両眼・2
――やぁい、大伝。いつまでちびっこのつもりだい。
――おぉい、大伝。早くこっちへ来てみろぉい。
「おい、誰だ!」
大伝は血走った眼で辺りを見渡したが、火に逃げまどう人間どもを除いては、傍にいるのは灯子しかいない。
「灯子、今俺を呼んだか?」
灯子は心底阿呆を見る目をした。
「何を間抜けたことをぬかしている。呼んでいるだろうが、さっきから。山の様子が危うい、急いで床々山へ戻れと、さっきから何度も教えているだろう! 聞こえないのか?」
「わかった、わかった。そう吠えるな。聞こえてはいる。いるんだが……。何を苛立っているんだ?」
まったく、その時の大伝は、灯子でなくとも腹が立つほど呆けていた。さっきまで手あたり次第に人間を潰し、食い散らかしてきた破壊の権化はどこへやら、戦場の真っただ中で呆然と突っ立って、灯子がいくら声をかけても返事もしない。今の隙に狩人どもが寄ってきたらどうするつもりだ、と灯子は口元に火が出るほど舌を打ち合わせ続けているが、大伝はまた空を見上げている。
「お前の声だけじゃない。誰か俺を呼んだぞ。さっきは雄伝の声がした。だが今のは……今の声は知っている声だが、思い出せない。誰だ、誰だ……」
「誰なぞ知るか。私を見ろ、大伝。私の声を聞け!」
「うわ、うるせえ」
灯子はその身軽さで大伝の泥の身体へよじ登り、肩口から耳元へ向けて思い切り怒鳴ってやった。ぼうっとしていた大伝の目がいくらかしゃっきりした……。
「ここでの殺戮はもういい、もう十分だ。山へ帰れと言っているだろう。何やら山の様子がおかしい。今すぐ助けに戻るべきだ」
「山へ? ふざけた事を抜かすな。山は雄伝の持ち場だ。俺たちは町を攻めるのが仕事で、それはまだ終わっていないだろうが。今ここで町での戦を投げ出したりしたら何もかも台無しだ。せっかく上手くいってるのによ」
「上手く……。ああ、上手く殺している。お前たちはな。誰でも彼でも見境なく、だ。だがそんなものが勝利と言えるのか。あんな、あんな小さな子供まで……」
――やぁい、大伝。ちいちゃなちいちゃな大伝よう。
「また声だ! おお、今のは右眼の声だ!」
――そんなちっちゃいままじゃ、狩人に勝てやしないぞ。
「左眼、左眼の声もする。おお、両眼の声だ。だが何故だ。あいつらはとっくの昔に、この町の狩人どもに殺されたはずだ! この声はどこから聞こえるんだ!」
「おい大伝、聞いているのか」
耳元の灯子の声は、もう聞こえていなかった。大伝は己の内に聞こえる二つの兄の声に惹かれていた。懐かしい声。あり得ぬ声だ。どこから聞こえるのか。耳ではない。……泥だ。
大伝の足元の大地を通じて、古い声が蘇ってきていた。
「人間だ」
「狩人だな」
一段下の道を、二人連れの人間の男が歩いていた。前を行く男は弓を持ち、腰にはギラリと刃の光る大鉈。もう一人は武器を持たず、背中に竹の籠を背負っていった。
「どうする、親父たちに報せるか」
「ううん、でも、武器を持っているのは前の奴だけだぞ」
「じゃあ、俺たちだけでやるか」
「やってみようぜ。えっへっへ、初めての実戦だ」
ふたつが顔を見合せて笑っているところに、ようやく大伝が追い付いた。
「おい、大伝。よく見ていろよ」
「お前にはまだ無理だからな」
大伝が目を丸くしているのを尻目に、ふたつは目を閉じて、四肢を強く張った。
足元の地面がどろりと黒ずんだ。固い土が泥の沼と化してみるみると広がっていく。足先から泥が這い上がり、ふたつの体に纏わりついた。
――両眼は早くから力狸の技を覚えていた。
「行くぞ、左眼」
「やるぞ、右眼」
ふたつの力狸は泥の身体を自らの四肢の如く操り、威勢よく崖から飛び降りた。大伝は慌てて崖縁に駆け寄って下を覗き込んだ。
「や、狸か!」
狩人は鋭く叫び、飛び退いた。勘の良い奴だった。
飛び降りざまに押し潰すつもりだった兄弟は的を外し、地に転がった。
「わ、矢だ、矢だ」
狩人の番えた矢が右眼の頭を狙っていた。それが放たれると同時に左眼が起き上がり、泥の尻尾で矢を受けた。
「ひいっ」
「わあ」
狩人は想定以上の手練れであった。泥の身体は強くとも、頭は剥き出しのままである。射られれば一たまりもない。右眼と左眼はすっかり縮み上がり、反撃に出る気遣いもなかった。身を隠す場所もない。
「ふん、子狸か。まあ良い」
相手が怯えているとみて、狩人は落ち着き払った様子で次の矢を構えた。ぎりぎりと弦が引かれ、矢尻が鈍い光を放った。
大伝は咄嗟に崖から飛び降りた。泥の身体を纏わず、生身で狩人の頭上から飛び掛かった。正面に注意を向けていた狩人は反応が贈れた。
「おお!」
と硬直する狩人の顔面を、大伝の爪が引っ掻いた。
狩人が弓を落として呻いた。
「今だ!」
威勢を取り戻した右眼、左眼が、泥の身体で狩人を薙ぎ倒し、押し潰した。腰の鉈を抜く暇も与えない。力任せ、重さ任せにただ潰す。ごり、ごり、と骨の砕ける音が大伝の耳にも届いた。
初めてだから、加減がわからない。ふたつの狸は狩人の肉体を滅茶苦茶に砕いて、ようやく深い息を吐き、泥の身体を脱ぎ捨てた。
もう一人の人間はどこかに逃げて行ったようだが、それを追いかける余裕は誰にもなかった。
「ふうう、助かった」
「はああ、危なかった」
それから、声を合わせて言った。
「ありがとう、大伝」
大伝はにっこりと笑った。笑った拍子に緊張が解けて、気を失った。
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