腹でさえなければ完璧なのだがと思いながら、俺は簡素な木製の椅子に腰掛けて『カラマーゾフの兄弟』を手にしたまま、うとうとと船を漕ぎ始めていた。そしてゆっくりと、意識が遠くなって行く。
「後藤一等兵! 後藤壮太一等兵はいるか!」
不意に名前を呼ばれて、うたた寝をしていた俺はハッと眼を覚ました。見れば一人の日本軍捕虜が食堂の入り口近くから俺の眼を見据えながら、こちらへと小走りでもって駆け寄って来る。その捕虜の階級は肩章からすると少尉であり、作業大隊の最高指揮官である綾瀬大隊長の従卒の一人であった。
「後藤一等兵! 通訳の仕事だ! 至急、将校室へと急げ! 大隊長殿がお呼びだ!」
何が何だか分からないまま、綾瀬大隊長の従卒である少尉に急き立てられた俺は、収容所の敷地の一角に建つ将校室へと急ぐ。将校室とは日本軍とドイツ軍の将校が寝泊りする施設の暫定的な呼称であり、火急の用件が無い限りにおいては、俺らの様な一平卒が出入りする事は堅く禁じられていた。ちなみにソ連赤軍の将校は
「後藤一等兵、召喚に応じて只今参りました!」
従卒の少尉と共に食堂を出て将校室に足を踏み入れた俺はそう言うと、背筋を伸ばして姿勢を正しながら、最敬礼でもって上官に敬意を示した。将校室の中には綾瀬大隊長と須田中隊長をはじめとする日本軍の将校達が一堂に会し、全員が険しい表情を崩さず、何やら物々しい雰囲気を醸し出している。
「来たか。それではさっそく、我々は官舎へと向かう」
将校達の中でもとりわけ険しい表情の綾瀬大隊長が、指先でしごくように、彼の特徴であるちょび髭を撫でながら言った。そして日本軍の将校達とその従卒達、そして通訳を務める俺を含めた総勢十名ほどは、ソ連赤軍の
「マシェフスキー大尉殿はおられるか! マシェフスキー大尉殿! 応答せよ!」
営庭を縦断して官舎に足を踏み入れた綾瀬大隊長がそう叫びながらノックしたのは、広い建屋内でも最奥に位置する、歩哨が警護する所長室の扉であった。所長室、それはつまり、この
「入りたまえ」
扉の向こうから、低く落ち着いた声が俺らの耳に届いた。勿論それはロシア語であったが、翻訳するまでもなく、その場に居合わせた全員がその意味を理解する。そこで綾瀬大隊長はドアノブを回して扉を開けると、他の日本軍の将校達を背後に従えたまま、さほど広くはない所長室へと足を踏み入れた。
「私に、何の用かな?」
やはり低く落ち着いた声でもってそう言ったマシェフスキー大尉は、所長室の中央に置かれた革張りのソファに腰を下ろしながら、こちらを一瞥する。大尉はソ連赤軍の軍人らしからぬ細身のヤサ男で、腹に一物ありそうな薄笑いを常にその口端に浮かべる、智略に長けた頭脳派の将校であった。
「大尉殿! 今日は直々に談判すべき案件があって、ここに参った次第である!」
テーブルを挟んでマシェフスキー大尉と相対した綾瀬大隊長は日本語でそう言うと、通訳を命ぜられた俺に向かって顎をしゃくる。
「大尉殿、綾瀬大隊長殿は大尉殿に直訴したい事があるそうです」
俺はロシア語で、綾瀬大隊長の言葉をマシェフスキー大尉に伝えた。
「直訴? それはまた、随分と大袈裟な物言いではないか。まあ、よかろう。聞くだけ聞いてやるから、言ってみるがいい」
ソ連赤軍の軍服に身を包んだマシェフスキー大尉はその顔に薄笑いを浮かべながら、こちらに耳を傾ける。
「先般ハバロフスクから転属して来た捕虜によれば、他の
綾瀬大隊長はちょび髭を震わせながら、大声で捲くし立てた。そこで俺は彼の発言の要点を簡潔に纏め、ロシア語でもってマシェフスキー大尉に伝える。
「大尉殿、この
俺がそう言うと、マシェフスキー大尉は「なるほど、なるほど」などと呟きながら、小刻みに顎を上下させていた。
「おい、通訳。こちらの言っている事は、ちゃんと大尉殿に伝わっているんだろうな?」
綾瀬大隊長は怪訝そうにそう言うと、じろりと俺を睨み据える。
「はい、大隊長殿。問題ありません」
内心では少しだけ心配しつつそう言った俺は、マシェフスキー大尉の反応を待った。そして暫しの間を置いた後に、大尉は薄笑いを浮かべたままゆっくりと口を開く。
「綾瀬大隊長殿が言いたい事は、だいたい理解した。彼の願望が成就される事を、私も切に願っているよ」
「大尉殿は、大隊長殿に賛同すると仰っています」
今度はマシェフスキー大尉の発言の要点を簡潔に纏め、綾瀬大隊長に日本語で伝えた。すると調子に乗った彼は更に声量を増しながら、早口でもって捲くし立てる。
「ならば、大尉殿にはこの場で一筆、階級撤廃は決して行わないと確約する旨の念書をしたためていただきたい!」
「大隊長殿は、階級撤廃を行わないとの念書が欲しいそうです」
なかなか無茶な注文をするものだと思いながら通訳としての責務を果たすが、一介の兵卒に過ぎない俺には、将校同士の会話に異論を挟む権利は無い。
「なるほど、念書か。しかし残念ながら、それは難しい相談だと言わざるを得ない。なにせ、階級撤廃を行うか否かを判断するのは
「内務省が許可しないと念書は書けないと、大尉殿は仰っています」
通訳である俺がそう言うと、綾瀬大隊長の顔色が変わった。彼は顔面を真っ赤に紅潮させて激昂しながら、マシェフスキー大尉を怒鳴りつける。
「それでは話になりません! 笑止千万にもほどがある! 念書が無ければ、今夜一晩ですら、我々は枕を高くして眠る事も出来ないのですぞ!」
「綾瀬大隊長殿は、どうしても念書が欲しいそうです」
俺は感情的な言葉を使わないように配慮しつつ、綾瀬大隊長の発言を要約した。するとマシェフスキー大尉は暫し考え込んだ後に腕組みをしながら、落ち着き払った声で言う。
「了解した。それでは私の方から内務省宛に、階級撤廃を行わないとの旨の念書を書く許可を得るべく、上申しておこう。勿論、内務省が許可するか否かは、今ここでは断言出来ない。しかし可能な限り善処すると言う事で、今日のところは納得してはくれないだろうか」
「大尉殿は、内務省の許可を得るまで我慢してほしいと仰っています」
そう言うと、激昂していた綾瀬大隊長は怒りを静めた。そして彼は最後に、胸を張りながら叫ぶ。
「分かった。それではマシェフスキー大尉殿に、ソ連内務省との交渉を一任しよう! その上で、近日中に必ずや、我々が希求すべき内容の念書をしたためていただきたい! 以上である!」
「大隊長殿は大尉殿の提案を受け入れ、念書がしたためられるまで待つそうです」
すると言うべき事を言い終えて納得したのが、綾瀬大隊長は「失礼する!」と一声叫ぶと踵を返し、部下である他の将校達やその従卒達をぞろぞろと引き連れながら所長室から出て行ってしまった。後には退室の機会を逃した俺と、この所長室の主であるマシェフスキー大尉の二人だけが残される。
「キミも大変そうだな、
革張りのソファに腰を下ろしたマシェフスキー大尉は、深い溜息混じりにそう言った。
「それほどでもありません、大尉殿」
謙遜しつつ、俺もまた所長室から出て行こうとする。
「ところでキミ、その手に持っているのは何かね?」
マシェフスキー大尉にそう言われて、ようやく俺は、食堂で読んでいた本を手に持ったままである事に気付いた。どうやら無意識の内に、ここまで持って来てしまっていたらしい。
「これは、食堂にあった小説です」
俺はそう言いながら、手にした本の表紙を大尉の方に向ける。
「ほう、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』かね。捕虜がそんな本を読んでいるとは、意外だな」
それは少しだけ棘のある物言いだったが、敢えて指摘するほどの事でもないので、俺は特に気にしない。
「大尉殿、それではこれで失礼させていただきます」
敬礼しながらそう言った俺は所長室を退室し、そのまま官舎を後にした。そして雪が降り積もった営庭を縦断して食堂に戻ると、ペチカの火に当たりながら再び読書に専念する。
「後藤壮太一等兵! 佐山矢三郎!」
すると不意に、誰かが俺と矢三郎の名を呼んだので、俺は読んでいた本からついと顔を上げた。見れば禿げ頭を輝かせた須田中隊長が、こちらを睨み据えながら手招きしているのが眼に留まる。そこで俺ら二人はそれぞれ読書と花札を一時中断し、椅子から腰を上げると、須田中隊長の元へと駆け寄った。
「何でありましょうか、中隊長殿!」
俺が尋ねると、須田中隊長はややもすれば恩着せがましいような口調でもって命令する。
「これより貴様ら二人に、炊事係の手伝いを命じる! 急いで炊事場に向かい、田所曹長の指示に従え! 以上!」
「了解いたしました! 後藤壮太と佐山矢三郎の二人は、これより炊事係の手伝いに向かいます!」
そう言った俺と矢三郎は、食堂の隣の炊事場へと急いだ。ちなみに田所曹長とはこの
「よく来たな、二人とも。それじゃあ、そこに積んである野菜の皮を剥いておいてくれ」
炊事場に移動すると、田所曹長が俺ら二人にそう命じた。しかし小太りで気さくな中年男性である田所曹長の口調は柔らかく、命じたとは言っても、嫌味ったらしさや威圧感は微塵もない。そして俺らは命令通り、炊事場の一角に積まれた馬鈴薯や人参と言った野菜の皮を、小さなペティナイフでもって丹念に剥き始める。どうやらこれらの野菜が、今日の夕食の食材らしい。
「やりましたね、壮太さん」
「ああ、僥倖とはまさにこの事だ」
野菜の皮を剥きながら、俺と矢三郎はほくそ笑んだ。そしてわざと厚めに剥いた野菜の皮を口へと運び、生のままむしゃむしゃと食む。
「役得、役得」
この
「他に何か、食べられそうな物は無いか?」
コンロの周りで夕食の調理に従事する炊事係の捕虜達から咎められない程度に炊事場内をうろつきつつ、俺は矢三郎と一緒に食べられそうな残飯を探す。するとゴミ箱の中に幾つかの空き缶が無造作に捨てられていたので、俺はその内の一つを拾い上げた。缶に印字された注意書きによれば、中身はアメリカ合衆国産のバターであり、おそらくは同じ連合国からの援助物資の一部だろう。昨年から今年に掛けて食糧難に襲われたソ連の各施設には、こうして他国からの援助物資が数多く届けられていた。
「勿体無いなあ」
そう呟きながら、俺は缶の底にこびりついたバターの残骸を指でこそげ取ると、その指をべろべろとしゃぶる。隣では矢三郎も同じように、別の缶の中身を無心になって漁っていた。そんな俺らの姿は傍から見るとみっともない事この上無いが、迫り来る餓死の恐怖に怯えて暮らすほどの極度の空腹の前では、綺麗事など言っていられる筈もない。
「野菜の皮剥き、終了いたしました!」
一通り野菜の皮剥きとつまみ食いを終えた俺と矢三郎の二人は、その旨を炊事場の責任者である田所曹長に報告した。勿論報告したのは皮剥きに関する点のみで、つまみ食いに関しては俺らも田所曹長も、特に言及はしない。炊事係とその手伝いをする捕虜がつまみ食いをするのは、この
「ご苦労さん。それじゃあ後は夕食まで、自由に過ごしてくれ」
小太りの田所曹長にそう言われた俺と矢三郎は、炊事場を後にする。
「矢三郎、俺はちょっと、髪を切りに行って来る」
「床屋ですか」
「ああ、だいぶ前髪が伸びたし、そろそろ髭も剃りたいからな」
「行ってらっしゃい」
矢三郎に見送られながら、俺は
「いらっしゃい」
「兵長殿、散髪をお願いいたします」
「あいよ、いつも通り短くすればいいね」
そう言って鋏と櫛を用意する杉田兵長も、炊事係の田所曹長と同じく、気さくな中年男性だ。彼らの様に腕に覚えのある元職人達は、職業軍人である須田中隊長や綾瀬大隊長とは違って、階級を笠に着て威張り散らしたりはしない。
「今年ももう、随分と寒くなったね」
「そうですね、兵長殿」
伸びた髪を切ってもらいながら、俺と杉田兵長は世間話に花を咲かせる。理髪室の中では日本軍やドイツ軍の捕虜達だけでなく、ソ連赤軍の
「来年こそは春になったら
一縷の望みに賭けて俺は尋ねるが、杉田兵長は首を横に振る。
「悪いけど、さっぱりだね。
「そうですか」
がっかりと落胆した俺は、理髪室の天井に向かって深い溜息を吐いた。しかしそんな俺の落胆ぶりを気にする素振りもなく、杉田兵長は俺の髪に鋏を入れて、その腕前を披露し続ける。
「髭はどうするね?」
「顎だけ残して、鼻の下と唇の下は剃ってください」
「あいよ。チン毛も剃って行くかい?」
「チン毛は……今日のところは、そっちはやめときます」
俺は少しばかり考えあぐねてから、杉田兵長の問いに答えた。俺や杉田兵長が言うところの『チン毛』とは、敢えて説明するまでもないが、男性器の周りに生える陰毛の俗称である。
「終わったよ。お疲れさん」
「ありがとうございました、兵長殿」
やがて散髪を終えてさっぱりした俺は理髪室を後にし、再び食堂へと移動した。するとちょうど、炊事係が夕食の配膳を始めるところだったので、俺と矢三郎は兵舎で休んでいる筈の飯塚一等兵を呼びに行く。
「飯塚、飯の時間だ。立てるか?」
俺は兵舎の一角の寝台で横になる飯塚一等兵に、優しく呼び掛けた。しかしぐったりとしたままぴくりとも動かない彼は毛布に包まったままで、幾ら呼び掛けても返事はない。
「飯塚?」
何度か呼び掛けた後に、ようやく飯塚一等兵はゆっくりと顔を上げ、眼を開けた。げっそりと頬が痩せこけたその顔色は蒼白で、眼の下には黒く深い
「もう飯か」
力無い声でそう言った飯塚一等兵は、億劫そうに寝台から起き上がった。
「どうだ? 立てるか?」
「ああ、大丈夫だ。一人で立てる」
眼鏡を掛け直した飯塚一等兵はそう言って気丈に振る舞うが、やはり体調は思わしくないようで、その足取りはふらふらと覚束無い。だがそれでも彼は、俺と矢三郎に身体を支えられながら食堂に赴くと、炊事係によって配膳された夕食を手に席に着いた。飯盒によそわれた今日の夕食は、小さく刻まれた肉と野菜が入った麦のカーシャと鰊の塩漬け、それに僅かな黒パンだけである。
「こんな薄い粥じゃあ、食った気がしないなあ」
飯盒の半分にも満たない水っぽいカーシャを啜るように食いながら、俺は呟いた。
「満州で開拓民の身分だった頃だって、もっとマシな物が食べれたんですけどねえ」
俺の隣では、元は満蒙開拓青少年義勇軍の一員だった矢三郎もまた、さして美味くもないカーシャを啜っている。
「矢三郎は、確か内地に妹がいるんだったよな?」
「はい。両親と妹が、内地で僕の帰りを待っている筈です。まあ、もう三年も会っていませんから、生きていたらの話ですけれど」
若者らしいあっけらかんとした口調で矢三郎がそう言うと、向かいの席でカーシャを啜っていた飯塚一等兵の匙が止まる。
「妹か……幸子は元気にしているかなあ……」
どうやら彼は、内地に残して来た幼い妹である幸子さんの身を案じているらしい。
「そうだな、シベリアに抑留されてからは、お前が毎日書いていた手紙も書けなくなったからな。そう言えば今年の春頃に、家族に宛てた手紙を
「さあな。あれが幸子に届いていればいいんだが……まあ、
故郷の我孫子町で待つ家族の姿を脳裏に思い浮かべているのか、飯塚一等兵が微かに微笑みながらそう言った。それにしても、ソ連当局によって書かされた往復郵便葉書は本当に内地の家族の元に届いているのか、いささか心配である。また葉書の往信は全てカタカナで書かされたので、その内容が当局によって検閲された事は疑いようがない。そのため俺も、葉書には「シベリアで元気にしていますから安心してください」と言った、当たり障りの無い無難な内容しか書く事が出来なかった。
「壮太さん、来年こそは
矢三郎の問いに、俺は首を傾げる。
「どうだろう。噂によれば幾つかの
「春か……」
蚊の鳴くような声でそう呟いた飯塚一等兵は、遠い眼でもって虚空を見つめていた。そして気付けば、彼が手にした匙の動きはずっと止まったままである。
「どうした飯塚? もう食べないのか?」
「ああ、ちょっと食欲が無くてな」
「無理してでも食べておいた方がいいぞ。この糞寒いのに何も食べず空腹のままでいたら、それこそ何も出来なくなっちまう」
しかし俺の助言も空しく、飯塚一等兵はもうこれ以上、一口もカーシャを食べる事が出来ない。それほどまでに、彼の体調は悪化し続けているのだ。いよいよをもって、これは末期である。
「悪いが、先に兵舎に帰って休ませてもらうよ。残りはお前らが食ってくれ」
そう言った飯塚一等兵は俺に飯盒と黒パンを手渡すと、ふらふらと覚束無い足取りのまま食堂から出て行ってしまった。俺と矢三郎の二人は手渡された飯盒の中のカーシャと黒パンを分け合って食べながら、彼の健康状態を憂慮せざるを得ない。
「ごちそうさま」
やがて夕食を食べ終えた俺らは、他の捕虜達と一緒にぞろぞろと兵舎へ帰還する。そして粗末で不潔な寝台を覗けば、飯塚一等兵は既に毛布に包まりながら、か細い寝息を立てていた。
「壮太さん、一緒に花札でもどうです?」
「いや、俺はこれを読んでから寝るよ」
俺は矢三郎の誘いを断ると、兵舎の中を仄白く照らすカンテラの近くに腰を下ろし、食堂から持って来た『カラマーゾフの兄弟』の続きを読むともなしに読み始める。無神論者のイヴァンと修道士のアレクセイが神の存在について論戦を繰り広げる下りはなかなかに刺激的で、示唆に富んでいる、ロシア文学史に残る名場面だ。
「消灯時間だ! 総員就寝!」
そうこうしている内に午後十時の消灯時間を迎えたらしく、腕時計を所持している小隊長の号令でもって、俺ら捕虜達は毛布に包まって就寝の準備を始める。
「消灯!」
程無くしてカンテラの灯が落とされ、兵舎の中は暗闇に包まれた。薄っぺらい毛布に包まり、捕虜同士で身を寄せ合っていても、冬のシベリアは全身の血が凍りつくかと思うほど寒くて仕方がない。
「うう、寒い」
ぶるっと背筋を震わせながら、俺は静かに眼を閉じた。そしてゆっくりと意識が遠退き、夢の国へと旅立ち始める。
「ああああああああああっ!」
するとその時、まるで断末魔の悲鳴の様な大音量の叫び声が、薄暗い兵舎の中にこだました。一体全体何事かと、寝台に横になっていた捕虜達が一斉に眼を覚ます。見れば一人の中年の捕虜が、兵舎の通路の真ん中で仁王立ちし、天井に向かって大口を開けながら絶叫していた。
「何だ何だ?」
困惑する俺らの視線の先で、その中年の捕虜は両眼をかっと見開いたまま叫び続ける。
「もうたくさんだ! いつまでもこんな生活してられるか! 俺は日本に帰るぞ!」
ぼりぼりと頭を掻き毟りながらそう叫んだ中年の捕虜は
「ああ、またか」
俺はそう呟いて、
「
「さあ、死体を運べ! ダワイ! ダワイ!」
「また脱走者か! これで何度目だ!」
すると須田中隊長を背後に引き連れた綾瀬大隊長が将校室から姿を現し、倉庫に駆け込んで来るなり怒気を孕んだ声で叫ぶと、忌々しそうにぺっと唾を吐き捨てる。
「まったく、なんと嘆かわしい事だ! 軍規が乱れておる! 一人脱走者が出る度にこの
眉間に深い縦皺を刻ませながらそう怒鳴った綾瀬大隊長は、倉庫に運び込まれた中年の捕虜の死体の脇腹を蹴り飛ばした。俺はそんな大隊長に抗言しかけたが、上官に対して異を唱える事は許されないので、ぐっと口を噤む事しか出来ない。
「貴様らも連帯責任だ! そこに並べ!」
死体を倉庫に運ぶよう命じられた俺ら四人の初年兵達は横一列に並ばされると、歯を食いしばる。
「須田少尉! やれ!」
「は!」
綾瀬大隊長に命じられた須田中隊長が、並ばされた俺ら四人の頬を次々と平手で引っ叩いた。強烈なビンタを喰らった事によって、意識が飛んでその場に膝から崩れ落ちそうになり、口の中に血の味が広がる。言うまでもない事だが、中年の捕虜が脱走しようとした件に関しても彼が射殺された件に関しても、本来ならば俺らには何の責任も無い。
「申し訳ありませんでした、大隊長殿!」
心にもない事を叫び、俺らは綾瀬大隊長に謝罪した。幾ら理不尽だと感じても、上官に逆らう事は出来ない。無力な平卒である俺らに出来る事は、犬の様に従順なふりをして、上官に尻尾を振る事のみである。
「いいか! 貴様らはゆめゆめ、
そう命じられた俺ら四人は、硬い倉庫の床に寝かされた中年の捕虜の死体の衣服や所持品を、無言で剥ぎ取り始めた。
「まったく、この不心得者めが! 恥を知れ、恥を!」
そう罵ると、綾瀬大隊長は再び、全裸になった中年の捕虜の死体を蹴り飛ばした。蹴り飛ばされた死体は未だに、かっと眼を見開いたまま静かに微笑んでいる。
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