朧とちせ

彩瀬あいり

1 朧 -おぼろ-

 小高い丘から奥へとつながる溝伏山みぞふしやまは、それほど深い木々に覆われた場所ではありません。

 にもかかわらず、人が滅多に立ち入らないわけは、山にはヌシが住んでいるとされているからです。

 そのすがたはそびえ立つ山のように大きく、身の丈は二丈(六メートル)ほど。

 夜をまとい、闇に乗じ、鋼のようなするどい歯をたて襲いくる。身の毛もよだつ、なんともおそろしい化け物です。


 退治してはならぬと、その地は伝えます。

 かつて、我こそはと思う者たちが討伐へ向かい、それぞれが武器を振りかざし、ヌシの躰へと突き立てました。

 昼夜を問わずした戦いは苦難をきわめ、けれど、頑強な躰がたおれることはなかったといいます。

 ヌシのするどい歯を持ち帰り、やじりとして狩りに使った若者は、空へ放ったはずの矢を己の顔に受け、両の目をうしないました。ヌシに噛まれた者は、気が触れたかのような振る舞いを起こし、発狂ののちに亡くなりました。

 討伐にかかわった者たちは、一様に悲惨な末路をたどっており、山神やまがみの祟りと囁かれます。

 祟りは、村人の生活へも被害をおよぼしました。

 ある時は水が枯れ、ある時は飢饉にあえぎます。

 山からおりる風が草を枯らし、人々は飢えにくるしんだのです。

 村長むらおさは、ヌシの怒りを鎮めるため、供物をささげ、いのりました。

 どうか、どうか、おしずまりください。


 その甲斐あってか、村の荒廃はとまりました。

 ですから、村人たちは思ったのです。

 ああ、これはやはり、祟りであったのだと。

 そのため村では、おいそれと山へ立ち入ることを「禁忌」とするようになったといわれています。



   ◆



 火の気を感じ取って、おぼろは顔をもたげ、ぐるりと周囲を見渡しました。

 ここは、山の中です。

 草木の成長は終焉をむかえ、すこしずつ水気をうしなっていく季節となりました。

 落ちた葉が敷布となり、地を覆います。

 となれば、ほんのすこしの炎ですら、あっというまに燃えひろがり、辺りは焦土と化してしまうでしょう。


 気配をたどり、朧は駆け出しました。

 黒い体毛に覆われた躰は、闇夜にまぎれると、疾風はやてのようです。

 俊敏にうごく四肢から知れることは、朧がまだ年若い狼であるということ。

 朧は、山に住まう狼です。

 群れを形成する種とはちがい、ひとりで山をべる、あやかし狼です。

 とはいえ、彼はまだ生まれて三十年と経っておりません。あやかし狼は、齢千年を超えるともいわれておりますから、どれほど幼いかもわかるというものでしょう。

 里を出てここへ住まうようになってからはほんの十年ほどですから、人の世に慣れているともいえません。

 あるじなき山へ入ったものの未だ知らぬことも多く、統治しているとはいいがたいところ。

 ようするに、朧はまだ半人前なのです。


 木立を駆け抜けると、ざわざわと足元の草が揺れます。葉の裏に潜んでいた虫が逃げ去る音を耳の端にとらえながら、朧は前を見据えました。

 鼻先をかすめるにおいは濃くなり、やがて別のものが混じりはじめます。

 それは、血のにおいでした。

 大型の獣を狩ったのは先日のことですし、そもそも朧の狩場はこの先ではありません。肉を喰らうケモノは、朧のほかには生息していないはずです。仮に付近の山里から野犬がきたのだとすれば、気づくことでしょう。それにこのにおいは、まだ乾いていないあたらしいものでした。


 朧は慎重に気配をころし、身を伏せて近づきます。

 明かりが見えました。

 火があるのです。

 けれど、その火は広がるようすもなく、その場にかれたままです。

(ならば、人間ヒトか――)

 そっと顔をもたげて覗きますと、輪のはずれた荷車が一台、そこにありました。火は、その近くにころがっている松明たいまつであるようです。土が顔を出しているおかげで、燃えうつることをまぬがれたようでした。

 松明は人間が持っているものです。

 だとすれば、持ち主が近くにいるのではないでしょうか。

 ぐるりと目を転じてみましたが、付近にヒトの気配は感じられません。

 そっと這い出ますと、松明のそばへと寄りました。そうして後肢で土をかけ、まずは火を消しておきます。

 人間ヒトは、闇に弱いもの。

 明かりを奪えば、ケモノである自分が有利となりましょう。

 無論、あぶないから消しておこう、という気持ちもありました。

 荷車のそばには、米や野菜が散らばっています。輪がはずれたことで、荷台からなだれ落ちたのでしょう。

 ふもとにある村々の人間が、時折こうして荷を運んできます。それらが祭事であることは知っていましたが、今年の供えものは先日終わったばかりですし、祭壇となるのはもっと手前の、山の入口に近い場所。こんな奥にまで入ってくることは、ないといっていいでしょう。


 いつもとちがうことが起きている。その理由は、なんだろう。

 朧は鼻を上げ、もういちど血のにおいを嗅ぎます。ゆっくりとそちらへ近づいていきますと、大きな木にもたれかかるようにして、ひとりの男が倒れていました。太刀をあびたのか、着物がやぶれて血に染まっています。力なくおろされた腕から流れた血は、地面のくぼみに池をつくっていました。

 たくさんの血。

 狩りをする朧には、わかりました。

 この者はもう、事切れている。これほどの血を流せば、魂はもう離れているはずだ、と。

 それでも用心深く近づいたのは、からとなったむくろに、よからぬモノが宿ることがあるからでした。

 悪いを鎮めることもまた、ヌシのつとめです。

 男がいる木の奥、月光により影となった草むらのなかに、さらに幾人か倒れているのが見えました。

 その数よっつ。

 合わせて五人のヒトが、倒れ伏しているようです。

 影から、うめき声がしました。どうやら、まだ命ある者がいるようです。

「…………れ」

 言葉の意味を解することはできますが、狼である朧は人語を発することはできません。

 朧の躰がつくる影が、その者に届いたか。最期の力をふりしぼり、ずるりと這った身体が草むらから現れましたが、腕だけがせいいっぱいだったのでしょう。白い月明かりに照らされた血濡れた手のみが、朧に向かってふらりと伸ばされます。

「お……いだ、……を」

 つぶれた声が、途切れながら聞こえました。

 そうして次に、震える指がゆっくりと東の方角へ向けられます。男の言うなにかが、そちらにあるのでしょう。

 死にゆく者にかける言葉を持たない朧は、ただ佇んでいました。

 やがて手がぱたりと落ちます。それを見守ったあと、男が指さしたほうへ歩き出しました。

 そこにあるのは、幹のふとい大木です。古くからあるというだけで、とくに謂れなどがあるわけでもありません。死に際に託すほどのものが、ここにあるというのでしょうか。

 ゆっくりとまわりこんだ朧は、そこで歩みをとめました。

 裏手には大きく開いたうろがあります。古い木にはありがちなことでしたが、ひとつ見慣れぬものが鎮座していたのです。

 月の光が届かぬ裏側、闇のなかにあるそれは、ヒトの形をしていました。

 洞におさまる程度の大きさ、衣から伸びる手足は折りたたまれています。

 ちいさく縮こまるように横たわっているのは、ヒトの子どもでした。

 よわいを推し量ることはできません。

 なにしろ朧は、ヒトの世を知らないのです。

 揺らした尾が草に触れ、かさりと音をたてました。

 すると、洞の子どもが動きました。あげた顔には、目元を隠すように、細く切った布が幾重にも巻かれています。

 きょろりと辺りをみまわすようすをみせたあと、そっとつぶやきました。

「……だれ?」

 伸ばされたちいさな手を取る。

 あるいは、その問いになにかを返す。

 朧はそのすべを、どちらも持っていませんでした。



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