第二幕


 第二幕



 シベリアに抑留されてから、既に二年が経過していた。敬愛する今生天皇陛下が未だご存命であられるならば、今は昭和二十二年の十月半ばの筈である。

 未だ夜も明けない早朝、俺はねぐらとしててがわれた兵舎の固い木製の寝台の上で、薄っぺらい毛布に包まれながら静かな眠りに就いていた。同じ寝台の右隣では矢三郎が、左隣では飯塚一等兵が互いの身を寄せ合いながらすうすうと寝息を立てている。

 すると不意に、戸外からカーンカーンと鐘を打ち鳴らす音が聞こえて来たので、俺と同じ兵舎で寝ていた二百人ばかりの捕虜達は一斉に眼を覚ました。

「起床! 起床!」

 当番の将校が大声で叫びながら、何度も鐘を打ち鳴らす。勿論鐘とは言っても、寺や教会で使われているような、ちゃんとした鐘ではない。鉄道のレールを一mくらいの長さで切断し、それを鐘楼代わりの小さなやぐらに吊るした物を鐘と称して、金槌でもってがんがんと叩くのだ。

「壮太さん、飯塚さん、おはようございます」

 起床の挨拶を口にした矢三郎に、俺も寝台から半身を起こして挨拶を返す。

「ああ、おはよう矢三郎」

 シベリアに連れて来られた時には十七歳の紅顔の美少年だった彼も、今では十九歳の精悍な顔立ちの青年となり、身長も十㎝近く伸びていた。

「飯塚、大丈夫か? 手を貸そうか?」

 血色の良い矢三郎とは対照的に、飯塚一等兵の顔色は悪く、なかなかねぐらである寝台から起き上がる事が出来ない。最近の彼は何かにつけて病気がちで、体調不良を訴える日が続いている。

「ああ、大丈夫だ。ちょっと眩暈がするが、一人で立てる」

 飯塚一等兵はそう言うと眼鏡を掛け、寝台から這い出して来て立ち上がったが、その足元はふらふらとしていて覚束無い。

「どうだ、飯は食えそうか? 食えそうなら、多少無理をしてでも何か食っておいた方がいいぞ」

 俺は飯塚一等兵の身を案じて、彼の分の毛布も畳んでやりながら忠告した。

「ああ、そうだな。あんまり食欲は無いんだが、飯だけは食べておくよ」

 そう言った飯塚一等兵ははにかむように微笑んでみせたものの、やはりその声に覇気は無い。

「飯上げの時間だ! 総員、食堂に集合!」

 やがて兵舎に駆け込んで来た当番の将校の号令に、俺らは同じ収容所ラーゲリの敷地内の食堂へと急ぐ。

「飯だ飯だ」

「今日も寒いなあ」

 東の空をオレンジ色に染める朝陽を拝みながら、各自の飯盒を手にした捕虜達は食堂に足を踏み入れると、朝食の配給を待つ長い列に並んだ。この収容所ラーゲリはちょっとした大きさの国民学校くらいの規模で、広い営庭を囲むように五つの兵舎と官舎、食堂や倉庫や車庫、それに厩舎や病室などの各種施設が立ち並ぶ。ちなみにどの施設も丸太や板材を適当に組んだだけの簡素な造りでしかなく、雨が降ると頻繁に雨漏りするし、冬になると隙間風が酷い。

「今日もこれっぽっちか」

 炊事係の捕虜が玉杓子でもって飯盒によそってくれた朝食を見た俺は、がっかりしながら呟いた。今日の朝食の献立は小さな黒パンと、飯盒の半分にも満たない『バランダ』と呼ばれる薄い塩味のスープ、そして少量の大豆の煮物だけである。バランダの具材も古くなった乾燥野菜の屑と僅かな肉の欠片が浮いているのみで、その味付けのお粗末さにはもう慣れたが、量の少なさばかりは如何ともし難い。

「どうだ飯塚、食えるか? 食えるなら今の内にしっかり食っとけよ」

「ああ、心配するな。しかし、不味いなあ」

「量が少ないなら少ないで、せめて味だけでも、もうちょっとどうにかなればいいんですけどねえ」

 五百人ばかりが一度に収容出来る食堂の一角で、俺と飯塚一等兵と矢三郎の三人は、他の多くの捕虜達と共にあっと言う間に朝食を食べ終えた。そして一旦兵舎に戻り、自分の寝台に横になったものの、その途端にぐうぐうと腹の虫が鳴く。とにかく二年前に捕虜になってからこっち、配給される食事の量が少なくて食った気がまるでしないが、他に食べる物が何も無いのだからどうしようもない。特に冬場は、春から秋にかけてと違ってヨモギやアカザなどの野草や茸を採って煮て食べる事も出来ないから、尚更腹が減って仕方が無いのだ。

 さほど広くもない兵舎の中で、捕虜達は自然とペチカの周囲に集まって暖を取る。中にはアルミ製の水筒をペチカの上に置いて湯を沸かし、それを飲んで、冷えた身体を内側から温めようとする者もいた。ロシア式の暖炉であるペチカの中では真っ赤な炎が煌々と焚かれ、当番の捕虜が放り込んだ薪がぱちぱちと爆ぜている。未だ十月だと言うのに、ここシベリアはもう冬の寒さだ。俺の故郷である千葉県我孫子町の穏やかな十月とは、まるで違う。

「作業整列! 作業整列!」

 やがて午前八時を迎えると、起床の時と同じレールの鐘を打ち鳴らしながら当番の将校が叫んだので、俺らは作業に出る準備を始めた。股間を守るふんどしを固く締め、肌着である襦袢袴下じゅばんこしたを履き、更に『テログレイカ』と呼ばれるソ連赤軍から支給された綿入れの防寒着と日本軍の九八式軍衣を着込む。軍衣はこの二年余りでぼろぼろになってしまっていて、擦り切れた肘や膝には布が継ぎ接ぎされており、往時の面影は既に無い。後はこの上から羊革の外套シューバを羽織って手袋と軍靴を履き、防寒帽ウシャンカを被れば、野外での作業の準備は整った。

 装具の上から飯盒と水筒、それに私物が入った雑嚢を肩に掛けると、兵舎の外に出て営庭に整列する。日本の関東軍での行進の際には必ず四列縦隊で並ばされたが、ここシベリアでは五列縦隊で並ぶように指示された。何故ソ連赤軍が捕虜達に五列縦隊を義務付けたのかは分からないが、きっとその方が、点呼の際に頭数を数え易いからなのではないかと噂されている。なにせ、ソ連赤軍兵はたとえ将校であっても数字に弱く、掛け算や割り算が殆ど出来ない。それどころか警戒兵カンボーイなどの兵卒の中には、読み書きがまるで出来ない者も決して少なくないのだ。

「総員傾注! 大隊長殿による訓示だ!」

 無事に点呼を終えると、つるつるの禿げ頭が特徴的な須田寛治すだかんじ中隊長の命令に従って、俺ら捕虜達は五列縦隊で並んだ列の前方に注目する。するとそこには、この作業大隊の最高司令官を務める綾瀬宗一あやせそういち大隊長の姿が垣間見えたので、俺は姿勢を正した。二年前の終戦と同時に関東軍は解体された筈だが、ここシベリアでは今も尚、こうして軍隊時代の上下関係が維持されている。ちなみに須田中隊長の関東軍での階級は少尉、綾瀬大隊長は中尉であった。

「総員、今日も揃ったな」

 鼻の下にちょび髭を生やした綾瀬大隊長が、部下である俺らをじろりと睨め回すと、作業前の訓辞を始める。

「いいか貴様ら、よく聞け! 貴様らはいつ如何なる時であっても大日本帝国軍人としての矜持を忘れる事なく、内地に帰国するその瞬間まで軍紀を厳正に保ち、一致団結しながらこの苦境に耐え忍ばなければならない! そのためにはまず第一に、陛下から賜った軍人勅諭に書かれたる忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五つの徳目を遵守実行する事こそが肝要である! そして七生報国の想いを胸に抱きつつ、今日も一日、陛下と国体に尽くし続けるのだ!」

 綾瀬大隊長の訓示は尚も続くが、その訓示に対して真摯に耳を傾けようとする奇特な者は殆どいない。中にはこっそりとあくびを漏らしたり、小さく舌打ちする捕虜もそこかしこで散見される。なにせ訓示の内容はほぼ毎日変わらないし、そもそも当の大隊長本人は重労働には従事せずに収容所ラーゲリの敷地内の将校室でぬくぬくと惰眠を貪っていると言うのだから、真剣に聞くだけ無駄と言うものだ。

「さあ、労働ラボータの時間だ! 進め! ダワイ! ダワイ!」

 無駄に冗長な大隊長の訓示が終わると、先導するソ連赤軍の将校の掛け声を合図に、営庭に整列した捕虜達はのろのろと歩き始める。こんな糞寒い朝っぱらから率先して働きたい者など誰もいやしないのだから、彼らの足取りは重い。このブラーツク第二十三収容所に収容された捕虜の内訳は日本軍兵士が六百名ほど、それにドイツ軍兵士四百名ほどを加えた計千名ほどで、それら全体で一つの作業大隊を構成している。俺らがここに抑留されたばかりの頃には日独合わせて二千名近い捕虜達が二つの大隊を構成していたが、この二年余りで死者や傷病者が続出し、気付けばまともに労働ラボータに出られる者は半減してしまっていた。

「開門!」

 収容所ラーゲリの営門がぎいぎいと鈍い音を立てながら開き、眼の前にシベリアのタイガの森が広がる。俺らに割り与えられた今日の労働ラボータは、このタイガの森の伐採作業だ。この地にバム鉄道の支線を敷設するために、地平線の遥か彼方まで続く原生林を、人力のみでもって切り開くのである。

「ダワイ! ダワイ!」

 ソ連赤軍の警戒兵カンボーイ達に急かされながら、森の中を走る一本道を一時間ばかりも歩き続けた末に、ようやく俺達は、今日の作業現場である原生林の一角へと辿り着いた。周囲には有史以来人の手が一切入っていない、自然のままのモミやカラマツや白樺の木々が鬱蒼と生い茂る。そして全長二mばかりの大きなのこぎりと数本の斧を支給された俺ら捕虜達は、十人一組になって伐採作業に従事し始めた。伐採作業は常に死と隣り合わせの危険な作業であるが故に、怪我人が絶えない。

「倒れるぞ!」

 直径一mを超えるカラマツの大木に、二人がかりで扱うのこぎりでもって切れ込みを入れた捕虜の一人が、警告の言葉を大声で叫んだ。大木は幹の細胞が破断する際のめきめきと言った音を轟かせつつ、枝葉に降り積もった真っ白な雪を周囲に撒き散らしながら、林立する木々の隙間にどすんと倒れる。幸いにも今回は、誰も倒れて来た大木の下敷きにならずに済んだようだ。

「ようし、枝を払って切り揃えろ!」

 作業大隊の班長の指示に従って、俺らは支給された斧でもって大木の枝を払うと、一定の長さで幹を切り揃えて丸太にする。後はこの丸太を山の下の林道まで運び、そこで待機していた馬橇に乗せて、収容所ラーゲリまで運ぶのだ。

「よっこいしょっと」

 俺と飯塚一等兵、それに矢三郎も含めた数人の捕虜達は丸太を肩に担いで運ぶと、馬が曳く馬橇にそれを乗せる。丸太が乗せられた馬橇は、やがて収容所ラーゲリの方角へと走り去って行った。この収容所ラーゲリの厩舎で飼育されている馬はいわゆる蒙古馬と呼ばれる種類で、競走馬や軍馬ほど大きくはないが、気性が穏やかなので扱い易い。そして馬橇を曳く馬がいるからには、当然ながらそれを先導する馬夫を務める捕虜もまた存在する。馬夫を務める捕虜は危険な重労働に従事せずに済むし、空腹ならば馬の飼料の燕麦を盗み食いする事も出来たので、他の捕虜達からは滅法羨ましがられた。尤も、蕎麦の実を殻つきのまま食べると下腹が固くなって腫れ上がるので、あまり頻繁に盗み食いする事は推奨出来ない。

「倒れるぞ!」

 二本目のカラマツの大木に切れ込みを入れた捕虜が叫び、俺らは蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出した。すると逃げ遅れた飯塚一等兵が、倒れる大木の下に姿を消す。極度の粗食による栄養失調で身体の動きが鈍っているし、降り積もった雪と生い茂った枯れ木に足を取られるため、咄嗟に倒木を避ける事が出来ないのだ。

「飯塚!」

「飯塚さん!」

 俺と矢三郎は飯塚一等兵の名を叫び、彼の身を案じて倒木に駆け寄る。

「大丈夫だ、生きてる」

 そう言いながら、飯塚一等兵が倒木の枝の隙間から這い出して来た。どうやらすんでのところで身を翻し、カラマツの大木の下敷きにならずに済んだらしい。

「本当に大丈夫か?」

「ああ、今回ばかりは俺も駄目かと思ったよ」

 同じ班に所属する捕虜達によって助け起こされた飯塚一等兵はそう言って笑うが、俺らはゾッと背筋を震わせながら肝を冷やす。なにせほんの二日前の作業中に、同じようにカラマツの大木の下敷きになって戦友を一人失ったばかりなのだ。

「お前ら、さっさと作業に戻れ! ダワイ!」

 しかし感傷に浸っている暇を与えてたまるかとでも言わんばかりに、マンドリン短機関銃を手にしたソ連赤軍の警戒兵カンボーイは捕虜達を急かす。そして俺らはタイガの森の伐採作業を継続し、やがて昼の大休止の時間を迎えた。

「休憩の時間だ! 作業再開は一時間後! それまでに飯を食っておけ! ダワイ!」

 飯を食えとは言われても、何か新たな食糧が改めて配給される訳ではない。ソ連赤軍はそこまで親切ではないし、また同時に満足な量の食料が配給出来ないほど物資に困窮してもいる。そして昨夜支給された朝食分の黒パンは実は昼食も兼ねているのだが、腹を空かせた捕虜達は朝の内にそれらを全て食べてしまうので、昼食を口にする者は全くと言っていいほど存在しなかった。つまり、実質的にこの収容所ラーゲリの食糧事情は、一日二食のみである。

「腹、減ったなあ」

 昼の大休止の最中、捕虜の一人が焚き火に当たって暖を取りながら呟いた。

「なあ皆、日本に帰国ダモイ出来たら、まず何を食いたい?」

 シベリアに抑留されてからこっち、もう何千回も繰り返された話題である。

「俺は、海老の天ぷらが食いてえ」

「おいらは、大福餅が食いてえなあ。甘い甘い、砂糖がたっぷりの餡子が詰まった大福餅だ」

「だったら俺は、カレーライスだ。インドネシアに赴任した時に、本場のカレーライスを食ったんだ。あれは美味かったなあ」

 捕虜達が堰を切ったように、食いたい食べ物の名前を口にした。

「壮太さんは、何が食べたいですか?」

 やはり焚き火に当たって暖を取っていた矢三郎が尋ねたので、俺は暫し思案してから答える。

「俺は、浅草の裏通りの洋食屋で食ったアジフライがもう一度食いたい。揚げ立て熱々の、衣がさくさくのふっくらと柔らかいアジフライだ」

「アジフライですか……」

 矢三郎が、俺の言葉を繰り返した。そしてその場に居合わせた捕虜達全員が揚げ立てのアジフライを脳裏に思い浮かべて、口中にじっとりと涎を溜める。しかし体調が悪いらしい飯塚一等兵だけは表情も虚ろで、度の強い眼鏡の奥の眼も焦点が合っておらず、足元もふらふらとして覚束無い。このままでは遠からず彼が昏倒してしまうのではないかと思って、俺は気が気ではなかった。

「休憩はお終いだ! 労働ラボータに戻れ! ダワイ!」

 やがて警戒兵カンボーイが昼の大休止の終焉を通告したので、俺らは作業を再開する。午後の作業もまた、タイガの森の伐採だ。

「よいせ、よいせ」

 捕虜達は互いに声を掛け合いながら、凍った地面から伐採したカラマツの根を掘り起こす。木を切り倒す作業も大変だが、その根を掘り起こす作業は輪を掛けて大変だ。まあしかし、倒れて来た木の下敷きになって命を落とす危険性は無いので、その点だけは捕虜に優しい作業だと言えなくもない。

「ふう」

 カラマツの大木の根を掘り起こした俺は、外套シューバの袖でもって額に浮いた汗を拭った。温まった全身からは外気温との落差による湯気がもうもうと立ち上り、吐く息は凍って真っ白に輝く。

「ようし、今日の作業は終了だ! 収容所ラーゲリに戻るぞ! 全員、さっさと整列しろ! ダワイ! ダワイ!」

 左手首に巻かれた腕時計を確認した警戒兵カンボーイの一人が、マンドリン短機関銃を頭上で振り回しながら大声で叫んだ。見れば冬空に輝く太陽は西の空へと傾き、今日もまた終業時刻である午後四時を迎えたらしい。そこで俺ら捕虜達は彼の命令に従って作業の手を止めると、再び五列縦隊でもって整列し、ぞろぞろと連れ立って歩き始める。

「ああ、寒い。それに、腹が減ったなあ」

 収容所ラーゲリへと戻るための一本道を歩きながら、誰かが呟いた。口に出さずとも、その場に居合わせた全ての捕虜達がその誰かの言葉に同意している。俺ら捕虜達はもう二年余りも、耐え難い寒さと空腹に喘ぎ続けているのだ。

「開門!」

 やがて収容所ラーゲリに辿り着くと、先頭に立っていた警戒兵カンボーイの要請に従って営門が開いたので、入営した俺らは営庭に五列縦隊のまま整列する。そしてソ連赤軍の将校による点呼を終えると、各自の兵舎へと帰還した。ペチカの火が焚かれた兵舎の中は戸外よりは幾分暖かく、ようやく生きた心地がする。

「ああ、今日も疲れたなあ」

 兵舎に帰還した俺は、さっそく自分の寝台にごろりと寝転がると、ホッと安堵の溜息を漏らした。寝台を共にする飯塚一等兵と矢三郎もまた寝転がり、分厚い羊革で出来た外套シューバを脱いで毛布に包まる。重労働に従事した身体には疲労が溜まり、筋肉や関節のあちこちが痛かった。

「おおい、ペチカをもっと焚けよ。寒くてかなわん」

 誰かが愚痴を漏らすと、当番の捕虜が「分かった分かった」と言いながらペチカの中に新たな薪を放り込んだので、兵舎の室温がほんのちょっとだけ上昇する。ペチカにくべる薪だけは、収容所ラーゲリのいたる所に豊富に備蓄されていた。伐採作業の際に材木として利用出来ないと判断された丸太や木の根の部分を斧で細かく割り、それを夏の内から兵舎の内外に積み上げて乾燥させ、厳しい冬を越すための貴重な燃料とするのである。衣食住のほぼ全て、特に食料が圧倒的に不足しているこの収容所ラーゲリにおいて売るほど余っているのは、唯一この薪だけではなかろうか。

「飯上げの時間だ! 総員、食堂に集合!」

 寝台に横になって一休みしていると兵舎の扉が開き、当番の将校が飯の時間の到来を告げたので、同じ兵舎で寝起きする二百人ばかりの捕虜達は食堂へと急ぐ。炊事係の捕虜が玉杓子でもって飯盒によそってくれた今日の夕食の献立は、やはり小さな黒パンと飯盒の半分にも満たない粟のカーシャ、そして少量のにしんの干物だけであった。

「飯塚、大丈夫か? 食えるか?」

「ああ、大丈夫だ。ちゃんと食ってるよ。心配するな」

 飯塚一等兵はそう言うが、体調が悪いであろう彼は、黒パンとカーシャを無理矢理胃の中に流し込んでいるように見える。

「こんな粟なんかじゃなくて、真っ白な米が食べたいなあ」

 隣に座る矢三郎が、粟のカーシャを不味そうに食いながら呟いた。

「真っ白な米か……そんなご馳走を腹一杯食えたら、もう死んでもいいぞ、俺は」

 そう言った俺も、不味そうに粟のカーシャを食う。とにかくこの収容所ラーゲリの飯は量が少な過ぎて、食った気がまるでしない。

「飯を食ったら、却って腹が減ったよ」

 夕食を食い終えて食堂を後にしながら、俺は呟いた。他の捕虜達も、きっと内心では俺と全く同じ事を考えているに違いない。なにせ食堂から兵舎へと移動する皆が皆、まさに骨と皮だけと言う表現そのままに、極度の栄養失調によってがりがりに痩せこけてしまっているのである。勿論この俺もまた、関東軍に召集された頃には七十㎏近かった体重が減り続け、今では四十㎏台前半にまで激減してしまっていた。

「ふう」

 夕食を食い終われば、後はもう午後十時の消灯時間まで、捕虜達は兵舎の中で自由に過ごせる。明日に備えて早々に寝る者、手製の囲碁や将棋や花札でもって娯楽に耽る者など、時間の潰し方は人それぞれだ。そしてペチカとカンテラの灯に照らされた薄暗い兵舎のそこかしこから、自由時間を満喫する捕虜達の安堵と歓喜の声が聞こえて来る。

「矢三郎、新聞取ってくれ」

「はい」

 寝台に腰掛けた俺に、矢三郎が日本新聞とプラウダを手渡した。日本新聞とはソ連当局が日本人捕虜向けにハバロフスクで発行している新聞で、簡単に言ってしまえば捕虜を洗脳するための、共産党のプロパガンダを目的とした機関紙である。一般的な新聞の半分くらいの大きさの、いわゆる『タブロイド判』と呼ばれる判型を採用しており、月に三回ほどの頻度でもって日本人捕虜全員に一部ずつ配られた。

「壮太さん、何か目新しい記事はありますか?」

「いや、相変わらずの日本の体制批判一色だよ。広島と長崎は原子爆弾でこの世から消え失せただとか、焼け野原になった東京では天皇だけがご馳走を食べて庶民を苦しめているだとか、全国で労働者によるデモやストが頻発して大混乱だとか、そんなデマ記事ばっかりだ」

「プラウダはどうですか?」

「こっちも共産党とスターリンを礼賛するありきたりな記事ばっかりで、目新しいものは何も無いな」

 プラウダもまた、ソ連共産党が発行する機関紙である。こちらは日本新聞ほどの頻度では配られないし、そもそもロシア語で書かれた新聞なので、殆どの捕虜はその内容を理解出来ない。だから俺の様なロシア語が堪能な捕虜が代表になって、他の捕虜達に読み聞かせてやるのがこの収容所ラーゲリでの慣例であったが、今日のところは特筆すべき記事は無いようだ。まあ、毎日毎日そんなに大きな事件は起こらないだろうから、たまにはそんな日もあるだろう。

 俺は日本新聞を読みながら、肩から提げた雑嚢の中から煙草入れとマッチ箱を取り出すと、紙巻き煙草を作り始めた。煙草の葉は月に一回か二回、捕虜一人あたりにおよそ三百gが、ロシア語で『MAXOPKA《マホルカ》』と書かれた油紙に包まれた状態で配給される。この煙草の葉を六㎝四方くらいに切った日本新聞やプラウダの紙片で巻いて作った紙巻き煙草を、俺らは『マホルカ煙草』と呼んでいた。ちなみに俺の愛用している煙草入れは、布の端切れで作った小さな巾着袋である。

「飯塚も、マホルカ吸うか?」

「いや、俺はいい。今そんなもんを吸ったら、せっかく無理して食ったもんを全部吐いちまいそうだ」

「そうか」

 顔色の悪い飯塚一等兵の身を案じながら、俺はマッチを擦ると、咥えたマホルカ煙草の先端に火を点けた。マホルカ煙草の葉は本来は捨てるべき茎の部分も一緒に切り刻まれており、味はやたらと濃くてえぐくて、はっきり言って不味い。しかもそこに、新聞紙の焼ける焦げ臭い匂いが混ざるから、更に不味さが加味される。しかしいくら不味いと文句を言ったところで、シベリアで手に入る煙草はこれしか無いのだから、俺ら捕虜達は我慢してマホルカ煙草を吸うのだ。

「矢三郎は、マホルカ吸うか?」

「僕は煙草は吸いませんよ」

 未だ十九歳の矢三郎は、煙草を吸う習慣が無い。

「ああ、そうか。そう言えばそうだったな。それじゃあ、お前の分のマホルカを貰えないか?」

「ええ、どうぞ」

 矢三郎が油紙に包まれたままの煙草の葉を雑嚢から取り出したので、俺は彼に感謝しながらそれを受け取った。

「ありがとな。今度、砂糖か何かの配給があったら、それをお礼にやるよ」

「そんな、別にお礼なんていいですよ。壮太さんにはいつもお世話になってますし」

「世話をした覚えなんて無いんだがなあ」

 そう言った俺はマホルカ煙草の紫煙を兵舎の天井に向かってぷかぷかとふかしながら、矢三郎と笑い合う。奴隷同然の抑留生活は辛く厳しいが、こんな時だけはまるで学生時代の小旅行の様で、少しだけ楽しい。

「消灯時間だ! 総員就寝!」

 やがて午後十時の消灯時間を迎えたらしく、兵舎内では唯一腕時計を所持している小隊長が号令を掛けた。そこで俺らは娯楽を中断し、各自の寝台に横になって毛布に包まる。

「消灯!」

 小隊長はそう言うと、カンテラの灯を落とした。真っ暗になった兵舎の中では、ペチカの中で燃える薪だけが赤々と光り輝いている。各兵舎のカンテラ用の油は十日に一度程度支給されるが、その量は充分ではなく、次の支給日までの数日間を暗闇の中で過ごさざるを得ない事も少なくない。

「うう、寒い」

 毛布に包まりながら、俺は寒さに震えた。兵舎の寝台は上下二段になっており、俺や飯塚一等兵らが寝ている下の段は地面に近い分だけ、階級が高い下士官や将校らが寝る上の段よりも寒い。

「いつになったら、内地に帰れるのかなあ……」

 俺は小声で呟くと同時に、就寝するために眼を閉じた。こうして今日もまた、故郷を遠く離れたシベリアでの捕虜としての一日が過ぎ去って行く。

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