丈吉 そして大伝
生き延びた丈吉が後で語ったところによると、その時の大伝こそまさしく鬼神そのものであった。
床々山の大伝という、非常に優れた力狸のいることは大年の狩人全てが知っているが、そいつに出会って無事に生きて帰った者がほとんどなく、どんな面をしているのかは誰も知らなかった。それでいてその場にいた全ての人間が一様に「大伝だ」と理解できたのは、その泥を纏った全身から発せられる闘志、あるいは怒気のためであった。雄伝の泥の腕を削ぐことに専念していた天人が一目、戦乱を突っ切って飛び込んでくる大伝の姿を認めるや否や、辺りに雷雲の生じたような緊張が奔った。
「大伝が出た!」
今朝治の策略に不意を打たれた丈吉がかろうじて生き延びたのも、その緊張のおかげだった。振り返らずとも大気を伝わってくるおぞましい覇気が今まさに丈吉の背を貫かんとしていた今朝治の腕を硬直させ、逆に丈吉は危機に対する狩人の本能で咄嗟に身を翻すこととなり、背筋をざっくりと斬られはしたが、体の内まで深く貫かれることは免れた。
背中の痛みは一時緊張を忘れさせ、代わりに怒りを突き上げた。
「貴様、天人! 俺を贄とするためにここまで牽きつれたのか! 挑発にのってベラベラしゃべっていたのものそのためか!」
ところが、奇襲をしくじった今朝治は丈吉の怒りなぞどこ吹く風で、
「丈吉殿。急ぎ大伝を討ってください。今ここであれに乗り込まれては全てが終わりです」
「貴様なにを偉そうに俺に指図をするか。たった今俺を殺そうとした分際で」
「状況が変わりましたので。……いいですか、丈吉殿。我ら天人は狸の真の恐ろしさを知っております。狸どもが武器とする意思というものの厄介さ、己の意思と泥を混ぜる技の恐ろしさを、どの町の狩人よりも知っているのです。……いいですか、丈吉殿! 時がないので手短に話しますが、我ら人間はどれだけ他者を恨もうと、憎もうと、その感情は一代限りです。死んだら終わりなのです。たとえ肉親が殺されたとならば復讐のための悲憤の情は湧きますが、殺された者の感情や考えをそっくり受け継ぐというわけにはいきません。恨みも憎しみも全て己の内にあるものであり、死者の念は墓の下にあるばかりです。ところが狸はそうではない。奴らは泥を通じて、あるいは自らの死肉を通じて、他の狸に意思を伝えるのです。それがどれだけ厄介な出来事を産むことか! それがあの鬼です。雄伝の内に積り溜まった情の鬼なのです。我らはあれを封じ、完全に殺さねばなりません。……ですがどうです、あの大伝にこのまま踏み込まれては、さっき六武太殿の顔へ張り付き食い込もうとしていたように、あの泥の塊が大伝の内へ宿ったのなら! 鬼は続きます。それも生きた狸の肉体を得た一層恐ろしい鬼です。それだけは止めねばなりません。丈吉殿!」
今朝治は当然の如く丈吉に命じた。
「大伝を止めてください。雄伝は我らが始末しますので、その間、決してやつをここへ近づけてはなりません。いいですね」
待て、と言う間もなく、今朝治は地を蹴って泥の塊の方へ向かった。今のやり取りの間に塊は後退し、さらに山頂の方へと向かっていた。今朝治を始めとする天人たちはそれを追って行くようであった。
「不意打ちで人を殺そうとしたくせに、殺し損ねた相手に命じるとは……傲慢にもほどがある野郎どもだ。だが」
丈吉は怒りを抑えた。それどころではなかったからだ。轟雷の迫るがごとき獣の咆哮が、丈吉の狩人の血を奮い立たせていた。
「床々山の大伝をここで討つ。それ以上に俺の仕事があるものか」
弓を、矢を、構えて備えた。今こそこの弓を名器と轟かせるべきだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます