第三幕
第三幕
その日も俺ら捕虜達は早朝から
「ようし、今日の作業は終了だ!
どうやら既に、終業時刻である午後四時を迎えていたらしい。そして
「ああ、今日もまた疲れたなあ」
疲労困憊の捕虜達が、ある者は項垂れ、ある者は溜息を漏らしながらとぼとぼと歩き始める。
「
不意に、ソ連赤軍の将校が叫んだ。見ればその将校はこちらを見据え、手招きしながら俺を呼んでいる。
「何の用でしょうか、将校殿」
「これから我々とお前らとで、来週以降の作業に関する打ち合わせを行う。我々と一緒にここに残り、通訳せよ」
疲れ果てた身体に鞭打って駆け寄ろうとする俺に、将校が命令した。見れば彼の隣には作業大隊の監督を務める須田中隊長のほか、ドイツ軍の将校や、通訳のルッツ兵長も雁首を揃えている。ロシア語が堪能な俺やルッツ兵長などは、こうして通訳の職務を命ぜられる事も少なくない。
「それじゃあ壮太さん、僕らはお先に失礼します」
そう言った矢三郎は他の捕虜達と一緒に
「ああ、また後で会おう」
俺もまた別れの言葉を口にすると、将校らの打ち合わせとやらに参加するために雪道を急ぐ。昨夜から降り続いていた小雪は陽が傾くにつれてその激しさを増しつつあり、その場に居合わせた全員の肩や頭にはうっすらと雪化粧が施されていた。ちなみに打ち合わせの面子はソ連赤軍の将校とそれを警護する
「幸いにも伐採作業が順調なので、来週からはこれと平行して、鉄道を敷設するための整地作業を行う事になった。そこでまず、測量の技術を有する捕虜を、他の
ソ連赤軍の将校はロシア語でそう言うと、俺やルッツ兵長と視線を合わせながら、顎をしゃくった。どうやら彼の言葉を、日本語とドイツ語に訳せと言う事らしい。
「彼は何と言っているのだ?」
作業大隊の監督である須田中隊長が、被っていた
「はい、中隊長殿。来週より、他の
俺は即座に、日本語に訳して聞かせた。隣に立つルッツ兵長もまた、自国の軍の将校に、ソ連赤軍の将校の発言をドイツ語に訳して聞かせている。
「なるほど、作業大隊を二つに分ければいいのだな」
再び禿げ頭の汗を拭った須田中隊長が、うんうんと頷きながら得心した。そして通訳である俺とルッツ兵長を間に挟みつつ、ソ連赤軍の将校と日本軍の須田中隊長、それにドイツ軍の将校らを交えた打ち合わせは順調に執り行われる。
「よし、これで大体の事は決まったな。
やがて一時間ばかりも経過した頃になって、ようやく打ち合わせは終了した。気付けばすっかり陽も暮れ、小雪が舞うタイガの森はとっぷりと宵闇に沈んでいる。
「ああ、やっと帰れるのか」
俺は小声で呟くと、ホッと安堵の溜息を漏らした。陽が暮れると同時に気温はぐっと下がり、あまりの寒さにぶるっと背筋が震える。
「それではこれより、収容所に帰還する。車を回せ」
ソ連赤軍の将校がそう命じると、部下である
「この車では、全員は乗れない。将校でも下士官でもない者は乗車せず、歩いて帰れ」
須田中隊長が高圧的な口調でもってそう言うと、俺とルッツ兵長をじろりと睨みつける。この場に居合わせた者で下士官以下の者となれば、それは俺とルッツ兵長、それにソ連赤軍の二名の
「後部座席に三人乗せれば、五人まではなんとか車で帰れる筈だ。申し訳無いが、
若干恐縮しているソ連赤軍の将校の命により、通訳である俺とルッツ兵長、それに
「それでは、我々は先に帰還する。後藤一等兵、ルッツ兵長、言っておくが、くれぐれも脱走しようなどと言う気は起こさないように。そんな事をすれば、我が作業大隊全体に連帯責任が生じるのだからな」
そう警告した須田中隊長はGAZ-67に乗り、ソ連赤軍の将校ら四人と共に、
「
貧乏くじを引く格好になったアントン二等兵が、遠退いて行くGAZ-67の後姿を睨み据えながら忌々しそうに呟いた。彼が言う
アントン・オレーゴヴィチ・フルマノフ二等兵はブラーツク第二十三収容所に所属する
まあ何にせよ、俺達三人が徒歩でもって
「災難だったな、アントン」
そう言ってアントン二等兵の肩を叩いたのは、ルッツ兵長であった。ルッツ・アルトマイアー兵長はドイツ軍の捕虜の快活な青年で、俺よりも二年半余りも早い昭和十八年の二月から、他のドイツ軍捕虜達と共にこのシベリアの地に抑留されている。
「とにかく、歩いて帰れと言われたからには歩いて帰ろうじゃないか、なあ」
アーリア人らしい端正な顔立ちのルッツ兵長は笑いながらそう言うと、タイガの森の一本道を歩き始めた。
「そうは言うけど、
俺はそう言って溜息を漏らすが、ルッツ兵長は挫けない。
「まあそんな事言わずに、歩こうや。歩けばその内、どこかには辿り着くさ」
やはり笑いながらそう言ったルッツ兵長は、軽快に雪道を歩く。そしてマンドリン短機関銃を手にしたアントン二等兵と俺の二人もまた、彼に続いて雪降る一本道を歩き始めた。
「寒いな、壮太」
「ああ、寒いなルッツ」
俺達三人は互いに声を掛け合いながら、真っ暗な宵闇に包まれたタイガの森の雪道を、
「ああ、糞! このままじゃ俺ら全員、ここで凍え死んじまう! あの
最初にそう言って音を上げたのは、ソ連赤軍のアントン二等兵だった。彼は身体は大きいが学が無く、根は純朴な好青年なのだが、気が短くて堪え性が無い点が珠に瑕である。そしてアントン二等兵は彼が言うところの「
「そうカッカするなよ、アントン。幾ら怒っても、却って疲れるだけだぞ」
俺はそう言って宥めようとするが、アントン二等兵は興奮冷めやらぬ様子で地団駄を踏み、周囲に降り積もった雪を蹴散らかす。
「糞、もう我慢出来るもんか! こうなったら近道するぞ! おい
アントンはそう叫ぶと踵を返し、モミやカラマツの大木が生い茂る森の中に足を踏み入れようとした。どうやら手付かずの原生林であるタイガの森を横断する事によって、
「やめておけよ、近道なんて。こんな真っ暗闇の中をわざわざ森の中になんて入ったら、迷子になって遭難するのがオチだぞ」
「そうだそうだ、このまま道沿いに帰ろうぜ」
ルッツ兵長と俺は抗議するが、自分の提案を否定される格好になったアントン二等兵はますます興奮し、意固地になる。
「うるせえ、俺に指図するな! 俺は赤軍の兵士で、お前らは捕虜だ! その事実を理解したら、さっさと俺について来い! ダワイ! ダワイ!」
アントン二等兵はそう言うと、ずかずかと大股でもってその場を歩み去り、森の中へと姿を消した。そこで俺とルッツ兵長もまた仕方無く、彼の後を追って、吹雪に煙る木々の狭間へと足を踏み入れる。ちなみにソ連赤軍兵がやたらと口にする「ダワイ」とは、ロシア語で何かを「やれ」とか「しろ」とか言う意味の抽象的な言葉で、他人を急かす際や鼓舞する際などには必ずと言っていいほど耳にした。
「おいアントン、これ本当に大丈夫なんだろうな?」
ルッツ兵長は訝しげにそう言うと、寒さに震えながら顔色を曇らせる。もともと色白の彼の顔は降りしきる雪にまみれ、眉毛も睫毛も真っ白に氷結し、唇からは血の気が失せ始めていた。俺ら三人が森の中に足を踏み入れた頃から更に天候が悪化し始めたので、彼が身の安全を危惧するのも至極当然の帰結と言える。
しかし先導するアントン二等兵は口を閉じたままであり、こうなってしまっては、彼の後について黙々と歩き続けるしか選択肢は残されていない。下手に逆らったり逃走を図ったりすれば、マンドリン短機関銃によって蜂の巣にされる事すらも、決して有り得ない話ではないのだ。事実、ソ連赤軍の
「なあ、
時間的にも距離的にももう
すると不意に、前を歩いていたアントン二等兵が足を止めた。
「どうした、アントン?」
俺が尋ねると、やや狼狽した表情の彼はまるで他人事のようにぼそりと呟く。
「迷った」
その一言だけで、状況は充分に伝わった。どうやら俺らは、本格的に遭難してしまったらしい。
「迷った? こんな吹雪の森の中で? このままじゃ俺達三人とも、凍死しちまうぞ!」
ルッツ兵長がアントン二等兵に詰め寄るが、そんな事をしたからと言って事態は好転しない。それどころかこうして立ち止まっていると、あっと言う間に体温を奪い去って行くほどの雪と風による寒さでもって、ぶるぶると震えながら凍えるばかりである。
「それで、これからどうするよ? 前に進むか? 来た道を引き返すか? それとも、雪濠でも掘ってここで一夜を明かすか?」
「前に進んでも、更に森の奥へと迷い込むだけだ。足跡を辿って、来た道を引き返そう」
俺の問いに、ルッツ兵長が答えた。しかし背後を振り返ってみると、俺らの足跡は既に雪に埋まっていて、それを辿って元来た道に引き返す事も出来そうにない。
「どうするんだアントン! こうなったのも、全部お前のせいだぞ! このままこんな所で凍死するなんて、俺は御免だからな!」
「うるせえ、黙れ! 俺は何も悪くねえ! がたがた文句ばかりぬかしてやがると、撃ち殺すぞ!」
ルッツ兵長とアントン二等兵とが、激しい口論になる。俺もまた遭難の原因を作ったアントン二等兵に言いたい事が幾らもあったが、口論に加わったところで腹が減るだけなので、寒さに震えながらジッと黙っていた。ルッツ兵長とアントン二等兵との口論は、俺が黙っている間も絶え間無く続く。
その時、何やら聞き慣れない音が俺の耳に届いた。
「何だ?」
俺は眉間に皺を寄せながら視線を巡らせ、周囲の様子を伺う。俺の聞き間違いでなければ、耳に届いたその音は風が森の中を吹き抜ける際の天籟などではなく、ごうごうと地の底から響き渡るような獣の唸り声に相違ない。そして眼を凝らせば吹雪に煙る木々の狭間から、その声の主がゆっくりと姿を現した。唸り声はより大きくなり、まるで耳元で発されたのかと思うほどはっきりと聞こえる。焦げ茶色の体毛に覆われたそれは身の丈三mにも達する巨大な獣、つまりシベリアの象徴の一つたる、
「熊だ!」
俺は思わず、日本語で叫んだ。しかしその意味を理解出来ない筈のルッツ兵長とアントン二等兵の二人も、口論を中断してこちらを振り返る。
「блядь《ブリャーチ》!」
巨大な
「アントン! 撃て!」
ルッツ兵長にそう命じられたアントン二等兵がハッと我に返ると、手にしたマンドリン短機関銃に銃弾を装填しようとした。しかし気ばかりが焦って手元が狂い、なかなかボルトを引く事が出来ない。
「早く撃て、アントン!」
「うるせえ、黙れ! 俺に指図するな!」
「やったか?」
しかし硬く分厚い毛皮に覆われた
「逃げろ!」
誰ともなくそう叫ぶと、俺ら三人は我先にと、その場からの逃走を開始した。しかし雪が降り積もった森の中を走る速度は人間よりも
「!」
すると次の瞬間、夜の吹雪の森に一発の銃声が轟いた。それと同時に、今にも俺らに襲い掛からんとしていた巨大な
「早く逃げろ!」
不意に聞き慣れない声が木々の狭間に反響したので、俺は振り返る。するとそこには、銃身が黒光りする小銃を構えた小柄な人影が、一匹の犬を付き従えながら立っていた。声と体格からして、おそらくその人影は女性である。そしてその女性が小銃のボルトを引き戻し、薬室に装填された三発目の銃弾を射出すると、それを喰らった
最終的に根負けしたのは、
「大丈夫か?」
女性は構えを解き、小銃の薬室に装填されていた銃弾をボルトを引いて抜きながら、俺らに尋ねた。身に纏った
「ああ、大丈夫だ。助かったよ」
「礼を言うよ、ありがとう」
安堵の溜息を漏らしながら感謝の言葉を述べる俺らの方に歩み寄って来た少女は、幼さの残る声で「どういたしまして」と言った。見たところ彼女は肌の色が薄い白人種で、風になびく長い金髪と、南国の大海原さながらに深い青色の瞳が美しい。そして彼女の背後に付き従う大きな犬は、まるで野生の狼の様にも見える。いや、もしかしたらそれは犬などではなく、少女によって飼い慣らされた狼そのものなのかもしれない。
「それで、あなた達はこんな所で何をしているの? この辺には人家も無いのに」
小銃を肩に担ぎながら、少女が尋ねた。そこで俺らは、自らの素性を語る。
「この先に、ソ連赤軍の
「
「住んでる? この森に?」
こんな辺鄙な森の中に人が住んでいるなんて話は、聞いた事がない。
「そう、この森に。それで、その
「反対の方角って……ああ、畜生、やっぱりそうか。実は俺達はこの吹雪で道に迷ってしまって、困ってたんだ。だからイエヴァ、もし良ければ、
俺が要請すると、イエヴァと名乗った少女は暫し逡巡してから答える。
「もう暗いし、この吹雪では凍えてしまうから、それは出来ない。その代わり、あたしが住んでいる
「いいね、そうしよう」
「そうだな、それがいい」
イエヴァの提案に、俺とルッツ兵長の二人は即答で同意した。しかしアントン二等兵だけは、首を横に振りながら俺らの言葉に異を唱える。
「いやいやいやいや、駄目だ駄目だ駄目だ! 民間人と捕虜とを所長の許可無く交流させる事は、
「堅いなあ、アントンは。そんな事、この中の誰かがわざわざ上官に報告しなきゃバレやしないって。だから夜が明けて
「まあ、そうなんだが……」
「お前だって、こんな所で凍死したくないだろ?」
俺のその一言が決め手となり、アントン二等兵も渋々ながら、首を縦に振った。
「分かった、分かったよ。確かに俺だって、こんな暗い森の中で野垂れ死ぬのは御免だからな」
「よし、決まりだ。それじゃあイエヴァ、悪いけれどその
ルッツ兵長が要請すると、イエヴァは「ついて来い」とだけ言って歩き始めたので、俺ら三人はその後を追う。すると不意に、降り積もった雪の上に残された自身の足跡を辿りながら、彼女は
「それは?」
「これは『
最初はイエヴァが何を言っているのかまるで理解出来なかったが、すぐに俺の疑問は氷解する。と言うのも、彼女が笛を吹く度に、雪に覆われた地面がぼんやりと青白く光り輝きだしたのだ。そしてその光が一本の道となり、夜の森の奥深くへと続いて行く。
「この光の先に
一体どんな仕組みや仕掛けなのかはさっぱり分からないが、この光る道を辿って行けば良いと言うのなら、こんなに楽ちんな事はない。
「これは、どうなっているんだ?」
訝しげに、ルッツ兵長が光り輝く雪を手で掬い上げてみた。しかし掬い上げた雪はそれ以上輝く事はなく、どうやら雪そのものが光っているのではないらしい。つまり雪や土と言った物体ではなく、もっと抽象的な、足元の空間が光を発しているかのような状態なのだ。
「まあ、どうだっていいじゃないか。細かい種明かしは後回しにして、とにかく今は先を急ごう。いつまでもこんな所につっ立っていたら寒くてかなわんし、それに何よりも、腹が減った」
そう言った俺ら三人は、イエヴァの後について森の中を歩き始める。夜の森は相変わらず暗く、吹雪が止む気配は一向になかったが、
「さっきの熊は、死んだのか?」
最後尾を歩くアントン二等兵が、誰に尋ねるでもなくぼそりと呟いた。
「いや、わざわざ殺す必要もないから、敢えて急所は外しておいた。だからたぶん、あの程度の傷で死ぬ事はない筈だ」
先頭に立つイエヴァが律儀に答え、彼女がプラーミャと呼んだ狼犬が周囲をうろうろと歩き回り、鼻をくんくんと鳴らしながらしきりに俺らの匂いを嗅いでいる。どうやら珍客である俺とルッツ兵長とアントン二等兵の三人が、主人であるイエヴァにとって危険な存在ではないかどうか警戒し、その安全性を匂いによって判断しようとしているらしい。
「それはKar98kか。懐かしい銃だ。俺も昔使っていた」
今度は、ルッツ兵長が呟いた。彼が言う『Kar98k』とはイエヴァが担いでいる小銃の名称で、大東亜戦争以前からドイツ軍が正式採用している主力小銃である。
「この銃か? これは、魔女から手渡された物だ。たぶん、どこかのドイツ兵の死体から奪い取って来た物だろう」
「魔女? 何だ、魔女って?」
イエヴァの口から聞き慣れない単語が漏れたので、俺はその『魔女』と言う単語を繰り返した。しかし彼女は、今は未だ明言を避ける。
「それは、後で説明する。ほら、
吹雪に煙るタイガの森の先の、木々が伐採された開けた土地を指差しながら、イエヴァが言った。するとそこには一軒の大きな屋敷が建っており、どうやらそれが、彼女が言うところの
「なんだ、想像していたよりもずっと立派な建物じゃないか」
そう言ったルッツ兵長の言葉通り、その
「それじゃあイエヴァ、さっそく中に入れてくれ。早く身体を温めたい」
俺はそう言うと、凍えた身体をさすって温めながら
「待て、こっちの母屋は駄目だ。魔女が起きてしまう。悪いが、裏の離れの方に廻ってくれないか? そっちにも暖房設備と毛布があるから、寒さは凌げる筈だ」
「あ、ああ」
イエヴァに促されて、俺とルッツ兵長とアントン二等兵の三人は、母屋の裏の離れへと移動し始めた。彼女がまた『魔女』と言う聞き慣れない単語を口にした事を不審がるも、俺らは敢えてその事については尋ねない。
「これが離れか」
荘厳な煉瓦造りの母屋に比べるといささか見劣りするが、それでも木造平屋建ての離れも、それなりに堅牢な造りの立派な建築物であった。その見た目と規模から察するに、おそらくは母屋の管理とそこに住む住人の世話をする、下男や下女と言った使用人が住むための小屋として建てられたのだと推測される。
「すぐにペチカに火を入れる。少しだけ待ってくれ」
離れに足を踏み入れたイエヴァはそう言うと、ロシア式の暖炉であるペチカに火口の松ぼっくりと薪を放り込み、マッチを擦って火を点けた。すると瞬く間に薪が煌々と燃え上がり、さほど広くはない離れの空気がじんわりと温まり始める。
「ああ、助かった」
燃え上がるペチカの火を見つめながら、俺はホッと安堵の溜息を漏らした。これでもう、暗く冷たいタイガの森の奥深くで惨めに凍え死ぬのではないかと怯える心配はない。
「ありがとう、イエヴァ。それで、その、出来れば何か食べる物を分けてもらえると助かるんだが……」
「ああ、そうか。それじゃあ、母屋の台所から何か持って来る。ここでちょっと待っててくれ」
そう言って、イエヴァは離れを後にした。薄暗い離れの中には、俺とルッツ兵長とアントン二等兵、それに狼犬のプラーミャの三人と一匹だけが残された。攻撃的な外見の狼犬であるプラーミャは、その大柄な体躯に似合わず人懐っこい性格らしく、俺ら三人に甘えるようにくんくんと鼻を鳴らしながらしきりに身体を擦り付けて来る。
「こんな所にこんな屋敷が在るなんて、聞いた事がないぞ。アントン、お前は知っていたか?」
「いや、俺も聞いた事がない」
プラーミャの頭を撫でながらの俺の疑問に、アントン二等兵がぶっきらぼうに答えた。
「言っておくが、俺も知らなかったぞ」
ルッツ兵長もまた首を横に振りながらそう言ったので、どうやら俺ら三人の中の誰一人として、この
「待たせたな。今すぐプロフを温めてやるぞ」
大きな鍋と皿を抱えたイエヴァが、小走りでもって離れへと戻って来た。そして鍋をペチカの上に置くと、その中身を温め始める。すると次第に湯気が湧き上がり、米が炊かれる際の甘く香ばしい匂いが、狭い離れの中に漂い始めた。
「さあ、食べてくれ」
そう言ったイエヴァが鍋の蓋を取ると、美味そうで懐かしい匂いが室内に充満し、俺の口からはだらだらと涎が溢れ出る。鍋の中身はプロフ、つまりロシア流の炊き込みご飯であり、こんな贅沢な料理が
「米だ!」
俺の口から、日本語で感嘆の言葉が漏れた。なにせシベリアに抑留されてからこっち、炊き立ての米と対面するのは実に二年ぶりの事なのだから、思わず日本語で叫んでしまったのも致し方のない事と言える。
「本当に、米だ」
ルッツ兵長とアントン二等兵の二人もまた、鍋の中身に驚きを隠せなかった。そして陶器の皿に盛られたプロフをイエヴァから手渡されると、俺ら三人は恥も外聞もなく、我先にとがっつき始める。
「美味い、美味い」
炊き立てののプロフは、本当に涙が出るほど美味い。しかも俺らが収監されている
「この物資不足のご時勢に、よくこんな米と肉が手に入ったな」
アントン二等兵が、口の中にぎゅうぎゅうに詰め込まれたプロフをごくりと嚥下してから怪訝そうに尋ねた。すると尋ねられたイエヴァは、離れの室内が充分に暖まったためか、羽織っていた
「米は、魔女がどこからか調達して来た。たぶん、どこかの軍か党の食糧貯蔵庫に忍び込んだんだと思う。肉は、昨日あたしが仕留めたばかりのユキウサギの肉だ」
「兎の肉か……」
野生の兎の肉を食べるのは生まれて初めての経験だが、これが野趣溢れる味で、米の甘味との相乗効果もあってなかなかに美味い。そしてふと見れば、
「まさか、こんな所で米と肉が食えるなんてなあ。ああ、美味くてたまらん」
二年ぶりの米と肉の極上の味わいに、俺は歓喜の声を上げた。米は甘く、肉は香ばしく、とにかく
「美味いか、それは良かった」
首周りに刺青が彫られたイエヴァが、そう言って微笑んだ。
「ふう、美味かったよ。ごちそうさん」
そう言った俺はげっぷを漏らし、空になった皿をペチカの上に置く。俺に続いてルッツ兵長とアントン二等兵の二人も、やがてプロフを食べ終えた。
「もういいのか? なんなら、未だ他にも食べ物はあるぞ?」
「ああ、もう充分だ。久し振りに腹一杯米が食えたんで、満足だよ。本当にありがとう」
俺が礼を述べると、イエヴァは空になった鍋と皿を片付けながら尋ねる。
「壮太とルッツの二人は、日本軍とドイツ軍の捕虜だと言ったな。戦争はとっくの昔に終わったのに、未だ祖国に帰れないのか?」
「そうなんだよ、俺らを収監しているソ連赤軍と共産党の連中が意地悪でね。戦争はもう二年前に終わったって言うのに、俺もルッツも、こんなシベリアの僻地にいつまでも抑留されたままだ」
イエヴァの素朴な問いに、俺は自嘲気味に笑いながら答えた。
「それでイエヴァ、キミはこの
俺が問うと、イエヴァは寂しげな顔をする。
「あたしも戦争が始まったばかりの頃から、ずっとここに住んでいるの。魔女によって、この森から外には出られない呪いを掛けられてね」
「呪い? 呪いって?」
聞き慣れない単語が増えたので、俺は問い返した。
「そう、呪い。この
魔女だとか呪いだとか、イエヴァの言っている事はさっぱり意味が分からない。
「ほら、これ。あなたも気付いていたでしょう?」
そう言いながら、イエヴァはシャツの第一ボタンを外して襟を拡げ、彼女の首周りから胸元にかけて彫られた刺青を露にする。
「これは、従属の首輪。魔女によって呪いが掛けられた事の、動かぬ証拠。この首輪が消えるまで、あたしが自由になる事はないの。そしてそれはきっと、あたしが死ぬまで続くんでしょうね」
「はあ……」
如何に解説されても、やはりイエヴァが言っている事の意味が分からず、プロフを食い終えたばかりの俺ら三人は困惑するばかりだ。だいたい、魔女だとか呪いだとか言ったふわふわとした非現実的な単語は、子供の頃に読んだおとぎ話の中でしか聞いた事がない。
するとその時、何かの気配を感じ取ったのか、狼犬のプラーミャが離れの出入り口に向かって吠え立て始めた。
「いけない! 魔女が起きて来た! あなた達は隠れて!」
そう叫んだイエヴァに促され、何が何だか分からないまま、俺らは離れの隅に置かれたベッドの陰に急いで身を隠す。そして大の大人の男三人が狭い部屋の隅にぎゅうぎゅうになりながら身を隠した直後、離れの出入り口の扉がゆっくりと開き、何者かが入室した。狼犬のプラーミャが、更に大きな声でもって吠え、唸る。
「イエヴァ、そこにいるの?」
唸るプラーミャを無視して、入室した何者かがイエヴァの名を呼んだ。その声は意外にも、穏やかで優しそうな大人の女性の声である。
「はい、ヴァレンティナ様。ここにいます」
イエヴァがかしこまるようにそう言って、彼女の名を呼んだ女性にうやうやしく頭を下げた。俺は身を隠したベッドの陰から、声の主の様子をそっとうかがう。
「白い……」
ヴァレンティナと呼ばれたその女性は、最初は人間大の雪の塊が立っているのかと勘違いしたほど、全身が真っ白だった。長身で豊満な彼女の肢体は染み一つ無い肌も長く艶やかな髪も透き通るほど真っ白で、その上白い絹のドレスを身に纏っているものだから、まるで頭の天辺から足の爪先までが発光しているのかと見紛うほどの白さである。しかもその白さの中で、爛々とした両の瞳と紅が引かれた唇だけが真っ赤に輝いているのだから、それはこの世のものとは思えないほど妖艶な絶世の美女と言う他に表現する言葉が無い。
「何かご用でしょうか、ヴァレンティナ様」
「ええ、ちょっと町まで出掛けて来るから、お留守番していてちょうだい。今日はもう、食事の用意はしなくても構わないから」
「かしこまりました」
再び、イエヴァがうやうやしく頭を下げた。彼女の足元では、狼犬のプラーミャがヴァレンティナに向かって恨めしげに牙を剥き、ぐうぐうと唸り声を上げ続けている。どうやらプラーミャは、ヴァレンティナの事が嫌いらしい。
「ああ、ところでイエヴァ」
踵を返して離れを出て行こうとしたヴァレンティナが、思い出したように振り返る。
「ここに誰か、男の人がいなかった? なんだか男臭い匂いがしたのだけれど」
「いえ、ここにいるのはあたしとプラーミャだけです。他には、誰もいません」
「ふうん、そう。だったら、そこに転がっているのは何かしら?」
ヴァレンティナはそう言うと、ペチカの上の、空になった鍋と皿を指差した。言うまでもなく、俺とルッツ兵長とアントン二等兵がプロフを食べるのに使った鍋と皿である。
「これは……お腹が空いたので、昨夜の残りのプロフをあたしが食べました」
「一人でお皿を三枚も使って?」
「……はい」
そう言って、イエヴァはヴァレンティナの追及をかわそうと試みた。しかしこんなばればれの嘘に、大の大人が騙されるとは思えない。
「そうなの……まあ、そんな事は今はどうでもいいんじゃないかしらね。それじゃあ、あたしは出掛けて来るから、お留守番よろしく」
明らかに嘘と分かるイエヴァの言葉を信じたのか、それともこれ以上追求する必要もないと考えたのか、ヴァレンティナはそう言い残すと離れから姿を消した。開け放たれたままの扉の向こうでは、吹雪の空に大粒の雪が舞い続けている。
「もういいぞ、三人とも出て来い」
イエヴァに促された俺ら三人は、ベッドの陰から這い出て来た。
「今のは?」
「あれが、魔女。大祖国戦争が始まった六年前からあたしを下僕として使役しながら、この
そうは言われても、未だ俺ら三人は、魔女だとか呪いだとか言った非現実的な単語の意味を理解出来ない。
「いくら魔女とは言っても、それはその、何かの例え話みたいなもんなんだろ? まあ確かに、この世のものとは思えない風貌の女だったがな。でもまさか、おとぎ話に出て来るバーバ・ヤーガみたいに、本当に魔法を使う訳でもあるまい」
ルッツ兵長は笑いながらそう言うが、イエヴァは至って真剣だ。
「違う! 例え話なんかじゃない! あれはこの地でもう何百年も生き続けている魔女なんだ! 勿論、そんな話は簡単には信じてもらえないだろうが……。だがそれでも、信じてくれ! あれは本当に魔術を操る、正真正銘、本物の魔女なんだ!」
「そ、そうか」
必死なイエヴァの剣幕に、俺ら三人は
「……まあいい。今夜は魔女もいなくなったから、あなた達はここで寝ろ。そこの箪笥の中に何枚か毛布があるから、それを被って寝ればいい。ペチカの薪を絶やさなければ、凍える心配もないだろう」
離れの壁際に置かれた箪笥を指差しながら、イエヴァが言った。骨董品と言ってもいいほど古びたその箪笥を開けると、確かに薄い毛布が数枚、丁寧に折り畳まれた状態で収納されている。
「ああ、ありがとう。それでイエヴァ、キミは?」
「あたしとプラーミャは、母屋で寝る。深夜に魔女が町から帰って来た時に、留守番している筈のあたしがいなかったら、怪しまれるからな。それじゃあまた明日、陽が昇ったら迎えに来る。おやすみ」
そう言い残すと、Kar98k 小銃を肩に担いだイエヴァは狼犬のプラーミャを連れて、離れを後にした。出入り口の扉が閉まり、離れには俺とルッツ兵長とアントン二等兵の三人だけが残される。
「……寝るか」
プロフを食って腹も膨れたし、俺らは今夜はもう、さっさと寝る事にした。部屋を温めるためにペチカに新たな薪を放り込むと、アントン二等兵はベッドの上で、俺とルッツ兵長の二人は板敷きの床の上で、それぞれの毛布に包まって床に就く。
「おやすみ」
俺は日本語でそう言うと、そっと眼を閉じた。すると程無くして、アントン二等兵はごうごうと豪快ないびきを掻き始める。どうやら仲間内からは『のろまのアントン』と揶揄される彼も、寝る時ばかりはのろまではなかったようで、誰よりも早く夢の国へと旅立って行ってしまったらしい。自分のせいで吹雪の森で遭難して死に掛けたと言うのに、まったく呑気なものだ。
「壮太、未だ起きてるか?」
「ああ、起きてる。何だ、ルッツ?」
やがて一時間ばかりも経過した頃、離れの床の上で横になったまま、ルッツ兵長が俺に尋ねる。
「さっきのイエヴァの話、本当だと思うか?」
「あのヴァレンティナって女が魔女だとか言う話か? それに関してはイエヴァには悪いが、正直言って、そんな現実離れした話は信じられないな」
「まあ、常識的に考えれば、そうだよな。だが俺は、イエヴァが嘘を吐いているとも思えないんだ。だからきっと、あの真っ白な女は本物の魔女なんだと思う」
「その根拠は?」
「根拠は、特に無い。だがそれでも、俺はイエヴァを信じてやりたいんだ」
そう言ったルッツ兵長の横顔をちらりと眺めてみれば、ペチカの灯に照らし出されたその瞳は、やけに感傷的な色味を帯びていた。
「そうか、そうだな。だが今は、そんな事はどうでもいい事だ。明日に備えて、早く寝よう」
俺はそう言うと、再びそっと眼を閉じる。
●
何か生暖かくて湿った物が頬を這いずり回る感触に、俺の眠りは妨げられた。
「?」
眼を覚ましてみれば、狼犬のプラーミャがその長く柔らかな舌でもって、床の上で寝る俺の顔面をべろべろと舐め回している。
「起きろ壮太、もう朝だぞ」
プラーミャを従えたイエヴァにそう言って起こされた俺は、毛布に包まったまま半身を起こした。そして俺と同じようにプラーミャの熱烈な愛撫によって起こされたらしいルッツ兵長とアントン二等兵の二人もまた、大口を開けてあくびを漏らしながら眠い眼を擦っている。どうやら出入り口の扉から一番離れた場所で眠っていた俺が、三人の中でも一番最後に起こされたらしい。
「おはよう、イエヴァ。吹雪はもう止んだのかい?」
「ああ、止んだ。今日は良い天気だ」
イエヴァの言葉を裏打ちするかのように、板ガラスが嵌め込まれた窓からは眩い朝の陽光が浅い角度で差し込みながら、離れの室内を明るく照らし出している。
「朝食を持って来た。大したものじゃないが、食べろ。身体が温まるぞ」
そう言うと、イエヴァは消えかけていたペチカに新たな薪をくべ、昨夜のプロフとはまた別の鍋を火に掛けた。すると時を置かずして、微かに甘味のある芳醇な匂いが室内に充満する。
「キャベツのシチーか。美味そうだ」
鍋の中を覗き込んで立ち上る湯気の匂いを嗅ぎながら、アントン二等兵がうっとりと嬉しそうに呟いた。彼が言う『シチー』とは、キャベツを中心とした野菜や肉などを煮込んだスープで、代表的なロシア料理の一つである。
「パンも食え。さあ」
三人分のスープ皿にシチーをよそってくれたイエヴァが、更に黒パンも切って渡してくれた。その黒パンは
「どうだ、美味いか?」
「ああ、美味い。昨夜のプロフと言い、こんな美味い飯を食うのは本当に久し振りだ」
「そうか、それは良かった」
イエヴァに二杯目のシチーをよそってもらい、それを黒パンと一緒にむしゃむしゃと食んで、やがて俺ら三人は朝食を食べ終えた。
「ごちそうさん」
食事を終えると、イエヴァが俺ら三人に命じる。
「食べ終えたなら、一刻も早くあなた達の
「分かった。すぐに出発しよう」
そう言った俺らは、
「それじゃあイエヴァ、
「ああ、こっちだ。ついて来い」
狼犬のプラーミャを連れたイエヴァに先導されながら、俺らは雪道を歩き始めた。昨夜の内に降り積もった新雪を踏み締める感触が軍靴の靴底から足の裏へと伝わって来て、少しだけくすぐったい。冬場の雪は寒くて鬱陶しくて厄介なものだが、この感触だけは嫌いではなかった。
「イエヴァ、ここから
「ああ、そこそこ遠い。それに、
「ああ、そうだな。確かにキミと一緒にいるところを赤軍の関係者に見られたら、後々面倒だからな」
そんな会話を繰り返しながら、俺とルッツ兵長とアントン二等兵、そしてイエヴァとプラーミャの四人と一匹はタイガの森を切り開いて造成された雪道を歩き続ける。そして半時ばかりも歩き続けた後に、一行は新たな雪道と交錯する地点へと辿り着いた。ここまで歩いて来たそれよりも幅が広い、森の中の未舗装道路である。
「この道を真っ直ぐ行けば、そのうち
地平線の向こうへと消え行く雪道の先を指差しながら、イエヴァが言った。
「そうか、ありがとう。本当に助かったよ。それじゃあここでお別れしよう。さよなら」
「ああ、さよなら」
別れの挨拶を交わし合って歩き始めたところで、ルッツ兵長がふと足を止める。
「……なあ、イエヴァ」
「ん?」
立ち去り掛けていたイエヴァが、ルッツ兵長に呼び止められて振り返った。
「何だ、ルッツ?」
振り返ったイエヴァに、踵を返したルッツ兵長が歩み寄る。
「また今度、改めてキミと会えないか?」
突然何を言い出すのかと俺は驚いたが、ルッツ兵長の表情は至って真剣で、どうやら本気でイエヴァと再会したいと考えているらしい。
「ああ、構わないぞ」
ルッツ兵長の突然の申し出を、イエヴァは事も無げに、あっさりと了承した。そして彼女は身に纏った
「森の中でこれを吹けば、あたしが住む
「そんな大事な物を、貰ってもいいのかい?」
「ああ、大丈夫だ。この
「それじゃあ、貰っておこう。また会えるのを楽しみにしているよ、イエヴァ」
「あたしも、楽しみにしている。また会おう、ルッツ、壮太、アントン」
「ああ、またな」
イエヴァとの再会を約束し合った俺ら三人は、改めて
「いいか、お前ら。イエヴァと会った事は誰にも内緒だぞ? もしも民間人と交流した事が所長にバレたりなんかしたら、俺が処罰されちまうからな」
マンドリン短機関銃をちらつかせながら、アントン二等兵が言った。勿論俺もルッツ兵長も異論は無く、首を縦に振る。
「分かってるよ。俺だって、面倒事には巻き込まれたくない」
「俺もそうだ。わざわざ揉め事の種を蒔く事もない」
「よし、決まりだ。今回の一件は、俺達三人だけの秘密だ。だから収容所に帰ってから誰に何を聞かれても、昨夜の俺達は森の中で雪濠を掘って吹雪をやり過ごしたと答えろ。いいな?」
こうして俺ら三人は今回の一件を口外せず、口裏を合わせるように示し合わせた。
「ルッツ、イエヴァに貰った笛を失くさないようにしておけよ」
「ああ、分かってるよ。そんな簡単に失くしたりなんかしないさ。むしろ怖いのは、所持品検査で何も知らない
そう言ったルッツ兵長が、手袋を履いた掌の中で、イエヴァから手渡された
やがて雪道を歩き続けて小一時間ばかりも経過した頃、前方の木々の狭間に、何やら人工の建造物らしき物が見え隠れするようになった。それは丸太と板材を組んで造られた屋根と櫓であり、その見慣れた形状からするに、
「あれは、
「ああ、そうだ。あれは
目的地である
「おおい、帰って来たぞ! 営門を開けてくれ!」
アントン二等兵の言葉を聞き届けたらしい望楼の上の
「ああ、やっと帰って来れた」
「壮太さん!」
俺の無事を確認した矢三郎がこちらに駆け寄って来ると、ホッと安堵の溜息を漏らす。
「大丈夫ですか? 一晩中帰って来ないから、皆、心配していたんですよ」
「悪いな、心配掛けた。吹雪で道に迷っちまっったし、暗くて方角も分からないから、三人で雪濠を掘って一夜を明かしたんだ」
「まったく、こっちはどれだけ心配したか分かってるのか、壮太? 昨夜は天候が悪くてお前らを探しに行く事も出来なかったから、これから大隊の一部の人員を割いて、捜索隊として出発させるところだったんだぞ?」
飯塚一等兵もまた、相変わらず顔色が悪いなりにそう言って俺の肩を叩き、嬉しそうに微笑んだ。そしてどうやらルッツ兵長とアントン二等兵の二人もまた、それぞれの上官である各軍の将校に、俺と同様の報告でもって状況を打破しようと試みているらしい。まあ勿論、雪濠を掘って一夜を明かしたなどと言うのは真っ赤な嘘なのだが、その辺りを追求するのは野暮と言うものだろう。
「後藤一等兵!」
すると怒気に満ち満ちた声でもって、誰かが俺の名を呼んだ。見れば作業大隊の監督を務める須田中隊長が、
「貴様、一体何をしておるか! おむつも取れない糞漏らしの餓鬼でもあるまいに、迷子になって帰って来れないとは何事だ! 貴様の様な腑抜けた兵士は大日本帝国陸軍の面汚しであると同時に、軍規を乱す亡国の輩であると心得よ! 恥を知れ! これならば、森の中で凍死していた方が、未だましであったではないか!」
そう言い放った須田中隊長と、彼に引っ叩かれた事によって地面に跪いた俺の二人は
「……申し訳ありませんでした、中隊長殿!」
半ば破れかぶれでもって、俺は謝罪の言葉を叫んだ。するとそれで満足したのか、須田中隊長は得意満面な笑みを漏らしながら、ふふんと鼻を鳴らす。
「……」
無言で跪いたまま、俺はぺっと地面に唾を吐いた。頬の内側の粘膜が切れた事によって唾に混じった鮮血が、真っ白な新雪の降り積もった
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