五段砧
増田朋美
五段砧
五段砧
朝から、降り続いた雨は、午後には止んだ。雨は上がっても、ブッチャーや杉ちゃんたちの介護の問題は、まだ続いていた。
「水穂さん、もういい加減にしてくれませんでしょうかね。これでは、お医者さんに栄養失調と言われても、仕方ありませんよ。今日まで、何日ご飯を食べないでいたら、気が済むんですか。」
ブッチャーは、咳き込んでいる水穂に、いい加減にしろと言いたげに言った。
「もう、腹が減らないんですかねえ。ずっと寝ているから、腹が減ったという気がしないのかなあ。俺、そういう気持ちは、わからないですよ。」
ブッチャーは、頭をかじって、もう一度、おかゆの鍋にお匙を入れて、それを、水穂さんの口元にもっていくのだが、また咳き込んで吐き出してしまう水穂さんだった。
「あーあ、お米だって、出来るだけ新鮮なものを使っているし、調味料もできるだけ化学調味料は使用していないのに、こんなに気を付けているのに、何が悪かったんだろう、、、。」
ブッチャーは大きなため息をつく。
暫くボケっとしていると、急に激しく咳き込んでいる音が聞こえてきて、ブッチャーは、すぐに我に帰った。水穂さんの枕は、鮮血で濡れている。
「ああもう、吐き出すとすぐこれだ。ほら、ちょっと座ってくださいな。待ってくださいね。」
直ぐに、チリ紙を取って、水穂さんの口元に当てて、ブッチャーは、はいドウゾ、と優しく言った。できる限り優しく指示をしなければ、介護を怠けているという事になってしまう。これを生業としている、吉田素雄さんだったら、何も抵抗なく、やってくれるのだろうが、ブッチャーは、素人だから、そうはいかなかった。
やっぱりぶっきらぼうな言い方で、ブッチャーは水穂さんに、
「はい、ゆっくり吐き出してくださいませ。」
と、促した。水穂が二、三度咳き込むと、チリ紙は真っ赤に染まるのであった。
「すみません。何だかせっかく作ってくださったのに、申し訳なくて。」
水穂は、ブッチャーにそういうことを言った。
「すみませんじゃなくて、ご飯を食べることを考えてください。そうしないと、このままじゃ寝たきりになってしまいます。」
ブッチャーは、あーあ、とため息をついて、水穂さんの顔についた、血液を急いで拭き取る。そして、
「はいこれ、鎮血の薬。」
と、彼の口元に、吸い飲みを持って行った。それだけは、すぐに吸い付いてくるのだ。水穂は、しずかに、吸い飲みの中身を飲み込んだ。
「あーあ、これでまた眠っちゃうのかあ。そうなると、晩御飯の時まで、目を覚まさなくなるぞ。」
ブッチャーは、またため息をついた。その通り、水穂は、電源を切ったように、眠ってしまうのである。あーあ、晩御飯のときに、目を覚ましてくれたら、また、苦労して食べさせないといけない。それでまた、こういう風になったら、またご飯を食べなくなってしまう。あーあ、俺の苦労は、そのまま続いていく。報われないのが介護の仕事というけれど、こんなにつらいものだったとは、思わなかったよ。吉田さんは、よくやっているな。と、ブッチャーは、思ってしまうのだった。
「俺、こんな無価値なことをずうっと続けていくのかな。そんなんだったら、俺は何をやっているのだろう。」
ブッチャーは、あーあとまたため息をつく。
「誰か、助けてくれないかなあ。俺のこと。水穂さんを助けるサービスは一杯なのに、水穂さんを看病している、俺のほうには、何もサービスもないんだねエ。」
水穂さんは、布団の中で静かに眠ってくれているが、また目を覚ましたら、咳き込んで中身を吐き出すんだろう。介護というのはその繰り返しである。ブッチャーは、困った顔をして、大きな背伸びをした。
「あーあ、誰か、誰かたすけてくれー!」
ブッチャーは、天を仰いで、声を上げた。
するとその時。
「こんにちは。」
と、玄関の方から、声がした。誰かなと思って見に行くと、玄関先で立っていたのは、花村義久先生であった。風呂敷に包まれた、大きくて長いものを抱えている。其れは、たぶん、和楽器の箏である。
「花村先生、どうしたんですか。こんなところに来て。」
と、ブッチャーがそう聞くと、
「ええ、お箏の絃を張り替えに、張替屋さんに、行ってきたそのついでに立ち寄ってみたんです。」
と、花村は答えた。
「そうなんですか。お箏屋さんには、どうやって行ったんですか。お箏屋さんは、確か、ここからちょっと離れていますよね。」
ブッチャーが聞くと、
「ええ、歩いてです。私は、クルマも持っていませんし、運転手さんを付けられるような、経済力もございませんので。」
と、花村さんは答えた。なるほど、確かに、クルマがなければ、歩いていくしかないのだが、
「ええ、だって、大変でしょうに。お箏、重くないんですか、そんな大きなものを抱えて。」
と、ブッチャーは聞いてみた。お箏は確かに重たそうだ。大きいし、長いし、持ち運びはたいへんなのではないか。だからこそ、花村先生は、心臓が悪くなってしまったのでは
「いいえ、よく聞かれるのですが、お箏の中は空洞になっていますので、意外に軽いんです。」
と、花村は、そういってにこやかに笑った。
「ちょっと上がってもよろしいですか、水穂さん、どうされているのか、心配だったのです。」
「あ、今ですね。ちょっとご飯を食べさせて、薬を飲んで寝たところなんです。起こしてきましょうか。」
と、ブッチャーは急いで、そう言うと、
「そうですか。じゃあ、俺、おこしてきます。ちょっと、待っててもらえますか。直ぐに起こせば起きると思いますから。」
ブッチャーは、急いで四畳半に行こうとすると、
「ブッチャーさん、一寸来て!」
と、利用者の声が聞こえてきた。
「どうしたんだ?」
と、ブッチャーが言うと、
「水穂さんが、また、発作を起こして、たいへんなんです!すぐにきてください!」
と返ってくる。
「花村先生、ちょっとここで待っててもらえますか。」
ブッチャーはそう言って、急いで四畳半に直行する。四畳半に飛び込むと、水穂さんは、ひどく咳き込んでいた。
「もう、鎮血の薬が切れちゃったんですか。それでは、頓服の薬をださせたほうがいいなあ。」
と言いかけて、ブッチャーは、玄関に花村先生がいることを、思い出す。もし、ここで頓服の薬を飲ませたら、さらに深く眠ってしまうことになる。
「薬なんて、なんの役に立つんだろうか。ただ、眠らせるだけじゃないか。眠らせて静かにしろという魂胆なんだろうけど、その時に何が起きるかは、解決してくれない。」
ブッチャーは、またため息をつく。
「それでは、花村さんが折角来てくれたのに何も意味がないじゃないですか!」
「須藤さん、お話は分かりましたから、今回は失礼しますよ。」
と、いつの間にか玄関先からそういう声がする。
「あ、ああ、すみません。失礼しました。せっかく来てくれたのに。申し訳ありません。」
と、ブッチャーは、でかい声で言った。水穂さんは、あい変わらず咳き込んだままである。本当は、せっかく来てくれた花村先生を見送りたいが、水穂さんがこの後、中身を出すことは確実なので、それを見てやらなきゃならないという思いもある。
「須藤さん、すぐに水穂さんの世話をしてやってください。私は、また出直してきます。」
そう言って、花村先生が、玄関の戸を開けようとする音が聞こえたような気がしてきた。と、同時に、水穂さんがさらに大きく強く咳き込んだ。ブッチャーは急いで、口もとにチリ紙を当ててやった。同時に、チリ紙は真っ赤に染まる。新鮮で真っ赤な血液であった。この咳き込んだ音のせいで、ブッチャーは、花村先生がお帰りになった音を聞くことができなかった。これでは余計に、水穂さんのせいで、花村さんが、訪問できなくなっちゃうじゃないか。折角来てくれたのに。
「あーあ、やれやれ。俺はどうしたらいいのかなあ。」
しかたなく、ブッチャーは、吸い飲みにはいっていた、頓服の薬を飲ませて、水穂を落ち着かせた。
水穂さんは、しずかに眠りだしてしまったので、ブッチャーは、また口元を拭いて、布団をかけてやる。
暫くして、ブッチャーのスマートフォンが鳴った。誰から電話だろうと思ったら、花村先生からだった。
「ああ、花村先生。」
「今日は突然押しかけて、すみませんでした。事前に電話でもしておけばよかったですね。失礼しました。」
と、花村先生は言っている。
「いや、いやあ、俺が世話をするタイミングが悪かったというだけで。」
「いいえ、気にしないで下さい。それでは明日出直します。明日には、発作も治まって、しずかになっていらっしゃるでしょうから。」
と、にこやかに言う花村さんは、そういうことは何も気にかけていない様子だったが、其れが何だか、申し訳ない気がしてしまった。
「それでは、水穂さんに、くれぐれもお体に気を付けてくれと、おっしゃってください。明日の午後にはそちらに伺いますので。」
という花村さんに、ブッチャーは、わかりました、明日は、発作を起こさないようにさせますから、と言って、電話を切った。
もし明日も、発作でたいへんなことになってしまったら、どうなるだろう、と、ブッチャーは考えてしまう。どうか明日は、取りやめにならないでもらいたいものなのだが、、、。
翌日。
「水穂さん、今日こそ食べてもらいますからね。今日は、しょうゆも何も、使わないで味付けしましたから、確り食べてくださいよ。」
ブッチャーは、そういって、鍋の中にお匙をつっこみ、水穂さんの口元にもっていく。今回は、あたらずに食べてくれたのでほっとした。
「水穂さん、昨日は何が行けなかったんですかね。俺、ちゃんと気を付けて料理を作ったはずなんだけど?」
ブッチャーは、首を傾げた。
「なんだろうな、まあ、俺の知らないところで、なにか当たるような科学調味料が入っていたんじゃないかと、思うしかないのか。」
そういう事なんだろうか、まあ、そうするしかなった。もしかしたら、おかゆの材料である米に、農薬でもついていたのかもしれない。全部の食品を調べるのは、非常に面倒なことであるし、全部が全部調べられない。
「じゃあ、もう一口行きましょうかね。ほら、食べてくださいよ。」
と、ブッチャーは水穂さんの口元へ、そっと匙を持って行った。この時も、咳き込まずに食べてくれた。これが、続いてくれるんだったら、それは、本当に良いことなんだけどな。
ブッチャーが一緒懸命水穂さんにご飯を食べさせていると、
「須藤さん、水穂さん、こんにちは。」
と、後で誰かの声がして、ブッチャーは後ろを振り向く。
後に居たのは、花村先生だった。
「花村先生。いつの間にここに来たんですか。」
ブッチャーが急いでそう聞くと、
「ええ、数分前にこちらに来させていただいたんです。いくらご挨拶をしても、お返事がないので、たぶんここで食事をさせているんだろうなと思って、勝手に上がり込んでしまいました。」
と、花村は頭を下げる。
「あ、ああ、すみません、俺、何も気が付きませんでした。水穂さんに、ご飯を食べさせるので、なんだか夢中になってしまいまして。俺、すぐ気が付くべきでしたねエ。」
ブッチャーは、頭を掻いた。
「いいえ、大丈夫ですよ。とにかく、今回は、水穂さんにお会いできてよかったです。昨日のように、追い出されては、ちょっと残念ですからね。」
そういう花村先生に、布団に寝ていた水穂さん自らが、
「本当にごめんなさい、僕が訪問をぶち壊しにしたような気がしてしまって。」
という事を言った。
「いいえ、大丈夫です。水穂さんもしかたないんですから、今日、お会いできたことを喜ぶべきでしょう。其れより、具合、いかがですか?」
花村は、水穂さんの枕元に座った。水穂も座ろうと思ったが、布団には座ることができなかった。
「ほらあ、水穂さん、食べないからそういう事になるんですよ。食べないから。こうやって、大事なお客さんがきても、これじゃあ応答できないじゃないですか。そういう時もあるんですから、ちゃんとご飯を食べてくれませんかね。」
その有様を見て、ブッチャーがそう口をはさんだ。
「食事を、しないんですか?」
花村がそう聞いた。
「そうなんです。もう俺は食べさせるのに、本当に苦労して、俺は毎日困り果てております。」
本人の代わりにブッチャーが答えを出した。
「そうですか、じゃあ、須藤さんも、大変でしょう。一体どうして、食べようとしないんですか。ここまで固まってしまうとなると、好き嫌いだけではなさそうですね。誤嚥の問題でしょうか。それとも、精神的な問題なのでしょうか。」
須藤さんも大変でしょうと言ってくれたおかげで、ブッチャーは、やっと言ってほしいセリフを言ってもらえたと、頭の中で喜びながら、つい口に出していってしまった。
「ええ。俺も正直よくわかりません。もちろん、水穂さんは、肉魚などの食品を食べると、ひどい発作を起こすことはありましたが、最近は、柔らかいご飯でも吐き出してしまう様になりました。主治医の先生は、食道の硬化のせいかもしれないっていうんですが、俺は、それだけじゃないと思っています。なんだか、理由があって食べようとしないという感じなんですよ。まあ、理由なんて俺は知りませんけどね。」
「そうですか。」
さすがに水穂さんが持っている、歴史的な事情を話すことはできなかった。それを知ってしまったら、もう交流できなくなってしまうような気がした。
「ええ、以前、蘭さんに頼まれてこちらに来ましたときに、大体の事は分かりました。でも、私は偏見も何も在りませんので、そのようなことは気には致しません。しかし、水穂さん、あなたも、そういう事で、頑固にほかの人からの支援を断り続けるのは、いかがなものかと思いますよ。其れよりも、こういう時は、前向きに生きなくちゃ。今日はそのことを、お手伝いしにまいりました。」
と、花村さんがそういうことを言い出した。
「お手伝い?」
ブッチャーが素っ頓狂に言うと、
「ええ、これです。」
と、花村さんは、一冊のオレンジ色の本を差し出した。ブッチャーがそれを手に取って読んでみる。「なんだこれ、数字が横に羅列されているだけじゃありませんか。其れに表紙にはなんと書いてあるんだろう。」
表紙には、「五段砧」と書かれていた。
「はい、ごだんきぬた、です。」
「ごだんきぬた。其れ、何ですか?」
ブッチャーが聞くと、
「曲の名前ですよ。五段砧という曲です。これは単に、数字の並びではなくて、お箏の楽譜なんです。」
と、花村は、にこやかに笑って答えた。それを見て、ブッチャーは、さすが家元だなと思った。もし、今の答えを聞かせたら、お箏を侮辱するのか、とか、そういうことを言われる可能性もあった。
「で、その五段砧をどうするんですか?」
「ええ、簡単なことです。この五段砧に伴奏をつけていただいて、水穂さんに演奏していただきたいんですよ。」
と、花村は言った。水穂は大変に驚いて、思わず咳き込んでしまったくらいだ。
「そんなに驚くことじゃありません。さほどたいへんなことではないでしょうし、一寸長い曲ではありますけれども、ピアノで伴奏するのは、難しくないんじゃないでしょうか。別に、今すぐにやれという訳ではありません。お体がもう少し良くなってからで結構です。私も、そのつもりですし。いつまでも待っていますから、五段砧、演奏していただきたいんですよ。」
「良かったじゃないですか、水穂さん。もし、五段砧が完成したら、二人で、この製鉄所で良いですから、ディナーショーでもやってくださいよ!」
ブッチャーは、これほどうれしいことはないという顔で、そういうことを言った。
「それにしても、花村先生、これは古典箏曲ですよね。それを、ピアノで伴奏しろなんて、他の箏曲家の方から、批判でもされたりしないでしょうか?」
と、やっと咳の治まった水穂が、そういうことを言った。
「いいえ、私も、あの事件のせいで、一からやり直しです。でも、其れでよいと思っています。あの事件のおかげで、今までの体制では、やっていけない時代になったと、はっきり知らされたようなもの。ですから、私も、新しい方法を考えていかなければ。」
そういう花村さんに、ブッチャーは、水穂さんも、こういう風に、弱っていくばかりではなく、前向きにやっていくようになってくれれば、いいのになあと、ため息をついた。
「ですから、そのためにはあなたが必要です。手を組みましょう水穂さん。特にあなたの出身身分について、詰問する人はここにはおりません。私も、一度箏曲界から脱退したような身分ですし、似たようなものでしょう。お互い、仲良くやっていこうじゃありませんか。」
花村さんは、親切に言ってくれた。ブッチャーは、やっと、俺たちにも天の助けが降りた!と涙をこぼして喜んだ。
「どうですか、一度、五段砧を演奏していただけないでしょうか。この、替え手の部分を編曲して下さればいいのです。五線譜が必要なら、私が次回持ってきても構わないですし。私も、洋楽の知識がなかったわけではありません。数字譜から、洋楽譜に書き写す程度であれば、私にも可能です。」
「ありがとうございます!」
水穂より先に、ブッチャーのほうが、よろこんでいる始末。それを見た、水穂も、これは断れないなあと思ったようで、
「はい、わかりました。僕もこの体なので、確実性はありませんが、やってみることにします。」
といった。
「よし、わかったぞ、水穂さん。やる気を出してくれたんだから、体力をつけなくちゃいけませんね。そのためには、しっかりご飯を食べてください!」
ブッチャーは、でかい声でそういって、すぐにお匙を差し出した。
数日後。花村さんがやってきた。今度は、持っていた風呂敷包みの中から、二十枚の五線譜を取り出した。
「これは。」
水穂が聞くと、
「ええ、五段砧の本手、替え手の楽譜です。これを使って、伴奏を作ってください。箏ではメロディの事を本手、伴奏のことを替え手というのです。私が、お箏を弾いて、本手を弾きますから、水穂さんは、替え手に基づいて、伴奏譜を作っていただければと思います。」
と、花村ははっきりと言った。
「先生、一度本手を弾いてみていただけないでしょうか。曲の雰囲気を知りたくて。」
水穂がそういうと、花村は、わかりましたと言って、そばに置いてあったお箏を、縁側に設置した。そして、手早く琴柱を立てて平調子に調弦し、拇、食指、中指に爪をはめて、お箏を弾き始めた。
「花は吉野よ、紅葉は高尾、松は唐崎、霞は富山。いつも常盤のふりはさんさ、しおらしや、ともかく思わるる。」
基本的には何も変哲もない、日本の名物をただただ歌う歌であるが、そのあと、長い手事を経て、長大な、五段の部分にはいる。一段、二段、三段、四段、五段、と大変華やかで、技巧的な五つの楽章が繰り広げられるのだ。この楽章の事を、お箏の世界では段といい、それが五つあるので五段。砧とは、石で藁をたたいているときに歌われる労働歌の事で、その五つの歌を寄せ集めて作った曲が五段砧。熟練者でないと、腰に来るという表現もされるが、お箏を弾くということは、意外に力のいる、大変な作業である。ただ長いだけではなく、割り爪、擦り爪、輪連など、むずかしいお箏の技法が次々に繰り返される。それを、花村は、家元らしく、さらりとした顔で、弾きこなした。そういうことができるのは、ヤッパリ、正統な流派としてそれを伝えたいという家元ならではの想いもあるのだろう。単に弾いているのではなく、曲を守るのだという思いがぴったりと感じ取れる。そしてて、長大で聞き手も疲れてしまいそうな五段の楽章が、終了した後、このような感じのあと歌が入るのが、山田流の五段砧だった。
「松は常盤よ、松は常盤よ、いつも変わらぬ、歳の葉ごとに。」
という、歌を歌い終わって、30分近い五段砧の演奏が終わった。花村もさすがに、一寸疲れたという顔をする。
「先生、先生の気持ちはとてもよくわかりました。先生の演奏には、先生が古典を維持したい気持ちが、非常にあふれておりました。僕は、そこまで音楽というモノに熱意は持てませんでした。」
と、水穂は、そう言った。確かに自分は、音楽というモノは、収入を得るための手段に過ぎなかったし、ゴドフスキーを弾いたとしても、それが、まもなく生滅するという事もない。水穂は、拍手をする事も忘れてしまうほど、感動した。
「大して演奏技術があるわけではありませんが、」
と、花村が言いかけると、
「い、いや、すごいです。僕は、先生に負けました。僕がやっていたのは、単にピアノを弾いて、生活をするための、パフォーマンスくらいの事だったんです。先生のように、必ずこの曲を守るんだってことは、何一つしなかった。」
水穂は、花村に言った。なんだかそれを口に出して、今までの人生で最大の間違いっを、やっと告白することができたような気がして、涙が出た。それを花村は、責め立てることもせず、ただ、そうですかと言ってそれを聞いているだけだった。
「ごめんなさい先生。僕は音楽というモノのとらえ方を間違えておりました。」
と、水穂が涙ながらに言うと、
「水穂さん、あなたがした間違いはそこだったんですよ。あなたは、出身身分を隠すために音楽をやっていると思っていたんでしょうけど、音楽は、身分も何も関係ありません。其れよりも、音楽をどうやって伝えていくかを考えなきゃ。それをしなかったら、音楽も、ただの音になってしまう。」
にこやかに笑って、そういうことをいう花村。水穂は、布団に寝たまま、涙をこぼすのみであった。「大丈夫です。まだ、あなたには今がある。そこを大事にして、出来る事をやっていってください。」
「わかりました。」
花村にそういわれて、水穂は、花村から差し出された右手を、骨っぽい自分の手で握りしめた。
「水穂さん、大丈夫かなあ。」
と、利用者たちは、そんなことを言った。
「咳き込みながら、一生懸命何か書いてるよ。どうやら五線譜らしいけどさあ。あんまり無理しないでもらいたいよなあ。」
心の優しい利用者たちは、そういうことを言っている。時折、四畳半から、書いた五線譜を試しに弾いているのだろうか。ピアノの音も聞こえてきた。そして、必ず咳き込む音も一緒に聞こえてきたので、利用者たちは、心配だったのだ。
「大丈夫かなあ。かえって、寿命を縮めてしまわないか、俺たちは、心配だよ。様子を見に行こう。」
利用者たちは、四畳半へ行った。もう、夜遅くなっていたが、四畳半にはまだ明りが付いている。
「水穂さん、大丈夫ですか?」
と、声をかけるが、水穂は、机の上に突っ伏していた。右手には、鉛筆が握られていて、左手には、血のついたチリ紙が握られている。机の上には、五線譜が散乱していた。でも、楽譜の読める利用者が、楽譜に終止線が描かれていたのを見つけて、もう楽譜は書き終わったんだなとほっとする。
「よし、可哀そうだから、寝かせてあげよう。」
と、利用者たちは彼の体を持ち上げて、布団に寝かせ、掛布団をかけてやった。そして、書いた楽譜も、ちゃんと整理してやった。
「花村さん、喜ぶぞ。」
「良かったな。でも俺たちがこれを聞ける日は、いずれ、来るだろうか。」
二人の利用者は、ちょっと心配そうな顔をして、四畳半を静かに出て行った。
翌日。
楽譜を受け取りに、花村がやってきた。ところが応対したブッチャーは、ちょっと悲しそうな顔をする。
「すみません、水穂さん熱があって、起きれないんですよ。楽譜は一応できているみたいだと思うのですが。」
ブッチャーは、そう言って、水穂さんから預けられた茶封筒を、花村さんに渡した。花村さんはそれを受け取って、時折血痕のついているその楽譜を、隅から隅まで丁寧に拝見する。
「水穂さんに会わせていただけないでしょうか。こんなに素晴らしい楽譜、作ってくださって、お礼がしたいのです。」
そういう花村さんに、ブッチャーは、ちょっと複雑な気持ちになった。確かに、前向きに楽譜を作ってくれたのはうれしいが、これまで以上に弱ってしまい、それを仕掛けた張本人が花村さんだからだ。
「ほんの少しだけで良いです。五分程度でかまいませんから、お話させていただけないでしょうか。」
と、花村がもう一度言うと、ブッチャーは、判断に迷ったが、こうなればもう仕方ないと思い、じゃあ、五分だけにしてくださいと言って、彼を中に通した。
「水穂さん。」
と、静かにふすまを開けると、水穂は布団に寝ていた。ひゅうひゅうと肩で大きな息をしている。額には汗がにじんでいた。
「水穂さん、率直に言いますね。楽譜、作ってくださって、ありがとうございました。何だかさらに、お体に負担をかけてしまったようで、すみませんでした。」
花村がそう話しかけると、水穂は静かに顔を花村の方を向けて、静かに首を降った。
「本当にありがとう。」
花村が改めてそういうと、
「楽しかったです。」
と、小さな声で言った。
この一部始終を見ていたブッチャーは、本当の世界でも、理想の世界でも、水穂さんが、人種差別の苦しみから解放されるという事が、今しばらく近づいてきたのではないかと思った。
五段砧 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます