第5話『37』

 霧のような雨が降る、とても静かな夜でした。


 私はリビングルームのソファーに座っています。膝を組み、外を眺めています。ソファーの前にあるローテーブルは、ちょうど膝ぐらいの高さです。テーブルの上の手が届きそうな辺りに、ポテリ、としたグラスが置かれていました。


 グラスは重くて丈夫そうな、肉厚のガラスで造られていました。太めのステムと八面のガラスが不均一に波打ち、歪んでいます。目立った細工の無いワイングラスですが、そうした出来具合がこのグラスの個性との事です。

 

 グラスにはサングリアワインが注がれていました。これは、男性が数日前に仕込んだサングリアワインです。注がれた当初は、冷たかったサングリアですが、今ではすっかり温んでいます。その為、アロマが強まった気がします。通気口からの空気に、甘い香りがたなびいています。そうして、照明を抑えたリビングに漂っていきます。だから、独りだけのリビングには甘い香りが漂っています。


 今夜のように、独りだけの時、私はリビングで過ごしています。そして、外だけを見ています。リビングの広く切り取られた窓からは、外が良く見えました。昼間の街並み、夜のネオン。此処からはそう云ったものが良く見えます。


 今夜、私は夜を見ていました。霧雨は相変わらずに降り続いています。微小な水滴を受けた窓は夜明かりを受ける度、その姿を浮き上らせました。

 霧もやの中、私の目先に点灯する赤い灯が有りました。


 ビルの天辺に灯る、その赤色が、トン、トン、トン、と、毎夜、一定のリズムで点灯している事を私は知っています。そして、そのリズムを口ずさんでいると、時間の経過を感じているような錯覚があります。


 その感覚は、とても不思議な肌触りを私に残します。


 窓ガラスの足下には高速道路が絡まって見えます。先程までは霧雨の中を沢山の自動車が有りました。テールランプを点けたり、消したりする車が列となって進んでいく。ですが、そんな自動車はいつの間にか見えなくなっています。

 今では濡れたアスファルトが水銀灯に照らされているだけです。


 此処からでも、濡れたアスファルトは黒い鏡になって、水銀灯の強烈な明かりを反射しているのがわかりました。そして、その上を、忘れた頃に、車が、すうっと滑っていきます。


 夜との境にある窓ガラスには、私も映っています。


 今夜のルームウエアには、艶のある生地で出来たノースリーブを上着にして、ゆったりとしたパンツを組み合わせました。そして、肩にはロングガウンが掛けられています。いずれも、白地に花柄です。太さが様々な線を用いて、沢山の花が描かれていました。


 霧雨の中に灯るリズムを、どのくらい口ずさんだでしょう。私は、玄関口の微かな音に気が付きました。

 動く事無く、じいっとしていると、パッ、と明かりが灯りました。薄明りに慣れた目が痛みました。そして、私は眩しい程に、明るくなったビングルームには男性の姿を見つけます。


「ただいま、まどか」


 男性は私に近づき、頬に唇を近づけます。軽く触れた男性の髪の毛から、煙草の匂いを感じました。頬に触れた唇はちょっぴり熱くて、微かに震えているようです。


「下らないパーティだったよ」


 籠った声で、男性が言いました。外出専用の眼鏡を外し、男性は目元を抑えます。


「最悪だった。とても疲れたよ。あんな奴ら放ってさ、また旅行に行こうか。まどか」


 私は何も答えませんでした。



 シャワーを浴び、着替えた男性が正面に座っています。いつもの眼鏡に戻し、灰色のパーカーとハーフパンツをざっくりと組み合わせています。厚手のスウェット素材の、とてもカジュアルな格好です。それでも、表情には険しさが残っていました。


 男性は組んだ足をぶるぶると揺すり、親指の爪を噛んでいます。厚いレンズの奥には、苛立ちが有りました。その瞳で男性は宙を見て、私を見て、テーブルの上を見ました。そして、その場に視線を据えます。


 一口で放置されたオールド・ファッションド・グラスがテーブルの上に有ります。グラスは優しい琥珀色のウイスキーで満たされています。褐色の液体と、カチワリアイスから流れ出る冷気が交じり合い、グラスの中でウイスキーはゆっくりと動いていました。


 私はそれらを眺めています。

 そして、新たに、赤色の点灯も数える事にしました。霧雨はまだ止まずにいます。



 ローテーブルに紅花色と琥珀色のグラスが並んでいます。紅花色はサングリアの色です。琥珀色はウイスキーの色です。そして、私は、あれから、100を数えました。そうして、男性が口を開きました。


「あいつ等、馬鹿だ。脳ミソが犬以下だ」


 男性はグラスを掴みます。勢いで小さくなったカチワリがぶつかり、コロコロとした鈴の音を発します。


「折角さ、僕が考えたプランだったのに、あいつ等は無視しやがった。馬鹿にしやがって。そもそも、あいつ等が評価するのは、くだらない案件ばっかりだ。本当にツマラナイ投資家ばかりだよ、あいつ等は。そう思わない?まどか」


 どのような状況だったのか、私には分かりません。ですが、男性に言われると、そんな気もします。


「不動産、IT、国債。そんなモノは古臭い、カビの生えた遺跡だよ。そんなモノに投資していたら、これからは儲からない事が分かっていないんだ。先を見ていないんだよ、あいつらは!排外的な気質は致命的だ!そうだろう?まどか!」


 言われると、私もそうだろうな、と気がします。


「リスクがあるからリターンもデカいんだ。そうした危険を超えるのがヘッジであり、これこそが、投資家の歴史じゃないか!そうだろう?ちがうかい?まどか!」


 言われてみれば、そんな気がします。


「まったく、畜生どもが!」


 男性は喉を鳴らしてウイスキーを飲みました。さらに、小さくなった氷を含み、噛み砕いていきます。


「あー、全てが嫌になった。二人でシンガポールにでも移住しようか。どう?まどか。此処で無くても仕事は続けられるし、投資家への税金はとても安いんだ。どう思う?まどか」


 私にもどうも思う気がします。


「ニーズを予見して、育てて、独占するのが本当の投資であり、投資家なんだ。僕にはそれが出来る。提案した件だって、気候の変化による適地の変化や、人口増減、自由貿易、富裕層の移動などを考えれば、其処にしか辿り着かない。考えれば、先は見えるんだ。だからこそ、これからは農業さ。中でも、バナナさ。バナナ農園に投資するチャンスは“いま”なのに、奴等は鼻先で笑ったんだぜ」


 男性はバナナの状況を話し続けました。


 高地栽培の方が美味しい事、気候変化によって産地の減少と病気の発生。嗜好の変化による消費量の変化と品質の変化。農薬問題とそれに、対応するためのプランテーション改革など。


 男性は悪態を交え、話を続けます。その間、私はソファーに座ったまま動きません。瞬きもしないで、ずっと話を聞きながら、赤い点灯を眺めていました。


 あれから、1000程で、男性の話が終わりました。そして、男性はゆっくりと、立ち上がります。


「まどか。君は僕の最愛の人だよ」


 そして、男性は私の隣に移動しました。ドスン、と腰を下ろした男性の勢いで、ソファーの均衡が崩れます。膝を組んだままの私はバランスを崩しました。そのまま私は男性に寄りかかります。


 寄りかかった私の肩に男性の手が回りました。ゆっくりと頭がねじられ、視界が男性の顔で塞がれます。男性はローテーブルに眼鏡を置きました。

 

 眼鏡を外した男性の瞳には、疲れとお酒と苛立ちが、溶けて混じりあって浮かんでいます。そして、不安とか、不満とか、性欲などの色となって現れてきます。そして、どんな色の時でも、男性は私を求めます。


「ああ、大好きだよ、まどか。本当に僕の理解者は君だけだ。全てを呉れるのは君だけだ。本当に感謝している。本当に愛しているよ、まどか」


 男性が私にのしかかってきました。広くて丈夫なソファーは、やすやすとその重みを受け止めます。そして、そのまま私は、唇を塞がれました。

 

 隙間をこじ開けて、今夜は乱暴に舌が入ります。

 

 右手がルームウエアの襟元をずりおろし、私の片胸を露わにしました。照明に曝された左乳房を、すかさず男性の手の平が覆います。


「フー、フーッン!」


 男性は息を荒くして、私の舌をしゃぶり続けます。そして、私の乳房を揉み続けます。完全にずり下ろされたノースリーブが腰の辺りに留まっています。そして、倒された格好の私には、窓ガラスの向こうの、赤い灯が見えました。トン、トン、トン、と赤い点灯は続きます。


 私は再び、数え始めました。そして、そのまま乳房を揉まれ続けています。

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