対卍の蕾~Green Days of Yuri the Taiman ~
穏座 水際
序
「一旦、整理しましょか」
きゅ、と可愛らしい音を立てて。
着物の袖を押さえた少女が、長い黒髪を細波のように揺らしながらホワイトボードに字を書いていく。
水恭寺沙羅<スイキョージ・サラ>。乙丸外連<オトマル・ケレン>。養老案<ヨーロー・アグネ>。
「うちらの敵は……悪の組織、『酔狂隊』どすやろ? 言いましてもたった四人……しかもひとりは自称で、最近ちょろちょろし始めはった中坊やさかい……無視してもよろしおすなあ」
「でも、他の三人はちゃんと強力ある。鎌倉の中学でぶいぶい言わしてた連中あるよ」
黒いマスクに黒髪のはんなりとした少女、橘高絹ゑ<キッタカ・キヌヱ>。両頬に「妲己」「褒姒」と刺青した目元の暗い少女、郭春涵<グオ・チュンハン>。
入学早々、『死闘組合<シトークミアイ>』に取り入った不良少女たちである。ふたりは極めて迅速であった――同期生の中に形成されつつある勢力図を認識するなり、即座に野心を捨てて自分たちの賭けた勝ち馬の軍門に降った。
屋内プールを根城として女生徒が女生徒に身体を売る性風俗サービスを仕切っていた三年たちの勢力『蛮戯羅洲<バンギラス>』を入学式から一週間で壊滅させ、そこを占拠した気鋭の武闘派集団。それが『死闘組合』であり、中学からの付き合いであった三人組から始まって――絹ゑと春涵の見込んだ通り、たった一ヶ月でプールサイドに三十人ほどの不良少女を犇めかせるまでに成長していた。
「つってもよ、これだけの人数が揃ってんだぜ?」
「そうそう、いくらなんでも三人に負けるかっての!」
威勢の良い声が反響する。
天井の曇りガラス越しに、初夏らしい陽射しが濡れたタイルを虹色に照らす。塩素の匂いと、わざとらしい緑の観葉植物。
運び込まれたホワイトボードを、整列して座り込んだ兵隊たちが見上げている。実際、絹ゑと春涵はその場を書記として自然に仕切っていたのだから、既に『死闘組合』の中で多少は特別な存在感を勝ち取れていたと言えるだろう。
だが――目の前に立つふたりなどよりも余程圧倒的な存在感をしかと放ち、居並ぶ名もなき不良少女たちがちらちら振り返ってその様子を窺わずにはいられなかった幹部三名は、ホワイトボードなど見てもいなかった。
「にゃは」
ざばん、と。
プールの水面に大きく波紋を広げて、顔を出す。
幹部のひとり――兵隊たちは振り返ると、反射的に背筋を伸ばさずにはいられなかった。
「いやあ、ナメたもんでもないと思うにゃん――ミーはね。ありゃあ、一年丸々かけて倒すんでもいいくらいっしょ」
濡れた前髪、掻き上げる。ブルーベリー色をインナーカラーにしたキャラメルブロンズの髪を丁髷めいたハーフアップにしていた。その括った先は、水の中では鰭のように靡くのだ。雫の滴る両耳には「E」の字の軟骨ピアスと金色の安全ピン。
右肩にはゴシック調に鋭利な棘のデザインを施された棺桶と鎖を、平たい胸の中央には三日月の先端に引っ掛かる王冠を、臍の周りには尾の長い極楽鳥とその嘴に運ばれる虹色の封蝋の手紙をそれぞれ象った、大きく目立つタトゥー。左手首内側の傾いたダイスや太腿で交差した釘など、ワンポイントは数え上げればきりがない。顔面を除いて全身をキャンバスにさせたような少女は、水着の肩紐を引っ張り上げながら笑っていた。
「愛鎖<アイサ>が入学式で演説ブチ上げたおかげで、ミーら今ちょうど波に乗ってる。ワンゲーム大事にしていかにゃ」
水面を漂う浮き輪のひとつ、引き寄せる。コースロープを取り払われた二十五メートルプールには、色とりどりの浮き輪やビニール玩具、小島のようなフロートがいくつも浮かべられていた。タトゥーだらけの彼女は再び潜水してからドーナツ型のシンプルな浮き輪にすっぽりと身を収め、プールサイドの少女たちにウィンクしてみせた。
「最初のデカい喧嘩でオフサイド貰ったら『死闘』は食われて終わるべよ。だーかーらー、もうちょい様子見でもいんでないの?」
水着姿でいると、引き締まったしなやかな肢体が目立つ――特に、彼女の場合は腹筋と、筋肉質な長い脚。ばたつかせてパレオが翻る度にちらつく逞しい太腿を、コンプレックスに感じたこともある彼女だけれど。かつて重ねたトレーニングは、今、違った形で武器となっている。
芝浜塩基<シバハマ・エンキ>という名前に、スポーツ通であれば覚えがあるかもしれない。女子ジュニアサッカーの全国区プレイヤー、だった少女である。
「ぼくも塩基に賛成なんだな」
降り注ぐ声に、瞬きひとつ返してにっと笑う。
「おっ、さっすがピカちゃん。わかってんにゃ」
「うん。すごく尊敬してもいいんだな」
濡れた指先で前髪を捻じっていた少女は、腰に手を当てて胸を張った。低身長の割に発育の良いバストを強調するような水着を選ばず、むしろバスタオルの内側に隠していたわけだが、それは決して控えめな性格などを象徴していたのではなくて、自宅に唯一あったから持ってきたスクール水着に着替えた後で「やっぱり後でシャワー浴びるのめんどくさいんだな」と思ってしまったからだった。そういう性格なのだった。
彼女はピカドールと渾名されていた。
小学四年生の頃のことである。当時の六年生には「狂牛病」と恐れられていた大柄な乱暴者がいた。ある日、いつものように下級生の教室に押し入っては狼藉を働いていた狂牛病が、偶然、ひとりの少年に目をつけてしまった――それが運の尽きだった。机に飛び乗って優位を確保し続けていた彼の隣の席のクラスメイトが教員五人掛かりで取り押さえられるまでに、狂牛病は逆手に握ったコンパスの針で全身を百回以上も刺されていた。
返り血塗れのクラスメイトは、首を傾げながらけろりと言ったという。「さっきの算数で赤ペン貸してくれたから。助けてくれた人が困ってたら、当然、お礼をするんだな」と。
次の日から、羊崎トオル<ヒツジザキ・―>は「ピカドール」になった。何を考えているのだかわからない刺し槍の闘牛士への畏怖を込めて誰かが呼び始めたはずだったが、両親がスペインバルを経営している彼女にはあまりにぴったり似合うので、愛称として自然と定着してしまったのだ。びくびくしながら卒業を迎えた狂牛病の行方など誰も知らない今でも、親友たちは彼女をそう呼ぶ。
「水恭寺たち、多分、別に仲間増やそうとしてないんだな。一年制覇とか狙ってる感じも。だからぼくらじっくり準備して、絶対勝てるくらい差がついてから仕掛けるのがいいと思うんだな」
フラミンゴの形をした大きなフロート。その首を両脚で挟みつつも、筒状のバスタオルを巻いた上半身を濡らそうとはせず、ただ漂いながらちゃぷちゃぷと水を蹴っていた。
ふわふわと首元でカールしたアッシュの髪は、名の通り羊を思わせて。その頂点には黒々と大きなスパンコールのリボン。白い肌も相俟って、まるで人形のようだ。
眠たげな半目は不機嫌なわけでもなく単に生まれつきで、薄い唇の脇にはぷちんと艶黒子ひとつ。
「あっ。でも、そうか。ん……」
「あん? にゃんかある?」
「水恭寺と乙丸があれこれしたら、増えるかもだな。仲間」
ぽん、と手のひらを打って。
ピカドールは、真顔で口にした。
「……いや、ネズミじゃねーんだから。え、何、こわ……急にシモぶっ込まれてもビビるんだけど」
「え? ほら、あいつらタイプってタイマンした相手といつの間にかつるんでそうなんだな。主人公体質?」
「てめえーーー億パーわざとだろブッ殺すゾ!?」
「?」
芝浜塩基は歯を剥き出しにして、けらけら笑いながらピカドールの足首を掴み水中へ引き摺り込もうとする。流れてきたビニールの海賊刀を掴み上げてばしばしと塩基の頭を叩き迎撃するピカドール。バスタオルが宙を舞って、結局、スクール水着姿を露わにしたピカドールがざぶんと水面に滑り落ちる。
そんな微笑ましい光景を――プールサイドに座ったまま振り返った『死闘組合』の構成員たちは、戦々恐々として見ていた。
だって。だって、まるで、どこにでもいる女子高生かのようなのだ――現時点において一年の最大派閥であり、そして恐らくはこのままの勢いで学校統一へ打って出るのであろう『死闘組合』。その幹部ふたりが、怪物的な不良少女たちが、屈託なく戯れている。兵隊たちの中には、歯向かおうとして塩基のローキックに、ピカドールのエルボーに捻じ伏せられた少女もいるというのに。
「ま、にゃんにしても――今すぐ『酔狂隊』と構えんのは得策じゃねーわな」
「二年や三年だって黙ってないかもしれないし。そっちにも戦力割かなきゃなんだな」
ただ――十把一絡げの少女たちとは違い、橘高絹ゑはボードマーカーを握る手の内側にほのかな熱を感じていた。隣に立つ郭春涵と視線を交わして、人知れず頷く。彼女たちの輪に割って入るまでは無理だとしても、『死闘組合』の規模がもっと拡大していけば、必然的に絹ゑや春涵も外様の中では古参組としてそのうち幹部になれるはずだ。芝浜塩基やピカドールに身内扱いしてもらえるようになれば、その頃にはもう、それは鬼百合の支配階級たり得ることを意味するだろう。
だから、彼女たちの遊んでいる姿もまた、頼もしいようにしか映らなかった。
「……なーにを、眠てえこと言ってんだか」
プールサイドに、サマーベッドひとつ。海を前にした湘南の町で、あえてプールを拠点に選んだ。
頭の後ろで手を組み合わせ、投げ出した脚を組んでいた少女が――サングラス越しに、見渡す。少女たちの集うプールを。
黒髪をさっぱりとしたワンレンボブに揃えていた。両耳には顎下まで届く大きな鍵束のイヤリング。大胆なレオパード柄のシフォンシャツに純白のセンタープレスパンツを合わせてきめ込んだ彼女は、どうやら水に入る気などないらしく。
そう。実際――彼女をこそ、人々は恐れるべきなのだ。
鬼百合の校門をくぐった同期のうち、最初に頭角を現した君臨者の器。
「塩基、ピカドール。自覚あんのか? おめーら――今よりどんどん重くなんだぜ、『死闘』の幹部の責任ってのはよ」
脇に置かせていたサイドテーブルへ手を遣り、彼女は寝転んだまま鬱陶しげに煙草の箱を掴んだ。真紅の唇に咥えたのは、韓国で人気の異様に細長いエッセ。火を付け、溜息混じりに煙を吹くと、顔を傾けプールサイドのタイルに唾を吐き捨てる。
「ちったあ頭使ってくれや。愛鎖たちはただ『酔狂隊』に勝ちゃいいんじゃねえ――ぼっち女どもが『死闘』は頼れる味方だって思えるように勝たなきゃ意味ねんだよ」
通過点なのだ。
彼女たちにとって、『酔狂隊』など。
ホワイトボードには三人の名前。水恭寺沙羅、乙丸外連、養老案。悪の枢軸――彼女たちさえ倒せば、後は『死闘組合』の天下か。
必ずしも、そうはならないだろう。そんなことはこの場の誰しも理解できていて、ただ明瞭な二項対立構図を内心に求めて目を伏せていた。平らげなければならない敵はいくらでも湧いてくる。上級生は言うに及ばず、同期の中にも実力者と見受けられる不良少女がまだ幾人かいる。
抗争はそう簡単に終わらない――むしろ、これから始まるのだ。そのための準備として、『死闘組合』と並び立つ勢力に育つ可能性のある『酔狂隊』は一刻も早く壊滅させ、学年全体に覇を示す。そんなシナリオが最善に決まっていた。それは勿論、そうだった。
「愛鎖たちは、世界中で膝を抱えてるぼっち女どもの代表だぜ。……仲良しグループに負けてらんねえだろ?」
白い歯を見せて、不敵に笑う。そうすることが強者の義務であり権利であると彼女は信じていた。
一挙手一投足に、数十の視線が集まる。圧倒的なオーラがそうさせていた。そういう風に生まれた少女だった。
「にゃん」
「だな」
ひとりとひとりとひとりだった三人が寄り集まったのは、三年前のこと。
恵まれていても退屈だった日々を、それから、三人で彩った。
塩基とピカドールの手を引いたのは、いつも何かに貪欲な彼女だったのだ。
彼女の名は、太郎冠者愛鎖<タローカジャ・アイサ>。
過去などどうでもいいと薄く笑って、今はただ、鬼百合統一だけを掲げる不良少女である。
「わかりゃあいい。そう、てめーらはそういう面構えが一番似合ってんだよ。さっすが愛鎖の女だな。ほら、とっとと来いっつの」
サングラスを外す。
垂れ目がちで大きな瞳――右はアジア人にありふれた黒褐色であるのに、左だけ、琥珀のように透き通った金色が煌めく。
立ち上がる。ピンクパールに輝くサンダルを突っ掛けて、更衣室まで歩き去りながら音もなく両腕を広げる。その背後で、自然と、集められていた兵隊たちの間に鬨の声が沸き起こった。塩基も、ピカドールも、顔を見合わせてプールの縁まで直線で泳ぐと迷わず上がり、雫を滴らせながら愛鎖の両脇に立つ。
彼女たちは、今しかなく今でしかない今を生きていた。
「『死闘組合』は未来形じゃねえ。常に現在形だ」
それは――五月の物語。
ようやく鬼百合女学院での新たな生活にも慣れてきた不良少女たちの間を、ひとつの噂が駆け抜ける。『死闘組合』の三人が、三組を統一して全員を配下に引き入れたとのこと。
「銀子さん銀子さん! 彼女は何を持っていますか?」
一年一組、ヘルミ・ランタライネン。
「んだよ、るせえな……鉄パイプだ、ありゃ」
一年一組、白沼銀子<シラヌマ・ギンコ>。
「あら。何だか面白そうなことが起きる予感ね?」
一年二組、別市瀧生<ベツイチ・タキオ>。
「……チッ……クソが」
一年二組、星野杏寿<ホシノ・アンズ>。
「ほんっと、どいつもこいつも飽きないわねん。ガッハッハ」
一年四組、小峰遊我<コミネ・ユーガ>。
「ねえちょっと……!? やっぱこの学校だいぶ普通じゃないよ!?」
一年四組、夢雨塗依<クラサメ・ヌリエ>。
「もうさ……これだから主役共は……はぁ」
一年五組、糺四季奈<タダス・シキナ>。
「……」
一年五組、楽土ラクシュミ<ラクド・―>。
噂には続きがあって。
近々――派手な喧嘩が起こるはずだと。
一年三組、太郎冠者愛鎖・芝浜塩基・羊崎トオル。『死闘組合』と。
一年一組、水恭寺沙羅・乙丸外連・養老案。『酔狂隊』との間で。
不良少女の旬である夏の足音を聞きながら、春に巡り会った誰かと誰かが、少しだけ歩く速さを変える――そんな頃の物語。
炎天の華が鬼百合に咲く、その少し前の物語。
(『対卍の蕾』序 完)
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