4 心 -こころ-

「ちせ、芋が焼けた」

「ありがとう」

 ちせに手渡したあと、朧はみずからも芋を手にして、腹を満たします。

 手指を得てから、煮炊きした野菜が食べられるようになりました。狼の時分には食す気持ちもおきませんでしたが、こうして食べてみるとわるくはありません。

「ねえ、今日こそはわたしも連れていってくれるでしょう?」

「だけど、危ないから」

「ああもう、おぼろってばそればかり。わたし、そんなに弱いわけではないのよ」

「ちせは、ちいさい」

「……もう数年すれば、わたしだって大きくなるわ」

 頬をふくらませるちせに、朧の顔はゆるみます。

 ヒトの姿となったおかげなのか、言葉はよどみなく口から流れるようになりました。ヒトの耳でとらえるちせの声は変わりなく響き、朧の胸を躍らせるのです。

 ちせが先ほどから口にしているのは、外歩きのことでした。

 ここへ来て、すでにひと月ほどでしょうか。そのあいだ、ずっと洞穴で過ごしているちせは、窮屈に感じているようなのです。

 外へ出て、己の足で歩きたいと願う気持ちは、朧とてわかります。

 ときおり狼の姿に戻り、山中を駆けまわりたくなります。頂きに立ち、遠く響きわたらせるように吠えたいと、湧き起こる気持ちを抑える日々です。

 朧が狼であるように、ちせは人間です。

 冬が深まる前に人里へ返そうと思っていたはずなのに、いまはどうしてか、促す気持ちになれないのです。

 ちせが外へ出ることを願うのは、住んでいた場所へ帰りたいと思っているからなのでしょうか。

 そう考えた時、朧の胸はきしみました。

「ちせは、村へ帰りたいか?」

「……わたしがここにいては、おぼろの迷惑?」

「そんなことはない。おれはちせと――」

 その時、足音が聞こえました。一人ではなく、複数の者が土を踏み、歩く音です。

 神経を研ぎ澄ませます。遠く、ヒトの聴力を超えた音域でそれらを捕捉しますと、こちらへと近づいてきていることがわかりました。

 ヒトたちの目的がなんなのか。

 彼らは、ちせを探しにやってきたのでしょうか。

 朧はちせを見やり、告げました。

「ちせ、誰かが来る。迎えかもしれない」

「――――っ」

 ちせは息を呑み、くちびるを噛みました。ぎゅっと握った手が、着物の袖に皺をつくります。

 もしもちせが別れを惜しんでくれるのだとしたら、とてもうれしいことです。他者が朧を受け入れてくれた証です。

 朧は入口まで歩いていくと、蔦を手で押し上げて、ちせを振り返ります。

 目を覆ったちせの表情は、わかりません。

 喜んでいるのか、哀しんでいるのか。

 ヒトの感情が、朧にはわかりません。

 ちせとともに、洞穴の外へと出たとき、男が声をかけてきました。


「おまえ、こんなところにいると危ないぞ。ここは化け物が住まう山だ」

「……化け物?」

「そうだ。ヌシがいる。俺たちだって来たくはなかったんだが、命令だから仕方がない」

「さっき向こうで、死人を見た。やっぱりヌシは近くにいるんだ」

「なあ、おまえも逃げろ。喰われっぞ」

 朧が問い返すと、男たちが口々に言いつのります。

 彼らが口にするところの「ヌシ」とは、山の神である白蛇のことなのか、それとも、統治者であるあやかし狼を指しているのか。

 そのどちらにせよ、ヒトを喰らう化け物よばわりされるいわれは、ないはずです。

 考えこむ朧の陰に誰かがいることに気づいたか、男たちは言葉をとめました。そうしてつぎに、大きな声をあげたのです。

「――その恰好、おまえ、ニエかっ」

 男たちの声を聞いたちせが、朧を強く押しのけると、走り出しました。

 反応が遅れた朧に対し、男たちは俊敏に動き、ちせを追います。

 ちせはといえば、目元を布で覆ったままですから、方向なぞわからぬまま、ただ彼らの手から逃れようと走り出したにすぎません。闇雲に進んだところで、たかが知れています。

 木の根に足を取られてころんだちせを、男のうちの一人が捕まえて言いました。

「生きていやがったのか」

「なんのためのニエだ」

「ごめんなさい」

「また、やりなおしだ」

「――はい」

 押さえこんだまま告げる男たちに、ちせはうつむき、力なく答えます。

 その声は、ちせを見つけたときに聞いた、弱々しい声を思い起こしました。

 人里へ戻すつもりで――、そうしなければならないと思ってはいましたが、こんなふうな扱いをされることを望んだわけではありません。

 いまのちせは、かつての朧のようです。

 腹を空かし、村の片隅にころがっていた残飯を喰らった時。

 あるいは、狩った獣を喰らっているのを見られた時。

 ヒトは朧に向かって敵意をあらわにし、憎悪を投げつけてきました。

 ちせに浴びせられている言葉は、それらに似た感情が漂っています。

 憎悪と苛立ち、憤り。


 何故だ。ちせは仲間じゃないのか――

 朧は駆け寄ると、男たちを引き剥がし、ちせを背に庇いました。

 ちせの手が朧の着物をつかみ、それに支えられるように、朧は男たちを睨みました。

「ちせがなにをした」

「なんもしちゃいねえ。それが問題だ」

「意味がわからない」

「おまえさんが庇ってる子どもは、にえだ。お山のヌシさまに捧げる、供物だ」

「ヒトが、供物……?」


 村の人間じゃねえあんたには関係のねえことだがな、そう決まっているんだよ。

 目的なんて知らねえ。

 ただ、捧げものを選んで、運ぶだけさ。

 その子は贄として、山へ入った。そのはずだった。

 でも、連れて行ったやつらが戻ってこねえ。

 これはなんぞあったんじゃねえかって来てみりゃ、死体が転がってる。

 贄の子も喰われたと思ってたら、生きてやがるじゃねえか、お役目も果たさねえで。

 こんな事態、俺たちじゃどうにもなんねえからなぁ、連れて帰って、沙汰を待つしかねえべさ。


 男たちが順繰りに説明をしますが、朧の知らぬことばかりです。

 朧がいままでに見てきた供物は、いつだってヒトが育てた食物です。魚の干物が混じることもありますが、狼が食するようなものはなく、それらは小動物や鳥がついばみ、消えていくのみ。

 朧が住まうようになって十年の間、ヒトが捧げられたことなぞないのです。

 第一そのようなこと、朧は望んでおりませんし、おそらく白蛇とておなじことでしょう。

 理解できない事柄ばかりですが、背に庇っているちせはちがうのか、反論もしません。それどころか、促されるまま男たちのほうへと足を踏み出したのです。

 驚いた朧は、己の横を通り過ぎるちせの手を握って、引き止めました。

 しかしちせは身を引いて、朧から逃れようとします。

 ちせが望むのなら、そうしてやるべきです。

 けれど朧のこころは、否定するのです。

 いやだ、いやだ、と。

 赤子のように、こころが叫ぶのです。


「ちせ、ここにいればいい」

「ごめんね、おぼろ。いままで、ありがとう」

 ちせはそう言って、力なく頭をふりました。

 男たちとともに人里へ戻るのだと、わかりました。

 朧の胸は軋み、それでいて身体中があつくなって、全身の血が頭のなかに集まってしまったかのようです。

 いつしか朧の手から力が抜け、だらりと垂れ下がります。

 そうすることで、すぐそばにあったちせの気配が、遠ざかっていくのがわかりました。

「……ちせ」

 離れていく姿にすがるように、朧は声をかけました。

 ちいさな背中が立ち止まり、ゆっくりと振り返ります。

 その時、ちせの顔に巻いた布が解け、剥がれ落ちました。

 はじめて見たちせの瞳からは、透明な水が溢れ、頬を流れます。

「さようなら、おぼろ」

 ちせは笑っていました。

 ヒトはうれしい時に笑うものです。

 けれど朧にはどうしても、ちせが喜んでいるように見えなかったのです。


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