メモリーベイ
安埜有紀
第1話
1
これは、夢の話だ。
僕の夢。あなたの夢。もしかしたらもっと別の誰かの夢。いくつもの夢が梯子のようにつながってどこか遠いところに伸びきっている。
「ホテルヒルベルトは、ご存知かしら」
――いいえ。
僕はゆめうつつで応える。からだが勝手に答えを探している。それだけは、わかる。
「限りの無い部屋を所有するホテルのことよ」
なんでも無限の個室と無限の宿泊客、一組の宿泊客が来るたびに、部屋を移ることで、無限が拡張されていく様子を説明できる。
僕は、わざわざ客が来るたびに部屋を移らなければいけないホテルは接客業としていかがなものか、と思ったし、新しくやってきた宿泊客との諍いも絶えることはなく、ついでにいえば無限に遠くなった部屋から、どうやって外に出るのだろうなどと、くだらないことを考えていた。そういえば、美しい彼女の黒髪も、無限にあるように見える。そんなはずはないのだけれど。
僕たちは、環状線を走る電車の中にいるようだった。ときおり駅へ到着したことを告げるアナウンスが流れる。駅名は、モザイクがかかったみたいに聞き取れない。扉は開く。誰も乗りこまないのに、なにかの定石の通りに、開いては閉じる。
「同じ景色が繰りかえされているとおもうでしょう」
いつのまにか、乗客だけは増えている。減ることはなく、増えるのみだが、なぜだか密度は一定だ。
「ちょっとちがうのよ」
彼女の微笑の意味も、僕にはわからない。車窓の外は暗い夜の街だ。線路は高架になっていて、ときおり防音壁が景色を遮る。シルエットのビル群は無数で、ネオンが溢れては流れ、光の帯が七色のままたなびいて、薄く消える。どこにでもありそうな都市の光景で、誰もが見覚えのある家電量販店の屋号も見える。
「すこしずつ、この電車は、ずれていくわ」
僕たちは座りもせず、電車の通路に立ったまま、会話を続ける。
「ずれる」
「ええ、そう。わたしたちはゆっくり時間をかけて、この都市の中心に向け落ちていくの」
――それは、かなしい出来事だ。
「かなしいですって?都市の中心には重力が生まれているのよ。いつだって生まれて始まることは尊く清い」
「でもこの列車はいずれ落ちて消える」
「いずれね」
「乗客も落ちていくのか」
「ええ、あなたも」
「君は――?君は、消えないのか」
彼女の口が僕に向かって開く。口紅の中でネオンが跳ねる。
「わたしは、消えないわ」
「どうして」
「どうしても。わたしが消えると、誰も舟を作ることができない」
「それは理由にならない」
「どうして」
「『舟を作ること』と『君の消滅』には因果関係がない。だれかが、君の能力を恃むせいで、君の消滅を妨げている、ということなら納得はできる。理解はできそうもないけど」
「理屈が好きなのね」
「ああ、おかげで妻にも逃げられた。手紙もなかった」
僕ははたと気づいて、彼女に顔を向けた。
「もしかして、ここはそんな人間が最後に来るところなのか」
僕は、妻を待ち続けた日々を思い出していた。あの日常に理由が欲しかった。どことなく妻の面影がある彼女は、進行方向に向き直った。指を伸ばす。その指には見覚えがない。所作のすみずみから、妻とは異質であると叫ばれているようだ。
彼女の指先には魔法でもあるようで、前の車両が透けて、四人掛ボックス席にひとりで座る西洋人が突然あらわれた。
「かれは、ジュリアーノ。冷凍睡眠財団の経理顧問だったけれど、先日回顧されたばかり」
「冷凍睡眠財団?冷凍睡眠ってあれか、コールドスリープ」
「ええ。眠っている間に世界に進化してもらって、長生きのコツをつかめる機会が増えるのを待つ最高の他人任せよ。かれは財団の資金運営に失敗したの」
「そんな財団にどんな資金があるっていうんだ」
「眠っている間、だれがお金を支払うとおもう」
「さあ。前払いなんじゃないのか」
「いつまで眠るかわからないのに、それだと相互に納得できないでしょう」
まあ、たしかに。金が切られたついでに生命維持装置のチューブが外れるなんて事故は簡単に起きそうだ。
「資金は投資で回収される。管理者としての彼は、安定した信託資金の一部を第三国の通貨市場に投資し、見事に蒸発させて解雇された」
女は、息を吸い込んで止めた。
「悪いのは彼かしら」
当然だろう、僕はそう応えた。彼女は、口角を上げて微笑した。彼女の瞳は黒く、深かった。僕は深淵をのぞき込んでいる。唾液を呑み込む音が聞こえた。
「彼は、これからどうなるんだ」
「落ちていく」
「それから、どうなる」
「彼は失われて、重力に変わる」
「それは、罰なのか」
女は急に表情を驚きで翻した。電車がブレーキをかけてカーブにさしかかる。彼女は慣性に委ねられたまま首を傾げ、それからかたちのよい顎に右手をかけて、言った。
「――そうね。罰なのかもしれない」
まるで、考えたこともない、とでもいうように。
「そうか」
「罪を犯したの?」
うつむいて膝の上を見ると、握られた拳がきれいに並んでいた。
――罪か。
僕は、何度となく投げかけてきた問いを、漠然とした回答で誤魔化し続けてきた問答を、今度は正面から受け止めることに決めた。
問いの主題は、いつも妻のことで。とどのつまり、妻が逃げたのは一体誰のせいか。女の手が僕の髪に触れた。
「怖がらないで。過ぎ去ったことはいつも曖昧だわ」
そんなことあるもんか、僕はせいいっぱい虚勢を張って反論する。妻の作った料理の味は、鮮明に覚えている。母以外で初めて、誠意をもって作ってくれた異性は、付き合いたての彼女だった。気づけばいつでもお気に入りのソファで、両足を投げ出して寝入ってしまう。彼女は車のキーをブランドのがま口に放り込み、家を出て。そうだ。いつ。どこで。彼女のハンチング帽が地に落ち、誰かが拾って。そうあれが何日かも正確に。
「――正確に」
僕は思わず、手のひらを開いた。何もないうつろの空間を指向したあと、意味もなく動く視線に戸惑った。
「そう、正確に覚えすぎている」
「どうして」
彼女を向く。彼女の顔は白すぎる。窓の外からの光を正確に反射するようだ。磁器の白。透けていく白。
「人の記憶は物理量の一種だから」
光のいくつかが車窓の外で定期的に明滅する。
「記憶はコントロールすることができる」
「そんな、僕だけの、これは僕と妻だけの記憶だ」
「人は忘れていくわ。忘れられた記憶は、本人には知覚できないだけで、物理量として保存されている」
「ああ、つまりこれは僕の記憶そのものなのか」
「この電車は、舟、と呼ばれているわ」
・・・
連結器が軋んだ音がする。車体が波を打ってうねり、衝撃がふたりの足もとに達した。とっさに彼女の手を取った。コットンのように、きめの細かい肌だった。
「座りましょう」
車内販売から飲み物を買ったふたりは、ふたつのボックス席に別れて座った。両手に挟んだカップの中にはコーヒーが満たされている。湯気のちいさい粒子がほどけて散った。
「夢の話だとおもって聞いておくけれども」
「ええ。どうぞ」
「どうして、記憶にかたちを与えたんだ」
カップの中のコーヒーは、温かかった。どうしてだろう。その理由が今はわからない。もしかしたら、何かものすごく簡単なことで、当然のことだったかもしれない。だが、それがなぜか、いまはもうわからない。
「かたちさえなければ――」
指を動かしてみる。小指と親指の腹をこすりつける。温かい皮膚が、しかし、脂をうしなって乾いていた。
「こんなに哀しまずにすんだ」
昔、僕はギターを弾いていた。C、D、A、Fといくつか簡単なコードを空に描いていく。バレーはきれいに鳴らなかった。弦の苦い音が耳に触れた気がした。
「あなたはまず、理由を聞いた。最初に方法を尋ねる人もいるのに」
「それが、どうしたっていうんだ」
持ち直した紙コップの縁は力をかけると、鋭角に折れた。
ちいさな笑みが、彼女の口元に滲んだ。困ったようにも見えた。
「記憶の再生技術は、ある機関の手段のひとつとして、特異的に進歩を遂げたわ」
「ある機関?」
「司法よ」
よく見ると、彼女は黒のノースリーブを着て、黒いレースの手袋をしていた。レースに電飾がある。ちらちらとよく光る。
「事実がはっきりしていればすぐに解決する係争案件は、いくらでもある。司法労力の簡素化にもっとも貢献できると判断されたのが、記憶の再生なの」
「もっとも端的に言うと、どうなる」
「あなたの奥様が離婚調停を申請している」
「ああ、知っている。裁判所から督促状が届いた」
「その申請に合わせて、あなたの記憶のサルベージ要求が出たのよ」
「本人に無申告に、か」
空しい発言をした。そう思った。彼女はそれを補完するように、
「ご本人は――」
といった。皆まで言うまえに、僕の右手が彼女のことばを遮った。
また、列車は駅に止まり、そして再度動きはじめる。見知らぬ他人が、いつの間にか何人も乗り込んで所在なげに窓の外を見ている。
「記憶はコントロールできる、といったな」
「ええ」
「そんなものを司法判断に使っていいのか。信用できる情報とは、とうてい思うことができない」
「語弊があったわね。コントロールできるのは、吸い出しが自在、という意味でだけなの。同じ質問をされることは多いので、私たちは電車のたとえを使うのだけれど」
いいかしら、と女は言ってメモ用紙を取り出した。鉛筆がどこからともなく彼女の手の中に落ちた。HBの。なつかしい。
「なつかしい?」
ふいに言葉がもれた。そうだ、僕らの時代に鉛筆なんか無かった。女は怪訝そうに僕を見たあと、肩をすくめて、
「記憶は、つながっているわ」
というのだ。
「他の人と」
「そう、あなたとは別のだれかの」
「気持ち悪いことだな。まるで、アカシックレコードだ。オカルトじゃないか」
「あら、すてきなことじゃない」
「そう言えと、プログラムされているのか」
女がかなしそうな目をしたので、僕は目を逸らした。
なにか美しいものの影が、おそるべき早さで後方にとんでいく。遮音壁らしい灰色の壁はずっとモザイクがかかったように輪郭が曖昧だ。ブラックの描くキュビズムの絵画のような。落ちていく、降り重なって。
時間のきしみゆく音に耐えがたくなって、彼女を向きなおる。愕然とする。
「悪い冗談はやめろ」
黒い蝶タイが妖しくさざめく。白いブラウス、紺色のフレンチスリーブを好んで着ていた。妻だ。名前を呼ぶ。いくつもの解像度の悪い響きが重なって正確に発音できない。だれかの記憶がまとわりついているんだ。
――ああ、その瞳はもうたくさんだ。
わかっている、悪かった、悪いのは俺だという、声のない無数の懺悔が今度は僕の感覚の中に蠢いて、叫んでのたうちまわり――そして、消えた。
からだが荒い息をしていた。欲望はかりそめながら、動悸の音さえ聞こえた。
「ごめんなさい」
怒りが隆起して興り、罵りのことばになって口からこぼれだそうとした矢先に、気持ちが急に冷えた。
「いや――君の、やりたいことがわかったよ。つまり、この感情も歴史の堆積物なんだな」
眉尻を下げたまま、彼女は首を縦に振った。
気づくと手もとにメモがあった。棒人間のまわりに膜のようなものが描かれている。
「過去の記憶は、そうやって人にまとわりついているの」
女は言いながら、細い煙草に火をつけた。葉が燃える赤光だけが、窓にうつる。燃焼の度合いが時間の中を、ひらひらながれて落ちて。灰色の情念が遺る。
「記憶を吸着して、情報量に変換する理論は高度の機密管理がされているので、一般的ではないけれど」
はき出したうすい紫の煙が、渦を巻いて彼女の顎の下から髪の毛を通過していく。
「その情報には不可分のものが含まれる。外部からの刺激で意図を込めようとすると、記憶情報全体が連続して変化してしまう。ちょうど列車の一部が脱線すると、他の客車が釣られてしまうように。だから、どうしてもすくい上げられた記憶に印象を付与することはできないのよ」
「記憶は本人の意志とは無関係に書き換えられると聞いたこともある。結局、そいつがどう思っていたかがわかるだけで、それが事実だとはかぎらないじゃないか」
「逆よ。わたしたちは事実が欲しいわけじゃない。むしろ、あのとき、あなたがどう思っていたのか、そのものだけが大事なのよ」
コーヒーは冷めていた。命がてのひらのなかで途絶えたようだった。熱量は周囲に向けて均一に散乱し、エントロピーは増大するばかりで、つまり取り返しようがない。
いくつかの駅が通り過ぎ、乗客は乗り込んでは拡散し、車内販売は進行方向から何度もやってくるばかりでけして戻っては来なかった。あらゆるものはどこかから来て、どこかへと去って行く、無限にあるホテルの客室のように。
「僕になにが聞きたい」
彼女は応えない。
水膜に覆われた瞳の輪郭がいくつものかたちにぼやけ、都市の光を飲み込んで、はじく。
僕は、ふかく息をついた。
――そうだ。彼女の意図には、ずっと前から気づいていたのだ。
だれからも責められることなどないと、ひそかに思いたかっただけだ。
「僕が、彼女を殺すんだな」
・・・
警笛が、けたたましく鳴った。いままで一度も走らなかった反対車線の列車が、光の奔流になって駆け抜けた。耳をつんざいたのは、誰かの悲鳴だったのかもしれない。
「カノープス」
彼女は実に対照的に、ちいさな声でつぶやいた。
「わたしたちは、人工的な記憶蘇生を〈カノープス〉という装置を通しておこなう。ひきはがした記憶を吸着させ、量子化し解析し、人格としてあなたのように再構築する。再構築するときに、どの時間のあなたから貴方をつくりあげるかは、コントロールすることができる」
紙カップはくしゃくしゃになってしまった。円かった縁は可能なかぎりの折り目が試されて、谷や山になった。
「いつでもすこし前のあなたが、貴方自身の水先案内をするわ」
涙が頬を落ちた。取り返しのつかない事実から逃れるために、手にちからをいれても、もはやどうにもならない。
「いまのあなたは、離婚調停が提出されてから、彼女に手を掛ける前までの記憶で構築されている」
「現実の世界では、どうなっているんだ」
できるだけ静かに、僕はカップを床に置いた。途端にカーブにさしかかり、慣性力でカップは倒れ、未知の方角に進む。
「残念ね、あなたにそれを知ることはできない。知らせられないのではないの。もっと物理的に――ただ、無理なのよ」
理屈は頭の中で鋭く踊る。正論は硬膜のなかで跳ね返って、前頭葉を刺激し、刃となった言葉が相手への殺意になる。が、ここでは記憶は蓄積されえない。落とし込む先がないのならば、手もとに残しておくほうが粋というものだ。そうじゃないか。
ふたつの掌で瞳を覆う。
「ああ」
両手は存外、あたたかかった。ずっと前に冷えていたと思ったのに。
胸のなかに、概算された妻への気持ちが、乱雑に蠢いた。
「謝罪の言葉を投げかけたいけれど、対象がどこにもいない、そのつらさは私にもわかるわ。謝ることで解消できる心情があるもの。きっと大勢の人が、あなたに共感してくる。でも、あなたはそれまで奥さんにいったいどんなことを感じていたのか、教えてほしいの」
僕は、促されるまま記憶のツテをひとつずつ引き上げた。抜錨するような気さえしたが、どちらかというと、浴槽の栓を抜いているという形容が近いのかもしれない。積み重なった湯がなくなれば、そこは用をなさない。錨を上げてどこかへ向かうのとはちがう。水頭がうしなわれれば、空間が広がるだけだ。
妻への感情。他人の情念をよりわけて、自分の声にする。出会った頃にいだいた気持ち、結婚式のこと、子どものこと、生活のこと。だれかへの悪意や、嫌悪への対処。僕は理を語り、彼女は情を請うた。うとましくおもった。僕無しでは生きていけないと思った。
だから、だからだから。
扉を開いて。また閉じて。やがて、降り積もった記憶が底をついた。
「それで、全部なのね」
「ああ」
「あなたは、彼女が好きだった。好きだったから、その手でどうにかしたかった」
「――ああ」
「他にはなにも、言うことはないのね」
「わかっているんだろう。舟を扱う君には」
「ええ、わたしたちはいつでもどこかから来て、かならず、どこかへとたどり着くもの。旅程を知るなんてたやすいことだわ」
こんな俺もどこかにたどり着けるのか。
「ええ、もちろん」
列車は減速を始める。どこかの駅にまた、到着するのだ。
「最後にもうひとつ、聞かせて欲しいの」
おれも聞きたいね。このからだはどこにいく。
「そのまえに――」
線路のつなぎ目から、空隙音が消えた。車体が完全に停止し、駅の名前がアナウンスされる。今度は、はっきりと聞こえる。この名前は。
「うそだろ」
暮らしの彩りが、視覚によみがえる。いつも僕が乗降していた駅だ。おもわず腰を浮かせて、車窓を眺める。乗客が昇降口に駆け寄る。その中に白いミュールが見えた。二回目の結婚記念日に、僕が彼女に贈ったのだ。ミュールの紐は細く、妻の、紅くなりやすい皮膚に食い入った。その皮膚の色相反転に僕は見とれた。毛細血管がつぶれ、皮膚内部で浸潤する。
わかっている、これが僕の記憶が創りだした幻だろうと。かつて同じ景色を見たのだ。はっきりとわかる。しかし、それがいま、目の前で作り直されている。その体験で十分代価は取れている。
「――結局ね」
どこか遠い国から、〈カノープス〉がつぶやく。エコー、エコー、そしてドップラー。
「司法判断には記憶は利用されなかった。むしろ、どちらかといえば、争いを続ける両者のケアに使用されることが増えた。そもそも事実はどうであれ、お互いの心情を知ることで、係争をやめるケースが有意的に増加したの」
妻に見とれた。
「だいじょうぶ、彼女の死に、あなたは関係していない。たまたま、列車事故に巻き込まれただけよ」
僕は、妻の手をとり。
情報の欠如した音だけが、ぼくらの廻りに走る。
あの女は、どこにもいない。
あの女とは、なんだ。
扉が閉じて動輪がきしみを上げ、車両はまた環状に走り始める。
2.
そして。
男の声は、電車の音にかき消された。
……。
私はエディタにテキストを並べていた。身体認識が戻ってきて、現実の動作に脳の処理が追いついてきたのだ。
「もう、聞こえないでしょうけれど」
ヘッドセットは自然光にしたがって暗くなったままだが、透過性は上がっていて、目前のモニタが見える。モニタ上にはウイジェットとして、同期されたバイタルデータが踊っていた。少しのあいだ時々刻々と変化するステータスが何を意味しているのかわからなかったが、目で追いかけているうちに過去の認識が表層に顕れてきた。患者は、鼓動がおさまり、脳波も落ち着いたようだ。
私はBGMを止めた。簡単なコードなのに歌詞だけが大げさで情緒的なポップスは苦手だ。
「もう大丈夫です。こうなってから、サバイブしなかった人はいませんので」
助手の声が聞こえた。
「そう。それは、よかった」
春の風が、南向きの個室のなかに吹き込み、淡く輝く白いミュールの紐を揺らした。風の通り道には、いくつかのセンサが置かれている。センサ群はすべて患者に向かっていた。
「ここも、もう使えないな」
「ぎりぎり許容量いっぱい、というところですかね」
「ドクターたちは?」
「一課に任せちゃいました。たぶんいまは別室で。もう少ししたら警察も来るってさっき伝言が」
「そうか」
助手は、キーボードを叩きながら、「いい気味ですよ」と言った。彼女の不満もわかる。
「規制はされていても、すがりたかったのね」
ラップトップから顔を上げて、助手は私を睨みすぐに視線を下げた。
「ちょっと――納得できません。自分の都合で離婚まで追い込んだのに、こんなに取り乱したりして」
栗色の毛をたばねた桃色の髪留めを外して、
「何を考えてるのか、あたしにはさっぱり」
と吐き捨てた。冷めたコーヒーで口の中を潤して、私も同意する。
「まあそうね。それに、すこし薄情だとも思うわ。生前の記憶を読みいれるだけで、すなおに自分が悪くなかったなんて信じられるなんて。よほど、愛されていた自分のことが好きだったのね」
「聞こえますよぉ、主任」
「あら、でもそうでしょ。こうして見せてあげられる記憶は、亡くなった彼のからだから再生されたものよ。それがどうして真実だなんていえる?プラセボじゃないとだれが言い切れるの。なんなら、ぐちゃぐちゃになった彼を見せてあげればいいのよ。彼女の恋愛の価値観がわかるわ」
モニタから少し顔をあげて、彼女は微笑んだ。
「大事なのは、真実そのものではないのでは?」
「あなたのそういうところ、嫌いじゃないよ」
カップをもって彼女の後ろに移動する。
助手はキーを叩き、〈カノープス〉の制御ソフトを実装した端末でウインドウを拡げ、目で追っていた。バックグランドで動き続けるのは、彼女が書いたスクリプトだ。〈カノープス〉の実行時間とともに、都内の数カ所に設置された質量測定器の読み込み値が並べられている。私たちが常駐するこの研究所を中心に、一定の距離を置いて同心円状に設置した計測器の値だ。
「質量に変動、あります」
「誤差の可能性は」
「買い上げ品のふるーいバネ式があるので、なんとも。それでも、十分有意に見えます」
いくつかのロードセルは短時間に小刻みに振れていた。予算の都合で、防振設計できなかった箇所だが、トレンド値が場所によっては低くなっている。他の質量計も、計測精度をあざわらうような値を叩いていて、解像度を粗くするしかなかった。
「方向は――」
彼女は、別のセンサからの信号出力を瞬く間に、経時表示させる。研究所よりも高地に設置された角速度計のもので、こちらにも有意な変化があった。
「一課の調書が送られてきてるけど、ここでの治療は多く見積もって十数件よ」
「それにしては質量の振れが大きいですね」
お互いの顔を合わせて、ため息を吐き合った。
「聞きました?イスタンブールの建屋崩壊」
「聞いた。というか、上長の命令で資料も見せられた。建材に横方向のGがかかっているのはたぶん間違いない」
「でも鉄骨でしょ。主任は、あれが記憶蘇生の影響だと思います?」
「私は肯定も否定もしていない。建屋が壊れるほどの横Gなら、それまで気づかないはずがないじゃない」
「けど、といいたそうな顔をしてますよ」
眼鏡の弦を持ち上げながら、助手がにんまりした。私は渋い顔で頷く。どんな感情を出せばよいのかわからない。
〈カノープス〉が引き上げた記憶が情報量に成り代わる際に、重力が変動することに気づいたのは、記憶の取り扱い技術が、市場として民間に解放される直前だった。
――危うかった、と私はおもう。規制ががなければ、現状はもっと深刻で、もしかしたら悪用もされたかもしれない。
以来、私たちは、質量変化の具体的事実に気づいて、公式化するための基礎研究を続けている。
わかったことはいくつもない。ひとつは、サルベージ中心がもっとも影響を受けやすいこと。質量は中心に向かうにしたがって、徐々に大きく計測される。もうひとつは、発生した重力には半減期があり、しばらくすると減衰して消滅すること。ただし、半減期は2~3年と比較的長期にわたる。そんなものだ。
記憶を構成するなんらかの因子が、重力変動を引き当てているという予想までは容易で、近似的な公式も得られたが、ときどき予想を超えた変動が起こる。
「環状線のイメージは、かなり多くの患者に見られる共通の像ですよね」
「都心に近いからだけなのか、もっと原型的な虚像なのか。ほんとは、色んなことがはっきりするまで記憶再生なんてやめてしまえればいいのだけれど」
「記憶再生は、もう快楽のひとつに近いですからね。配信された映画を買うようなもの――ううん、ドラッグを使うようなものなのかも」
「ドラッグか。言えてる。クライアントに聞かれるから、大きな声にはできないけれど」
「〈カノープス〉で体験するものは、引き上げた記憶から作られた疑似認識に過ぎませんからね。悪く言えば幻覚のようなもの。でもそれで安心できるのだから、手軽で効果の高い対症療法なのでしょう」
「治療費いくらで引き受けてたのかな」
「さあ。法外の値段にはちがいないでしょう」
「――いいなあ」
「なにいってるんですか、困るんですよこっちは」
「不満そうね」
「そりゃあ、こうして使い走りのような役割を押しつけられる側としては。せっかく法的な規制をかけているのに、患者は減らないうえに、あちこちに移動するから定住できないし――」
ラップトップをぱたりを閉じると、助手は眼鏡をぐいっと上げた。手入れしていない眉毛に、汗が溜まるのだ。〈カノープス〉は筐体が大きすぎて室内には置くことができない。屋外に設置されたプレハブ建屋にきちんと冷却して置かれているが、演算に必要な補助CPUモジュールが数台、並列処理される室内には、一般用のエアコンしかなかった。繰りかえし換気しても、機材の熱量に負けて部屋の気温は上昇し続ける。
患者は、浅い睡眠に移行している。この部屋に入る前、鎮静剤を打たれた直後の狼狽ぶりとは大違いだった。本来であれば中止されるはずの記憶蘇生を、特別措置で私が代行した。あと少しで、医師に引き渡すことができるかもしれない。
私は彼女の夫を思い出していた。電車事故で原型は留めなかったが、〈カノープス〉で引き出された姿形を脳裏に浮かべた。気弱に見えたが、実相は少し違った。
「主任――?」
呼びかけに応えて我に返った。背後に視線を戻すと、彼女は「どうかしました」、といって私を上目で見ていた。
「ねえ。私たちは、人を救ってるとおもう?」
「われわれは公務員です。医者じゃありません」
「そういう技能の話ではなくてさ」
「公共の福祉という点ではどうですかね」
「だから、そういう観念的な話でもなくて」
「いいえ主任。われわれが相手にするのはまさに観念です。人ではありません。記憶の束であって、その人そのものでもないのです。それで救われるとしたら記憶の持ち主ではなく――」
「いえ、言わなくてもいいのよ。うん、ちょっと、魔が差しただけ」
ため息とともに、身体の外に吐き出したかったものを私はもう一度呑み込もうと決めた。
「そうだ。さっき、なにを聞こうとしたんです」
助手は、ケーブル類をまとめながら聞いた。
「なにって」
「ほら、聞きかけたじゃないですか、最後にって」
「ああ――」
私は、ランダムにはためくカーテンを抑えながら、頭を掻いた。
「結婚て、そんなにいいものかなって」
彼女は手を休めて、ぽかんと口を開けた。
「それは、あの奥さんのためですか?」
「うーん。もしかしたらひどく個人的なものだったかも」
彼女は、肩をすくめてため息をついた。
「なんだ。一瞬、わたしのためかと思っちゃいました」
「え、なんで」
「なんでって……。婚約したって、いいましたよね」
「うそ」
「主任は、ご自身の記憶をしっかり管理した方がよろしい」
ジュラルミンのケースを両手でしっかりと抱えた彼女は、不満そうにため息をついた。
「まあでも、今回の件は、夫婦円満の参考にさせてもらいます」
「参考になるかな」
「なりますよ。どんなことでも。現実世界に住む私たちにとって、記憶がつながるってのは、そういことだと思いませんか」
「まあ、そうかもね。目には見えないし」
助手は何か腑に落ちたのか、まなじりを下げた。
「ところで主任――」
「なによ」
私はまだ、彼女の婚約に驚いて軽い放心状態だった。そんな大事なことを、聞き逃していたのだろうか。もしかしたら、前も同じ状況に陥った?意図的に記憶がすり替わることに、物理的な法則があるのかもしれない。
ところで、彼女の言葉は、私を現実に引き戻した。
「またFXで失敗したんですね」
「――なんで知ってるの」
彼女はケースを脇に抱え直して眼鏡を持ち上げると、盛大に冷たい目で私を見た。
「ジュリアーノ」
「あ――」
「ばれないと思う主任は、どうかしています。ああいう腹いせはやめてください。だから、処理が追いつかなくなってこんなに暑くなるんですよ」
やだやだ、と言いながら彼女はそっぽを向いて部屋を出て行く。
部屋の中に立ちすくむ、私は。
不意におかしくなって、思わず笑った。
どんなに梯子を外したつもりでも、延びきった梯子に気づく人が必ずいるのだ。それがわかっただけでも、この研究には意義がある。そうとしか、言えない。私たちの目の前にあるものは、ただの夢ではないのだ。
彼女は振り返った。
「こんな仕事、他にやる人いないんですから。解雇されないでくださいよ」
メモリーベイ 安埜有紀 @yasuno_aki
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