戦・大伝3

 大伝は惑っていた。

 戦の最中に突如脳裏へ湧いた亡兄の声。それは足元の泥の中から噴きあがって来ているように感ぜられた。懐かしき右眼の声。左眼の声。そして……。

「雄伝、そこらにいないよな?」

「ふざけた事を……」

 灯子の目が熾火のように怒っているのは大伝にもわかっている。何度急かしても動かない愚図を見る目だ。灯子には、あの声が聞こえていないらしい。

「大伝お前、耳が阿呆になったのか? 床々山が危ういと何度も言っているだろう。ここでいくら人間を潰したところで、帰る山を失くしては何もならん。お前は山を見捨てるつもりか。己が好きに暴れられたらそれでいいのか。この戦馬鹿の生禿げ狸、自分の事しか見えない赤子め」

「うるせえ、うるせえ」

 山椒の実を舌に詰めたような灯子の舌鋒に、大伝の頭もいくらか幻聴から現実へ戻ってきた。さっきからこんな事の繰り返しである。

「山は雄伝が何とかする。危なくても何とかする。それが雄伝だ。いいか、余所者の女狸。俺は雄伝を信頼している。この世の誰よりも正しく間違いのない男だと信じている。その雄伝が町を攻めろと俺に命じたんだ。俺の戦場はここだ」

 ここだ、と言い切った刹那、またしても足元の泥が囁いた。


 ――生命とは一個の大地である。古くから狸に伝わる言葉だ。生き物は同じひとつの体から糞も出し、子も出す。糞も子もいずれ土に還る。命は意の地。意思によって地を我が身とする。それが力狸だ。俺たちは意思を力とする。


 雄伝の声だった。幼き日に両眼と共に初めて狩人を屠った後、大伝へ特別に稽古をつけてくれるようになった雄伝の最初の言葉だった。

 あの時、大伝はこう言い返した。

『命が大地なら、大地は命? この土は、誰かの命だったのか』

 すると雄伝はこう答えた。

『ああ、そうさ。土は命の果てであり、命の始まりだ。……俺たちは自らの意思で泥土を操るが、泥土もまた、俺たちの意思をずっと覚えているのかもしれないな』

『じゃあ』

 幼い大伝は生涯の内でたった一度きり、一番の甘ったれを兄にぶつけた。

『俺が生まれると同時に死んだ母さんの意思も、大地は覚えているかもしれないな』

 意思

 ……遺志。

「雄伝は、どうなった?」

「はあ?」

「山が危ういというが、雄伝はどうしているんだ。おい、灯子。お前は誰から山が危ないと聞いた。山は……雄伝は、今どうなっているんだ」

「とことん腑抜けたか、ボケ狸。誰からだと? 見ろ、そこら中だ」

 急に、耳に詰まっていた水が抜けたように、大伝はあたりの音が聞こえるようになった。

 火の音が、ない。

 代わりにあるのは水の音。雨だ。

 大伝は信じられなかった。鼻と髭の感覚で、今日ここに雨が降るなど予測できた狸はいない。いないからこそ火攻めの策を実行したのだ。

 大伝は見た。急な雨の中で戸惑う狸たち。それと反対に息を吹き返したように、気勢を取り戻した狩人たち。

 雨は、地から空へ降っていた。

 地下水脈を利用した天人の竜吐水――などと、大伝が知る由もなかった。

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