2 洞 -ほら-
するとちいさな泉に泡が湧き立ち、やがてぬるりと一匹の白い蛇が姿をあらわしました。朧よりもずっと長く山に住まう、
「どうした」
「知っていることと思う。ヒトの血が流れた」
「ようであるな」
水を統べる神に、知らぬことはありません。
土に草木に大気にと、あらゆるところへ触手を伸ばすことができるのですから、当然のことといえましょう。
しかしてそれらは、白蛇にとって些細なことでありました。
命は
若い狼を見据え、問いました。
「して、我になんぞ用か」
「……
「それは『願い』かえ?」
白蛇の言に、朧は頷きを返します。
水神たる白蛇に助言を乞うことはあれど、それ以外を口にすることはなかった朧の、はじめての『願い』です。
神は願いを叶えてくれると聞き及びます。
その代償がどんなものであるかは、願いの大きさによってかわるのです。
ちいさな願いはちいさな返りですみますが、大きな力には相応のものが求められることでしょう。
朧の瞳に決意をみた白蛇は、しゅるりと長い身体を泉に踊らせました。
すると、泉のそばに置かれた石の
「飲むがよい。さすれば、たちどころにそなたはヒトの言葉を得ることだろう」
それだけを告げると、白蛇は身を
朧は言われるがまま、器へ舌を差し入れます。ただの水に見えますが、それは不思議と甘く、けれど、喉を通ると激痛へと変じました。
これが、代償というものなのでしょうか。
吐き戻しそうになるそれをなんとか押しこめ、灼けるような痛みのなか、朧はひたすらに水を飲みつづけ、いつしか意識をうしないました。
木漏れ日がまぶたを焦がし、朧は目覚めました。
泉のそばで寝入っていたようで、陽はすっかりと高くなっています。立ち上がって、躰についた土くれを振るい落としますと、いまいちど泉を見やりました。
陽射しの下で見る石の器は、苔むした台座と同様に古びた石でしかありません。願いの水が秘めたる力を発揮するのは、月明かりの下だけだというのは、真実なのでしょう。
水神に
木の
「――だれ?」
「……お、ぼぅろ」
脳裏に響く人語を思い起こしながら、なんとか舌を動かして、朧は声を出しました。
「おぼ、ろ。おれ、おぼろ」
「おぼろ、というの?」
小首をかしげた子どもが返したことで、朧は己の「言葉」がきちんとヒトに伝わったことを知りました。
ケモノである自分の発した音が、きちんと人語となって届いたことに、胸の高鳴りを覚えます。
「でる。いどう、する」
「わたしのほかに、だれかいなかった?」
問われ、朧はしずかに答えます。
「いのち、なくした。しんだ」
「――そう」
「たすける。たのまれ」
事切れる前に男は、「助けてくれ」といいました。
救ってくれと願った切なる言葉を、朧は受けたのです。
真なる響きは心を打ち、山里を統べる者として放置はできません。
しばし俯いていた子は、やがて顔をあげると四つ這いになって洞から出てきました。大木に手を添えて立ち上がります。
子どもはゆらりと首をまわし、なにかを探すようすをみせました。
「どこへ?」
「しばし、まつ」
朧は子どもを残すと、壊れた荷車の場所へ向かいました。
野菜を縛っていた藁縄を引きずりだすと、前肢と鼻を器用に使って、輪を作ります。それに首を通すと、残った片側を咥えて戻り、子どもの足元へと置きました。
「もってる、つく、くる」
平坦な道を先導しながら、朧は
ヒトの子を案内する場所ではないのかもしれませんが、朧は他の場所を思いつきませんでした。
朧が普段、躰を休めているのは、洞穴です。
垂れさがった蔦が入口を覆い、内部が見えないようになっています。自然にできた穴は、中へ入れば大きく、朧が後肢で立ちあがり背を伸ばしたとしても、天井に頭がつくこともないほどの高さがあります。冬へ向けて草を敷きつめてあるので、暖をとることだってできました。
手で蔦を掻きながら足を踏み入れたヒトの子は、次に壁に手をつき、ぐるりと周回しています。
はじめての場所を確認するのは、当然のこと。
自分の目と鼻で安全をたしかめなければ、落ち着くことなどできないと考える朧は、それを静かに見守ります。
「おぼろの家?」
「そう」
「足元がやわらかいのは、なに?」
「くさ、ある」
「生えているの?」
「ちがう。おれ、とった、きた」
聞こえる言葉の意味は解しても、それらを己の考えとして音に乗せることはひどくむずかしく、朧はもどかしい気持ちになります。
けれど、ヒトの子と話をすることは、とても楽しいことでした。
これがきっと「楽しい」という感情なのだと、朧は思いました。
山へ入ってから意を通じた相手は、白蛇だけです。
そのほかに、自我をもつケモノは存在しません。
理由は統治者の不在です。
朧の前にいたヌシが離れて、ずいぶんと時が流れていました。
あやかしではないケモノたちが死に絶えるには、じゅうぶんな時間です。
山が死なずに済んでいるのは、ひとえに水神である白蛇のおかげでしょう。
あやかし狼には一帯を統べる役割がありますが、そうと認められぬかぎりは、繁栄は拝めません。
なにをもって統治とするかはわかりませんが、未だ道半ばであることだけはわかります。自分には足りぬものがあるのだと感じるものの、それがなんであるのかを示してくれる相手もおりません。
本来であれば、教え導いてくれるであろう父は、朧の記憶にうっすらと残っているだけです。
父は、ヒトの手にかかって死んだそうです。
どんなふうに山を統治していたのか、幼い朧は知らぬままに
導かれるように山中を進み、水を求めて泉に辿りつき、ちいさな狼は白い水蛇と出会ったのでした。
◆
「おぼろは、ひとりで山に住んでいるの?」
「そう」
朧はヒトの子と話をしました。
それにより、五人の男たちが命を落とした理由もわかりました。
彼らが積んでいた荷を狙い、夜盗が後を追ってきていたのです。なんとか抵抗をこころみましたが、戦い慣れない彼らがあらがうことはむずかしく、血を流すこととなったようです。
目が見えぬなか、手探りで辿り着いた穴に隠れていた子は、朧が見つけるその時まで、ひとりでじっとしていたのでした。
子どもは女で、齢は十四だといいますが、果たしてその年齢がヒトのあいだでどうあつかわれるのか、朧には見当もつきません。
とはいえ、長寿であるあやかし狼にとって、齢は些細な事柄でしょう。
ヒトの一生なぞ、あやかしの生きる世界にとって、ほんの一刻でしかないのですから。
朧にとってこの子は、護るべき対象です。
白蛇以外で、はじめて会話をした存在でもあります。
扱い慣れないヒトの言葉は思ったとおりにはいきませんが、やめようという気持ちにはなりません。誰かと意思を通わせることに、飢えていたのだと知ります。
名を誰かに呼ばれたのはひさしぶりで、耳と胸がくすぐったい心持ちでもありました。
「なまえ――。おまえ、なまえ」
ふと思いたち、朧は女の子に名を問いました。
誰かの名を呼んでみたいと、そう思いました。
「ちとせ」
「ちぃおぅせ」
舌に乗せた音はひどく不格好で、朧は己を恥じます。女の子は口元をほころばせました。
ヒトは楽しいと感じたとき、こんなふうになるのだと朧は知っています。
繰り返してもうまくつながらない音に苦心していますと、女の子がいいました。
「それでいい」
「それ?」
「ちせ」
「ちぃせ」
反復しますと、女の子は頷きます。
「わたしは、ちせだよ、おぼろ」
「ちせ」
朧とちせは、しばらくそうやって、互いの名を呼び合っていました。
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