10「八幡丸」

 兵卒へいそつたちの戦勝祈願も粗方あらかた済み、由原八幡宮にたくわえられていた食糧をゆずって貰い、僅少きんしょうながら武器も借り受けて、戸次軍は出立しゅったつの準備を進めていた。


 孫次郎が愛馬の戸次黒にえさと水を与えていると、大宮司・鑑綱あきつなの父・賀来治綱かく はるつなが話しかけてきた。

 治綱はるつなは高齢でもあるため大宮司の座を子の鑑綱あきつなに譲り、隠居した身で退いてはいたが、先の儀式などで補佐に務めていた。


「戸次孫次郎殿、お久しぶりですな」


「お久しぶり? 大宮司のご尊父そんぷ殿とお会いしたことがありましたでしょうか?」


「ほほ。覚えていないのも無理からぬこと。あれは確か……貴殿きでんが五つの歳の頃と、その前は赤子あかごで、お宮参りにいらした時でしたからな」


 治綱は孫次郎の顔を懐かしむように見つめる。


「それにしても、その大きなまなこ。ご母堂のおみつ殿に、よく似てらっしゃる。お光殿もお目々が大きなお人でしたな」


実母じつぼをご存知なので?」


「ええ、よく存じ上げておりますとも。お光殿は由布の出あり、ここ由原宮は場所柄、古くより由布家の扶助ふじょほどこしていただきましたからな。今のお名前は孫次郎と云うのでしたな。そうそう、お宮参りの時に、あの大楠おおくすの御神木の下で貴殿の幼名を“八幡丸はちまんまる”と名付けられたのでしたな」


「八幡丸……」


「そう、この由原宮に祀られております武運の神であられる八幡大菩薩はちまんだいぼさつ様にあやかり、名付けられました。そのお名前の通りに八幡大菩薩様のようにお強く育ちになられたようで」


 孫次郎の幼名は“八幡丸”と名付けられており、由来は先の通りである。


 そもそも幼名とは平安時代から貴族や武士などの高貴な家柄の子が元服を迎えるまでの幼年の間につけられる仮の名前である。

 赤子が元服を迎えられるまで難しい時代である為、一説に幼名には験担ぎや厄除けの意味合いがあった。それは幼年の時は身体が弱く、邪気を受けやすいものと考えられていたからだ。仮の名前をつけることによって身代わりとなり、守られると信仰されていた慣習である。


 仮の名前であれど、名前に込められた想いは親のみぞ知る。


 八幡大菩薩の御加護のお陰なのか、大病も患わず健やかに育ち、孫次郎が五歳の時に八幡丸の幼名を返上して、今の名前(孫次郎)に改めていた。

(ちなみに紛らわしいが、“孫次郎”は通称としての仮名けみょうとなる)


 治綱が云う通り、幼少の時、ここ由原宮に訪れて何かの儀式を行った記憶がおぼろげにあったが、孫次郎はその懐かしい思い出をかき消すように閃く。


「そうだ、八幡丸だ! 叔父上、皆の衆、! これより身共みどもの名は再び“八幡丸はちまんまる”と改める! 此度の合戦で勝つまで八幡丸とお呼びくだされ!」


 その発言に一同は唖然としてしまうが、藤北での出陣式の三献の儀しかり、先の戦勝祈願せんしょうきがん然り、縁起を担ぐのは常套じょうとうである。


 武運の神として祀られている八幡大菩薩の御加護ごかごを得ようとする魂胆こんたんを、すぐさま察した十時惟種ととき これたねが、


「これは御前上等ごぜんじょうとう!」


 相槌あいづちを打つと、周囲に伝わるように大袈裟おおげさに大声で云い放つ。


「皆の者、聞けい! ここにいるのは武運の神、八幡大菩薩様の化身ぞ! 八幡大菩薩様のご利益を授かりて、このいくさの勝利は我等われらにあるぞ!」


 戸次一族や藤北ふじきた民の兵卒たちは、孫次郎の幼名を八幡丸と知る者が多くる。

 また、ここ由原八幡宮にて必勝祈願し、八幡大菩薩にあやかった名前だ。場の雰囲気にも促されて、ただ名前を改名しただけだが士気を鼓舞こぶさせる理由には充分だった。大いに盛り上がったのであった。


賀来かく殿、孫次郎の非礼、申し訳無い……」


 武運の神の名を簡単に改めた突飛な思いつきに、親延ちかのぶが代わりに詫びようとするも、治綱はるつな一笑いっしょうして押止おしとどめる。


「いえいえ、何の事はございません。それに、あの名をあやかることは、お光殿からの懇請こんせいでしたからのう。この戸次家にとって意義深い一戦にて、八幡丸はちまんまるの名で出陣するに大義たいぎがありましょうぞ」


 治綱はるつな士卒しそつたちにあおり立てられている孫次郎を優しい眼差しで見つめると、その先に鎮座する大楠おおくすの下で若き頃の親家とお光の幻影を思い映した。


「そういえば、親家殿の御加減が、それほど悪いとは。近い内にでも親家殿へ祈祷しにまいろうと存じます」


「それはかたじけない。治綱様が祈祷してくださるならば、親家ちかいえの体調も快方に向かうでしょう」


「そう持ち上げないでくだされ。しかし、一番良いのは此度こたびいくさ勝報しょうほうでしょうな」


「ええ、そうですな」


 親延と治綱が対話を交わし終えた頃には、軍勢の準備が整えられていた。


「よし、皆の衆。出立だ!」


 戸次孫次郎―改め―戸次八幡丸べっき はちまんまるの号令のもとに行軍が再開したのであった。


 もう後には引けない、命をかけた戦いをする――藤北をった時から、戸次一門や家臣、いくささんじてくれた者たちは、その覚悟を決めているものだが、それでも僅かに弱気が胸の内に残っているものだ。


 それ故に神仏へ必勝祈願を行い、気迷きまよいを払拭ふっしょくさせる。


 勿論もちろん、総大将(八幡丸)自らが武運の神の名をあやかり、八幡大菩薩はちまんだいぼさつ化身けしんとみなしているのも加担かたんしている。


 兵卒たちから漂っていた重苦しい雰囲気と足取りが少しだけ軽くなっているようで、気持ちが高揚しているからなのか、幾分かは士気が上がっているのを肌で感じた。


 孫次郎(八幡丸)を始め、此度こたびいくさが初陣である者たちは戦勝祈願や縁起担ぎの意味と意義を少しずつ理解していくであった。

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