汚泥

 まずそれを見たのは六武太だったが、ろくに見る暇もなかった。

 雄伝の生身の身体をかっさばき、息の根を止めたと確信したその瞬間に、視界が黒に覆われていた。死体から何かが噴き出してきて顔にかかったのは確かだが、血ではなかった。血は温かいはずだ。それは泥のように冷たかった。じゃあ泥だが、蠢いていた。

「丈吉、じょう……」

 息苦しさよりも気味の悪さが思考を奪った。それは無数の蟲が一塊になって襲い掛かってきたかのように、六武太の顔を覆って離れなかった。どろどろと生臭く、鼻も口も覆われて息が出来なかったが、それ以上に肌の上を冷たく重く這いずる感触が不愉快で仕方がない。たまらず斧を放り出して両手で剥がそうとしたが、それはぬるぬると指の隙間を抜けるばかりで一向に掴めなかった。

 狸にも人にも怖気たことのない六武太が、初めて恐怖を覚えた。力狸は泥に意思を混ぜて操るが、その意思の元である雄伝の頭は柘榴のようにバックリと割れたはずである。

「六! 動くな、動くなぁ!」

 丈吉は少し後ろの木の上から、より深くそれを見た。

 鉄……? 馬鹿な、狸の内から鉄が出るわけがない。だがあれは鋼のように六武太に絡みついている。ナメクジか何かの虫を潰すとあんな感じの内臓が出るが……。巨大なヒルと呼ぶのが正しいだろうか。

「動くな、動くと狙いにくい!」

 もう一声かけると、六武太の動きがぴたりと止まった。それで良い。相手が何かわからずとも、危険ならば撃つべきだ。

 丈吉は頭の中で目まぐるしく考えながら、腕の方ではすでに何万回と繰り返した射撃の姿勢を取っていた。暴れていた六武太の腕が止まった。撃てる。

 撃った。

 矢は鋭く六武太の耳をかすめ、黒い物体の中心を射抜いた。文字通りに突き抜けて、地に刺さった。

 黒いそれは何事もなく六武太に絡まり続けていた。

「じょ……」

 六武太の声は息絶える寸前。そう聞こえた丈吉は反射的に木から飛び降りて六武太の方へ駆け出し、希代の名弓となる予定の弓を捨て、腰に差した短刀を一息に抜いて斬りかかった。

 結果は同じ事だった。短刀の刃は手ごたえなくするりと黒いものをすり抜け、いくらの変化ももたらすことはなかった。

 もっと深く斬るか。だが、そうすれば六武太を斬りかねない。

 こいつは一体何なのだ?

 丈吉が途方に暮れかけたその時、六武太が、溺れるような仕草で斧を拾い上げて高く掲げた。

「お、おい。無茶をするな」

 木漏れ日がギラリと刃に反射するのを見て、丈吉には六武太が何をしようとしているのかわかった。

 六武太は耳が聞こえぬかのように忠告を聞かず、己の顔面めがけて斧を振り下ろした。その結果耳は無事だったが、鼻を失くした。

 黒いそれは六武太の鼻と顔面の皮膚をいくらか道連れにして、ようやく地に落ちた。

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