第一話 とおりゃんせ、とおりゃんせ

 セミロングの黒髪をぱさりと耳へ掻き上げると、トランプのスートの柄を並べたメタルフレームが覗く。太めの白い弦を飾るスペードとハートとクローバー。ダイヤには髪がひと筋かかり、斜めにすっぱりと両断されたように見えていた。

 薄く汐の香る海辺の町の風に陽だまりの微熱が流されてくる。心地の良い春という季節が、養老案<ヨーロー・アグネ>は好きだった。レンズ越しの視界にもやわらかな光が満ちているようで。

 しかしこの今という日々の中、彼女の心に安らぎなどありはしない。

 ――この学校には、秘密がある。

 ガラスの端が蹴り破られている引き戸を注意深く開けて、昇降口へ足を踏み入れる。スプレーの落書きと凹みだらけの下駄箱は倒されており、やはり気は進まないけれど土足のままで校舎の内側へ上がり込む。

 入学式から二週間、ようやく鬼百合女学院での生活にも慣れてきた。両手で通学鞄を提げて歩く眼鏡の少女はいかにも優等生然とした風貌で、壁が落書きと破壊の痕跡だらけのこんな学校に似つかわしいとは思えなかったのだが。

 彼女は歩いていく。悪目立ちはしないように、かつ堂々と。

 紫のタイが映える丸襟のセーラー服、韓国の制服のように膝上丈のタイトスカート。健康的な発育をしている体つきの彼女には窮屈そうでもあるはずだが、きびきびとした身のこなしがそう感じさせない。

 教室へは向かわなかった。階段の踊り場で屯して煙草を吸う少女たちの横をしれっと通過し、新校舎の二階からガラスの細工箱のような渡り廊下を使って特別棟へと移動する。形ばかりの授業に出る必要など一切なかった。大学進学は考えているものの、中学三年生の時点で案の学力は世間の高校三年生を遥かに凌駕している。

 それよりも、案にはやるべきことがある。後に水恭寺綺羅が主となる図書室は入学して早々に調べたが、そこに目ぼしい資料はなかった。集積されていたのはごく一般的な出版物ばかりで――当然ながら、郷土史などいくら捲ったところでこの土地の神秘が顔を覗かせるわけもなく。

 ただ、手近なところから調べて回ったことによる収穫が皆無というわけでもなかった。少なくとも、校長を含め教職員はほぼ全員がこの学校の過去にも未来にも一切関心のない案山子のようなものとして存在させられているとわかったし、理事会についてはそれなりの経歴を持つ人間が集められていたからこそ作り物らしい空虚さが浮き彫りになっていた。

 まるで、近い将来に誰かがワンマンとして理事長の座に就くことが内々に決まっていて、それまでの場繋ぎを任された役者であるかのような。そんな印象。

 ――いずれにしても、人間をいくら洗ったところで土地の謎は解けないのよね。

 ――土地に由来するというのは、私の仮説に過ぎないけど。

 特別棟の廊下の奥には、史料室がある。誰もに忘れ去られた小部屋ではあるが、詰め込まれた紙の重みはかなりのものだ。ここ数日で案は人知れずそこへ通い、端から順に検めているのだが、徒労に終わる予感は既に目を逸らし難いほど膨らんでいた。もしここに手がかりがなければ、次は理科系の実験室や準備室をくまなく探すことになるだろう。学校敷地内で採取された地質のサンプルがあれば、どこかの大学や研究所へ送って解析させることで何かわかるかもしれないというくらい。

 それでもどうしようもなければ、どうしたらいいだろう。

 思いつく手などない――そんな時だからこそ、笑ってしまう。

 見えない活路を見出すのが、養老案の役目だった。絶望知らずの鬼謀。彼女は、いつしか不良少女としてそんな異名を得ていた。

 ――相手のあることならね。

 ――喧嘩で聞き出す、っていう手も使えるのに。

 くすっと浮かびかける笑みを噛み殺して、階段を降りる。スニーカーのゴム底がリノリウムを擦り、気を付けてはいるが黴臭い廊下に音を響かせる。一階の入り口を避けて渡り廊下を使ったのは、誰かに見られないようにするためだった。不要な諍いは避けたい――案はそう易々と負けはしないはずだけれど、特別棟に出入りしている理由を邪推されても面倒だ。

 ――減点ね。

 ――抱いていたはずの違和感を、忘れていってる……

 ――今、私また自然と不良の思考をしたわ。

 親友たちのことを想う。水恭寺沙羅や乙丸外連には、伝えられなかった。密やかに抱えた疑問符のこと。

 偉大なる漁火美笛<イサリビ・ミフエ>が世を去った後の鬼百合女学院はあのふたりにとって、彼女のいた場所であり、彼女の生きた場所なのだ。そこが不良少女としての喜びに満ちているのだと語り続けた美笛の不在から目を背けることなく、ふたりは青春をここで過ごそうと決めた。

 それを邪魔しようというつもりはない――可能な限り、沙羅や外連と同じ時間を過ごしていたいと願えているほどに。

 しかし、知らなければならなかった。

 なぜ美笛は凶刃に斃れたのか。彼女は湘南を統一し魔県・神奈川の制覇を成し遂げ得る脅威だとして、横浜から来たつまらぬ不良少女の闇討ちに遭った。

 なぜ――そこまでのことに、なってしまったのだろうか。

 勿論、案だって不良少女の端くれとして拳を振るう。その意味は理解できているつもりだ。小学五年生の頃、沙羅とのタイマンを通して「改心」した転校生の案は、筋の通った真正の不良少女としての生き方に憧れさえして彼女の仲間になったのだ。

 だが、命懸けで喧嘩をすることと、本当に命を奪うこととは決定的に違う――罪や倫理の話ではない。そういった決着のつけ方は、不良少女たちの物語の世界観から明らかに外れているのだ。自らの信念を貫かずにいられない生き物が不良少女であるという前提の下、その障害となる他者がいるとして、ただそれを亡き者にすることで永久に排除すればいいというものではない。栄光なき勝利は却って己の道に靄をかける。そう生きると信じた貴いひかりを見失わせる。不良少女であれば本能的にそう判断するはずなので、横浜の少女がナイフを握りしめて漁火美笛に突進したことは実に不可解であると言える。

 そんなロジックが思考において明確に形を持った時、養老案の心の中には、真なる疑問が生じたのだった。

 不良少女の世界観――って、そもそも、何?

 いつからだろう。

 世間の常識から明らかに乖離している法則を、いつから、当たり前のものだと思っていたのだろう。不良少女と呼ばれて、誰に教わったわけでもないのに少女たちが生き方の価値基準を共有できているのはなぜだろう。それが混沌のように這い寄るミームであるのだとしたら、根源はきっと。

 案の見立てでは、この鬼百合女学院に――あるいはここ湘南という土地そのものに、嘲笑うように根差しているはずなのだ。

 それを調べて解き明かすために、『酔狂隊』第二使徒・養老案は独り、動いていた。

 漁火美笛がここで生き、そして死んだことも。『酔狂隊』を結成した四人が出会い、そして――現状があることも。

 全てはそれぞれの断固たる選択であって、大いなる何かに操られてなどいないのだと、確かめたくて。



「しんどいわぁ……なんでうちらがこんな……」

 わざとらしく大きな溜息をついて、黒髪黒マスクの橘高絹ゑは頬を膨らませた。

 恐る恐るその手で摘まみ上げられているのは、シリコンの棒。鬱憤を晴らすように、大きなゴミ袋へ勢いよく投げ込む。物を投げるといった激しい身体の使い方に慣れていないことがひと目でわかるぎこちなさ。

「うちの手ぇが穢れるぅ……」

 次から次へと、似たものが箱から姿を現す。膝を折った絹ゑは嫌そうにひとつひとつ袋へ移す。それらの形状は極めて特徴的で、用途などひとつの他にはないと思えた。……早い話が、男性器を模したジョークグッズである。呻き声を上げながらひとつひとつ取り出していないで箱を袋に突っ込んで逆さにすれば済む話だとアウグスティン恋愛<―・ココア>は横目で見ながら思うのだが、口には出さない。

 プールサイドの備品倉庫はそんなもので溢れ返っていた。『死闘組合』が占領するまで、屋内プールは女生徒による女生徒のための性風俗店として使われていたのだ。経営していた『蛮戯羅洲』の崩壊に合わせてサービスは停止され、その多くが彼女たちに何らかの弱みを握られた不良少女たちであったスタッフは揃って『死闘組合』に合流した。

 この顛末は、新入生のみならず上級生たちにまで印象付けることとなった。『死闘組合』の太郎冠者愛鎖は弱き者を見捨てない、と。

 少なくとも、早くも勢力を立ち上げた生意気な一年坊というだけでなく、多少は器のある不良少女だと見做されるようになったのである。

 しかしながら――もうじき幹部として正式に名を挙げてもらえると思っていたはずがこの倉庫の掃除をさせられている絹ゑなどは、不満たらたらなのだった。

「絹、労働生産性が落ちてるある。塩基さんに言うあるよ」

「お春(ちゅん)はんのいけず……」

 目を完全に隠すほど長い前髪をゴムで乱雑に括って角のように前方へ突き出した郭春涵は、モップを握ったまま腰に手を当てる。絹ゑと中学時代からバディを組んでいたらしい、胡散臭いが本当に中国出身の不良少女だ。掃除に本気で取り組む気などまるでない和装の絹ゑと異なり、今日の彼女は黄色いジャージに身を包んでいる。このふたりについて、恋愛はそれ以上を知らなかった。別に知るつもりもなかったのだが。

 段ボールに膝を押し当てて折り畳みながら、アウグスティン恋愛はちらちらと観察する。『死闘組合』の不良少女たち。幹部候補生気取りの末端。力も品性も欠いてきっと何者にもなれやしない彼女たちのことを、恋愛は内心で明白に見下していた。

「ティン子はん♪」

「えっ……あっ……はい……」

 しかし、彼女はそれを押し隠すことに熟達しているので。

 この空間において唯一、入学してたった数週間の仲。そして小柄で伏し目がちでおどおどした振る舞い。

 橘高絹ゑが彼女に目を付けるのは当然だったと言えよう。

「段ボール潰すん、大変そうどすなあ。うちが代わってあげますえ。こっちよろしゅうおたの申します」

「あっ……あの……えと……はい……」

 ピンク色に染めた前髪をカチューシャのように編み込むことで露出させてある恋愛のつるつるとした額を、ぴんと指で弾き。

 有無を言わせない調子で、絹ゑは、恋愛がへたり込むように性具の箱の傍に座るまで微笑んでいた。

「あらあらぴったりやわあ、うふふっ……名前からして、ティン子はんやもんねえ♪」

「えっ……その……いや……」

 段ボールを恋愛の手からもぎ取り、上機嫌でふらふらと窓際へ逃げていく絹ゑ。春涵はドングリのような黒目がちな瞳をぱちぱちさせ、呆れたように小さく鼻で息をするが、止めようとする素振りは見せない。

 ――ふっざけんじゃないわよ。

 ――あたしだって、あたしだってこんなん触りたくないっての!

 ――いくら仕事だっつっても!

 ――あと全ッ然面白くないから!

「あの……その……きっ……たか……さん……」

 抗議の声――あげられるような性格か否か、アウグスティン恋愛は瞬間で吟味する。

 彼女の作り上げた、このキャラクター。弱く脆く可哀想で、『死闘組合』になんとか拾ってもらった少女としての「アウグスティン恋愛」なら、こんな時どうするか。

 だが、言い淀むだけで十分だった。橘高絹ゑを苛立たせるには。

「随分とご立派な態度どすなあ。うち親切で言うとるんどすえ」

 冷たい目でしずしずと歩み寄った絹ゑは、しゃがみこんだアウグスティン恋愛の肩に草履の裏を押し当てると、そのまま少しの力を加えてバランスを崩させ蹴り転がす。

「あう……ひえ……あの……ちが……」

 ――ったく。

 ――楽じゃないわね、バカの相手は。

 コンクリートに尻餅をつき、怯えたような視線を投げ上げてやる。少女三人を閉じ込めた室内は狭く、流れ込んだ塩素の匂いに満たされてどこか息苦しい。春涵が感情のない眼差しで立っている傍の小窓からのみ外の光が採られているが、夏の足音さえ聞こえる午前、型板ガラス越しに差し込む光は彼女の頬に刺青された漢字をそっと照らしてみせるくらい。

 今日は、いい天気だ。水曜日には勿体無いほど。

 掃除はほとんど終わっていた。そもそも、備品を保管していた場所なのだからさほど汚れてもいない。大量の箱とその中身を処分して軽くモップをかけ、消臭スプレーでも散布しておけば拠点の別室として使うには十分だろう。本当なら、今日明日にでも抗争を始めようというのに三人も割くような仕事ではない。

 だから――アウグスティン恋愛は勘付いていた。『酔狂隊』との全面戦争を前にして、『死闘組合』上層部の三人組は組織内部の不安要素を見極めようとしたのだろう。そうだとすれば気にかかるのは、あわよくば幹部たちをも出し抜こうという野心がだだ漏れの絹ゑ・春涵はいいとしても――自分が、ここに呼ばれていること。

 その「臆病さ」を懸念されてのことなら問題はない。恋愛が上手く振舞えているというだけの話だ。だが――

「やーっほっはろー! しっかりやってっかにゃー?」

 結局、大人しく性具を始末するふりを始めていたところ、重かったはずの扉を勢いよく開けてひとりの少女が入ってきた。

 緊張――ただそれは、恋愛だけのものではなく。

「塩基はんっ、お疲れさんどす」

「ニイハオ。お疲れ様ある」

 芝浜塩基の姿を認めるや否や、ころりと態度を変える絹ゑと春涵。

 座り込んでいたのをいいことに、そして恋愛は静かに息を整えた。短い靴下に左手の指をかける。もしもの際にはローファーごと直ちに脱ぎ捨てられるよう。

「んにゃんにゃ。ご苦労ご苦労、三人とも今日はもう帰っていい・ZE。ゴミはどーせ通り道だからミーが捨てといてあげるにゃん」

 臍などまるで見えてしまうほどずたずたに裂けた大きめのTシャツに、下着とほぼ面積の変わらないデニムのショートパンツ。元サッカー少女だけあって、網タイツで覆われた脚に逞しく発達した筋肉を隠し持っているのがありありとわかった。

 そして何より、耳をじゃらじゃらと飾るEの字ピアスとインダストリアルの安全ピンに、呪術師か悪魔崇拝者かと疑うほどびっしりと顔面以外の全身に刻まれたタトゥー、漆黒のアイシャドウやルージュ。

 どれだけ言動がお調子者であろうと、それほど異様な風体をした彼女にすぐさま気を許せる少女などそうはいない。絹ゑたちなど『死闘組合』の麾下に入って数週間経つが、芝浜塩基の出で立ちにはまだ慣れていなかった。

「謝謝、塩基サン。焼却炉の方が通り道ってこれから喧嘩あるか?」

「んー、喧嘩っつかお願いってとこかにゃ。愛鎖と一緒に、二年の先輩たちにさっ」

 サンタクロースの如くゴミ袋を威勢よく肩に担ぎ、幹部は白い歯を見せて笑う。奥二重の瞼のみ、研ぎ澄ませて。

「ま大人しく聞かなきゃブッ潰すんだけどよ」

 さながら怪物のようだった。

 ぞっ、と瞬間的に冷たいものが走る。橘高絹ゑと郭春涵の背筋に。常に憤怒を周囲に撒き散らしているような並の不良少女が相手なら、気圧されることなどないふたりだけれど。

 当然――芝浜塩基という少女の恐ろしげな要素は奇抜な装いばかりに留まらないのだ。この剥き出しの威迫。狂気にも似た二面性こそが、芝浜塩基を尋常の理解の範疇にない存在たらしめていた。つい一瞬まで朗らかに笑っていたのに、気付けばその肌の裏にどろどろと滾る暴力が顔を覗かせようとしている。

 信頼を損ねるようなことがあれば、その矛先が誰の喉元に向けられるか――火を見るよりも明らかだった。

「そ、そらまた大仕事どすなあ……ほな、うちらお先に失礼しましょ……」

「ま、また別命あればいつでも駆けつけるある……再見……」

 思い当たる節のあるふたりは手早く掃除用具を片付けてしまうと、引き攣った笑みを浮かべてすたこらさっさと逃げ出した。まるで、一秒でも塩基と同じ空気を吸っていたくないとばかり。アウグスティン恋愛をそこに残したまま。

「何もそんな焦ることなくねえ? なー、んと……アウグスティン……だったかにゃん?」

「あっ……えと……その……はい……」

「にゃっはは、そんな緊張せんでいいっちゅーに! タメだべよ」

 橘高絹ゑが半ばまで折り畳んで放り出していた空の段ボールひとつに目を付けると――壁に向かって、塩基は思い切り蹴りつける。ぱあん、と乾いた音を立てて箱は平たく潰れていた。勿論、恋愛を脅すつもりなどではなく、ただ足癖でそうしてしまったのだろう。

 っしゃ、と綺麗な軌道と威力にガッツポーズ。振り向いて屈託のない笑み。

 反転するもの同士が捩れ、縺れ、絡まり合っている。二重螺旋の如くに。それが塩基。名の示す通り。

「さっきの奴らになんかされてる? ……もし、ぼっちで苦しんでんなら、すぐミーらに言って」

 しかし実のところ――その根源はきっとただ一点なのだ。掴みどころがないようでいて、全ては彼女を衝き動かすとある欲求だけに回収されていく。

 芝浜塩基は歪んでいる。歪んでいるが、実のところ、構造的には解体して捉えやすい人格をしている。そう、恋愛は密かに見ているのだった。

「『死闘』はね、世界中のぼっちを救うためのチームにゃんだぜ」

 髪に交ぜたブルーベリーの色は暗く、だがどこか爽やかに輝いて見える。

 そんな、塩基の笑顔だった。愛を知って生きる少女の。

 アウグスティン恋愛は、瞬きをした。

 ――はいはい、どこまで本気なんだか……

 ――待って。

 ――もし……どこまでも、だったら?

 知ってはいる。愛鎖と塩基とピカドールが、ひとりとひとりとひとりだったことを。繋がり合った彼女たちは、その合縁奇縁に孤独な少女たちを巻き込む形で勢力を広げていることを。

 だが――『死闘組合』は何かの達成のために拡張されているのではなく、それ自体が目的なのだとしたら。否、それすら結果でしかなく、てっきり建前だと思っていたことこそが太郎冠者愛鎖とその一味が抱く真の目的なのだとしたら。

 恋愛の想像を遥かに超えていく。太郎冠者愛鎖という不良少女は、ただひとりの救世主として――水恭寺沙羅を討ち果たしにかかるだろう。『酔狂隊』の軍団化を拒絶したまま鬼百合の覇権を獲ろうとする彼女は、紛れもなく、愛鎖の敵であるはずだ。

「いえ……その……はい……あた……しは……しん……ぱい……ない……です……」

 ――これは、ちょっと……

 ――誤算だったかもしんないじゃないの……!

 確信していた。

 風の噂も、今回ばかりは正しいかもしれない――恐らく夏が来る前に、『死闘組合』と『酔狂隊』は激突することになる。

 きっと、どちらかが滅びるまで。

「ただ……その……あた……した……ちも……うご……かな……くて……えと……いい……のか……」

「あーね、愛鎖が昨日言ってたやつ? だいじょーV、もう仕掛けてるぜい」

「えっ……」

 まだ。

 まだ間に合うのなら、「彼女」に伝えなくては。

 ――太郎冠者は。

 ――アンタが思ってるより、手強い相手よ!

 しかし、酷薄に笑ってみせる。芝浜塩基。立てたVサインのうち、黒い炎のタトゥーが零れる左手の中指をちろりと舐めながら。

 そこには銀の指輪があり、アウグスティン恋愛には、それが冷たいのか生温いのかわからなかった。

「ピカドールがにゃ」



「おはよう、ラクシュミ」

 ……今朝も、成果と言えるような成果はなかった。人気のない階段の踊り場で一服してから、彼女は正午を待つ間延びした領域を訪れていた。

 荒廃した教室では、案も不良少女の仮面を被ることに躊躇しない。

 事実として、沙羅や外連と同じくセーラー服に袖を通し『酔狂隊』というアイデンティティに抱かれて生きることは、楽しい。それは否定できなかった。並んで煙草をふかしながら、こんな時間が永遠に続けばいいと甘美に夢見ることだってある。

 不良少女――その定義は単純ではない。

 子供でいるには窮屈で、大人になるには果てしない。そんな荒野に立ち、我先に裸足で駆け出す愚かさを笑い飛ばしながら抱きしめられる少女たち。

 引き寄せられるように、集まるのだ。海風が汗を吹き散らす、この湘南に。

「……ええ。おはよう」

 平たい声で静かに、しかしはっきりと挨拶を返す。チョコレート色の肌に翡翠の目をしたクラスメイト。

 インド亜大陸の貴い血を引く、その名も高き楽土ラクシュミ。日輪のようなドレスを纏う、ヨガの呼吸の不良少女。

 二組の別市瀧生・三組の太郎冠者愛鎖が不参加を表明したことで流れた今年の一年戦争が、もしも通常通りに開催されていたなら、五組を代表してタイマンに赴いたのはきっと彼女だっただろう。誰も異論など述べるはずがない。入学初日に、彼女は烈女の犇めくこのクラスをいとも簡単に平定した。案が一組の沙羅や外連のところへ喋りに行った十五分で全ては片付いており、あえてそこから異議を申し立てることもなかった。

 ラクシュミは特別に持ち込ませたらしい革張りの黒椅子に座り、脚を組んでいた。学校机とは高さが合わないが、その玉座は机に齧りついて鉛筆を握るためのものではないし、この教室はそんな空間ではないのだった。

 見渡せば十人に満たないほどの不良少女たちが教室の各所で屯しているが、誰も案とラクシュミの方へは視線を向けない。内心で彼女たちがどう思っているかなどわかりきっていた――大方、早く明確に示してほしいのだろう。このクラスで最も強いのはどちらなのか。……どちらに服うべきなのか。

 ――揃いも揃って減点よね。

 ――私なんかとこの子の格の違いも見抜けないようじゃ。

「……」

 じろり。

 だから、案を刺すような視線はひとつだけ。爪先だけ引っ掛けたヒールの踵をぶらつかせるラクシュミの背中に貼りつくように、当たり前のこととして教室にいる少女。まだ中学生であるはずなのに。

 絆・ザ・テキサス。薄いブルーを基調としながら白や紫やエメラルドグリーン、多様な色にグラデーションさせた長い髪は慎ましやかなサイドテールに結い上げられ、斜めに被ったテンガロンハットへの視線誘導を妨げない。飾り紐のついたポンチョで自身のシルエットを隠しながら、しかし彼女はラクシュミの影として存在している。

 部外者がそこにいることについてもまた、誰ひとり言及しない。笑わない従者のひとりやふたり、王たる器を誇るラクシュミの「持ち物」としては驚くに値しない。そういうことにしてしまって、確かめられずにいた。好奇心ひとつで災いの門を開くには、初日の拳が効きすぎたらしい。

「案。ホームルームがありますもの」

 机はサイドボード代わりに使われていた。窓際の席で、春の日の陽光をガラス越しに浴びながら、まだ正午にもなっていないというのにラクシュミはワイングラスを揺らしている。

 血にも似る水面が波のかたちを生んでは静まり返る。

 帰結としては何事もなく、小さな跡を遺すだけなのだ。

「登校したら、まっすぐ教室へ来るのをお勧めしますわ」

 ひと口含み、喉を鳴らして、満足げに唇を拭いながら。

 黒い睫毛を、羽搏かせた。

「!」

 それは、まるで警告のようで。

 旧い友人へ贈る、鬼百合女学院の秘密に深入りするなという迂遠なメッセージなのではないかと。

 養老案は、思案して。心、凍り付かせて。

「……ラクシュミ? あなた、何か知って――」

「お~っほっほっほ!!」

 瞳、輝く。口元に手を当てて、高笑いしてみせる。波打つ髪は黒く、揺れる。揺れる。背後で人形のような絆は微動だにしない。

 もはや春だった。

「お教えする義理があって? 『酔狂隊』の、よう・ろう・あ・ぐ・ね、さん」

 手を取り合える季節が終わったことに、案だって気付いていないわけではなかった。

 それでも、褐色の少女が半ばまで影としか見えなくなっていたとは、さすがに初めて認識したのだった。

 ワインをぐいと飲み干し、勢い、ラクシュミは立ち上がる。よく育ったメロンのように大きく張り出したドレスの胸元、誇るように突き出して。

「絆。帰りますわよ」

「仰せのままに、マハラジャ」

 初めて口を開き、ラクシュミのグラスを受け取って手早く荷物をまとめる絆。愛するマハラジャのハンドバッグと毛皮のコートを教室の壁から取ってくると、かつかつとヒールで机の列の間を歩き出していたラクシュミの背中に駆け足で追いつく。

「あら、私と話すために残っていてくれたの? 嬉しいじゃない」

「多忙なんですの、わたくしもね」

 息を呑む代わりの強がりは空しく宙に投げ出された。

 ひらりと手のひらを麗しく振り、顧みることなく歩いていく。教室に残っていた数人の不良少女たちは迷わず道を譲り、近くにいたひとりなどはドアまでも開けた。彼女に対してだけは「ありがとう」と簡単な微笑を向けてみせた。

 絆だけがその背中を追いながら小さく案を振り返ると、無表情のまま舌先を突き出して、親指で首を掻き切った。苦笑しながら、案は彼女に手を振ってやる。

 ――本当、あの子、憎めないのよね。

 にまにま笑いながら息を吐き、席に戻った案は鞄から取り出す。持ち出してきた青いバインダー。

 変哲のない誰かが綴じた事実しかそこにはないと理解しているのに。

 ――それにしても。

 ――誰にも話していないのに、ラクシュミは……

 ――私の調べていることを、知っていた……?

 ――いえ。そうと決まったわけじゃないけれど。

 ジッパーが開いたままの鞄は片腕だけで机の脇に提げられ、ぶらぶらと揺れていた。

 ――何を隠してるのよ、あなたは……

 中の資料を確認しようと視線を机の上に落としていた案は――ラクシュミとすれ違うように入ってきたひとりの少女がとことこと自分の方へ歩いてきていると、気付いていなかった。

「……っ!?」

 教室にいた数人の不良少女たちは、ばきん、と痛い音を聞いて思わず歯を噛み合わせた。

 立ったまま頭をブリキでしたたか打ち据えられた案の肉体は、仰向けに倒れ込んで脚を投げ出す。案の席が最後列でなかったら、幾つも机を薙ぎ倒していただろう。眼鏡が吹っ飛んでいき、要の壊れた扇のように黒髪がばらりと広がる。

 がらがらと音を立てて、放り捨てられたバケツが机の間を転がっていく。錐台形の側面は凹み、持ち手は外れてアンコウの提灯のように弧状のまましなっていた。

「……ん。こいつが養老案で間違いないんだな」

 腰に手を当てて、大きなスパンコールリボンの少女は首をこてんこてんと左右に倒しながら案を見下ろしていた。眠たげな垂れ目と口元の黒子が年の割にどこか色気を感じさせるが、低い身長も発育の良い胸や尻も一緒くたに飲み込み輪郭を見失わせる宵闇のような黒パーカーはオーバーサイズで、背中にたった一本だけ蛍光ピンクのラインが走っていた。ごつごつした蛍光イエローのスニーカーといい、大人しそうな顔に反して派手好みなのか。そのくせ、ふわふわと内向きに丸めた髪はアッシュカラー。

 いずれにしても、不良少女のひとりであり。

 ざわついた教室内は、その一瞥で静まり返る。凶器(ドーグ)での殴打について、普通、鬼百合の不良少女たちはいい顔をしないが――床で不安定に転がっている歪んだバケツが、まるで遊泳エリアの限界を示す海上ブイであるかのように、誰もそれを越えてリボンの彼女を止めには来なかった。

 その、決して肉体的には威圧感のあるビジュアルというわけでもない立ち姿が、空間にいる誰もの影を縫い留めてしまっていた。

 動くもの、ただひとつ。

 片手で頭を押さえ、片手を壁について、よろよろと立ち上がる、養老案がただひとり。

「不意討ちなら、一撃でオトさなきゃ……減点よ……痛ったいわね……」

 形の良い眉を歪める。ああ痛、と額を摩る。

 タイトスカートの尻を軽くはたき、開いたままの扉の前まで飛んでいっていた眼鏡を拾って掛け直す。

 乱れた髪を両耳に掻き上げて手櫛で軽く梳くと、彼女は逃げるでもなく、凛として戻ってきた。たった今バケツで自身の頭部を殴りつけたふわふわの少女の目の前に。

「名乗るくらいなさいよ。喧嘩、買ってあげるから」

「……おー。ぼくヮッ」

 ぴしゃり。乾いた音と共に目の前がちかりとする。

 舌を噛んだ。

 口を開きかけたピカドールの下顎を、直線軌道で案の拳が打っていた。

「う……」

「知ってるわ、『死闘組合』の羊崎トオル。綽名はピカドール」

 痺れだけがリアルだった。共有されているこの今が現実だと双方に伝えた。

 目を見開いて口元を押さえるピカドール。怯んだ――それは想定外だったから。

 考えてみれば案が怒るのも報復に出るのも当然なのだが、なんとなくいきなり殴ってはこないだろうと思い込んでいた。生真面目な委員長のような彼女の雰囲気がそうさせるのか。

 案は、ローファーの爪先でとんとんと床を叩きながら、鞄に手を差し込んで何かを引っ張り出す。

「中学で鳴らしてた同級生くらい、チェック済みに決まってるでしょう」

 それは白衣だった。スタンダードなロングコートタイプ。服が汚れたり傷んだりしないようにと、養老案は白衣を常に携帯しているのだった。ただ、喧嘩のためだけに。

 セーラー服の上からばさりと羽織って、素早く袖を通す。タイトスカートのファスナーを引き上げてスリットを広げ、すらりとした白い脚を腿まで露出する代わりに動作の自由を利かせる。

 ゴムでセミロングヘアをきゅっと束ねれば、喧嘩の用意は万全だ。

「色々あるわよ、他にも。実家がスペイン料理屋だとか。……ニンニク好きなのはいいけど、翌朝は歯くらい磨いたらどう?」

 片膝を僅かに上げて、構える。両手は顔の前でやわらかく握って。

 水恭寺沙羅に秘蹟の右手があるように。乙丸外連にカポエイラがあるように。立ち技最強とされるムエタイを、養老案は己のスタイルとして実に論理的に選択し、実に理論的に習得していた。

 くい、と人差し指の先を曲げてみせながら、眼鏡越しに嘲笑じみた微笑を投げる。

「ちょっと残ってるわよ、臭い」

「……うそ」

 袖の余りがちな両手を口元に当てるピカドール。

「……シャネルの229番なんだな」

「あ、顔赤い。可愛いとこあるじゃない」

 一年五組、養老案。穏やかな家庭に生まれ育ち、将来の夢は医者。

 しかし巡り巡って、『酔狂隊』の第二使徒。

 自らを観察者と位置付ける彼女は、思っている以上にしっかりと不良少女である。

「こんなことで照れてるようだと、不思議ちゃんキャラの道は険しいわね」

 皮肉と衒学で嫌味たっぷりの挑発癖は、親友たちにさえ引かれているほど。

「うるさいんだな。とにかく、愛鎖の計画のためにぼくがお前を倒すんだな」

「愛鎖……三組の太郎冠者よね? 計画って?」

「ふっふっふ、知りたいか? 『酔狂隊』をそれはもうめちゃくちゃにぶっ潰してやるんだな。震えて眠るんだなバカ」

「それで? 私たちを潰した後は?」

「その後は……みんなで月に行って、一番大きいクレーターでパエリアを作るんだな」

「どうやって加熱するのよ」

「酔っ払ったやつもブラックホールがあるから吐き放題だな」

「みんなのうたのMVみたいな宇宙観ね」

 どちらからともなく机に触れて脇へ強く押し遣った。同時に。他の机と諸共に倒れて、案の鞄の中身やバインダーの資料が散乱する。

「喧嘩よ喧嘩ァ! 『酔狂隊』の養老と『死闘』の羊崎!」

「はいはい、また始まった……これだから主役は」

 ようやく我に返って、教室にいた不良少女たちが廊下へ飛び出していく。ぼやきながらひっそりと教室を出た地味だが小綺麗なクラスメイトは確か糺とかいうのだったか。そのうち野次馬が集まってくるだろう。

 ――沙羅と外連には悪いわね。

 ――こんなの、もう丸くは収まらないもの。

 ――いえ……それが狙いなのね。『死闘組合』の先制攻撃を、「私たち」はもう受けている。

「まあ、そんな感じで消えてもらうんだな! 絶望知らずの鬼謀……養老!」

「ちょっと、現実で一番恥ずかしいやつやめなさい。そういうのに続けて呼ばないで」

 案は重心を前後させながら微かに持ち上げた片膝を揺らし、ピカドールは顔の前で腕を交差させ肘を突き出す。

「お前の死体はばらばらにして、アヒージョにして、ぼくの静脈に点滴で打ってやるんだな」

「……何なのよ、その気色悪い罵倒。死ぬ時は一緒ってこと?」

 案とピカドール。

 奇しくも、それぞれ『酔狂隊』・『死闘組合』の外には友達がいない少女同士の――開戦。

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対卍の蕾~Green Days of Yuri the Taiman ~ 穏座 水際 @DXLXSXL

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