地鳴り

「雄伝……?」

 耳元にぞわりと震えるものを感じて、大伝は泥の手を止めた。頭のてっぺんから尻尾の先まで、何もかも血塗れだった。

 大伝は殺戮の途中であった。地中からの奇襲と火による攻めが想定以上の功を奏し、大年の町は混乱と迷走の極みにあった。無力な人間は逃げまどい、狩人たちはろくな統率もなくてんでに狸を見つけては打ってかかる。大伝はそいつらを片っ端からなぎ倒し、押し潰し、食い殺していた。狩人も狩人だが、大伝もまた浮足立って夢中になっていた。

 全て火のせいだ。

 あの轟々とむせび泣くように燃え盛る火の舌。あれが視界に入ると、大伝は灯子を思い出さずにはいられない。あいつもその辺にいるはずだが、どこにいる?

 火。火。火は熱い。その熱さは身をもって思い知らされている。まだ背中の毛がチリチリと痛む。不思議な事に、このさして激しいとも思えない隠火のような痛みこそが、他のあらゆる痛みに打ち克っていた。狩人の中には横倉なんたらとかいう奴のような手練れも幾人かいたが、そいつらの弓矢、そいつらの槍、そいつらの剣、どれをもって泥の肉体を切り刻まれようと、背中の火傷ほどには痛く感じられなかった。そうでなければさしもの大伝も、打ち続く闘争の苦痛と疲労に動きが鈍り、とっくに仕留められていたであろう。この戦乱の真っただ中で今でも大伝が戦い続けられているのは、この火傷のおかげと言う他なかった。

 その一方で、火は大伝の意思をも焼いていた。さっきから大伝の脳裏を支配しているのは、灯子とせめぎ合った夜の情景ばかりであった。あれは堪らなく熱い夜だった。あいつを下したくて、踏みにじりたくて、心の芯の奥から燃えていた。雄伝の横槍が入るまでは本当に、これまでの生涯の内で最も魂の燃えた一時だった。それに引き換え狩人どもはどうだ。手練れはいるが、燃え切らない。一戦、一戦が死闘ではあるが、大伝の闘争の火を駆り立て、殺戮にけしかけるのは、灯子が起こした劫火であった。

 大伝は狩人を見る以上に火を見た。家を焼く火が目につき、濛々たる煙が鼻を焦がす度に、大伝の闘志は燃え盛った。

「次はどこだ! 次はどいつだ!」

 敵を敵を敵を。探して殺さずにはいられなかった。

 敵とは思えぬ女子供でも容赦なかった。

 火に、大伝の心は奪われていた。

 その時だった。

「雄伝……?」

 兄の顔が浮かんだのは。火の中からぼうっと闇をもたらすように浮かんだ雄伝の顔は、これまで見せたことのない侘しい顔をしていた。

「大伝よ」

 声まで聞こえた気がした。雄伝は山だ。耳に聞こえるはずがない。

 声は大伝の足元、地を通じて聞こえていた。

「床々山を守れ。次の親分はお前だ」

 雄伝の声は穏やかだが、何者の介入をも許さぬ射干玉の闇に満ちていた。火傷の痛みも、火の闘志も埋もれて消えた。

 大伝は正気に戻った。……周りは血だらけだ。

「大伝、山へ戻れ!」

 今度ははっきりと耳に聞こえた。しかし雄伝の声ではない。

 女の声だ。

「弱い人間などに構うな! 山へ、床々山へ戻れ!」

 悲痛な叫びをあげるのは、馬鹿みたいに肩を震わした灯子だった。

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