第2話 『F』

 目覚めると“メガネ”の姿は無かった。それでいい、要件は済んだ。そもそも、どうでも良い奴だった。アタシはあの男の本当の名前も知らない。語った素性も、どうせ出鱈目だろう。出会い系サイトで知り合う男なんて、そんな奴ばかりだ。アタシだって嘘ばかりついた。


 アタシは腕を伸ばし、腕時計を探る。時計はベッドサイドで見つかった。目を凝らして確認すると、チェックインしてから4時間を超えている。ギリギリだが、フリータイム中に目覚めたのは、良かった。シャワーを浴びる程度の時間は残っているだろう。

 湿ったシーツの感触が肌に残り、気持ちが悪い。それらを全て洗い流そうと思う。アタシはベッドを降りた。その時、屑籠が足にぶつかる。ばらまかれた中身が見えた。

 アタシは舌を鳴らす。

 暗く閉め切った部屋なのに、ゴミだけは見える。


 ガラス張りのバスルームで、アタシはボディタオルを泡立てた。目の細かいタオルで全身をこすると、気持ちが少し回復する。髪を洗い、最後に冷たいシャワーを浴びて、べた付く汚れを完全に絞り落とした。

 床に散らばったタオルでマシなものを拾い、身体を拭った。

 ドライヤーで髪を乾かし、化粧を少しだけ直した。これで、此処に居る必要はなくなった。部屋にはカラオケやTVゲームが設備として備わっているが、利用した事も、利用する気もない。


 衣服と長いダウンを着ると私はポケットを探った。スマホと財布が無い。探すと、二つともベッドサイドで見つかった。ピンとくる。


 やはり、財布から受け取った札が全て消えている。


― 畜生、やられた。


 マシになった気分が再びへこむ。犯人は“メガネ”しかいない。

 電話で問い詰めてやろうかと思い、スマホに手が伸びた。しかし、証拠はない。この手の輩はそれを逆手に取るだろう。公になったら、状況は此方が不利になる。ならば、サイトにバラしてやるか。アタシの損害は回収できないが、“メガネ”の悪行を露呈させれば、奴のダメージに少しはなるだろう。


 だが、結局アタシはどちらも行わない事にした。カード類は無事だったし、スマホにも異常がない。現金も、中途半端な“はした金”だ。結局、アタシの損害は無と同じ。騒いで邪魔して暴露して、あんな奴に憎まれるよりも、このままにしておいた方が良い気がする。そうすれば、あんなどうでもいい奴でも、いつか、何かの役に立つだろう。

 アタシはダウンの隠しポケットに指先を入れた。ココはバレてはいなかった。厚く固い感触が有る。金ならここにもあるのだ。

 アタシはサングラスで顔を隠し、汚し切った部屋を後にした。


 陽が落ち、暗くなった途端に寒さが増した。実際、冷たい風が吹いている。そんな風が通る度に、街角の女達は煙草を吐き捨て、コートの襟を立てる。

 繁華街を照らすネオンでは暖は取れない。それでも、女達はライトに身を曝す。そして、煙草と薄いコートで冷たい風に耐え続ける。


 アタシは悲壮感が漂うこの一角が嫌いだった。『浄化作戦』で条例が強化され、警察の監視は増えた。けれど、それだけだ。女達は赤色灯の回転中だけ身を隠す。朝日影が過ぎ去れば、元の場所へと再び現れる。ここの女達が他の場所に行くことは無い。他に出来る事も無い。結局、暦と、肌の色が変わっても、女はこうやって生きていく。

 アタシはその眼を見るのも、その眼に見られるのも嫌だった。だから、サングラスは必要だ。


 アタシは足早に定宿としているカスタムカフェに向かった。足元にぶよぶよの感触があり、扉が開いた。静けさの中、アタシはカウンターへと向かった。そこで、店員に声を掛けた。深夜早朝に関わらず、どんな時間にもこの髭面を見かける。


「いらっしゃいませ」


 ぼさぼさの髪と白髪の混じった髭面はいつ見てもむさくるしい。この身なりなら、雇用先に限界があるのも納得できる。


「当店は初めてでいらっしゃいますか?」


「違うわよ」


「ありがとうございます。ご利用時間は如何しますか?」


  毎度毎度の文句で耳タコだ。しかも料金表まで提示する。丁寧なのも結構だが、程度次第では嫌味になる。


「決まっているでしょ、一日!」


 アタシは乱暴に答えた。


「24時間ですね。かしこまりました。会員カードはございますか?」


「有るわよ」


 アタシは会員カードを財布から取りだした。


「お預かりいたします。えー、ポイントはご使用になられますか?」


「使わない。そのままで」


「かしこまりました。料金は4120円です」


「カードで支払うわ」


「かしこまりました」


  アタシはクレジットカードを渡した。店員は受け取り、端末で操作する。だけれど、順調なのは此処までだった。端末から警告音がする。

 店員の小さな目が鋭くなった。善良とは言えない人相が、みるみる歪む。


「お客様、申し訳ございませんが、こちらのカードはご使用できない様です」


 嫌味な程の丁寧な対応の結末だ。そして、アタシは丁寧と凄味は紙一重だと思い知る。


「嘘でしょう?」


 店員の変貌とカードの不可使用に、アタシは声を荒げてしまった。その声で、ラウンジの数人が顔を上げた。


「嘘ではございません。違うクレジットカードか、現金でのお支払いをお願いします」


 有無を言わさず、白髪交じりの頭がゆっくりと下がった。


 アタシは逸らされない視線に直視され、カードを受け取るしかなかった。このカードがダメならば、他のカードも使用できないだろう。


「現金で支払うわよ。ポイント全て使って頂戴」


 アタシは襟元から数枚のお札を抜きとった。支払いを済ませ、さっさと指定された個室へ駆け込む。すると、いつもの部屋だった。


 アタシはハンドバッグすら持っていない。とっくに売ってしまったからだ。現在の所持品はポケット内の財布とスマホと小さな化粧ポーチのみ。しかも、キャッシュカードが使用不可となったので、スマホは直に使えなくなる。『夫』の元を飛び出してから減る一方だった口座が、遂にストップしたのは明らかだ。

 

 アタシは上着を脱ぎ、目立たぬように個室から抜け出た。

 階段を下り、ラウンジ脇のドリンクコーナーで炭酸水を選んだ。炭酸が抜けるから、氷は不要だ。それでも泡立つ液体を口に含むと、すこし薬品臭がした。


 七分ほど満たしたプラカップを手にすると、背中に視線を感じる。振り向くと、見かける数人が目を伏せた。アタシ同様に漫画喫茶を根城にしている連中だ。男、女、若者、中年、老人、ギャル、勤め人、労働者。

 年齢性別容姿は様々だが、比較的に女が多い気がする。そして、日毎夜毎、此処で身を伏せる。各人の事情は様々だろう。ただ、確信できることは、コミュ障である事、そして金が無い事だ。

 アタシも視線を逸らした。漫喫では社交性は蛇蝎だ。この場に居る全員が、詮索を嫌う。


 アタシは選んだ雑誌を個室へ持ち込んだ。備え付きのテーブルに投げ出し、リクライニングチェアを倒す。炭酸水を口に含み、暫くの間、頬に当たる炭酸の刺激を感じていた。

 

 立場、状況で悩みは変わる。立場が変わり、状況が変化して、そして、結局、金に辿り着く。


― 単純。


 頭の中に響く発泡を一飲みで消して、アタシは雑誌をめくった。偶然、ラブドールの特集を見つける。


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