第3話『17』
アラームが鳴り、隣に寝ていた男性が目を覚ましました。眼鏡に手を伸ばし、ベッドから下り、ナイトガウンを羽織ります。そのまま、窓際に近づくのが私の視界の端に映りました。
男性は窓枠から下がるプラスチック製のボールチェーンを引き、ロールスクリーンを上げていきます。
男性の腕が動くたびに、シャッシャッ、とチェーンが音を立てます。そして、遮光布が巻き上がるにつれ、部屋の中に光が満たされていきます。フワフワと漂う塵が、光を反射して輝きました。それを私はベッドの中から眺めています。それは、とても鮮明に見えました。
「おはよう、良い天気だよ」
男性が戻って来ました。途中で、レコードプレーヤーを操作し、黒いレコードをセットします。今朝、聞こえてきたのは女性の声でした。日によって選ばれるレコードは違いますが、この歌声は何度も聞いています。『M』というミュージシャンのアルバムが選ばれる朝は比較的多いような気がします。
「起こして悪いけれど、もう少しベッドにいてくれるかい?」
足元側のクローゼットを開き、男性が言いました。
「僕が先にシャワーを済ませて来るよ」
男性はナイトガウンを解き、クローゼットの中に吊るします。光の中には下着一枚となった男性的な身体がありました。短くはない黒髪に光が反射しています。
男性は部屋を出て行きました。独りになった部屋の中には女性ミュージシャンの歌声が流れています。ベッドの中を規則正しい低音と女性ヴォイスが行き来し、振り子のようなバランスを感じさせます。それがとても規則的なので、身じろぎも出来ない私でも、揺さぶられる錯覚をしてしまいました。
数曲後、男性が戻りました。男性は素肌にバスローブでした。赤みがかった肌と、濡れた髪が先程より強く目を引きます。
「待たせたね、ご免よ」
慌てて拭ったのでしょう。男性の眼鏡レンズに付着した水滴を見つけました。こうした発見は、私を喜ばせます。
男性は私に近づき、掛けられた掛布を取りました。全裸の身体が男性に曝されます。そして、男性は露わになった私の首筋に唇を押し付けました。
「素敵な肌だ」
ぷちり、と曲が終わりました。針が溝をなぞる微かな音が数秒間続き、新たな曲が始まりました。イントロが流れ、レコードから囁きが聞こえました。
「『Thief 』だね。これは“やっかみ”の歌さ。でもね、この旋律は結構、好きだな」
男性はサイドテーブルに置かれた拭き布を取り上げました。そして、私の肌を霧吹きで軽く湿らせると、拭い始めました。男性は拭き布とエアダスターを交互に使いながら、全身の手入れを丁寧に続けます。
男性は目立たない程の微かな汚れにも、固執しました。弱性の洗剤に浸したブラシや綿棒を使い、肌を傷つけないように集中し、優しく何度もこすります。
レコードの曲が尽き、レコードプレーヤーの針が自動的に上がりました。ようやく、男性の手が止まりました。心から満足するくらいに、私は磨かれたようです。最後に男性は仕上げとして、ベビーパウダーを私の肌に薄く延ばしました。
「さあ、着替えようか」
足元に回り、男性はクローゼットを開きます。そして数枚の下着を手にして戻って来ました。
「どの下着を選ぶ?」
笑顔で手にした下着と私を見比べます。
「コレ?うん、そうだね。良いと思うよ」
私は選ばれた黒色のショーツを身に着けます。レース柄の、シンプルなデザインのタイプでした。
「なら、トップも黒のレースにしようか」
男性は黒色のブラジャーを選びました。ショーツに合わせたシンプルなレース柄です。
「そしてルームウエアはコレだよ。キミに似合うと思ってね、つい買ってしまった」
男性はルームウエアを広げます。これもレースでした。
「素敵だろう?気に入ったかい?嬉しいだろう?」
男性の口元を見つめる私は、何も言いませんでした。
新しいルームウエアは赤色のワンピースでした。レースの生地は、身体のラインが見えるほど薄く、その網目からは、白い素肌と黒い下着が透けて見えます。
「とても似合うよ。すごく綺麗だ」
口端を下げた男性の顔が近づきます。そして、鼻先が触れる程の距離で男性はワンピースを吟味します。
「とても丁寧な裁縫だね。全体的に機械縫いのようだけれど、ポイントの場所に手縫いをしているところはさすがだね。一流メーカーの気配りだよ。生地は中国コットンか。まあまあの素材だけれど、コレを見るかぎり問題は無さそうだ。このチュール柄も上質感を出している。職人のセンスも悪くはない。しかも、レースはこれからの季節には売れるからね。このメーカーは買いだな」
男性が私の視線に気が付きました。顔を上げ、レンズ越しにウィンクをします。
「白状すると、仕事がらみで買ったのさ」
腕に力を込め、男性は私の腰を折りました。“くの字”になった私を、男性は“横抱き”に抱えます。腕が太く、厚い胸板の男性は苦も無く、私を持ちあげました。
「さて、朝食にしよう」
私達はそのままベッドルームを出て行きました。抱かれたままでも十分に広い廊下の先にリビングルームがあります。
リビングルームには扉がありません。そして、リビングルームには大きな窓があります。縦に長く、横に広い窓からは沢山の光が入ります。そして、部屋には最低限の家具しか有りません。そうして、リビングルームは解放的な空間になっています。
私はカウンターテーブルに着きました。男性は向かいのカウンターキッチンにいます。
「さて、と」
男性は冷蔵庫からペリエを取り出し、グラスに注ぎました。グラスは自分と私の二つです。私は目の前に置かれたグラスを眺めました。弾ける泡から、とても小さな音がします。泡が弾ける綺麗な音が部屋中を満たしていきます。それが、温もりとなって、私の身体に染み込んできます。私は男性との“ひととき”をこの場で過ごしています。
ペリエが満たされたグラスに軽く口をつけて、男性は電磁調理器をオンにしました。初めにドリップポットに水を入れ、磨かれた天板に載せました。次に、フライパンを温めます。
フライパンにバターをひき、薄切りのパンを入れました。次に、チーズとニンジン、ドライトマトを乗せ、もう一枚のパンで挟みました。
男性は片面の焦げ具合を確認すると、慣れた手つきでひっくり返します。火力を弱め、反対面を焼き始めました。そして、フライパンの空きスペースでクルミを焦がします。
お湯が沸きました。コンロを止め、男性は挽かれたコーヒー豆を冷蔵庫から取り出します。陶器製のドリッパーにペーパーを敷き、ガラス製のサーバーにセットしました。
「コレは中国産のマメだよ。これも仕事がらみで手に入れたのさ」
熱さられたドリップポットから蒸気が噴き出します。そして、熱湯は静かに注がれます。次第にドリッパーが泡立ち、ガラス製のサーバーに滴る液体が見えました。
男性が私の隣に座りました。淡青で馬目が描かれた御皿には、出来上がったホットサンドが有ります。ホットサンドには焦がされたクルミが添えてあり、ハチミツがかかっています。
「コーヒーに砂糖とミルクは?」
男性が訊ねます。私は何も答えません。
「うん、分かった。たっぷりと入れておくよ。女の子は甘党だからね」
私のコーヒーに砂糖とミルクが入りました。表面のミルクが渦巻き状に回ります。男性がスプーンで混ぜると、褐色の液体はその色を濁らせました。
男性はスプーンをカップの受け皿に乗せます。クリーム色の地肌に珈琲色の模様があるカップとソーサーです。このカップ&ソーサーも初めてみました。
形状はシャープとは言い難く、ぽっちゃりした印象を受けました。眺めていると、カップとソーサー自体が、珈琲とミルクで出来ているように思えてきます。
私の視線はコーヒーカップから動きません。それに気が付いた男性がソーサーを動かし、コーヒーカップを手前においてくれました。
「焼窯は熊本だよ。小代焼のカップさ」
男性は自分のコーヒーをすすります。
「陶器には個性があって面白いよね。日本各地には各土地の焼物がある。そして、その一つ一つに表情があるのさ」
男性のビジネスは順調のようです。そして、収入があると、男性はやたらに買い物をします。
「日本の陶器は、採れる粘土や釉薬、焼窯、作陶家で千差万別となるのさ。均一な条件下でも同じ物は出来ない。だから国宝級の銘品は二品とないのさ。逆に言えば、全てが唯一なのだね。そもそも、作陶家は均一を望んでいないのさ。工芸品と工業品は違うからね。それに日本の作陶家は真面目だよ。胡坐を掻かずに、模索しているからね。銘品に追いつけ、追い越せって。それって、失敗の覚悟が無ければ出来ない事だよね」
男性は講釈を続けます。広く、温かなリビングルームに男性の声が広がります。私はカウンターに座り、コーヒーカップを眺めています。そんな私達の時間がいきなり終わりました。
「居てくれて良かったわ」
リビングルームに乱暴な登場をした女性がいます。
「やっぱり部屋の中は温かいわね。あら、朝から随分とくつろいでいるじゃないの」
冷たい外気を纏った女性は、荒々しい息を吐き、男性に歩み寄ります。
「ん?なにコレ?」
大型のサングラスで目元を隠しています。ですが、女性の視線が男性の隣に座る私に注がれるのを感じました。
「何しに来た?要件は何だ?」
答えず、男性は尋ねます。ああ、そう、と、女性は私から視線を移します。
「お金頂戴。それ以外にあると思う?」
目的を口にして、女性は長いダウンコートを脱ぎました。リビングソファーの肘置きにコートを掛け、中心部に座りました。脚を組み悠然とした態度です。
「顧客から振り込みがあった頃でしょ?早く出しなさいよ」
そんな女性の態度に、男性は渋い顔をしたようです。
「いま、手元には現金がほとんど無いんだ。振り込まれたばかりで、まだ口座の中だ」
「なら、ココに有るだけで結構よ。待っているから、早くしなさいよ」
「分かった。持ってくるから、大人しくしていろよ」
渋い顔のまま、男性はリビングルームを出て行きました。恐らく、仕事場にある金庫へ向かったのでしょう。
男性が居なくなると、女性が私の傍に来ました。
「やっぱり人形か。良くできているわね」
女性は指先で私の頬や肩や腕や胸を触ります。
「なにコレ?柔らかいわ。でも、コレってマネキンじゃあ無いわよね」
女性がサングラスを外しました。そのままカウンターに置き、私を見つめます。
「まさかコレって、ラブドール?そうね、絶対そうだ」
女性の興奮に卑下が加わりました。女性は私のルームウエアを捲り上げ、ブラジャーを引き下げます。
「うわ、本物そっくり!メチャ、笑える!」
触る女性の力が強すぎました。私はバランスが崩れて床へ落ちました。続いて、カウンターチェアも倒れてしまい、大きな音を立てました。
「何事だ!」
男性が駆けてきました。リビングルームへ入り、一目で状況を理解したようです。
「『まどか』!」
手にあった札入れをカウンターに置き、男性は私に駆け寄ります。のしかかった椅子を除け、私を抱き起します。そして、私は男性の腕に抱かれ、ソファーへと移されました。
「畜生!邪魔なコートだ」
男性はソファーの肘置きに掛けられたロングコートを払い除けました。その拍子にコートのポケットからスマートフォンが転がります。
「ちょっと!何をするのよ!」
女性が声を荒げました。
「そんなに、その『ダッチワイフ』が大切なの!」
「うるさい!そんな呼び方をするな!」
「腹立つわね!アタシはアナタの妻よ」
「それがなんだ!ほら、金だ。コレを持って消えてくれ!」
男性はカウンターに置いた財布を掴み、女性へと突き付けます。女性は舌を鳴らしながらも、その財布を受け取りました。そして、中味を確認します。
「コレだけ?全然、足りないわよ」
女性は札を引き抜き、財布を叩きつけます。黒革の財布がフローリングに張り付きました。張り付いた札入れは、黒いトカゲのようです。
「エロいお人形遊びでボケたんじゃないの?妻に恥をかかせないでよね!」
女性は足元の財布を蹴とばしました。財布はそのまま窓ガラスにぶつかり、転がります。
「さっきも言っただろう!此処に現金は無い、まだ口座の中だと!」
男性の剣幕な声に女性はたじろぎました。
「それから、彼女に謝れ!お前がした事を彼女に詫びるんだ!」
男性の言葉を聞いた途端、女性の顔が曇りました。しかし、それは一瞬の事です。
「そう、分かったわよ。謝れば良いんでしょう。お人形ちゃん、悪かったわね」
目を伏せ、女性は手にした札束を胸元に仕舞いました。そして、床に投げ出されたスマホを取り上げ、耳に当てます。
「もしもし、アタシ。近くまで迎えに来て。そう。分かった、じゃあ、あとで」
その会話は男性の耳にも届きました。それを意にせず、女性は会話を続けます。そして、電話が終了した女性は、ロングコートを拾い上げました。魅せる柔らかな仕草でそれを身に着けます。女性はポケットにスマホを戻し、カウンターに置かれたサングラスを取り上げました。
「それじゃあ、また来るわね。それまでにお金をたっぷり用意しておいてね」
「うるさい!二度と来るな!」
「馬鹿を言わないで。アタシはアナタの妻よ。そして、此処はアタシの家なのよ。帰って来るのが自然だわ」
女性はサングラスをかけました。そして、ソファーで動かない私を指さします。
「家にラブドールが有る方が不自然よ。まして、ラブドールとSEXなんて異常よね。全く理解できないわ。愛人を囲っている爺さん達の方がまだマトモよ。まあ、アナタは不倫をする度胸も無いし、そもそも生身の女がダメな変態よね、この不能者!」
男性が唇を噛みました。眼鏡の奥が小刻みに震えているのが分かります。怒りを抑えながら男性は乱れたバスローブを整え、露わになっていた胸元と下着を隠しました。
「もう十分だろう。早く帰ってくれ」
男性は深く息を吐き、女性を促しました。ダウンコートの腕を掴み、背中を押します。
「金は用意しておく。帰ってくれ」
「ふん。人形と“おままごと”の生活は楽しい?それともマスターベーションが大好き
なのかしら?濡れもしない『ダッチワイフ』相手のSEXなんて空しいわよ」
女性の姿が消えました。ただ、未だに言葉が届いて来ます。
「『まどか』って言ったっけ?あの『ダッチワイフ』。まあ、なんでもイイや。宜しく言っておいてね、また来るから。今度はアタシがブラとパンティを選んであげるわよ。アナタ好みの清純な一品をね」
玄関が閉じて声が聞こえなくなりました。家の中から女性の姿は完全に消えたのですが、まだ近くに居るような気がします。
「悪かったね。気にしないでくれ」
男性が正面のソファーに座りました。男性は俯き、髪を乱し、指を組んでいます。私はその姿を眺めています。
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