第3話『0』

私の目の前に海が広がります。天気は良いのですが、風が強く、波は荒々しく岸壁にぶつかります。波が黒い岩にぶつかる度に、白い泡が弾けていきます。風に混じった潮水がバイパスまで運ばれて来ました。窓ガラスに張り付き、とても小さな水滴を沢山作ります。


「とんだ天気だ」


 運転する男性が言いました。ですが、この風の向こう側はとても静かに見えます。沖の景色もゆっくりしていて、穏やかでした。



 早朝の電話の後、男性は私を車に運びます。


「さあ、行こうか」


 それからずっと、私は助手席に座り、男性の運転する大きな車で移動中です。



「疲れた?」


 男性が私の太腿に手を載せました。ワイドパンツの生地越しに、男性の手の平が動きます。私は何も言いません。


「疲れたよね、此処まで走り通しだから」


 付け根の辺りで男性の手が止まります。


「なら、この先のサービスエリアで休もうか。快晴時はオーシャンビューが素晴らしくて、人気のエリアさ。あいにくの天気だけれど、それも一興ってね」


 それから二撫でして、男性は離れました。そのままパネルを操作して、到着時間を表示します。


「此処からだと、だいだい15分だね。そうだ、ソコは“しらす丼”が有名だから、食べてみるかい?」


 男性はハンドルを握り直します。


「丁度、ランチタイムだ」


 ぐん、とスピードが上がりました。“260”まで刻むメーターの針が見る見る上ります。車は風よりも荒々しく進みます。


「先日、しらす漁が解禁になったんだ。旅先での味は思い出になるからね。記念として食べてみようよ」


 私の目には海が映っています。遠くはとても穏やかに見えます。それでも車に当たる潮風はとても強いです。車はそれを散り散りにして走ります。


 

 本線を逸れて、ぐるりと辿り着いたサービスエリアは、中くらいの広さでした。車線より低く造られた駐車場には、車が6台みえました。男性の車は7台目として停車します。

 男性はショップ近くの駐車スペースに停車しました。途端に、ドアを開けます。


「すこし、待っていて」


 そう言って、男性が外に出ました。風に押されて、ドアが勢いよく閉まります。残された私は動かずにいます。暫くして、車のアイドリングが自動的に止まりました。


 私は外を見ています。この場から海は見えません。正面には白い店舗があります。入り口付近に吊るされた旗やのぼりが、強風に煽られています。見ていると、店舗の自動ドアが開きました。中からネクタイ姿の男性が現れました。


 髭顔の男性です。そして、風にあおられる髪を気にしています。男性は小走りに階段を下り、この車の脇をすり抜けました。その時、突然の強風で男性のネクタイが暴れました。ネクタイの先が顔に当たります。それでも、男性は頭から手を放しません。


 男性が車内に残る私に気が付きました。苦笑いをした男性は、そのまま目を逸らし、通り過ぎていきます。


 私は動かずにいます。


 この間に車の移動が数回、視界に入りました。いま、駐車場に停車中の車はこの車だけです。風によって運ばれてきた細かい砂が、フロントガラスに薄く重なっています。積もった砂は渦巻き状の模様を描いていきます。


「いやあ、参った」


 男性が戻って来ました。二本の缶飲料を手にしています。


「“しらす丼”は止めよう。朝からの強風で漁に出ていないらしい。揚げたて、出来立ての“釜揚げしらす”でないと此処で食べる意味が無いからね。他のフードメニューを見てきたけれど、食べたいのは無かったな。それに、風で砂が舞って大変だよ、車から外に出た途端に砂まみれだ」


 ドリンクホルダーに缶を落とし、男性は杢柄のセーターを軽く払いました。


「この強風には参った。まあ、こういったトラブルも旅の醍醐味だよね」


 男性は缶のステイオンタブに爪を掛けました。しゅう、とエアが抜ける音がします。


「期待させてごめんよ、本当にごめん。お詫びに飛び切りのランチをごちそうさせてもらうよ。さて、何処かないかな」


 缶コーヒーを二本開けると、男性はスマホを取り出しました。画面をスクロールさせ、検索を始めました。


「このあたりで評判の店は、フレンチとイタリアンか。どう?行ってみる?」


 男性が私に画面を見せます。ガラスの上を移動する渦巻きを見つめたまま、私は何も言いませんでした。


「そうだね。その類は東京でも食べられね。分かった、止めておこう。なら、此処はどう?“別荘族の御用達”だってさ、食べログ評価も4以上だね」


 そう云って、男性はカーナビを操作しました。タッチパネルを操作し、画面を広げます。


「ココか、うん、近いぞ」


 画面への長押しで、カーナビの目的地を設定しました。そして、男性は電話番号をプッシュします。


「これから伺いたいのですが、予約できますか?はい、ツイタニと申します。ええ、二人です。サイトにありましたが、個室をお願いできますか?はい、構いません」


 メニューの注文まで終えて、それではお願いします、と男性はスイッチを切りました。


「ラッキーだった、予約が取れたよ」


 男性の顔がほころびます。


「なんでも、この店はクリームコロッケが絶品らしい。個室もあるし、ランチには丁度いいさ」


 男性は車を発進させました。フロントガラスに張り付いた砂が宙に舞い上がります。渦巻きは薄くなり、消えて行きました。


「こんな成り行き任せの旅も面白いよね」


 駐車スペースを出ると、防波堤のような高い壁がありました。車はその壁に沿って本線へ戻ります。

 

 男性は車を加速します。壁を超えてくる細かい砂や、弾けた波の滴が車のフロントガラスにくっつきました。男性はワイパーを動かします。噴水口から飛びでる液体は風に巻かれながらも、ガラスに届き、黒いゴムがそれらを払っていきました。

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