3 願 -ねがい-

 ちせの顔に巻かれた布は、目のやまいなのだといいます。

 薬師が煎じた薬を塗り、外してはならないと命じられているそうです。

「べつに、取ってしまってもいいのよ」

「だめだ。いいつけは、まもる、ないと」

「手さぐりって不便だもの。おぼろの家を、散らかしていないといいのだけれど」

「いい。おれ、きれいにする」

 ちせの手が地を這い、草をならします。

 ケモノの躰に触れられるわけにはいきません。

 朧は咄嗟に距離をとり、ちいさな手から逃れるように、食べる物を求めて外へ出ました。

 荷車に積んであったものは、煮炊きが必要なものがほとんどです。

 視界を奪われたちせにも、人の手を持たない朧にとっても、それらは意味のない食べ物でしかありません。今はまだ成っている果実ですが、冬へ向かえば数も減り、ヒトであるちせが生きていくのはむずかしくなってしまうでしょう。

 いずれ、ヒトの住む里へ返さなければなりません。


 ちせと生活するなかで、朧の舌も以前よりはなめらかになりました。

 ヒトの言葉とはむずかしくも、おもしろいものです。ちせが首をかしげる回数も減りましたし、誰かと話をする楽しみも知りました。

 ちせはヒトですが、朧が知っているヒトとはちがっています。

 ヒトは朧を見ると、いつだって石を投げてきたり、木の棒をつかってこちらを追い払おうとします。溝伏山へ来るまでに通った村では、歓迎されたことなぞありませんでした。

 ヌシの役割は、里を護ること。

 里とは、ケモノが住まう山だけを指すのではなく、裾野にひろがる村をも含めたものです。

 ヒトとケモノ、どちらとも馴染めずにいる朧にとって、ちせははじめてできた護る相手ですから、大切にしたいのです。

 ですから、朧はおそれていました。

 ヒトであるちせが、狼である自分にどんなふうな態度をとるのか。

 それを知ることが、おそろしくて仕方がないのです。

 かつての人々のように、恐怖し、怒号を浴びせたり、泣きわめいたりするかもしれません。

 父をうしなったあと、おなじケモノですら自分を排斥したのです。

 ちいさなヒトであるちせが、異なる種族である朧を受け入れてくれるわけはないでしょう。

 ちせが伸ばす手から逃げつづけるには、限界がありました。

 食べるものだって、ケモノとヒトではちがいますから、ちせを飢えさせないためには、ヒトの手が必要なのです。



 月が昇る晩、朧はふたたび泉へと向かい、白蛇を呼びました。

 ぷくりと泡を立てた水面からゆっくりとあらわれた蛇は、細い目で見据え、問いました。

「なにを望む」

「ヒトの手を――、否、ヒトの身体を欲する」

「……飲むがよい」

 すべてわかっていたかのように、白蛇はそれだけを返し、去りました。

 石の器には、知らぬ間になみなみと清水が湧き出ています。

 先日のことを思い返し、朧はわずかにとまどいました。喉を灼くかのような痛みは、まだ記憶にあたらしいところです。

 ですが、朧は決めたのです。

 ちせのために、ヒトとおなじ身体を手に入れよう、と。

 あの子に触れることができる身体になりたいと、強く望んだのです。

 丸い月を閉じこめた水は舌に甘く、朧はゆっくりと飲み下します。

 それは喉を通り、臓腑へと達するやいなや、するどい痛みとなって朧を襲いました。

 願いの水は血流に乗り、躰を駆け巡ります。

 痺れ、立っていることすら困難でした。

 地にころがり、のたうちまわります。

 強い力で、八方に四肢を伸ばされるような感覚。

 血が沸騰し、躰が膨れあがり、内側から破裂しそうな衝撃が、絶えることなく襲ってくるのです。

 視界が充血し、空に浮かぶ白い月すら、禍々しく赤く輝いて見えました。

 空気を求めて喘ぎました。

 口を大きく開け、朧は叫びました。

 絶叫のような遠吠えが、響きわたります。

 大気を震わせるほどの音はやがて変化し、それとともに朧の躰も変容していきます。

 黒い体毛が消え、ヒトの肌があらわれました。

 膨れあがった手足の先は伸びて分かれ、五本の指となりました。

 引きれるような痛みが残るなか、両の手をついて上半身を起こしたのは、年のころなら十八歳ほどの若者です。

 無造作に伸びた黒い髪には土がついており、頭を振るとはらりと落ちます。

 若者はおそるおそる右手をあげると、目の前にかざしました。五つに分かれたそれを不思議そうに見やり、ゆっくりと握りこむと、つぎに開きます。

 見おろすと、二本の脚が長く伸びていました。

人間ヒトだ……)

 朧は唾を呑みました。喉の動きすら、狼の躰とはちがいます。

 ヒトがそうであるように、朧もまた二本の足で立ち上がりました。

 しかし、均衡が保てず、かしいだ身体はうしろへとゆらぎ、地面に腰を落としてしまいます。

 まるで力の掛け方がわからない足を見やり、朧はどうしたものやら迷いました。

 もういちど、次はゆっくりと片足ずつ力をこめ、身体を上へと持ちあげます。

 やはりぐらりとかしいでしまい、ふたたび地面に尻をつけました。こうして上半身を起こしているだけでも、腹に力がいるのです。

 ちせのように歩くにはどうすればよいのか、まるで見当がつきません。ヒトの身体は、いったいどうなっているのでしょう。

 そしてなによりも、毛の薄い身体のなんと寒々しいことか。

 ぶるりと身体を震わせて、朧はさらにとまどいました。

 ヒトは毛皮のかわりに、布を身体にまとっていますが、朧がそれを持っているわけもなく。けれど、ちせの元へ戻るためには、それらが必要です。

 心あたりはありました。

 ちせを助けた場所で命をなくした男たちです。

 彼らの荷に、なにかあるかもしれません。

 朧は立ち上がろうとしましたがうまくはいかず、前のめりに倒れます。四つ這いとなった朧は、慣れた姿勢で前へ進むことにしました。

 不揃いな前肢と後肢はひどく歩きにくいうえ、ヒトの身体はどうにも重く、跳躍には不向きなようです。

 しなやかに動いた狼の身体とちがい、あちこちが硬く、四つ足で走るほうがむずかしいと感じます。だからヒトは二本足なのでしょうか。


 不格好なまま山を進み、目的の場所へ辿り着きました。ヒトのとむらいがどのようなものかはわかりませんが、いずれは土へ還るでしょう。

 男たちのそばには、大きな布でくるんだ荷がいくつかあります。月明かりの下、朧はヒトの手を使い、なんとか荷を解いてみました。

 思ったとおり、ヒトがまとう衣が入っています。

 男たちの着衣を真似ながら、朧はヒトの着物をまといました。

 袴を穿くのは難儀しましたし、紐の結び方もあやふやです。ついでとばかりに草鞋わらじも拝借し、見かけだけなら「人間の男」となりました。

 指を動かしたおかげでしょうか。ヒトが「手になにかを持つ」という行為がどういうものであるのか、実感をともなってわかるようになりました。

 近くに落ちていた長い枝を拾うと、それを起点に立ち上がります。

 かつて朧が見たヒトの中には、こうして棒を軸に歩いている者がいたことを、思い出したのです。

 三点で支えることで力が分散されたのか、ようやっと直立した朧は、一歩ずつ前へ進みはじめました。夜が明けるまえに、ねぐらへ戻らなければなりません。

 ちせが目を覚ます前までに、戻っておかなければ――

 朧はゆっくりと、けれど気の急くままに早足となり、「歩く」ことを身体に覚えさせていったのでした。


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